爬虫類とフェレット
硬直しているあいだにも、塊はこちらを観察するのをやめない。
俺の頭と同じ大きさの、爬虫類の眼球。黄色い白目と青みがかった黒目でぎろぎろと、飽くことなく睨みつけておられる。
「どした?」
「どしたじゃねぇだろ!?」
カビの生えた隅っこに移動しても、巨大な視線を
「いや、ほんとどした」
「なんかいる、なんかいる、なんかいる!」
「うんそうね」
つかんだ指を意に介さず、塊に向けてトドが近寄る。結果として俺は青空との境界線、崩落の瀬戸際まで引きずられる。
成人男性ひとりの体重を意に介する気配もない。こんなに体力あったっけ、こいつ。
「生地が伸びるから離して」
「近づいてんじゃねえよ、近づいてんじゃねえよ! 喰われる喰われる喰われる!」
くどいようだが、巨大な目玉だけで俺と同じ大きさだ。あばばばば。
「大丈夫だって、これ陛下の
へいかの? どらごん?
ゆっくりと、目玉の位置が上下にゆれながら左にずれていく。そのあいだも俺のことを見ていた。
やがてガラスの向こうに、別の物体が現れる。魔王様だ。燃え盛るような緋色の鱗にまたがっている。
鱗? こいつはドラゴンの首ってことか?
そうみたいだ。曲線がこう、
唖然としていると、
忍者か。
「おはようセンセイ。調子はどうだ?」
どうもこうもない。
「はっ。すっかり元通りといったところでしょう。食欲も旺盛でして」
隣のオオカミは、片膝をついた
嘘もいいとこだ。水すら飲ませてもらっていない。
「そうか。元気なのはいいことだ」
魔王様は銀を含んだ鋭利な爪で、薄い火ぶくれの痕が残る頬をかいた。
爪や牙より暗い紫のベスト、黒いボトムス、それにライトグレーのシャツ。ボトムスには深緑のストライプが入っていて、襟元のリボンタイは鱗と同じ緋色。
色づかいは派手だが、それなりにフォーマルな格好である。どこかに出かける途中のようだ。
「たすけてトド」
「大丈夫、大丈夫だから」
小声で相談していると、ライオンの丸い耳がぴくんと動いた。
「ああ、
年相応の無邪気な笑みだ。
「貴殿の話にあったサリンガスを試作したのだが、練度が低かったらしい……、いや、悪いのはわたしだ、薬理系の魔術はどうも苦手で……次は苦しめずに殺すから安心してくれ。それにしても、ああやって殲滅するなら密室を用意しなくてはいけないし、となると大規模な設備が必要となるし、となると建設のための手続きが必要となるし、となると国土に関する開発計画との調整が必要となるし、となると母上にご相談申し上げねば……そうであれば、センセイにもご
行数をたっぷり使ったクソガキは、
忍者か。
「ではまた、今晩!」
大きく手をふって、魔王様はゆっくりと浮かび上がり、俺たちの視界から消えていく。遠ざかる乗り物の背中には、トカゲのような尻尾とコウモリのような翼が生えている。
てかドラゴンとかそんな非現実的な……あっそうかここは異世界だ。しゃーない。
巻き起こる乾いた突風の轟音が、やんでいく。通り雨のように。
え。待って待って、今晩て。また会わなきゃいけないのですか? これ以上、顔も見たくないが?
「……そんな、うるうるした瞳で見つめないで」
「見つめてねえし」
「元気出せよ。これからお互い、やることあるんだから」
え?
「え? みたいな顔するなよ、今後も
公僕。
奴隷といえど
そうかあ、俺は再就職してしまったのだなあ。
「大丈夫だって、こっから死なないパートに入るから」
「知らねえよ。死ね」
「死なない死なない」
こちらの訴えを聞いていないトドは、ポケットをまさぐり、取り出したベルをちりちりと鳴らしながら、すみませんアレ持ってきてくださーい、とかなんとかしゃべっている。
トランシーバーのような機能が内蔵されているらしい。さすが異世界。
「工事のひとも呼んでくんない?」
「え?」
俺はがらんどうの壁を(正確には壁だったものを)指差す。
王宮だか宮廷だかいうだけあって、この部屋もそれなりの高層に位置するようだ。剥き出しになった虚空から、針のような突風が音を立てて吹き込んでくる。
「そこは、大丈夫だろ」
めくれ上がる
こいつの「大丈夫」を何度聞いたかわからない。
磁石が吸い寄せる砂鉄のように宙に浮いた煉瓦たちは、それぞれぶつかりながら少しずつ、急速に、ひとりでに組み合わされていく。石と石はこすれ合いながら積み上がり、寄り固まり、やがて現れたのは壁だ。手のひらを置くと氷のように冷たく、陶器のようになめらかで、押してもびくともしない。
背後から、ため息が届けられる。うつむいてやり過ごした。
*
「とりあえず、
トドはシャツの袖のボタンを留めながら、振り向くこともせず、かかとの浮いた後肢で
「さっき服頼んだから、
「あ、……サンキュ」
外に出るのか。
「トド」
「ん?」
「この建物ってガチの王宮?」
たずねるのもやむをえない。この部屋と魔王様の書斎と、あと玉座のある大広間、行き来したのはそれぐらいだが、いずれもかなりの距離があった。いわんや建物自体はどれほどの広さか。そもそも建物がひとつで済むのか。想像もつかない。
「厳密には違う。別荘みたいなものかな。皇族だからね」
「城下町とかあんの、やっぱ」
「おーそう来ますか。見たい?」
見たくないわけでもない。
「時間が取れたらな。悪いけど今日は他の場所に行く」
「どこ?」
トドは腰に手をあて、天井を
「オピバニアだよ。
マジかい。
「てか、お姉さんって西表島の、船でしか行けん集落にいるんじゃないの?」
もっともな疑念を抱いてたずねると、面白い顔になった。
どうやらきょとんとしているらしい。イヌ科がきょとんとするとこうなるのか。フェレットみてえ。
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