矢とペインティング
周囲の気体が水銀のように粘り、皮膚の上を流れていく。何がうるさいわけでもなく、ただの耳鳴りに息がつまる。
動けずにいた。
風景は映写機に映された記録映像であり、暗室に閉じ込められたまま、それを観せられている感じがした。
走馬灯という言葉の語源は、なんだったか。思い出せない。自分が今見ているもの、感じているものこそ、走る馬の灯り、なのだろうか。
馬の影絵が、黄色っぽい光の中を回転する図柄を、ふと連想する。
喉が急速に渇く。
今から俺は死ぬのだろうか。
すべてがスローモーションになっていると感じながら、そうではないとも感じている。
時間が、温められた水飴みたいに引き伸ばされている。あるいは俺の知覚のほうが、冷たく縮こまっているだけなのかもしれない。
唐突な疑問が、頭をかすめる。死が苦痛を伴うなら、なぜその瞬間が、こうして引き伸ばされねばならないのだろうか?
理由が時間であれ知覚であれ、疑念は消えない。なぜ、生きている中でも最大の苦痛を――生きることを終わらせる苦痛を――、こうしてまざまざと、水飴を舌でなぶるようにして、味わう必要があるのか?
答えを知らないまま死ぬとわかっていながら、問いかけを止めることもできない。あるいはこの問いかけそのものが、死、なのか。
唐突に、鋭い、ナイフのような爪の生え揃った黒い腕が、俺の眉間を
たちまち音は止む。時間は流れている。速くも遅くもない一瞬の速度で。
どうやら腰を抜かしていた。
腰を抜かすことで初めて、自分に腰や太腿や脛があること、それどころか手足や身体があることを思い出せた、そんな感じだった。
俺は俺の身体を使って、
それを理解するや否や、手のひらに硬い痛みを覚えた。持ち上げてたしかめると、運命線の中心に、鋭い小石が喰い込んでいた。
爪で弾くと、薄紅色の痕がくっきりと残る。
はっ、はっ、短い息が自分の口から漏れていると気づいたのはその後だ。春先の気配を漂わせながら、ひとたび風が吹くと空気は刺すように冷たい。そのことにも、短く呼吸を繰り返すことで初めて気づく。
ぴいっ、ぴいっと小鳥の鳴き声に似ている風切り音は、
どうやら助かった。
*
「悪いな、採集してくる約束だから」
トドは木製のシャフトを握ったまま、矢の本体をしげしげと眺める。鼻先が、なんというか丸めた鼻紙のように歪んでいる。俺もきっと同じ表情をしている。ひどい臭いだった。
しかしそんなことより、びしゅんびしゅんと奇怪な音を立てて、俺たちの眼と鼻の先に刺さる、新たな兵器たちをどうにかしなくては。
皮肉なことに、異臭で正気に戻った。立ち上がり、深呼吸する。膝に少しだけ、力が入る。
「あ、安全な場所……」
「そうだなあ、こっからだと
終わった。
「大丈夫だって、絶対に当たらんから、こんなん」
そんなことを言って平然としているが、なるほど降り注ぐ矢の群れは、まるで俺たちの身体を貫かない。視界に入り、あと一瞬で刺さるという瞬間に、灰となって風に砕けていく。
ほっとしていると、代わりにうなり声に取り巻かれた。
太鼓のような音も聞こえる。
「今度は何だよ!?」
「何ってほどのことも」
という言葉を聞き終わる前に、牛刀が俺の前に振り下ろされた。下草の切れ端が飛び散り、視界に噴き上がる。
「でわあぁ!?」
あひあひあひ、再び腰を抜かす。血は出てる? 血は出てる?
出てない。その代わり、というわけでもなかろうが、振り下ろされた斬撃が大きく弾かれ、明後日の方向へと弧を描いて跳んだ。
ところで、刀の持ち主は仮面をつけている。魔族やんと思ってよく見たら仮面だった。
つまり魔族じゃなかった。人間だ。
「は、お、あ、お」
人間、だと思う。
「ほじゃらがほらほんだ!」
被り物の奥から意味不明な言語を発しているが、雄叫びや遠吠えよりも複雑で屈折した音節を保持している。
人間なのだろう。そういうことにしておこう。
そのひとは仮面をつけ、身体中に縞模様のペインティングを施し、そして全裸だ。ツイッターなら1000%凍結されるレベルの素っ裸(性別はご想像にお任せする)。
上体で覆いかぶさるような獣じみた体勢で、素手だというのにまだ襲いかかってくる。
俺は悲鳴をあげた。
その、ごつい手が暴力的な速度で触れそうになる瞬間、その手の持ち主の身体が、さきほどの牛刀のようにふっ飛ばされる。
こちらはといえば、血は出ていないし、痛くないから怪我をしていない。無事だ。向こうは無事ではなさそうだが。
「フミ、そろそろ行こう。付き合ってたら日が暮れる」
それには同意するが、全裸のみなさんが俺たちを取り巻いている。
草の丈に身を隠している方もいらっしゃるし、襲いかかろうと多種多様な武器(観察する限りでは、牛刀、槍、棍棒、クロスボウ、よくわからないが木製の、ハンドガンを模したようなもの)を構える
行かせてくれる兆候がない。どうしたらいい?
「どうしよう」
「行けるって」
「いやいやいや!」
「ち、めんどくせえ」
トドは、いきなり舌打ちをした。
こいつの舌打ちなんて初めて聞いた。
「殺すか」
トドはぼそりと呟いてから、思い出したように俺のほうを見た。
しまった、という顔は一瞬で、取り繕うためのへなへなした微笑が、仮面のように張りつく。
「……うそうそ、冗談。無視して行こう、マジで。向こうは手出しできないから」
俺の手を引き、立ち上がるのを手伝ってくれた。
膝の震えは止まっていた。そのことをなぜか、とても不思議に感じた。
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