五芒星と炊飯器

「で、なんで僕をここに」


 時計の音を聞きながら、あらためてたずねる。

 不服げに口を尖らせて(よく口元に牙が刺さらないものだ)、ひとりごとをつぶやいていた魔王様は、気を取り直したように背筋を伸ばした。


「そうだな、肝心の用件を失念していた」


 曲がっていた襟元を直してから、あらためて瓶を手に取ると、かりかりと音を立てて、薄紙のようなラベルを剥がした。

 あとは草原のときと同じだ。テーブルにはずいぶん小さな、ひし形の地図がひろげられる。折りたたんでポケットにしまえそうなくらいのサイズ感。


「これは、見てのとおり地図だ。王都ギスカザルはここ」


 対角線の交点に置かれた五芒星を、鋭利な爪が叩く。そこからゆっくりと、薄紙に筆先を押し付ける角度と速度で、指を左下へ動かす。

 赤茶けた山脈の端で、指は止まる。


「こちらは、ルペーニヤという鉱山都市だ。わたしが生まれるのと前後して、ニンゲンの〈自治区〉が置かれた。ご存知だろうか?」


「ああ、まあ、名前だけ」


「ならよかった。先ほどの席で触れるつもりだったが、機をいっしてしまってな」


 なるほど、夕食の目的はこれだったか。時計の話なんか持ち出してすみませんでした。

 ところで地図の縮尺が不明なので、図面だけでは実際の距離がわからない。


「どれくらい遠いんですか?」


「ニンゲンどもの生息区域としては、王都ここから最も近い。飛行竜ドラゴンで1.5365178465198643687時間ほどだ。わたしのの平均飛行速度はおよそ918.3454318751987598715987毎時キロメートル。計算すると――」


「あっいいです、わかりましたありがとうございます」


 つまり、羽田と新千歳ぐらいの距離。おそらく。ドラゴンでの移動も納得である。


「それで、だ。単刀直入に言うと、これからこの、ルペーニヤという都市に向かわなくてはならない」


「どなたが」


「もちろんわたしが。晩餐ではその件について詰めるつもりだったが、かえって今でよかったかもしれない。食卓で地図をひろげることはできないからな」


 それは、一理ある。

 にしても目的はなんだ。彼女は王族の家系であるからして、観光ではなく外遊、もしくは研究に際してのフィールドワークといったところか。

 どのみち俺には関係ない。どうぞお達者で。おみやげはいらんよ。


「公務とはいえ旅支度がいるな。何か必要なものは?」


「はあ旅ですか。は?」


 危うく首を縦にふるところだった。


「魔王陛下が、旅に出られるんですよね?」


「センセイも同行する」


 そばかすを散らした少女は、こちらが何か言うのを制するみたいに、小さく整った顎の下で、指を組んでいる。


「僕、も、行く?」


「もちろん。貴殿はわたしの奴隷じゃないか」


 やわらかい笑みを浮かべ、地図を手の中でくしゃくしゃに丸める。


「心配は無用だ。クロフュスやジアコモも同行させる」


 何が心配は無用なのか、同行させたところで俺にどんなメリットがあるのか不明だが、とにかく丸めた地図は羽毛に変化し、翼をひろげて頭上のシャンデリアを旋回する。

 鳩の丸首や尾羽が、影絵のように視界をかすめた。


「今回の目的はふたつ。ひとつはセンセイに〈自治区〉の事態を見学していただくこと。もうひとつはルペーニヤのニンゲンどもを滅ぼすこと」


「ほぁっ?」


 驚きすぎて、自分でも聞いたことのない裏声が出る。


「ほっ、ほろぼす。にんげんを」


 ファルセットで確認した瞬間、岩に石で殴りかかるような粗暴すぎるノックが聞こえた。かちんという、炊飯器に米をセットしたみたいな、控え目な開錠の音がそれにつづく。誰が開けたわけでもない。鍵がひとりでに動いたらしい。

 これも魔術か?


 廊下の冷えた空気が背後から吹き込んで、どかどかと大股の足音が歩み寄ってくる。

 毛皮の匂いがしたので、姿を見ずとも体毛を生やした動物モドキだとわかった。すぐに汗のような果物のような、甘酸っぱい匂いが混じる。


「ご機嫌うるわしゅう魔王陛下、私の耳輪ピアス知らんですかね?」


 女性の声だ。


「いや、見ていない」


「マジで? あーあ、特注だったのについてねえや」


 酒焼けしたような濁声だみごえは、酒焼けの気配を濃厚に漂わせる。振り向くよりも早く扉は閉められ、俺たちは早々に取り残された。

 得体の知れない誰かがいきなり入って来て、探し物をしに来ただけだとわかっていても、取り残された気分になった。

 嫌な汗が背中を湿らせる。


「……そうだ、紹介しておけばよかった。今のはジアコモといって」


「あ、ちょあっ、質問」


「うん?」


 こちらを見返す眼差しはまっすぐで、しかも澄みわたっている。さきほどの戸惑いはとうに消えていた。


「ああそうだ、ちなみに期間は3日だ。わたしの休暇がそれで終わってしまうのでな。とはいえ貴殿の場合は勤務日として換算されているはずだから、心配はしなくていい。本当はもう少し、余裕を持って取り組みたいのだが……」


 あらためて見ると、瞳の色はに近い。甘いものは嫌いだけど和菓子はまだ食える、マジでダメなのはメロンパンで、正直口に入れると吐きそうになるんだけど、そんなことはどうでもいい。

 どうでもいいことを考えていられる状況ではない。


「それで、質問とは?」


「えっ、と、えっとですね」


 舌の根が渇いて、口の中に貼りついてしゃべれなくなる前に、効果的な質問をしなければならなかった。

 ルペーニヤのひとびとが滅ぼされる運命を、回避するための質問を。

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