粘土と取り引き
くちなしの香りを散らす酒を、隣のキタキツネがくゆらせている。
天井に吊り下がる豆電球の周囲を、虻に似た羽虫が旋回している。泥を固めた壁には耳孔ほどの小さな穴があり、そこから出てきたようだ。
長机にはランタンが置かれていた。指先ほどのスイッチをひねると、幾度かまたたいて火が爆ぜる。
壁も床も、粘土を練り固めたような椅子も、表面に泥が溶け出している。ぬくみのある粘液が臀部を濡らしている。
「さて、わが同胞よ。同じ
粥状の酒をなめて、答えを思案する。ビールに近い味だが、生魚のような臭みがあった。
呑みたくて呑んでいるわけじゃないが、水を飲むわけにもいかない。間違いなく腹を壊すから飲むなと、乾杯の際に言われた。
「同胞ですか」
言葉の選びようへの不信を咳払いでごまかし、あいづちを打った。
こちらを見つめる黄土色の眼が、ゆっくりと細まる。新月のように。
「馬鹿げた言い回しだと?」
「そんなつもりじゃ、ないですけど」
「人狼も人狐も、半ばニンゲンだぜ。仲良くなるには十分な理由だと思うが」
手を引きよせ、強くも弱くもない力で握り、距離は変えずにこちらの眼を見る。
個人的な
だとしても、こういうやつがどういう
「なんて、冗談だけどな」
舌を出してけらけら笑う。
あーあ。
「……なんだつまらん、今のでたいていの女は堕ちるんだが」
「僕相手にやらんでください」
「はっは!……で、質問の答えを聞いていなかったな」
「文化的な生活を送っているようには見えませんね」
アルコールの力を借りて、言いきった。
*
アルコールは好きじゃない。元々が酔えない
バーボンみたいに煙草の感覚で愉しめるものは、それでも嫌いではないのだが、呑み会となると出てくるのはたいていビールか日本酒かであって、つまり呑みたい酒ではないのだった。
当然、ビールに魚のすり身を混ぜたような味の酒なんか、ぜんぜん好きではない。さっさと目の前の杯を空けてしまいたい。
それなのに、陽が暮れてからの招待に応じたのは、下心があったからだ。自分の混乱を誰かと分かち合いたい気持ちと、目の前にいる魔族のことを見極めたい気持ち。
見極めたいというのは、大言壮語かもしれない。俺は単純に混乱していた。あの女性の
この男は、本当は何を考えているのか。俺の味方なのか、敵なのか、どちらでもないのか。
いずれにしても、わからないことが多すぎた。最悪の結末をどうにかするためには――どうにかできるのかさえわからないが――、わかっていること、あるいは自分が理解できる相手を、少しでも増やさなくてはならない。
そして、初対面のあいさつで自分から名乗るのと同じように、相手のことを理解するためには、自分の考えていることを、部分的にでも打ち明けなきゃいけない。
飲みたくもない酒の力を借りてでも。
*
まぶたを拳でこすると、明かりが滲んだ。
ひさしぶりのアルコールゆえか、眠気が勝っている。眼が醒めたら、日本とまではいかないがせめて王都に戻っていないだろうか、そんな埒もない空想が頭をよぎる。
街に出たときと、今の場景とが混交し、分別がつかなくなってくる。あくびをするたびに頭の中が湿り気を帯びて、何かをまともに考える気力が削られていく。
「〈自治区〉との外交を司る者として至らん限りだが、うちでは富裕層もあんな程度の痴れ者だ。われわれの言葉を解するのだから、知能は高いほうだろう。向学心もある。どこであんな卑語を覚えてくるかは知らんがね」
ルナルカさんはこめかみを指で揉んで、かすかな唸り声を立てる。
糸鋸のような牙が白く映え、表面にランタンの灯をうつした。
「あれを見ていると、ニンゲンなんざ滅んじまえばいいと思う」
「本気ですか?」
ルナルカさんは眼を細め、こちらを見返す。
「どうかな。本気だったらどうする」
どうにもならない。
俺は何もできなかった。吐き気を催しながら立っていただけで、彼女を助けたのはむしろ目の前の、うさんくさい優男なのだ。
「ま、あんたを試したいなんて
「……すみません」
「何を謝る。変わったニンゲンだな」
ルナルカさんは微笑し、それで沈黙が訪れる。
ここには俺たちと羽虫しかいない。ぶん、と音がして、耳元を通り過ぎる。光は天井とテーブルにしかないから、本能に隷従し、光源の周囲を旋回するしかないのだろう。
ルペーニヤの人間たちと同じだ、なんて感傷的な修辞が脳裏に明滅する。こめかみを強くおさえて掻き消した。
「俺は、あんたに提案をしたい。宮廷教師の身分を賜わりながら、陛下の趣意に賛同しないあんたに」
俺は酒を口に含み、飲み下す。酒粕のような、どろりとした質感が喉に張りつく。
「初対面の魔族に気を許し過ぎたな。ああいう質問に、本気ですか、だなんて答えちゃあいけない」
どこか愉しげに、言い聞かせるように告げられた。
背筋を伸ばして息を呑む。すべてを隠し通すほうが無理なのは百も承知でいたが、こんなに早くバレるとは。
でも、これ以上、秘密を抱え込むのも面倒だった。密告するなり殺すなりしろ。どうせ死なないんだから。
杯をぐいっと
「実を言うと俺も同感だ」
「ぶぉふぁっ!?」
ヤケクソ一気飲みの真っ最中だったので、顔面を酒だらけにしてしまった。
え、何?
今このキツネ星人なんつってん?
「
机の上に何かが差し出される。唇と前髪を拭って、暗がりの底に正体を確かめる。
本だった。
やけにきっちりした装丁だ。Soumissionというタイトルが、臙脂色の背景に、朱色でくっきりと記されている。
「取り引きをしないか?」
取り引きという言葉を、周囲にただようアルコールと魚の臭気に結びつけるのは、疲弊した頭には困難な作業だった。
思案するための猶予を引き延ばそうと、差し出された表紙に目を落とし続けた。
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