2日目

ハンモックとシャボン玉

 酔った頭で推算して、猶予はおよそ1分で打ち切られた。

 突き返そうと手を伸ばしかけたところで、横から毛むくじゃらの手が伸び、本を懐に収めたからだ。


「ほれ見ろ、あんたがぐずぐずしているから、日付けが変わっちまった」


 毛むくじゃらの顎に手をやり、ルナルカさんは壁の穴を見上げる。青みがかった甲殻に、暗色の虹をたくわえた大ぶりな虫が、穴の淵に前肢をひっかけて、緩慢な動作で翅をひろげる。


「わが蟄居ちっきょじゃあ、あいつらが時報がわりなのさ。街の中心に馬鹿でかい時計があるってのに、寝床で同じものをながめる道理もないだろ?」


「そ、そうですか、……じゃあ僕はこれで」


 立ち上がりかけて、足首に妙な感触が絡みつく。尻尾だ。


「今から帰るつもりか? 追いはぎに遭っても知らんぞ」


「……なるほど?」


「このあたりは、治安が悪いんだ」


 顎の下で指を組んだまま、ルナルカさんは上目使いだ。

 泊まるつもりはなかったが、どうやらその流れだ。くすんだはしばみ色の瞳孔から目を逸らし、押し黙る口元を見つめているとめまいがして、もう一度、天井の穴を仰いでみる。

 どうせ催眠術でもかけるつもりだろ? お見通しなんだよばーか。


「かけてほしいなら、遠慮はしないがねえ」


 悪役めいた微笑とともに自分のグラスに口をつける。露骨に獣の口腔だが、なんでこぼさず飲めるんだろう。


「催眠術は使っていないが、〈読心術〉は少し用いている。真剣な場面で無関係なことを考える癖でもあるのか?」


 直したほうがいいぞと、俺の肩を黒い手が気安く叩いた。



 潮時ということか、サシ呑みはこれにてお開き、話の続きは明日、ということに。

 雇い主はというと、川向こうにある国賓向けの宿で寝床に就いている(ようだ)。奴隷はそこまで同行できない。寝床? 自力でどうにかして? みたいな感じで捨て置かれている。

 殺しにくる相手と同じ建物で眠りたくはないので、ありがたい話だ。


 ハンモックを貸してもらい、キャンプみたいでちょっとわくわくしながら(いろんなことがあったので気分の上下が激しい)、それでも疲労と狂騒に晒された肉体は、すぐに寝入りばなへ近づく。

 何かが軋む音が聞こえていた。ハンモックが自重じじゅうで揺れているのか、床板が鳴っているのか、あるいは両方か。


 子どもの頃、河川敷の橋桁の下で、真っ黒な橋の裏を見上げながら、いつもいつの間にか眠っていたことを思い出す。

 まだ施設に入る前の話だ。

 もちろん、この時点でヒカダには会っている。というか、それ以前の記憶が俺にはない。

 『仮面の告白』の語り手は、自分が生まれたときの光景を覚えていた。俺が生まれたときの光景は、シンナーで融けた歯と朱書きの立て看板、ガムの銀紙、それと猫のデッサン。


 俺は、橋桁の下で、何を考えていたのだろう。

 誰も知らない場所で生きていければどんなにいいだろう。橋の裏がどんなに暗いかを、この世の中で自分以外に誰が知っているだろう。それなりの幼さで、そんな幼稚なことを考えていた気がする。それで、抵抗しているつもりだった。

 何に?

 に。


 だが大人になった今この瞬間も、俺はどこかへ運ばれている。行先を選ぶことさえままならずに。

 輪郭のあいまいな顔や声が、視覚や聴覚に現れる。近づいては遠のき、高速道路の標識のように雑然と失せていく、感覚の束。

 夢の入り端というのは、いつもこのようにしていつの間にか成り立っている。甘んじて受け入れ、質の悪い眠りへとなだれ込む。



 起こされて早々、近場の風呂に案内された。昨日の続きは朝風呂を浴びながら、とのことだ。

 お風呂。やったね! 

 そんなテンションであるはずがない。ねむい。何が悲しくてこんな、黒い太陽も昇り切らぬ未明に身体をポカポカさせねばならぬ?

 疲れが取れていないし足の裏も痛い。もうちょいゆっくりさせておくれ。


 眼をこすりながら一糸まとわぬ姿となり、あくびをしながら木製の洗面器とタワシのような垢すりを借りた。

 四阿あずまやのごとき吹き抜けの洗い場は、ちょっとした大浴場の広さだ。手をかけてならされた露岩が、鏡の前にいくつか設えられている。

 ルペーニヤに滞在している魔族は、ほとんどがここで入浴を済ませる。というかここ以外にまともな設備がないらしい。つらいわあ。


「で、肝心の浴槽が見当たらないんですが」


 俺は2度目のあくびをかました。てか冷静に考えると、ほぼ初対面のキザな二枚目といっしょにお風呂とか、ふつーに嫌だな……あっ、こいつ読心術使えるんだった。しまった……てか読心術ってお前、まーた魔術かよあーあ。

 雑念に思いを馳せていると、少しだけ眼が醒めた。

 隣でざっぱーんと定型的な水音が聞こえる。桶で頭からお湯をかぶったルナルカさんは、上空を指さし、


「浴槽ならあそこだ」

 

 と言う。

 つられて仰ぎ見る。蒸気を上げる巨大な露天風呂が、遥か上空に浮かんでいる、ようだ。はるか上空なので米粒ほどの大きさでしかなく、断言するには心もとない。


「お、おお。ういとる」


「そうだな。身体を洗ったら声をかけてくれ」


 総合監察官殿は早速とばかりに、全身を泡まみれにしつつある。けしかけられるがまま、露岩に尻を落ち着けると、姿勢を正して正面の鏡に向き直る。

 シャワーヘッドがない。蛇口もボディソープもシャンプーもない。桶のようなものはあって、飴色で、寸胴と見紛う大きさだ。照明もないので、魔族はともかく人間からすると、手元や足元がよく見えない。


 座ったまま、手探りで壁を触っていると、臀部の夜露で滑りかけた。隣からの湯気で曇る鏡に、手のひらを置いてこらえる。

 置いた瞬間、乾いていないアロンアルファに触れたような、やばい感触があった。

 手を離すと、掌底ほどの大きさの、透明な球体がくっつく。


「何これ」


 軽く振ってみると、ぼよんぼよん弾みながら、それでも離れようとしない。

 え、気持ち悪っ……

 垢すりを太ももにひっかけ、空いた指でつまもうとすると、ぱちゅん、という情けない音を立てて割れた。腹の上に液体が飛び散る。

 死んだ。


 一瞬身構えたが、皮膚が焼けただれる兆候は見られない。

 指先につけて、なめる。味はしない。舌先がドロドロに融けることもない。

 洗面器に入り込んだものをすくってみる。あたたかい液体は、ただのお湯だ。


「ほら」


 側頭部に何かが飛んできて弾けた。バニラビーンズのような甘ったるい香りがして、でろでろした粘液が髪に張りつく。


「お、ちょあっ」


「落ち着け、ただの石鹸だよ」


 呆れたような声が飛んできて、見ると泡にまみれた物体が岩に鎮座している。腕らしき物体が飛び出しては引っ込み、もしゃもしゃと音を立てる。

 シャボンがいくつかこちらまで飛来し、その表面に俺の間抜けヅラが映り込む。


 ひとまず頭髪に塗りつけ、洗面器で指を濡らした。

 蟹の吐き出すような、細かく白い泡が視界を覆い始める。シャンプーで洗いたいのだが、どうすればシャンプーが出るのか、わからないのだった。



「なぜ頭毛を石鹸で洗った?」


「シャンプーの出し方がわからなくて」


「馬鹿じゃねえの?」


 横幅が半分になった愉快な姿で(濡れて体毛が縮んだのだ)、ルナルカさんは指を使ってシャボン玉を吹きながら、眉をひそめる。


「そっちこそ、お遊戯ですか? いい歳こいて」


「あのなあ、お前をための泡を作ってやってるのに、その言い草はないだろ」


 輪っかにした指にノズルを突っ込み、てらてらとしたシャボンが膨ませている。どんどんと、それこそ指の持ち主以上に大きくなりながら、岩床の上を占領しつつあった。

 すごいことをやっていただいている最中に申し訳ないが、飛ばす、というのがピンと来ない。


「ひとまずその中に入ってくれ。こちらも後から行く」


「中に入る……」


「本当に何も知らないんだな……」


 わりとマジに呆れられて猛省。とはいえ嘆いていてもしょうがないのでシャボン玉に近づき、つま先からそっと侵入。

 つーかこれルナルカさんの唾液も混ざっとるのではと、不都合な真実に気づいた瞬間、透明な腕に引っ張られるように、くるぶしから引きずり込まれた。

 後頭部を打ち付ける未来を予測し、反射的に目を閉じるが衝撃はない。まぶたを持ち上げると、天地がひっくり返っていた。なんということでしょう。


「ルナルカさん」


「うん?」


「ちょ、ルナルカさん助けて、これ、あああ滑る滑るなんですかこれなんスか!?」


 もがけばもがくほど泡の中に四肢が入り込む。巨大な怪物に全身を丸呑みされている感覚だ。

 ちゅぽん、という古池にかわずの跳び込むような音がして、俺の裸体が唾液入りのシャボンの内部へ閉じこもる。

 生理的に気持ち悪いので脱出したい。てか浴槽行く必要ある? 洗い場で話せばよくない?


「悪いな、まるで聞こえん」


 腰に手を当て、唾液の主が俺を見上げる。

 ということは空中に浮いている? ぬるぬると滑りまくり、尻を打ちながらひっくり返って、足下を確認する。予想は的中していたが、予想外なこともひとつ。

 上昇速度がどんどん上がっている。


 気流の切り裂くような音が、鼓膜の近くで間断なく鳴る。夜明けに向かう藍色の空気に包まれ、眼下の建物は青く染まり、ところどころに煙突や窓の黒が見える。

 未明だからか、あるいは電気や電灯が整備されていないのか、めぼしい箇所に光源は発見できない。いわゆる南北問題の象徴として、宇宙から見た夜の地球の輝きが北半球に偏っているのは有名だが、なんとなくそれを思い出した。


 こうしているのは死ぬほど怖いし恥ずかしい。透明な膜一枚が割れたら墜落死だから怖いし、透明な膜の中、生まれたままの姿なので恥ずかしい。

 うずくまった格好でじっとしていると、徐々に速度が緩徐になり、やがて湯気の只中で静止する。煙を炊かれたように何も見えなくなる。

 目の前の透明な壁をぼいんぼいんと押すと、前進する気配があった。というか静止していると身体が無限に滑るので、前進させることで姿勢を安定させたい。自転車と同じ理屈だ。


 で、いったいここはどこですか?

 ふと足元を見やると、ロン毛のおっさんがこちらを見上げていた。首から下は、乳白色の湯に浸かっている。

 ばちん、と輪ゴムを弾くような音がして、泡が割れる。


「嘘だろおい」


 ほざいていると遅滞ちたいなく落下した。巨大な白波に全身が呑まれ、重たげな液体の温度に取り巻かれる。

 不意に硬いものに頭頂部をぶつけて、視界に火花が散った。

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