共喰いと原始人
体感だと、20分ぐらいは全裸隊に追い回されていた。
なぜか俺だけに向かってあらゆる道具で襲撃を試みていた、唯一腰蓑を巻いたひとが、あるとき、親指と人差し指でつくった輪を口に突っ込み、甲高い口笛を鳴らした。
と、武器を携えていたひとびとが草原の只中へ戻っていく。そこはちょうど野原が途切れ、こちらからすると森へ分け入っていく領域だった。
「やっとあきらめたか」
実害がなくとも気を張っていたのか、トドは露骨にほっとしたような溜息をつく。
それから自分の携えているものに目を落とし、どーしよこれ、などとぼやく。
「現物必須って言われたからなー……水で洗わないと」
鏃のことだと、すぐに見当がつく。泥のようなものが塗りたくられ、
「それ、なんだ?」
俺は行進を始めてから、相槌以外の言葉を初めて発した。
「ニンゲンの糞」
「ん?」
「ニンゲンの糞。なんでか知らんが、矢は絶対、これを塗って撃ってくる。なんで?」
「……さあ」
「宗教的な意味合いなのかね? 服も着ねえでウホウホやってる連中に宗教があるとも思えねーけど」
うんざりした表情で吐き捨てると、
「マジでこれ、どしたらいいと思う?」
「……魔方陣で送る?」
適当に提案すると、
「それだっ!」
と
白くて鋭い爪の先端に、生い茂る葉の緑がぼんやりと重なった。
*
空中に指で描かれた図形に、排泄物を塗られた武器が吸い込まれていくのを見送ってから(まるで便器だなとかクソくだらないことを考えた)、ふたたび出発した。
草原を抜けて森に分け入ると、途端に樹影が大きくなる。足下に染み出るほどだったのが、一枚の紙細工のようにいびつな穴を空けながら頭上を覆い尽くしていく。
地表に浮き出た大木の根が、影の中で青ざめて、
「今のが〈保護区〉ってやつ。放っておくと乱獲されて絶滅するってんで、まあ、陛下……じゃなかった、魔王佐殿下がな。野良のニンゲンなんて、ほっときゃ2秒でブチ殺されるし」
そのひとつを行き過ぎながら、トドはこちらをふり向く。青息吐息の俺をじっと見つめている。
先導する魔族がひといきに、軽々と跳び越したものを、凹凸の激しい樹幹に手を添え、滑る靴底で強引にとらえて、ようやく踏み越える。
それでいて距離がひらくことはない。今だって立ち止まってくれている。
「ああ、そう。乱獲されるんだな。そう」
「フミだって、分解されたら膀胱抜かれるって言われたべ?」
リマインドみたいに言うのやめろ。
「あいつらの臓器が妙薬なのは有名だからな。まーでも、そんなニンゲンちゃんが同族をブチ殺して喰ってんのも、これまた有名な話だし。ここらなんか魔獣の生息域とも被ってないし、つーか被ってたら連中が魔獣のエサだし、だいたい果物と雑草だけでタンパク源が足りるとも思えんし」
「おれは、共喰いしてるほうに賭ける。おまえはどう?」
「……答えようがない」
「はは、ちょっと引いてる?」
トドは笑うが、眼が笑っていない。怒っているというより、こちらの機敏を探っているような眼つきだった。
気まずいから勘弁して。
「ここらのニンゲンの、いちばん上等な暮らしが、あれだよ」
ため息とともに、トドは樹幹に手を添えた。ずっしりと重たげな
「
アステカ文明が興ったのは1428年だ。フランスとイギリスは百年戦争の真っ最中、2年後にジャンヌ・ダルクが火刑に処される。日本だと室町幕府か。
少なくとも原始人は生存していない。
「魔族の歴史ってのはそれなりに長大なんだ。学校の授業なんかもう大変だぜ?……でもニンゲンに関する記述は、大昔からほとんど変わっちゃいない。自分の糞と泥で固めた家に住んでいて、言葉を解さず、文化を理解せず、不潔で好戦的で、ところかまわず糞を垂れて、親兄弟姉妹と平気でまぐわって、おまけに農民の作物を盗み、漁民の糧を横取りする」
「それ実体験?」
「まさか。何万年も前の、おれたちが木舟を使っていた頃の民話だ。漁船を盗む知恵はあったらしいな。話のオチとしては
イカロスみたいなもんか、と俺は思った。
「もっとも、先の〈世界内戦〉で連中がずいぶんな目にあったのも事実だ。狩られたり魔獣の餌にされたり、身体の一部を売られたりってのは元からだけど、戦争ってなると、輪をかけてなんでもありだよ」
「たとえば?」
「食糧扱い、強制労働、金銭代わりの商取引、他にも魔獣との交配を施されたり、魔術や呪術の実験台にされたり、肉の盾や歩く地雷や空飛ぶ爆撃機にされたり。それと、あまり口に出すべき表現じゃないけど――」
饒舌な語り手は、続けるのをためらうように、ふと押し黙る。
「……とにかく、これから先もそんな扱い受けるぐらいならさ、連中もスパッと死にたいんじゃねえかって、
「おかしくなくないけど、まあいいわ。で?」
「幸いにというか、内戦が終わってからは生息数や生息地域、生態の統計的把握も進んで、さっき見たような保護区やらも整備されてきたわけ。逆に言うと、それらをいっぺんに蹂躙するなら、連中を滅ぼすのも不可能じゃない。けっこう人道的な政策じゃないか?」
人道的。
「反論したいのはわかるけど物のたとえだよ。で、臣下のみなさんはというと、そういう陛下のやさしさに感動したらしくて、けっこう協力ムード。フミも上手いこと立ち回らないと」
視界がひらけてきた。絡み合う樹枝の間隔が拡がり、黒い天球から放射される陽光が頬を濡らす。青草と蔦が放つ、むせ返るような匂いも退いていく。
それにしても、獣道さえついていないのはどういうことか。
「座標がわかれば〈転送術〉で行き来できるしな。田舎だと、周囲から孤立した建物もそんなに珍しくないよ」
なるほど。座標とやらを共有すれば、馬鹿正直に道をたどらなくても、魔方陣で瞬間移動できるわけだ。
「スパイみたいでかっこいいだろ」
トドは俺を見下ろして、たわけたような口調で自慢げに語る。
本気で思っているわけじゃないのはわかる。どういう意図で言っているのだろう?
よくわからないままに、はは、と笑っておく。
*
森林が途切れると、風の渡る気配を頬に感じた。
外装のところどころがひび割れ、そのすき間に土埃の詰まった建築物が、ふいに現れる。樹木の凝集を背後にして、きりひらかれた台地の頂点にそびえていた。放棄された山小屋のような立地だ。
電気の走るような痛みを足底に感じていたから、これ以上歩かなくてよさそうなことに、いやでもほっとする。革靴なんか履くんじゃなかった。
「あそこ?」
たずねると、トドは無言で頷く。
遠景だから詳細は不明だが、なるほど外観は、山小屋のつくりではない。
覚悟を決めるために、心の中で十字を切ってから、俺は小規模な丘を一歩ずつ登っていく。
「靴ずれになってる」
トドが鼻を鳴らした。
血の臭いでも嗅ぎつけたのだろう。まるでサメだ。
「後で
やめろよと言いかけて、やめた。踵を切り落とされたらいやだから断る、という皮肉も中止した。
自分が意固地になっているだけだと思えたからだ。
「ほんとに後でいいよ。早くお姉さんに会いたいし」
提案しながら表情をうかがうと、ほっとしたように気が抜けるのがわかった。
「……そうだな、それもそうだな」
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