三者面談

ウミネコとマッサージ

 こっそりあくびをしてみると、弛緩した顎がチューインガムのようにやわらかく伸びる。

 頭の中がどことも言えず重たい。横になって意識の途切れる瞬間が想像できる。つまり、身体がその体験を欲しているということだ。

 おあつらえ向きなことに、部屋にはシーツのないベッドが、寝やがれとばかりに安置されている。

 背中を投げ出して眼を閉じた。


 俺が選ばれたのは、戸籍とか血縁関係がめんどくさくないからかなと考えてみる。だとすれば、個人的な事情につけこまれたことになる。

 あいつだから、あれだけど。これが赤の他人だったら、なあ。

 ぼんやりとした感慨かんがいにふけりながら、まどろむ意識に身体の舵取りをまかせる。手足が重たくなり、全身の沈み込む感覚が、不意にやってくる。



 短い眠りの中で、夢を見ていた。あるいは短い眠りだからこそ、夢を見たのかもしれない。


 夜の街にいた。星はなく、街灯はなく、それでもあたりは明るい。夜明けに向かう夜の色味いろみ

 人影のない街は、小さかった。狭いのではなく、全体が縮小されたように小さい。どの建物の屋根も俺の肩より低く、どの窓も俺の頭より小さい。玄関は、ついていない。外見そとみばかり整って、原色とも思えるほど鮮やかな塗装を施されながら、入り口も出口もない。

 沈黙する連なりは、つくりたての廃墟のようだ。


 煉瓦の敷かれた、誰もいない清潔な街路をゆく。行く手の先、薄闇の向こうからは潮の匂いが緩慢に吹きつけていた。

 波音が聞こえるのと、くらい海を見下ろすのとは同時だ。褐色かっしょくの断崖の下にひろがる浜辺を、貝殻のような白亜の物体が、ひしめくように覆っている。


 そのうちのひとつを、白と黒の融解した指がすくい上げた。

 色あせたハンチング帽、ギンナムチェックのシャツ、黒いサスペンダーとハーフパンツ。灰色のオオカミが波打ちぎわに、裸足で立っている。こちらに気づくと手をふった。鋭い爪が鈍く光る。


「遅かったね」


「はあ。どうも遅れまして――」


 大声を張る自分がいぶかしい。誰かと話すときに、こんな言葉づかいをしたことはない。

 訝りながらも歩調はゆるめず、断崖をつたう、岸壁を削り出した階段を降りる。降りるとき、足元に見たこともないサンダルを履いていることに気づく。


 海鳴りは湿った空気の中で、近くに響いた。波が立ち上がる低い音と、押し寄せる高い音が区別できるほどに。

 ハーフパンツの裾をまくり、やはり灰をかぶったような腿をあらわにしたオオカミは、骨ばった脛で波をかきわけて、腰に吊り下げた巾着袋きんちゃくぶくろに、ひろったものを入れていく。軽石のぶつかりあうような音が、布地の向こうからくぐもって聞こえてくる。


「集まってきた」


 そのひとりごとが、俺に向けられていることはわかっている。

 そうだ。オオカミが集めたものを使って、俺は、やらなくちゃいけないことがある。とても大事なことだ。

 でもそれが何かを、思い出せない。


「声を聴け。すべてはそこから始まる」


 その言葉を聞いて、合点がいくとともに、含羞がんしゅうを覚えた。


「ちょっと気障きざじゃない?」


「かもしれない」


 肩をすくめてこちらの台詞にうなずくと、足元の波を掻き分けて歩み寄り、骨のような白亜をひとつ、俺に手渡す。

 星に似ているが、輪郭が歪んでいた。施設のクリスマス会で作ったオーナメントや、あるいは生徒が図工の授業でこしらえた、紙粘土製のツリーの飾りを思い出す。


「誰が、理解してくれなんて頼んだ?」


 強い言葉を吐いた自分を、一瞬、認識できなかった。


「俺たちのことを、俺たちのいないところで決めるな」


 俺は泣いていた。

 生ぬるい雫が頬をすべり、と海面に落ちる。


「君は正しい」


 オオカミは牙を見せずに微笑む。中性的な、線の細い笑み。細すぎる。胸がざわついた。彼は何か、重い病気なのではないか?

 突拍子もない考えが浮かび、こわばりのような感情が頭に浸みて、涙は止まる。自分の悲しみが消えたからではなく、自分の目の前にいる生き物の悲しみに、気づいたから。

 体温を持たない星の骨に、耳を押し当てる。

 遠くでウミネコが鳴いた。



 ぼんやりと眼が醒める。手でさわってみると、枕は乾いていた。眠ったまま泣いていたわけではなさそうだ。もういちど寝るかを決めあぐねたまま、ふたたび目を閉じる。

 妙な夢だったけれど、そもそも夢ってのがすべからく妙であるからして……


 とまあそんな具合にまどろみかけた、ちょうどそのときに足音が聞こえた。すちゃすちゃという、茶碗を箸でひっかくような音だ。

 そのまま通り過ぎるかと思ったら、扉が開いた。見たわけじゃないが風が入り込んだので、開いたとわかった。

 音は限りなく接近する。


「……センセイ、死んでいるのか!?」


 声がでかい。寝ているやつの神経を高ぶらせないでほしい。

 てか死んでねえし寝てるし。見りゃわかんだろ? 休ませろクソガキ。


「どうしよう、ヤブチカを……いや、これくらいわたし自身でどうにかしなければ。まだ逝ったとは限らない。落ち着こう」


 ノックぐらいしろ、ひとりごとがうるさい、ヤブチカって誰――いくつか注目すべき点はあるが、指摘さえ億劫おっくうで死んだふりを続ける。

 あわてる様子を観察したい下心もあった。


「落ち着け。えーとニンゲンの死の3兆候は、瞳孔どうこうの散大、呼吸の停止、そして心音の停止」


 おお、合ってんじゃん(なんで知っているのかというと、学生の頃に小児科病棟で看護助手のバイトをしていたとき、看護師さんに教えてもらったのだ)。

 小学生のくせにやるじゃないか。さすが偉大なる魔王陛下。

 まずはどれから確認する?


「まずは瞳孔だ。眼球をえぐり取ろう」


 ええ?


「ん? ちょっと待った。視神経が切断されれば瞳孔の反射が途絶えるから、確認そのものができなくなるな? であれば呼吸か? 胸郭きょうかくじ開けるか? でも肺の位置がわからない……」


 落胆まじりのぬるい吐息が、湿り気となってひたいに触れた。

 予想より近い位置にいる。冷や汗が出たり引っ込んだりして、身体が冷たくなり熱くなる。


「弱ったな、心音とて聴取できる自信は……」


 耐えきれず薄目を開けた直後、ひとりごとが響きわたった。


「そうだ、いいことを思いついた! 心の臓が止まっていたとしても、按摩あんまで動かせば同じことではないか!」

 

 煉瓦の放つ、暮れ残りのような藍色に染まるあどけない顔貌がんぼうが、白い牙を輝かせている。

 その表情には見覚えがあった。大量破壊兵器の使用を提案してきたときの、あれだ。


 上体を起こそうとするがびくともしない。胸の上の重みに、意識が向かう。

 骨と筋肉と爪の質量が、少しだけ高い体熱を伝えてくる。体熱の持ち主は俺の胸部、正確には乳首と乳首を結んだ線の中点に手のひらを当てている。

 手の上に手を重ね、肘を伸ばし、上体じょうたいの体重をかけた体勢。心臓マッサージの模範的な姿勢だ。


「おお、眼が醒めたか」


「あの、何を」


「センセイ、どうかそのまま」


 慈愛をたたえた、菩薩ぼさつのような微笑みが、薄暗い視界にぼやけている。

 止まってねえしという抗議が声になるより早く、胸をスコップでえぐり取られたような、痛みを通り越して虚無の感覚が暴発した。

 こみ上げる熱い体液が、唇の堤防を割って噴射される。


 魔王様のかんばせへ向けて、盛大に吐血したようだ。

 わあっ、という子どもじみた吃驚きっきょうの叫びと、黄金色の尻尾がぐしゃぐしゃに赤茶ける光景をとらえながら、静かに息を引き取った。

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