矢とペインティング

 周囲の気体が水銀のように粘り、皮膚の上を流れていく。何がうるさいわけでもなく、ただの耳鳴りに息がつまる。

 動けずにいた。

 風景は映写機に映された記録映像であり、暗室に閉じ込められたまま、それを観せられている感じがした。


 走馬灯という言葉の語源は、なんだったか。思い出せない。自分が今見ているもの、感じているものこそ、、なのだろうか。

 馬の影絵が、黄色っぽい光の中を回転する図柄を、ふと連想する。


 喉が急速に渇く。つばを飲もうとしても、舌がうまく動かない。

 今から俺は死ぬのだろうか。

 すべてがスローモーションになっていると感じながら、そうではないとも感じている。

 時間が、温められた水飴みたいに引き伸ばされている。あるいは俺の知覚のほうが、冷たく縮こまっているだけなのかもしれない。


 唐突な疑問が、頭をかすめる。死が苦痛を伴うなら、なぜその瞬間が、こうして引き伸ばされねばならないのだろうか?

 理由が時間であれ知覚であれ、疑念は消えない。なぜ、生きている中でも最大の苦痛を――生きることを終わらせる苦痛を――、こうしてまざまざと、水飴を舌でなぶるようにして、味わう必要があるのか?

 答えを知らないまま死ぬとわかっていながら、問いかけを止めることもできない。あるいはこの問いかけそのものが、死、なのか。

 

 唐突に、鋭い、ナイフのような爪の生え揃った黒い腕が、俺の眉間を穿うがちかけたものを、横から掴む。

 たちまち音は止む。時間は流れている。速くも遅くもない一瞬の速度で。

 どうやら腰を抜かしていた。

 腰を抜かすことで初めて、自分に腰や太腿や脛があること、それどころか手足や身体があることを思い出せた、そんな感じだった。


 俺は俺の身体を使って、草根くさねがぴしりと固める地面に尻餅をついている。

 それを理解するや否や、手のひらに硬い痛みを覚えた。持ち上げてたしかめると、運命線の中心に、鋭い小石が喰い込んでいた。

 爪で弾くと、薄紅色の痕がくっきりと残る。


 はっ、はっ、短い息が自分の口から漏れていると気づいたのはその後だ。春先の気配を漂わせながら、ひとたび風が吹くと空気は刺すように冷たい。そのことにも、短く呼吸を繰り返すことで初めて気づく。

 ぴいっ、ぴいっと小鳥の鳴き声に似ている風切り音は、間断かんだんなく襲来する、数知れない矢の群れの鳴き声だ。

 どうやら助かった。



「悪いな、採集してくる約束だから」


 トドは木製のシャフトを握ったまま、矢の本体をしげしげと眺める。鼻先が、なんというか丸めた鼻紙のように歪んでいる。俺もきっと同じ表情をしている。ひどい臭いだった。

 しかしそんなことより、びしゅんびしゅんと奇怪な音を立てて、俺たちの眼と鼻の先に刺さる、新たな兵器たちをどうにかしなくては。

 皮肉なことに、異臭で正気に戻った。立ち上がり、深呼吸する。膝に少しだけ、力が入る。


「あ、安全な場所……」


「そうだなあ、こっからだと異界そっちの単位で2キロぐらい?」


 終わった。


「大丈夫だって、絶対に当たらんから、こんなん」


 そんなことを言って平然としているが、なるほど降り注ぐ矢の群れは、まるで俺たちの身体を貫かない。視界に入り、あと一瞬で刺さるという瞬間に、灰となって風に砕けていく。

 ほっとしていると、代わりにうなり声に取り巻かれた。

 太鼓のような音も聞こえる。


「今度は何だよ!?」


「何ってほどのことも」


 という言葉を聞き終わる前に、牛刀が俺の前に振り下ろされた。下草の切れ端が飛び散り、視界に噴き上がる。


「でわあぁ!?」


 あひあひあひ、再び腰を抜かす。血は出てる? 血は出てる?

 出てない。その代わり、というわけでもなかろうが、振り下ろされた斬撃が大きく弾かれ、明後日の方向へと弧を描いて跳んだ。

 ところで、刀の持ち主は仮面をつけている。魔族やんと思ってよく見たら仮面だった。

 つまり魔族じゃなかった。人間だ。


「は、お、あ、お」


 人間、だと思う。


「ほじゃらがほらほんだ!」


 被り物の奥から意味不明な言語を発しているが、雄叫びや遠吠えよりも複雑で屈折した音節を保持している。

 人間なのだろう。そういうことにしておこう。


 そのひとは仮面をつけ、身体中に縞模様のペインティングを施し、そして全裸だ。ツイッターなら1000%凍結されるレベルの素っ裸(性別はご想像にお任せする)。

 上体で覆いかぶさるような獣じみた体勢で、素手だというのにまだ襲いかかってくる。

 俺は悲鳴をあげた。


 その、ごつい手が暴力的な速度で触れそうになる瞬間、その手の持ち主の身体が、さきほどの牛刀のようにふっ飛ばされる。

 こちらはといえば、血は出ていないし、痛くないから怪我をしていない。無事だ。向こうは無事ではなさそうだが。


「フミ、そろそろ行こう。付き合ってたら日が暮れる」


 それには同意するが、全裸のみなさんが俺たちを取り巻いている。

 草の丈に身を隠している方もいらっしゃるし、襲いかかろうと多種多様な武器(観察する限りでは、牛刀、槍、棍棒、クロスボウ、よくわからないが木製の、ハンドガンを模したようなもの)を構える御仁ごじんもおられる。

 行かせてくれる兆候がない。どうしたらいい?


「どうしよう」


「行けるって」


「いやいやいや!」


「ち、めんどくせえ」


 トドは、いきなり舌打ちをした。

 こいつの舌打ちなんて初めて聞いた。


「殺すか」


 トドはぼそりと呟いてから、思い出したように俺のほうを見た。

 しまった、という顔は一瞬で、取り繕うためのへなへなした微笑が、仮面のように張りつく。


「……うそうそ、冗談。無視して行こう、マジで。向こうは手出しできないから」


 俺の手を引き、立ち上がるのを手伝ってくれた。

 膝の震えは止まっていた。そのことをなぜか、とても不思議に感じた。

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