魔方陣と下水道

「……姉上も、人狼で、魔界にいる」


「えっ、でもここは……」


「いつまでバカなこと言ってんだよっ! おい頼むぞ!?」


 大きな声を出した友だちは、ひとしきり狭い眉間をおさえて、をふった。

 変なことを言ってしまったかな?

 失言を詫びようとしたタイミングで、誰かというか何かが扉を開けて入ってくる。ヒツジのメイドさんだった。いやわからんけど前掛けとかつけてるし、メイドさんじゃね? 知らんけど。


「ああすいません、そこの寝台ベッドにでも適当に……」


 うめくようなトドの指示にしたがい、すだれのような薄手の布を頭から被ったメイドさんが、無言で礼服ふたつをベッドに横たえる。本当にメイドさんか? 西洋の喪服にしか見えねえぞ。そもそも顔が見えないし、角しか見えないし、本当にヒツジか? そこはどうでもいいか?

 無言で頭を下げて、退出するのを見届ける。

 動物モドキしかいねえのかこの異世界は。アレルギー持ちじゃなくてよかった。


「んで、スキルもないのにどうしろと?」


「仕事だよ! ほらさっさと動く!」


 大きな口でわうわうと吠え立てられ、閉口した。



 魔界ではリボンタイが正式な礼装だとか、しばらくは仮採用だから研修メインだとか、とりあえず今日はオピバニアに行くけど、そのうちルペーニヤとかいう、また別のところにも行く予定だとか、そんな話に相槌あいづちをうちながら、着付けを手伝ってもらう。


「他になんかある?」


「え?」


「気になることとか、聞いておきたいこととか」


 トドはタイを結ぶ手を止めて、俺を見上げる。


「家に帰る方法」


「うん、あとでな」


「あの、ずっとこういうノリなら俺としては」


「だからあとでな。これ終わってから」


 オオカミの姿だと身長差が逆転するので(魔界では、公共の場でニンゲンの姿を取るのは好ましくないとされる。らしい)、向こうは自然と、逆関節な膝を曲げ、かがんだ体勢になっている。


「おまえだって、曲がりなりにも宮仕みやづかえだろ? 自分の仕事のことを少しは知っておかなきゃ。というわけで、フミのオリエンテーションをするのが、今日のおれのお仕事」


 ボリューミーな毛玉感に圧倒されつつ、キーワードを脳内で復唱する。

 オリエンテーション。


「……具体的には、何をしろと?」


「大した話じゃないよ。さっき言ったオピバニアには、ニンゲンどもに関係する物品を展示した博物館がある。まだ正式にはオープンしてないけどね……フミにはその見学をしていただきます」


 襟元をまさぐる獣の指が離れて、着付けが終わったのだと分かる。


「おっけー、終了」


「……ありがとう」


 にしても、異世界でも礼服を着ることになるとは(ネクタイではないにせよ)。まあ公務員だしな。


「なんかホストみたいね、おまえ」


 ほげー、という感じの、なんも考えてなさそうな感想が飛んでくる。


「こんなホストいねえよ。面接で落とされたし」


「受けたことあるのか。初耳だ」


 俺の友だちも、上着の代わりにベストを身に着けていること、その基調がワインレッドであること、ネクタイではなくリボンタイであること以外は、まあ似たような格好をしている。

 もちろんホストには見えない。礼服を着た、二足歩行のイヌ科にしか見えない。


「俺もお前がオオカミ男だなんて、初耳ですけどね」


「オオカミ男じゃなくて人狼な」


 知らんがな。



 遠出とおでなのだから、サイフとケータイくらいは持っていきたいが、パジャマで転移したので手ぶらで行かざるをえない。

 トドも手ぶらだ。必要な物があれば現地で調達できるらしい。魔方陣を使って。


「まほうじん」


「うん魔方陣」


 人狼ちゃんは壁に向き合うと、濃い若葉色に光り立つ煉瓦の表面に、爪を当てた。

 かすれた音とともに、チョークのような線が引かれていく。描かれていくのは幾何学きかがく模様だ。中心の真円から、東西南北へと直線が伸び、その延長がさらに大回りな円周のそれぞれにぶつかる。工場を示す地図記号に似ていた。

 大きさは、描いている本人の背丈と同じくらい。手描きだからか、円の形もつぶれているし、線がふるえている。


 描いているやつの前科を思い出した。

 あれは、共同生活を始めたての頃。おつまみを作るぜ、ということで包丁を使い始めて、2分後に人差し指を切断したのだった。

 グロいのがNGの松葉が吐いてしまい(共通の友人で、あらかじめ招待していた。宅呑みというやつだ)、そっちのほうが事件だった。


 あーらら、でも大丈夫、とかのたまうのを救急車へ押し込むと、1時間もしないうちに戻ってきた。

 言ったじゃーん、とほざいて縫い目を見せびらかしていたが、今考えれば魔術だかでどうにかしたのだろう。

 魔族というのは痛みに鈍感で、手先が不器用な連中なのだろうか?


「これが魔方陣?」


「おう」


「落書きでは?」


「失敬だな。初歩の魔術だからいいんですう、適当で」


 むくれる友だちには悪いが、これに向かってタックルをかます蛮勇は持ち合わせていない。


「何、怖いの」


「そうじゃなくて事故起きるだろこれ。きったねえし。なぜフリーハンド?」


「三角関数のグラフだって、シャーペンでびゃーって描くじゃん」


「うちの生徒は二等辺三角形を描くとき、ちゃんと分度器とコンパス使ってるぞ。小学生以下かお前」


「わがままだなー。じゃあ、おれが先行くから。後ろからついてきて。肩つかんで」


 言われたとおりにしてみる。

 くどいようだが、相手の背丈は2メートルなので、自分の背筋を伸ばさないと、肩に指もかけられない。毛量の影響か、布越しでもごわごわした感触は、がっしりとした厚みをたくわえている。

 まるで電車ごっこだが、文句を垂れた以上、言うとおりにするしかない。


「ゆっくりな」


「わかってるって、あの、耳元でささやくのやめて、こそばゆい」


「ゆっくりな、一歩ずつ」


 トドは右腕を掲げ、中心の円に手のひらを当てる。吸いつくような吸い込まれるような感覚が、巨大な図体のかかとを浮かばせる。

 子泣き爺のように、自主的に背中におぶさった。おおっ、とうめいた図体ずうたいが反り返ろうとする力も、図形がもたらす引力には効果がない。むしろ反動で、ひとかたまりになった俺たちはぶわりと浮遊した。掃除機に吸い込まれるホコリみたいに。


「お、ちょ、バカおま」


 その声がどちらのものなのかもわからないまま、視界いっぱいに若葉色がせまる。俺たちは壁に鼻を打ちつけるかわりに、粘りを帯びた闇に潜り込んでいく。



 水滴の音が聞こえた。下草の葉が雨露あまつゆを垂らすような、か細く清冽せいれつな単音ではなく、巨大な軟体になぶられるような、不愉快で不定形な律動。

 どこから聞こえてくるのだろう? 壁の向こうからのようでも、頭の内側からのようでもある。それに、潮の匂いがした。なぜだ?


「うわうわ、なんだよここ……」


「大丈夫だっての。つか降りろ、重い」


 えーマジか。

 仕方ないので革靴のつま先で……うわうわなんか、ぬるっとしてる、ぬるっと。なんなんこれ、魔方陣だろ、魔方陣だよな? 一瞬でピュンてなるかと思ったらなんでこんな……くそ、ぜってぇあのテキトーな図形のせいだろこれ。


「ぬ、っかるんでんな、おおっ!?」


 ズッコケそうになるのをどうにか持ちこたえつつ、かりかりと爪を立てて、揚々と歩いていく水先案内人に、追いすがるように歩を進める。

 数分ほど歩いただろうか(正確な所要時間はわからない。スマホがあればなあ……)、普段使わない下肢かしの筋肉をフル動員し、ふくらはぎがつりそうで悶えていたところ、前方に白っぽい明かりが見えた。


「あれ出口?」


 問いかける声にはエフェクトがかかり、洞窟のように響きわたる。

 本当に洞窟を進んでいるのかもしれなかった。前方の光源はいまだ遠く、足元がどうなっているのかさえわからない。


「そうだよ」


「た、すかった」


「はいはい」


 呆れたようなため息もぐわんぐわんと反響する。呆れられるほうとしては、滑稽さで恥ずかしさが相殺されて、たいへんよろしい。

 白っぽい光からは、モスキート音のようなものがかすかに聞こえていた。近づくほどにその音量は大きくなる。小石を詰め込まれるような、質量を持った耳鳴りが頭を揺さぶる。

 隣のやつを一瞥すれば、平気な顔をしている。イヌ科のくせに耳が悪いのだろうか。


「いきなり地上に出るからな、注意して」


「うっす!」


 威勢よく返事をしたが、何を注意すればいいのだろう?

 暗い場所から明るい場所に出ると、眼の順応じゅんのうがうまく機能せず、散大した瞳孔を通過した多量の光で、立ちくらみを起こすことがある。

 それのことかなと当たりをつけながら、最後のぬかるみから足を持ち上げる。


 そうして次の瞬間には、土を踏んでいた。

 青空が視界を塗り替えるのと、青くさい草いきれが煙のように立ち込めるのを、五感がとらえた。

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