お姉さんと非常口

 ところで話は変わるけど、友だちの大椴おおとどという露骨な偽名に納得していたのは、本人から西表島出身だと聞いていたからだ。

 具志堅用高が好例だが、沖縄のひとたちは(あくまで本土の人間からすると)めずらしい姓を持っていることが多いわけで。


 今となってはこの、雑すぎる推論のすべては誤りだと判明したわけだが、そんなことはどうでもよろしい。

 ひとは誰しも、あやまちを犯すものである。

 ならば失われたものを嘆くより、未来の希望を言祝ことほぐべきだ。


 何が言いたいのかというと、トドのお姉さんは美人だ。

 あれは、俺がブラック教職に疲弊していた頃。

 日夜送られてくる友人の写真には、南国という地理条件を無視した、紛れもない色白の秋田美人が映り込むことがあった。

 弟の覇気に欠ける、目の垂れ下がったマヌケ面が隣にあるおかげで、ほがらかな微笑みと、にも関わらずの物憂ものうさがいっそう引き立てられていた。


 そりゃ惚れますわ。

 弟くんに打ち明けるつもりはないにせよ、機会があれば連絡先を交換したい程度には、好きになってしまう、純朴なわたくしでした。

 いや、ね。そりゃあ、真木よう子とお姉さんから同時に告白されたら、真木よう子。でもさ、池田エライザとだったら……

いや悪くないよ? 池田エライザ、悪くない。でも日本は一夫一妻制だからさ~、どっちか選べってなったら……


 みたいなテンションでお会いしたところ、お姉さんは真木よう子や池田エライザより、紀州犬に似ていた。

 乳白色にゅうはくしょくの体毛には、ガラスのような透明感がある。刈りこんでいるのか、伸び放題の弟よりすっきりしている。そしてイヌ科であることは、ノズルの形や黒い鼻、かかとの浮いた獣の脚が如実に示してあまりある。

 なるほど。見た目がすべてじゃないが、こいつは強敵だ。



 お姉さんとお会いしたのは、入り口を抜けたところのエントランスだ。ちょっとした丸天井になっていて、採光用の窓もないのに燦々さんさんと明るい。

 足元の絨毯には紋章が描かれている。アライグマの女性のブローチと同じデザインだ。


 その奥には殺風景な廊下が伸びていて、窓のない左右の壁には絵画が飾られていた。

 私的な収集品というより、展示物の一環のように見える。

 こちらの世界の人間が描いた絵、ということになるのだろうか?


「お初にお目にかかります。アンネと申します。愚弟ぐていがいつもお世話になっております」


 莞爾かんじとして微笑し、獣の手を差し出してくれた。うーん。俺はどうにか握り返す。


「お、大春です。どうも、……よろしくお願いします」


 アンネ。人間的なお名前ですね。可能であれば一度、人間の姿になっていただけないでしょうか? そのほうが話しやすいので。

 このような、異常に紳士的な文面に脳内保存をかけてから、俺は黒毛の弟くんと、なんとかと名乗ったフクロウをチラ見した。


「遅かったね」


 お姉さんに問いかけられた弟くんは、問い詰められたわけでもないのに、兵隊のようにすばやく頭を下げると、


「武具の収集に手間取りまして」


 などと、フクロウをチラ見しながら言う。


「あーそういうこと。ご苦労さま」


「もったいなきお言葉」


 お前誰?

 という口調で、さっきまでの牙を剥き出すやつじゃない、口角を上品に持ち上げる微笑を浮かべて答えている。

 こんな言葉づかいで姉貴に話しかける弟というのは、はたして一般的なのだろうか。てかお前誰だよ。


 逆にお姉さんの口調はトドに似ている。あー、って感じでやる気なさげに返事を切り出すところとか。

 やめてくれ、俺のお姉さんがけがれるじゃないか! でも口調自体はお姉さんのものだから、穢しているのはお姉さん自身、か?

 まったく世も末である。


「そうだ、自己紹介の途中でしたね。手前味噌ながら、宮廷にて行政秘書の末席を賜わっております」


「ええ、と、僕は」


「姉上、こやつは偉大なる魔王陛下の宮廷教師を」


 おいお前が答えんな! せっかくの会話のチャンスが!


「うん知ってる。殺ったのあなただし」


「はは、これは失敬」


 トドはイヌ科特有に傾斜の激しい額を、ぺしりと自分で叩く。姉弟きょうだいのコントに巻き込まれていたようだが、お姉さんの笑い声がうるわしいのでOK。

 んで誰でしょう、さきほどから俺を凝視しておる、このフクロウのおじいさんは。



 おじいさんは俺やトドより、アライグマの博士より小さい。腕には体毛ではなく、鳥類の羽がもっさりと生え揃う。理知的な猛禽もうきんの瞳には、モノクルというやつか、古風な縁取りの片眼鏡をかけている。

 そこまではいい。問題は服装だ。緑地に白の水玉模様なポロシャツを、モスグリーンのサスペンダーにIN。緑に緑に白、まるで非常口。全体の骨格は人間に近いので、珍妙さがグレードアップしていた。


 珍妙さに気づいてしまった結果、チラ見がガン見になってしまう。向こうもこちらをガン見している。

 と思ったら急に喉をふるわせた。


「素晴らしいっ!」


 ほんっと唐突に、翼をひろげて天に向かって吼える。びっくりしたあ。


「これが異界のニンゲン……なんと仕立てのいい服! ああ、文明ッ!」


 わけのわからない褒め口上こうじょうをならべるおじいさんのシャツの襟に、新しい水玉が落ちていく。

 どうやら泣いていた。鼻声になったと思ったら号泣していて、大きなシミが襟元にいくつも浮かび上がる。鼻水も垂れっぱなし。

 感情の起伏が豊かだが、大麻でも吸っているのだろうか?


「今日は、なんとき日であろう、ズィズィ」


 大げさな身振りとともにアライグマのおばさんを抱き締めて、おっさんは相変わらず感涙かんるいに堪えない。羽毛が毛皮に抱きついているのは、どうにも形容しがたい光景だ。

 と、おじいさんは前触れなく、鳥類特有の俊敏しゅんびんさでこちらに顔を向けた。首が取れそうなスピードだ。


 こちらを凝視する翡翠ひすいの眼には、泣いていたのが嘘のような、燦々さんさんたる情熱がこもっている。

 おじいさんはゆっくりと抱擁ほうようを解いて、俺の前まで歩み寄り、なぜか胸倉をつかんできた。かかとが床を離れる。


「君、君はまことに、われら魔の者にとっての光明こうみょうにちがいないっ!」


 その光明は窒息しそうだし、首が折れそうだ。


「ああ、まったく異界というやつは……素晴らしいぞっ、これで、これでようやく、人文じんぶん領域の研究に着手できるッ! 君は自分の価値を理解しているのか!?」


 あなたが俺の知らない俺の価値とやらを理解しているなら、手を放してくれないかしら。死んでしまいます。

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