3日間の休暇を利用したジェノサイド または魔族と極右のどちらかに○をつけよ

1日目

親指と原子爆弾

 偉大なる魔王陛下は卓上に手を広げ、親指に向けて垂直に刃先を落とした。

 ドガッ、というわかりやすい音とともに、指が横転する。重油に似た黒い体液がほとばしり、粘り気を帯びて木板の上にこごった。


 その粘液が気泡とともに蒸発する間際、視界の端をおじいちゃんが通り過ぎる。

 このルペーニヤ〈自治区〉の、元老院の所属だと言っていた。背筋の曲がった定型的な老人だが、意外に素早い。こけそうになるのでこちらも駆け寄り、土壁に向かってひざまずき、えずく背中をさすってやる。

 国賓の前での嘔吐はマナー違反だが、気持ちはわかる。同じ人間同士、わかりすぎてしまうくらいだ。


 とはいえ、いつまでも介抱しているわけにもいかない。相手が立ち上がるのを確認してから円卓へ戻ると、つまんだ魔王の指の断面で、羊皮紙に血判を押す。

 魔界にヒツジがいるのかは知らないし、そもそも動物という概念が存在するのかも怪しいけれど、まあ見た目は羊皮紙。印字がかすれ、ごわごわして、茶色っぽく、えた臭いを放っている。


 骨と肉と血漿が、小さな紋章をかたどっている。博士たちのブローチの図柄と同じ、王族の家紋だ。

 つまりこの血判が、あの紋様の由来。

 知りたくなかった豆知識だ。


「正式な来訪ではないにもかかわらず、此度こたびの厚遇、まことに感謝に堪えない」


 押す位置がずれてしまった。トドのことをとやかく言えない。どう考えても正式な行政文書だが、大丈夫なのだろうか。そもそも、奴隷が押していいのだろうか。


 振りかえって魔王様の表情を観察すると、子どもをなだめるような笑みを返される。そのままこちらへ近づいてきて、あとは任せろとばかりに、手を俺の肩に置いてみせる。

 無言で引き下がった。


「紹介が遅れた。この者は異界のニンゲンで、名をフミという。わたしの宮廷教師兼奴隷として同行させた。短いあいだになるが、同じ種族の一員として友諠ゆうぎをはかってほしい」


「よろしくお願いします」


 宇宙服のような身なりで頭を下げる奴隷に向けて、誰ひとり返事をしない。


が今回、このルペーニヤを訪れた理由は、他でもない」


 温泉めぐりをするためだ。

 建前としてはそんなことを言うつもりだろうと、そう思っていたが違った。


「諸君らを殲滅するためだ。3日後の明朝には、すべて地上の塵芥と化しているであろう。それぞれ親しき者へ、今生の別れを済ませておくように」


 これまで体験した中で、最も居心地の悪い沈黙が訪れる。ほどなくして、警笛のような悲鳴があちこちから聞こえてきた。

 ざわめきは、騒擾そうじょうに変じる手前まで高まる。天を仰いで手を合わせ眼を閉じるのは、吐いていたおじいちゃんだ。唇に吐物が貼りついている。


 こんな騒ぎになっていることより、こちらに危害が加えられる様子がないことのほうが、嫌な気がした。

 人間なんざ無力な存在である、なんてのは典型的な決まり文句だが、ここではそれが文字通りの意義を持っている。

 実に嫌な気分だった。



 ひるがえって俺は、無力な存在であるところの自分にふりかかった、人類史上初の災禍に、立ち返らざるをえない。

 具体的に言うとフミ先生は今、宮廷教師兼奴隷兼歩く原子爆弾である。

 心停止で爆発するので、取り扱いには注意しなくてはならない。


 戦争兵器のおそろしさでも見せときゃオッケーとかいう、若い教員にありがちな平和教育への安直なスタンスが、今回の敗因であったと自己分析している。

 大丈夫、きっとわかってくれる。根は悪い子じゃない。大丈夫。

 とかいう公算そのものが大甘だったというわけ。覆水盆ふくすいぼんに返らず、後悔先に立たず。

 そういうことだ。

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