社会科見学・三者面談・個別指導 または文明のレベルが異様に低い愚劣な生き物のサンプル

社会科見学

海と心臓

 激しい胸痛で目が覚めた。心臓をロープで、思いきり引っ張られたような痛みだ。

 目が覚めたとき、俺は与えられたベッドで仰向けになっていた。

 クリームソーダのように乳色の溶けた淡緑色が、天井を覆っている。きれいだ、なんて感じる余裕はない。眼が痛くてまぶたをすぐに閉じてしまうと、光はまたたく間に消えた。


 ヒーッ、ヒーッ、という聞いたことのない呼吸音が自分の喉から響いている。

 助けを呼ぼうとしても、その呼吸をすることしかできない。まるで救難信号だが、もちろん誰も来てくれない。

 だというのに、性懲しょうこりもなく叫ぼうとしていた。誰も来ないからおとなしくしているには、痛みが大き過ぎた。


 なんとか動こうとして、壁の隅に置かれたベッドから転げ落ち、肩を打ちつけたようだった。どこにどんなふうに打ちつけたのかはわからない。まぶたをひらくことさえ、できずにいる。

 まゆのように毛布を身体にからませ、肺の奥につかえる痛みを吐き出そうと。体液の固まりが唇を転げる。

 肺ではなく胃が、肺と同じくらい痛い。痛覚の震源が多すぎて、どこが痛くないかさえわからない。


 床をつかもうとして指がすべる。関節を曲げて爪を立てる、他ならぬ自分自身の動作と感覚を、二の腕に毛虫の這うような不快とともに感じ取る。

 立ち上がろうとして上腕に力が入らず、足にひっかけた毛布のせいで顎をしたたか打ち付ける。


 吐くたびに胃液ではなく喉を、内臓をすべて嘔吐したいと願う。

 ただれている。全身が焼け落ち、冷えきっている。

 どこかの山あいに春雷が落ちて、ざらついた樹幹じゅかんと空を掻くこずえと、そこに重なる生きた緑葉が火炎に呑まれて巻き上がり、やがておとずれた驟雨しゅううに静かに冷やされ沈黙を強いられるような、そういう光景がぶつ切りのフィルムのように、頭の中に浮かび上がる。


 そうか今の俺もこんな感じかと、どことも知れない光景をながめ、煤煙の幻臭を嗅ぎながら得心とくしんする。

 燃えながら冷たく硬くなる自分だけがここにいて、他には何もなく、やがて目の前の緋色と泥の混淆こんこうもほどける。焼け落ちたように真っ黒になる。


 それなのに、鼓膜はまだ機能を保っていた。

 木材がきしむ音、これは扉の開閉音か。

 続く足音が渦を巻いて分裂する。裸足でも靴を履いているのでもない、第三種の足音、ガラスの針で石をひっかくような神経質な異音に囲まれる。


 その、音と音の隙間は、気づかないうちに縫合され埋め立てられ、引き伸ばされてひとつながりとなって、夜明け前の誰もいない群青色の浜辺の、遠浅の波音のような穏やかすぎる地鳴じなりとして、聴覚に感受される。

 その地鳴りの中へ、あるいは向こうへと意識が埋もれていく。


 仮に土葬された人間が棺の中で生きていたとして、と俺は考えようとするが、そんな能力は残されていなくて、ただイメージの残滓ざんしとして感じる。

 最期に土をかけられ埋められるときに聞くのは、こういう音だ。


 その事実を俺は、そう感じると同時に受け入れ、それを待っていたように音も消えた。

 あとは、こちらからは認識できない空間のひろがりが、遠浅の海の表面、沖合まで並べられた波頭のように、どこまでも白く続いていく。

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