粘土と取り引き

 の香りを散らす酒を、隣のキタキツネがくゆらせている。

 天井に吊り下がる豆電球の周囲を、虻に似た羽虫が旋回している。泥を固めた壁には耳孔ほどの小さな穴があり、そこから出てきたようだ。


 長机にはランタンが置かれていた。指先ほどのスイッチをひねると、幾度かまたたいて火が爆ぜる。

 壁も床も、粘土を練り固めたような椅子も、表面に泥が溶け出している。ぬくみのある粘液が臀部を濡らしている。


「さて、わが同胞よ。同じ種族ニンゲンとして、このルペーニヤをいかんとす?」


 粥状の酒をなめて、答えを思案する。ビールに近い味だが、生魚のような臭みがあった。

 呑みたくて呑んでいるわけじゃないが、水を飲むわけにもいかない。間違いなく腹を壊すから飲むなと、乾杯の際に言われた。


「同胞ですか」


 言葉の選びようへの不信を咳払いでごまかし、あいづちを打った。

 こちらを見つめる黄土色の眼が、ゆっくりと細まる。新月のように。


「馬鹿げた言い回しだと?」


「そんなつもりじゃ、ないですけど」


「人狼も人狐も、半ばニンゲンだぜ。十分な理由だと思うが」


 手を引きよせ、強くも弱くもない力で握り、距離は変えずにこちらの眼を見る。

 個人的な懇意こんいを演出している。厄介なのは、演出とわかっていても、乗ってしまいそうになるところだ。

 だとしても、こういうやつがどういう手管てくだを繰り出してくるのかは、なんとなく予想がつく。押したところでそろそろ引いて、……ああ離れた、で、こう言い出すのだ、


「なんて、冗談だけどな」


 舌を出してけらけら笑う。

 あーあ。


「……なんだつまらん、今のでたいていの女は堕ちるんだが」


「僕相手にやらんでください」


「はっは!……で、質問の答えを聞いていなかったな」


「文化的な生活を送っているようには見えませんね」


 アルコールの力を借りて、言いきった。



 アルコールは好きじゃない。元々が酔えない性質たちなので、どんなに高いものを飲んでも飲ませられても、なんとなく清涼飲料水を飲んでいる気がしてしまう。

 バーボンみたいに煙草の感覚で愉しめるものは、それでも嫌いではないのだが、呑み会となると出てくるのはたいていビールか日本酒かであって、つまり呑みたい酒ではないのだった。

 当然、ビールに魚のすり身を混ぜたような味の酒なんか、ぜんぜん好きではない。さっさと目の前の杯を空けてしまいたい。


 それなのに、陽が暮れてからの招待に応じたのは、下心があったからだ。自分の混乱を誰かと分かち合いたい気持ちと、目の前にいる魔族のことを見極めたい気持ち。

 見極めたいというのは、大言壮語かもしれない。俺は単純に混乱していた。あの女性の容態ようだいを確認するときの焦燥と、その直後、傑物について嬉々として解説するときの喜悦、その変わりように。


 この男は、本当は何を考えているのか。俺の味方なのか、敵なのか、どちらでもないのか。

 いずれにしても、わからないことが多すぎた。最悪の結末をどうにかするためには――どうにかできるのかさえわからないが――、わかっていること、あるいは自分が理解できる相手を、少しでも増やさなくてはならない。

 そして、初対面のあいさつで自分から名乗るのと同じように、相手のことを理解するためには、自分の考えていることを、部分的にでも打ち明けなきゃいけない。

 飲みたくもない酒の力を借りてでも。



 まぶたを拳でこすると、明かりが滲んだ。

 ひさしぶりのアルコールゆえか、眠気が勝っている。眼が醒めたら、日本とまではいかないがせめて王都に戻っていないだろうか、そんな埒もない空想が頭をよぎる。

 街に出たときと、今の場景とが混交し、分別がつかなくなってくる。あくびをするたびに頭の中が湿り気を帯びて、何かをまともに考える気力が削られていく。


「〈自治区〉との外交を司る者として至らん限りだが、では富裕層もあんな程度の痴れ者だ。われわれの言葉を解するのだから、知能は高いほうだろう。向学心もある。どこであんな卑語を覚えてくるかは知らんがね」


 ルナルカさんはこめかみを指で揉んで、かすかな唸り声を立てる。

 糸鋸のような牙が白く映え、表面にランタンの灯をうつした。


「あれを見ていると、ニンゲンなんざ滅んじまえばいいと思う」


「本気ですか?」


 ルナルカさんは眼を細め、こちらを見返す。


「どうかな。本気だったらどうする」


 どうにもならない。

 俺は何もできなかった。吐き気を催しながら立っていただけで、彼女を助けたのはむしろ目の前の、うさんくさい優男なのだ。


「ま、あんたを試したいなんて不遜ふそんなこと、企んじゃいない」


「……すみません」


「何を謝る。変わったニンゲンだな」


 ルナルカさんは微笑し、それで沈黙が訪れる。

 ここには俺たちと羽虫しかいない。ぶん、と音がして、耳元を通り過ぎる。光は天井とテーブルにしかないから、本能に隷従し、光源の周囲を旋回するしかないのだろう。

 ルペーニヤの人間たちと同じだ、なんて感傷的な修辞が脳裏に明滅する。こめかみを強くおさえて掻き消した。


「俺は、あんたに提案をしたい。


 俺は酒を口に含み、飲み下す。酒粕のような、どろりとした質感が喉に張りつく。


「初対面の魔族に気を許し過ぎたな。ああいう質問に、本気ですか、だなんて答えちゃあいけない」


 どこか愉しげに、言い聞かせるように告げられた。

 背筋を伸ばして息を呑む。すべてを隠し通すほうが無理なのは百も承知でいたが、こんなに早くバレるとは。

 でも、これ以上、秘密を抱え込むのも面倒だった。密告するなり殺すなりしろ。どうせ死なないんだから。

 杯をぐいっとあおりながら開き直る。


「実を言うと俺も同感だ」


「ぶぉふぁっ!?」


 ヤケクソ一気飲みの真っ最中だったので、顔面を酒だらけにしてしまった。

 え、何?

 今このキツネ星人なんつってん?


人狐おれたちは半ばニンゲンだ。実は俺も、ここの連中を滅ぼすのは、気が乗らない」


 机の上に何かが差し出される。唇と前髪を拭って、暗がりの底に正体を確かめる。

 本だった。

 やけにきっちりした装丁だ。Soumissionというタイトルが、臙脂色の背景に、朱色でくっきりと記されている。


「取り引きをしないか?」


 という言葉を、周囲にただようアルコールと魚の臭気に結びつけるのは、疲弊した頭には困難な作業だった。

 思案するための猶予を引き延ばそうと、差し出された表紙に目を落とし続けた。

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