料理と時計
夜の沖合に浮かぶ、ふたつの
そんなものを見たことはないのに、魔族の
「変とは、どういう意味だろうか」
「いや……すみません」
「謝ることはない。説明してほしいだけだ」
声音に変化はない。視界がきかず表情は読み取れない。俺は唾を呑みこんで、こう問いかける。
「その、ヘイカ、は、なさったことないんですよね? 料理」
蝋燭の青ざめた明かりの外にある漁火が、わずかに細まり、そのまま消えてしまいそうになる。
「ああ、もちろん。王族が食事を拵えるなど」
「拵えたことないんじゃ、役に立つか立たないか、わからないかなと思うんですが。……どう、でしょう?」
ふたたび沈黙。
「よくわからない。どういうことだろう?」
「たとえば……」
俺は俺に向けて首をひねる。魔王様は齢にして10、エリクソンの発達段階によれば学童期にあたる。内的葛藤の構図としては、勤勉性と劣等感の対立が観察される時期だ。
つまり、指導にあたっては彼の勤勉性を引き出し、なおかつ劣等感の
今回は母親と部下が同席しているので、なおさら注意すべきだ。ことさらな猫なで声は論外にしても、さりとて説明だけで終わらせるわけにもいかない。
少し考え、さりげなく切り出してみる。
「たとえば……ヘイカは、時計は読めますよね」
「もちろん」
「まあ僕は、読めないんですけどねっ」
うへへ、と笑ってみるが反応はない。アイスブレイクなんだから笑えよ!
「それで?」
「それで、……時計の読み方を覚えたときのことは、覚えてますか?」
「そうだな、クロフュスに教わった気がする。幼時はわたしの教育係だったから」
ふうん。
「教えてもらったとき、何を考えていたか、覚えてますか?」
「ああ、王族たるもの……」
首をふる気配が、なぜかしら伝わった。
「……などと、そんなことは考えて、いなかったな……あれは何かとたずねたのが、はじまりだった気がする。興味があったから」
「時計に?」
「時計に」
今度は苦笑の気配。
「つまらない話で申し訳ない」
「そんなことないです。よくそんなこと、覚えてらっしゃいますね」
「ありがとう」
「そういえば、そのとき、時計を読めると役に立つかもって考えました?」
「いや、そんなことは……ああ、そうか」
かちんという音が響いて、眼には見えないが、魔王様は杯を持ち上げたらしい。すするような音を立てて、わずかばかり中身を飲む。
「役に立つかどうかという判断が、物事に取り組む動機とならないこともある。そういうことか?」
アタマよすぎ。結論を先取りせんといて。
まあでもそんな感じよ。
「物事が役に立つか立たないかって発想は、あとからやって来る、どうもそんな気がします。物事のしっぽを追いかけてくるというか」
「一理あるな。しかし、わたしが下した判断は、あくまで合理的な推論だ。たとえば、将来の役に立つから勉学にはげむ。そういう話だ」
合理的な推論。
たしかにそうかもですね、そうつぶやいてから、頭の中で組み立てていた質問をぶつける。
「じゃあ、勉学が将来の役に立つ、そう思うのは、なぜですか?」
「勉学によって輝かしい将来を手に入れた者たちが、大勢いるからだ」
「それはなぜですか?」
「それは、同じことだ。先ほどの説明で、質問には答えていると思う」
「そうですね、僕もそう思います。つまり、勉学……、勉強が役に立つのは、役に立たせた誰かがいるからですよね。予測できるメリットがあるから、それをしようとする、そういう種類の動機なわけですね」
そこまで喋ったところで、不意にテーブルがゆれた。皿がゆれてスープの
重たげな地鳴りをかすかに聞き取る。俺は硬い靴底の裏を、きゅっと床に密着させる。
「大丈夫?」
「え?」
不意をつかれたような、とぼけた声だ。
「地震でしょう、今の」
「……ああ、その、大丈夫だ。わたしは」
「ならいいですけど。えーっと、なんでしたっけ……いけないこと? そう思った理由って、あります?」
「ない。それはいけないことか?」
口調が堅い。それに初めて断定的に否定した。これ以上は踏み込まないほうがいい。今は。
「いけないなんて、そんなことはないです。そんなことは誰にも決められません。でも、自分が何かをするのはなぜか、その動機がどこにあるのか、それをちゃんと理解するのは、大事なことだと、僕はそう考えます」
「つまり何が言いたい?」
「つまり、何が言いたいのかというと、……時計を見て、あれはなんだろうと思うでしょう? それってふつうのことじゃないですか。生まれてはじめて時計を見たひとが、いつも壁にかかっているあれはなんだろうと、思わずにいるほうがむずかしい。そう思いませんか?」
ちょっとしゃべりすぎだ。そろそろ結論を出さなくては。
「役にたつから何かに取り組む。そういうこともありえるでしょう。でも、だとすると、一番はじめにその物事に取り組もうとしたひとは、なぜそう思ったのか? デンカのおっしゃる、合理的な推論、だけですべてが説明できるなら、いちばんはじめの、なぜ、が説明できなくなる。世界は合理的な推論だけでできているわけじゃない」
「しかし、……王族は料理をしない。そうでしょう、母上」
俺はお母さんを見た。眼光に変化はない。少しだけ様子をうかがうけれど、喋り出す気配もない。
「するかしないかって、そんな重要でしょうか?」
こぼれたスープを一口すする。
視界は、ぼんやりと慣れつつあった。振り向く首筋の毛並みがほの暗い。
「お母さんがするかしないかは、お母さんの問題じゃないですか? お母さんはきみじゃないもの。きみが料理をはじめれば、史上初の、料理をする王族の誕生だ。それだけ。事実は戒律じゃない。きみがすることは、きみが決めていいんだ」
長い沈黙があった。
……なんか、仕事モードに入ってた気がする。
「……あの、言い方きつかった?」
「え」
「いや、ごめん、ごめんじゃなかったすみません、責めてるわけじゃないんで、顔がね、僕どうも顔が、人相が悪いらしくて、ちょっと怒ると生徒みんな泣いちゃうから、あのー、ほんとうにダメなことは、僕は、ダメっていうタイプだけど、今回の話はそういうのじゃなくて、だって、ねえ、僕の考え方に合わせる必要なんか、ぜーんぜん、ないし、……まあ、食事の席の雑談ですから、あんまし気にしないで、タメ語も、お気になさらずに、敬語を……失念しておりました……殺さないでくださいお願いいたしますお母様……」
ひざまずき、床に額を叩きつけて渾身の土下座。
あわてて駆け寄る気配と、まさしくあわてて止めに入る幼い声に、大人のため息がふたつ重なった。
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