共喰いと原始人

 体感だと、20分ぐらいは全裸隊に追い回されていた。

 なぜか俺だけに向かってあらゆる道具で襲撃を試みていた、唯一腰蓑を巻いたひとが、あるとき、親指と人差し指でつくった輪を口に突っ込み、甲高い口笛を鳴らした。

 と、武器を携えていたひとびとが草原の只中へ戻っていく。そこはちょうど野原が途切れ、こちらからすると森へ分け入っていく領域だった。


「やっとあきらめたか」


 実害がなくとも気を張っていたのか、トドは露骨にほっとしたような溜息をつく。

 それから自分の携えているものに目を落とし、どーしよこれ、などとぼやく。


「現物必須って言われたからなー……水で洗わないと」


 鏃のことだと、すぐに見当がつく。泥のようなものが塗りたくられ、えた臭気はそこから漂ってくる。


「それ、なんだ?」


 俺は行進を始めてから、相槌以外の言葉を初めて発した。


「ニンゲンの糞」


「ん?」


「ニンゲンの糞。なんでか知らんが、矢は絶対、これを塗って撃ってくる。なんで?」


「……さあ」


「宗教的な意味合いなのかね? 服も着ねえでウホウホやってる連中に宗教があるとも思えねーけど」


 うんざりした表情で吐き捨てると、眉根まゆねにあたる場所をひそめる(イヌ科には眉がないのでそう表現するしかない)。


「マジでこれ、どしたらいいと思う?」


「……魔方陣で送る?」


 適当に提案すると、


「それだっ!」


 と快哉かいさいをとなえて俺を指さす。

 白くて鋭い爪の先端に、生い茂る葉の緑がぼんやりと重なった。



 空中に指で描かれた図形に、排泄物を塗られた武器が吸い込まれていくのを見送ってから(まるで便器だなとかクソくだらないことを考えた)、ふたたび出発した。

 草原を抜けて森に分け入ると、途端に樹影が大きくなる。足下に染み出るほどだったのが、一枚の紙細工のようにな穴を空けながら頭上を覆い尽くしていく。

 地表に浮き出た大木の根が、影の中で青ざめて、こぶのように張り出ている。


「今のが〈保護区〉ってやつ。放っておくと乱獲されて絶滅するってんで、まあ、陛下……じゃなかった、魔王佐殿下がな。野良のニンゲンなんて、ほっときゃ2秒でブチ殺されるし」


 そのひとつを行き過ぎながら、トドはこちらをふり向く。青息吐息の俺をじっと見つめている。

 先導する魔族がひといきに、軽々と跳び越したものを、凹凸の激しい樹幹に手を添え、滑る靴底で強引にとらえて、ようやく踏み越える。

 それでいて距離がひらくことはない。今だって立ち止まってくれている。


「ああ、そう。乱獲されるんだな。そう」


「フミだって、分解されたら膀胱抜かれるって言われたべ?」


 リマインドみたいに言うのやめろ。


「あいつらの臓器が妙薬なのは有名だからな。まーでも、そんなニンゲンちゃんが同族をブチ殺して喰ってんのも、これまた有名な話だし。ここらなんか魔獣の生息域とも被ってないし、つーか被ってたら連中が魔獣のエサだし、だいたい果物と雑草だけでタンパク源が足りるとも思えんし」


 扁平へんぺいな足指を黒土に埋めて、トドは俺をふりかえる。


「おれは、共喰いしてるほうに賭ける。おまえはどう?」


「……答えようがない」


「はは、ちょっと引いてる?」


 トドは笑うが、眼が笑っていない。怒っているというより、こちらの機敏を探っているような眼つきだった。

 気まずいから勘弁して。


「ここらのニンゲンの、いちばん上等な暮らしが、あれだよ」


 ため息とともに、トドは樹幹に手を添えた。ずっしりと重たげな褐色かっしょくの表面を、カナブンのような甲虫が這い上がっていく。


異界そっち語彙ごいを借りれば、どう見ても原始人だろ。ニンゲンがニンゲンを喰ってたのはアステカ文明だっけ? 異界でもなら、こっちなんてなおさらだよ。おれはそう思う」


 アステカ文明が興ったのは1428年だ。フランスとイギリスは百年戦争の真っ最中、2年後にジャンヌ・ダルクが火刑に処される。日本だと室町幕府か。

 少なくとも原始人は生存していない。


「魔族の歴史ってのはそれなりに長大なんだ。学校の授業なんかもう大変だぜ?……でもニンゲンに関する記述は、大昔からほとんど変わっちゃいない。自分の糞と泥で固めた家に住んでいて、言葉を解さず、文化を理解せず、不潔で好戦的で、ところかまわず糞を垂れて、親兄弟姉妹と平気でまぐわって、おまけに農民の作物を盗み、漁民の糧を横取りする」


「それ実体験?」


「まさか。何万年も前の、おれたちが木舟を使っていた頃の民話だ。漁船を盗む知恵はあったらしいな。話のオチとしては漁火いさりびで焼け死ぬんだけど」


 イカロスみたいなもんか、と俺は思った。


「もっとも、先の〈世界内戦〉で連中がずいぶんな目にあったのも事実だ。狩られたり魔獣の餌にされたり、身体の一部を売られたりってのは元からだけど、戦争ってなると、輪をかけてなんでもありだよ」


「たとえば?」


「食糧扱い、強制労働、金銭代わりの商取引、他にも魔獣との交配を施されたり、魔術や呪術の実験台にされたり、肉の盾や歩く地雷や空飛ぶ爆撃機にされたり。それと、あまり口に出すべき表現じゃないけど――」


 饒舌な語り手は、続けるのをためらうように、ふと押し黙る。


「……とにかく、これから先もそんな扱い受けるぐらいならさ、連中もスパッと死にたいんじゃねえかって、魔族おれたちが思うのもおかしくないだろ?」


「おかしくなくないけど、まあいいわ。で?」


「幸いにというか、内戦が終わってからは生息数や生息地域、生態の統計的把握も進んで、さっき見たような保護区やらも整備されてきたわけ。逆に言うと、それらをいっぺんに蹂躙するなら、連中を滅ぼすのも不可能じゃない。けっこう人道的な政策じゃないか?」


 人道的。


「反論したいのはわかるけど物のたとえだよ。で、臣下のみなさんはというと、そういう陛下のやさしさに感動したらしくて、けっこう協力ムード。フミも上手いこと立ち回らないと」


 視界がひらけてきた。絡み合う樹枝の間隔が拡がり、黒い天球から放射される陽光が頬を濡らす。青草と蔦が放つ、むせ返るような匂いも退いていく。

 それにしても、獣道さえついていないのはどういうことか。


「座標がわかれば〈転送術〉で行き来できるしな。田舎だと、周囲から孤立した建物もそんなに珍しくないよ」


 なるほど。座標とやらを共有すれば、馬鹿正直に道をたどらなくても、魔方陣で瞬間移動できるわけだ。


「スパイみたいでかっこいいだろ」


 トドは俺を見下ろして、たわけたような口調で自慢げに語る。

 本気で思っているわけじゃないのはわかる。どういう意図で言っているのだろう? 

 よくわからないままに、はは、と笑っておく。



 森林が途切れると、風の渡る気配を頬に感じた。

 外装のところどころがひび割れ、そのすき間に土埃の詰まった建築物が、ふいに現れる。樹木の凝集を背後にして、きりひらかれた台地の頂点にそびえていた。放棄された山小屋のような立地だ。

 電気の走るような痛みを足底に感じていたから、これ以上歩かなくてよさそうなことに、いやでもほっとする。革靴なんか履くんじゃなかった。


「あそこ?」


 たずねると、トドは無言で頷く。

 遠景だから詳細は不明だが、なるほど外観は、山小屋のつくりではない。

 覚悟を決めるために、心の中で十字を切ってから、俺は小規模な丘を一歩ずつ登っていく。


「靴ずれになってる」


 トドが鼻を鳴らした。

 血の臭いでも嗅ぎつけたのだろう。まるでサメだ。


「後でとくから」


 やめろよと言いかけて、やめた。踵を切り落とされたらいやだから断る、という皮肉も中止した。

 自分が意固地になっているだけだと思えたからだ。


「ほんとに後でいいよ。早くお姉さんに会いたいし」


 提案しながら表情をうかがうと、ほっとしたように気が抜けるのがわかった。


「……そうだな、それもそうだな」


 饒舌じょうぜつと薄笑いにそぐわない、剣呑けんのんな眼差しが消えて、こちらもほっとした。

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