魔方陣と下水道
「……姉上も、人狼で、魔界にいる」
「えっ、でもここは……」
「いつまでバカなこと言ってんだよっ! おい頼むぞ!?」
大きな声を出した友だちは、ひとしきり狭い眉間をおさえて、かぶりをふった。
変なことを言ってしまったかな?
失言を詫びようとしたタイミングで、誰かというか何かが扉を開けて入ってくる。ヒツジのメイドさんだった。いやわからんけど前掛けとかつけてるし、メイドさんじゃね? 知らんけど。
「ああすいません、そこの
うめくようなトドの指示にしたがい、
無言で頭を下げて、退出するのを見届ける。
動物モドキしかいねえのかこの異世界は。アレルギー持ちじゃなくてよかった。
「んで、スキルもないのにどうしろと?」
「仕事だよ! ほらさっさと動く!」
大きな口でわうわうと吠え立てられ、閉口した。
*
魔界ではリボンタイが正式な礼装だとか、しばらくは仮採用だから研修メインだとか、とりあえず今日はオピバニアに行くけど、そのうちルペーニヤとかいう、また別のところにも行く予定だとか、そんな話に
「他になんかある?」
「え?」
「気になることとか、聞いておきたいこととか」
トドはタイを結ぶ手を止めて、俺を見上げる。
「家に帰る方法」
「うん、あとでな」
「あの、ずっとこういうノリなら俺としては」
「だからあとでな。これ終わってから」
オオカミの姿だと身長差が逆転するので(魔界では、公共の場でニンゲンの姿を取るのは好ましくないとされる。らしい)、向こうは自然と、逆関節な膝を曲げ、かがんだ体勢になっている。
「おまえだって、曲がりなりにも
ボリューミーな毛玉感に圧倒されつつ、キーワードを脳内で復唱する。
オリエンテーション。
「……具体的には、何をしろと?」
「大した話じゃないよ。さっき言ったオピバニアには、ニンゲンどもに関係する物品を展示した博物館がある。まだ正式にはオープンしてないけどね……フミにはその見学をしていただきます」
襟元をまさぐる獣の指が離れて、着付けが終わったのだと分かる。
「おっけー、終了」
「……ありがとう」
にしても、異世界でも礼服を着ることになるとは(ネクタイではないにせよ)。まあ公務員だしな。
「なんかホストみたいね、おまえ」
ほげー、という感じの、なんも考えてなさそうな感想が飛んでくる。
「こんなホストいねえよ。面接で落とされたし」
「受けたことあるのか。初耳だ」
俺の友だちも、上着の代わりにベストを身に着けていること、その基調がワインレッドであること、ネクタイではなくリボンタイであること以外は、まあ似たような格好をしている。
もちろんホストには見えない。礼服を着た、二足歩行のイヌ科にしか見えない。
「俺もお前がオオカミ男だなんて、初耳ですけどね」
「オオカミ男じゃなくて人狼な」
知らんがな。
*
トドも手ぶらだ。必要な物があれば現地で調達できるらしい。魔方陣を使って。
「まほうじん」
「うん魔方陣」
人狼ちゃんは壁に向き合うと、濃い若葉色に光り立つ煉瓦の表面に、爪を当てた。
かすれた音とともに、チョークのような線が引かれていく。描かれていくのは
大きさは、描いている本人の背丈と同じくらい。手描きだからか、円の形もつぶれているし、線がふるえている。
描いているやつの前科を思い出した。
あれは、共同生活を始めたての頃。おつまみを作るぜ、ということで包丁を使い始めて、2分後に人差し指を切断したのだった。
グロいのがNGの松葉が吐いてしまい(共通の友人で、あらかじめ招待していた。宅呑みというやつだ)、そっちのほうが事件だった。
あーらら、でも大丈夫、とかのたまうのを救急車へ押し込むと、1時間もしないうちに戻ってきた。
言ったじゃーん、とほざいて縫い目を見せびらかしていたが、今考えれば魔術だかでどうにかしたのだろう。
魔族というのは痛みに鈍感で、手先が不器用な連中なのだろうか?
「これが魔方陣?」
「おう」
「落書きでは?」
「失敬だな。初歩の魔術だからいいんですう、適当で」
むくれる友だちには悪いが、これに向かってタックルをかます蛮勇は持ち合わせていない。
「何、怖いの」
「そうじゃなくて事故起きるだろこれ。きったねえし。なぜフリーハンド?」
「三角関数のグラフだって、シャーペンでびゃーって描くじゃん」
「うちの生徒は二等辺三角形を描くとき、ちゃんと分度器とコンパス使ってるぞ。小学生以下かお前」
「わがままだなー。じゃあ、おれが先行くから。後ろからついてきて。肩つかんで」
言われたとおりにしてみる。
くどいようだが、相手の背丈は2メートルなので、自分の背筋を伸ばさないと、肩に指もかけられない。毛量の影響か、布越しでもごわごわした感触は、がっしりとした厚みをたくわえている。
まるで電車ごっこだが、文句を垂れた以上、言うとおりにするしかない。
「ゆっくりな」
「わかってるって、あの、耳元でささやくのやめて、こそばゆい」
「ゆっくりな、一歩ずつ」
トドは右腕を掲げ、中心の円に手のひらを当てる。吸いつくような吸い込まれるような感覚が、巨大な図体のかかとを浮かばせる。
子泣き爺のように、自主的に背中におぶさった。おおっ、とうめいた
「お、ちょ、バカおま」
その声がどちらのものなのかもわからないまま、視界いっぱいに若葉色がせまる。俺たちは壁に鼻を打ちつけるかわりに、粘りを帯びた闇に潜り込んでいく。
*
水滴の音が聞こえた。下草の葉が
どこから聞こえてくるのだろう? 壁の向こうからのようでも、頭の内側からのようでもある。それに、潮の匂いがした。なぜだ?
「うわうわ、なんだよここ……」
「大丈夫だっての。つか降りろ、重い」
えーマジか。
仕方ないので革靴のつま先で……うわうわなんか、ぬるっとしてる、ぬるっと。なんなんこれ、魔方陣だろ、魔方陣だよな? 一瞬でピュンてなるかと思ったらなんでこんな……くそ、ぜってぇあのテキトーな図形のせいだろこれ。
「ぬ、っかるんでんな、おおっ!?」
ズッコケそうになるのをどうにか持ちこたえつつ、かりかりと爪を立てて、揚々と歩いていく水先案内人に、追いすがるように歩を進める。
数分ほど歩いただろうか(正確な所要時間はわからない。スマホがあればなあ……)、普段使わない
「あれ出口?」
問いかける声にはエフェクトがかかり、洞窟のように響きわたる。
本当に洞窟を進んでいるのかもしれなかった。前方の光源はいまだ遠く、足元がどうなっているのかさえわからない。
「そうだよ」
「た、すかった」
「はいはい」
呆れたようなため息もぐわんぐわんと反響する。呆れられるほうとしては、滑稽さで恥ずかしさが相殺されて、たいへんよろしい。
白っぽい光からは、モスキート音のようなものがかすかに聞こえていた。近づくほどにその音量は大きくなる。小石を詰め込まれるような、質量を持った耳鳴りが頭を揺さぶる。
隣のやつを一瞥すれば、平気な顔をしている。イヌ科のくせに耳が悪いのだろうか。
「いきなり地上に出るからな、注意して」
「うっす!」
威勢よく返事をしたが、何を注意すればいいのだろう?
暗い場所から明るい場所に出ると、眼の
それのことかなと当たりをつけながら、最後のぬかるみから足を持ち上げる。
そうして次の瞬間には、土を踏んでいた。
青空が視界を塗り替えるのと、青くさい草いきれが煙のように立ち込めるのを、五感がとらえた。
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