ユキヒョウとサイコパス

 魔王陛下は魔王である。名前はない。

 まだ、とかじゃなくて永久に存在しない。魔王様は魔王様だ。ひとりっ子なのでそれで充分だ。


 魔王とは何か。自国や属国の諸侯、その他貴獣を権力で従える存在。

 先の世界内戦にて、陸境や海境をまたいで相まみえていた諸種族を調停し、先王すなわち魔王佐殿下が、その権能を確立した。


 彼女が調停の場で述べた声明は、いまなお縷々るるとして語り継がれている――宿

 武ではなく言の葉で戦を終わらせたのは、魔界史上、偉大なる殿下が初めてのことであった。


 だからこそ、みな彼女に、あるいは彼女のよつぎたる少女に唯々諾々いいだくだくと従う。

 王冠はお仕着せの装飾品などではない。まさしく民の求めによって掲げられた宝玉ほうぎょくなのだ。



「しかるに、われら近衛隊このえたいこそ、勇猛果敢なる現獣神あらひとがみに仕えし第一の尖兵どもである」


 肩章つきの、大仰な軍服に身を包んだユキヒョウの女性は、そこで言葉を区切って、苛烈に肉食獣な眼差しをこちらに向ける。


「……此度こたびの会食は、両陛下殿下たってのご所望によるものだ。心して臨め」


 そして割り込むのは、俺の心臓をぶっ潰した少女。


「難しい話じゃないんだ。晩餐をともにしたくて」


 ああそう。



 部屋に入ってきた理由がようやくわかった。どうやらこれから、次期魔王とその保護者と、メシを食わねばならないらしい。ていのいい三者面談だ。

 面談がどちらの発案なのかは知らないが、いずれにせよ、俺が人類を滅ぼしたがっていないことは、隠しておいたほうがよいのだろう。

 滅ぼしたがる人間がいったいどこにいるのか問い詰めたいが、そういう愚行ぐこうもこらえたほうがよいのだろう。きっと。


「畏れ多くも、貴様が拝謁するのがいかに偉大な御方おかたであることか。この場でジャバランガラのごとくくたしたる脳味噌に叩き込め。さもなくば死ね」


 ハードな二択だが、サーベルに手をかけられては、うなずくしかない。

 うなずくとその、近衛隊だかに所属するとかいう、たぶんだけどユキヒョウとかそんな感じな種族の女性は、高潔な口調で凛々しく吐き捨てた。


「この程度で見知らぬ化け物に隷従するとは。誇りはないのか? ニンゲンとはなんと恥知らずな生き物であることか……」


 カラーとタックのついたワインレッドのジャケット、まっさらなシャツと深緑のリボンタイ。人間の基準では男物の正装だろう。腰に吊り下がる武器がなければ、舞踏会ぶとうかいにおもむく紳士にも見えた。

 ファンタジー感は出ているが、暴力装置の構成員の恰好ではない。わかりやすく迷彩服でも着てくれ。


「ネジウチ、それくらいに。センセイが自決してしまう」

 

 しねえよ。


「あのー、服、大丈夫、ですかね、これで」


 例によってワイシャツも無事に修復されたので、ジャケットだけ羽織ってきた格好だ。

 当然の疑問だろうに、近衛隊員さんは露骨に鼻を鳴らす。あのシカはどこいった? あいつのほうがマシなんだけど。


「ニンゲンごときが服を着るとは、まったくもって不相応な奇態だ。魔族われわれと同等にでもなったつもりか? なんたる倨傲きょごうか。その薄皮ごとひんいてやろうか?」


「なるほど、興味深い視点だ。ニンゲンはどれぐらい皮膚をぐと死ぬのだろう?」


 サイコパスがふたりもいるので会話が成立しない。これから会食する相手の情報を叩き込まれながら、あずかり知らぬ場所へと進んでいく。

 人肉とか喰わされたらどうしよう。



 二度右に折れて三度左に折れ、それから螺旋階段を降りて、それから渡り廊下のような吹き抜けの設備を抜けた。

 降りたのに渡り廊下?

 まあ仕方ない。異世界だし。


 10分以上は確実に歩かされ、やがて俺の背丈の3倍を超える、大きな鉄扉にぶち当たった。

 細工の彫り込まれた銀の取っ手にユキヒョウが、肉球の名残りをとどめるグローブ状の手のひらをかざし、ぼそりと何かをつぶやく。


 ――入りなさい。


 寂々じゃくじゃくたる冷めた空間で、その言葉は頭の中に、直に響いた。水面に投げ込まれた小石が波紋を描くように、骨や筋肉を末端まで伝っていく声。

 同時に周囲では、それまでの罵倒が止んだ。

 魔族だろうが近衛隊だろうが、ここからは沈黙を強いられる、そういう場所に、今から入っていくらしい。


「巨大な皮剥き器をつくるんだ。漏斗ろうと状の入り口へ向けて、骨を砕き両手足をわった裸のニンゲンどもを投げ込んでいく。内壁に沿って螺旋らせん状に回転する刃が、頭部から足部までの皮をひといきに剥がす。昏睡させれば暴れる心配もなかろう。それより刃こぼれが問題だな。あと刃部じんぶに付着した血糊を洗浄する機能が必要だ」


 招待したやつだけが、空気を読まず拷問用具のプレゼンをしている。


「実験も必要だ」


 こっち見んな。


「母上。いかがでしょう、今の案は?」


 俺から視線を暗がりに移し、彼はそのように呼びかける。

 え、暗いな。暗いよねこれ? あたしの眼がおかしいのかな? 闇の向こうに浮かび上がる灼眼しゃくがんが俺たちを見据えているね?

 何が始まるの? 生贄の儀式?


「立ち話のために呼びつけたのではありません。早く座りなさい」


 吐息混じりの声は厳粛で、壮齢そうれいの響きがあった。なるほど、元魔王である母親が娘にかける言葉とはこういうものか。呆れているとも、淡々と注意しているとも取れる。

 ごうん、と金属を鈍く叩くような音が背後で鳴った。あらためて視界を闇に包囲される。

 正面には唯一の光源があり、そしてそれが目の前の、食卓の白とダイニングチェアの赤の輪郭を明らめる。


 あたりは静まり返り、魔王様が黙ってしまうと吐息さえ聞こえない。

 俺を連行してきたユキヒョウも、舗道に張りついた街灯の影が夜に呑まれるみたいに、いつの間にか見えなくなっている。


「座ってくれ。わたしはこちらに」


 もうひとつの声のほうを向けば、そこには何もない。

 少なくとも、俺の視力では何も見えない。


「センセイ、そこにいると椅子を引けない。もう少し横に」


 そもそも自分がどこに立っているのかがわからない。椅子を引けないということは、背もたれのすぐ後ろにいるのか?

 正面に手を突き出すと、なるほど固い感触がある。言われたとおりにすれば、それが音もなく、後ろに引かれるのがわかった。

 ……誰が引いたんだ?

 座面に指で触れると革張りになっている。きちんと腰掛けなければ滑ってしまうだろうし、それはきっとマナー違反だ。


「ニンゲンは、食べるものによっては身体が溶けて死ぬと聞いている。受けつけないものはあるか?」


 甘いものは好きじゃない。特に菓子パン。


「かしぱん?……聞いたことのない食材だが、承知した。ところでセンセイは肝が太いな。母上の正面に座っているというのに、まるで動じないとは」


「暗すぎて何も見えないだけです」


 とにかく、このようにして会食は開始された。

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