小鳥とハイキング

 小鳥が鳴いている。

 そんな気がするが、鳴いているのが本当に小鳥かはわからない。しかし聞こえてくるのが、鳥の鳴き声らしきものであることは間違いない。


 田舎に行った経験に乏しく、実家というものがあるわけでもない。それに元来がインドア派なので、自分の生活圏からろくに出ないことにも不満はなかった。

 しかしこうして、人工物のない草原と邂逅してみれば、自然というのはなるほどこういうものかと思えてくる。


 丈の低い緑葉の中で、絵筆の先を押しつけたような花々が色づいている。通り雨があったのか、鋭い葉の先端に鈴のような雫をつけて、生ぬるい風に吹かれていた。

 ところどころに、油粘土をねじったようないびつな低木も生えている。梢に垂れ下がる藍色の実はうるしを塗ったように輝き、均整の取れた球形に膨らんでいた。

 どうやら熟した頃合いだ。いかにも小鳥がついばみそうな色味である。


 下水道のような魔法の通路から抜け出て辿り着いた光景がこれなのだから、初仕事ならぬ初研修は幸先のいいものになると信じたい。



「どうよ? いいとこだろ」


 俺を下水道に案内した張本人は、誇らしげに濡れた鼻をふくらませる。


「言っとくけど観光じゃないぞ、仕事だからなー」


 釘を刺す言葉とは裏腹に、にこにことうれしそうだ。

 地元の名所を案内する、年金暮らしのおじいさんといった風情ふぜい。日曜の朝にやっている旅番組でよくある光景だ。


「ここが、なんだっけ」


「オピバニア」


「の、〈保護区〉」


「そうそう」


「人間おらんやん」


「いい天気でよかったな」


 俺の疑問をまるっと無視して、トドは伸びをしてみせる。足下の地面をぐ爪の彎曲が、いっそう土にめり込みながら視界に飛び込んでくる。

 そのうちあくびもした。舌も牙も長くて厚みがある。イヌ科の舌とはちょっと違う感じだ。


「なあ人間はどこだよ」


「いるって。そのうちわかるから」


「本当に死なない? 嘘ついたら殺すよ?」


「喉渇かん? 果実水ジュースあるけど飲む?」


 会話が成立していない。

 だいたいジュースって、……ん、あれ?


「……どっから出した」


「さあ、どっからでしょうねえ」


 にやにやと笑いながら投げてくるボトルは、軽くて重い、ガラスの質感だ。段差のついた褐色かっしょくのコルク。それと瓶の胴体を取り巻くラベル。

 力をこめてなんとか栓を抜けば、かすかに泡立つ音が聞こえてくる。


 次の死因は毒死か。というか、それ以前に甘いもの好きじゃないんだけど。

 空しい覚悟を決めて、それでもいただいたブツなので、ひといきに飲み下す。


「うまあっ!?」


「おーよかった。有名な銘菓の店が出してるやつなんだけど、それならフミでも飲めそうかなと」


 投げてきた相手は自分のコルクを爪で飛ばしながら、よっぽどじゃなきゃ自分でも買わんけどねとつぶやく。

 それから長く伸びた、のこの歯のように整った歯列を見せながら、長い舌の奥へと、澄んだ葡萄色ぶどういろの液体をすべらせていく。


「ん、たしかにうまーい。これに慣れたらファンタ飲めませんわ」


 それは、そうかもしれない。


「異界の食べ物もうまかったけどな。ホルモン焼きとかさ。臓物好きなんだよねー、おれ」


「そっか」


 小鳥は相変わらず鳴いていて、草原を吹き抜ける風は、おだやかに頬をなでる。ほの暗い出口はどこかに失せて、うららかな情景が焦点もなくひらけている。

 ……いや、その向こうには花崗岩を練り固めたような灰色の叢雲と、やはり灰色の岩肌を持つ、峨々たる山嶺さんれいがうっすらと垣間見える。


「あっちは?」


「あれはダスピカサ連峰。ここからだと真東に、……わかりづらいな、地図出すからちょい待ち」


 そう言ってトドは、瓶のラベルをはがす。

 それはいつのまにか、きちんとした材質の紙に変じ、表面には柱時計の数字に似た記号と、円形や四角形のしるしと、経路と等高線を思わせる直線や曲線が描かれていく。

 俺の見ている、まさに目の前で。見えざる手が、万年筆でも握っているかのように。


「……すげー」


「さて、おれたちがいるのはここ」


 白い爪が指差したのは、等高線が窪んだ谷地たにちだ。

 まわりに散らばる、おそらく湖沼か湿地を示す記号が、消しゴムで消されたように、その部分だけ取り払われている。


「連峰は、こっち」


 右上にある、斜線をかけられた箇所までたどり着き、爪先は止まる。


「真東だよな? 右上っておかしくないか?」


「ん、鋭いな。魔族うちらの地図は形に見るのが一般的なんだ」


「で、今いるのがここか」


「そうそう。ちなみに現在位置は絶対に、地図の対角線の交点に来るから。おれたちが動くと地図の図面も動くってわけ」


 そりゃ便利なこった。


「窪地ってのが、いかにもな感じだな」


「このあたりは昔の沼沢地しょうたくちだな。植林してるから、パッと見じゃわかりづらいけど」


 俺は周囲を見渡した。

 言われてみてもわかりづらい。木々の幹はずいぶんささくれ立っているし、捻じ曲がった太い枝も風雪を感じさせてあまりある。

 強いて言えば泥の匂いが強く、足元の土がゆるい気もするが、それも言われてみれば、といった程度だ。

 植林したのはいつの話なのだろう?


「街中に造成すると地主も不動産屋もうるさいし、水源や耕作地に近いと、環境保全の面で問題があるからな。こういう地味ちみの悪いところにつくるか、土地ごと空に飛ばすか地下に隔離するか、ニンゲンの生息する場所はどこもそんな感じだ」


 学生の頃に見学させていただいた、北海道にある重度の障碍児のための養護学校も、そういえば原野の谷底にあった。

 無関係な話だが、そして今思い出すのが正しいことなのかはわからないが、なぜか思い出した。


「……ところで、ここじゃないよな、目的地。お姉さんがいるようには見えんぞ」


「まあね」


「いや、まあねじゃなくて……」


 連れてきてもらって文句は言いたくないが、案内すべき場所に直接案内してほしかった。

 何が悲しくて、革靴でハイキングにきょうじねばならぬ?


「言ったように、こっちのニンゲンの生態を見せるのも目的だから。ついでに野暮用やぼようがあることだし。というか、おれからすりゃそっちが本筋ほんすじだな」


 つまり、オリエンテーションついでに、頼まれごとも済ませる算段か。


「ならしゃあねえけど。てかさ、博物館って具体的にどんなとこよ?」


 とりあえずたずねると、得意げに腕を組んで答えた。


「手短に言うと、姉上以外にもフミの味方になる魔族ひとたちがいるとこ。ニンゲンどもについて、魔界でいちばん詳しいひとたちだ」


 わけがわからず、ほんわりしたイヌ面を見つめる。

 俺の味方?

 いや、こいつは本気で、俺が魔王に協力すると踏んでいるフシがある。ということは人類を救うための、という意味ではなくてむしろ……

 うわ、会いたくない……


「何?」


「なんでも」


 吐き捨てながら、抜けるような青空と、彼方の厳格な風物ふうぶつを照らす、太陽を見上げる。

 そっかあ、この世界の恒星はそういう感じなんだね。

 ちょっと驚いたが、ちょっとだけこういうアクシデントに慣れた頃合いだ。真っ黒だろうが真っ白だろうが、直射日光で人体発火とか、そういう実害がなければこちらは関知かんちしない。そちらはそちらでお好きに。

 ほら、気持ち悪い太陽を尻目に、小鳥は前後左右で平和に鳴き続けている。ちょっとうるさいくらいだ。

 チ、チ、チッ、ッチ、ドン、ドンッ……


「ん?」


 ドンドンッってなんや?

 思わず首をひねるが、隣のイヌ科は平気な顔をしている。こちらの小鳥の鳴き声は、平生へいぜい、このようなものであるのかな?

 てかうるせえわ、めっちゃ鳴いてね? チキチキドンドン、さっきから昂ぶりまくってね? 発情期? 春だしなあ、そういうもんか? そうだと言ってほしい……

 あっ、やっぱ小鳥じゃない感じ? おーいオオカミくん返事して? 無言だと怖いぞっ。


「おー、きたきた」


 何が?

 問いかけようとした矢先、気流が顔に吹きかかる。腐った魚のような異臭が鼻腔びくうにねじ込まれる。

 嫌な予感がしたが、遅かった。

 いくつものやじりの先端が、代赭色たいしゃいろに光っている。視界を占める蒼穹そうきゅうには、草むらから飛び出した無数の矢が浮かんでいた。

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