魔王様と奴隷

 ついていった先に待ちかまえていたのは、ごく簡潔に述べると、大きな書斎だった。蔵書でいっぱいの書棚がそびえていて、まるで図書館だが書斎だ。少なくとも少女はそう言った。


「ニンゲンは、喉を噛み砕かれて生きていることはできない。そうだな?」


 立ったままうなずく。

 机の前の椅子に座った、魔王様であらせられるところの少女も、我が意を得たりとばかりに、自分の言葉にうなずく。


「ところが、魔界こちらでは事情が異なる。死という現象は、貴殿らの霊体が肉体から解き放たれる契機でしかない。肉体を喪失したニンゲンは、魔族に霊体の所有権を譲渡することで、生き返る。


 なるほど。つまり、この話で重要なのは、俺が奴隷であるということだ。


「重要な点は、センセイが誰の奴隷であるかということだ……殺したのは別の魔族ものだが、契約のしるしとなる首輪は、わたしがつけた。つまりセンセイはわたしの奴隷だ」


 なるほど。



 魔界の異常な魔王様は、なんというか、真っ赤な髪の毛がふわふわしていた。第一印象としては赤毛のアン。

 もちろん細かいところは違うけれど(たとえば髪型は天然パーマのベリーショート、ライオンの耳が生えている、尻尾も生えている、側頭部から二本の黒い角がのぞいている、白い牙が象牙のように太くて長い)、細かいことを気にしなければ、そんなふうに見える気がするぞ。


 というか今はそれどころじゃない。何がどうなってる? オオカミに殺され、てか奴隷って……

 そしてこの、シカの着ぐるみは、なんだよ。誰だ。こんな野郎が待機なさっているとは存じ上げてねえぞ。


「こちらはクロフュスといって、平生へいぜいはわたしの身辺の護衛をつとめている。このたびはセンセイの監視も頼んでいるから、困ったことがあればすぐ相談するように」


 俺は俺の監視を頼まれたという、でっかいシカ星人を見上げる。でかい。ヴォーダンとかいうさっきの、ファッション雑誌みたいな名前のイヌというかオオカミよりでかくて、2メートル余裕っす(目測)。

 がっしりした肩幅の上に、かっちりしたダブルボタンの礼服を着込んでいる。スーツでも学生服でもない、閲兵式えっぺいしきで兵隊が着るような、つまりは西洋式の軍服を連想させるデザイン。


 扇のようにひろがるツノの影が、ゆらゆらと視界に入り込む。襟元のカラーに囲われた首筋は、俺の太ももより太い。

 縦一文字の傷で右目を閉ざしたそいつは、残存している左目で監視対象を一瞥いちべつしてから、口を動かし続ける魔王様に視線を移す。


「さきほどの女性は、わたしの母上だ。昨日までは魔王だったが、今は」


「あなたが、魔王陛下」


 即答すると、


「そういうことだ」


 照れくさそうに、爪先で頬をかく。俺は深呼吸をした。喉が膨らんで鈍痛が走る。首輪がきつい。息ができずに死にそうだが、そのへんは考慮されているのだろうか。

 魔王様はそんな状態の奴隷を見て、眉をひそめる。瞳には憐憫れんびんの情がこもっていた。


貴殿きでんらは、ができないと聞いている。本当か?」


「陛下。僭越せんえつながら申し上げますが、われらが手を下さねば、死んだニンゲンは生き返りませぬ」


「そうか。やはり滅ぼすべきだな」


 シカ星人の指摘に王様がうなずき、俺は意味がわからない。死んだら生き返らないことと、滅ぼすことの関係がつかめない。

 ん、てか滅ぼすって誰を?


彼奴等きゃつらの脆弱な肉体と、惰弱な知性を考慮すれば、結論に揺らぎはないでしょう」


 えっ人間を、滅ぼすってこと? 誰が。

 何ですかいったい。焦りよりも怒りが先立つ。はやく家に帰らせろ。明日も早いんだ。


「うーん、そのとおりだが……センセイがそこにいるし、もっと言葉を選んでくれ。傷心で首をくくられでもしたら、母上に叱られる……」


 やばいことになっている気がするし、媚びた目線をちらちら送る少女に向かって、つばを吐いてぶちぎれる権利がある気もしたが、気のせいだと自分に言い聞かせた。

 ここは冷静になろう。


「名前は?」


 片目に傷の走った、草食獣とはとても思えない強面こわもてが、ふとこちらを瞥見べっけん。睨みつけるとはこういうことだと言わんばかりの眼力の前に、冷静さは光速で霧散。


「お、大春二三、です」


 背筋を伸ばして、小声でさけぶ。小声でさけぶなんて芸当は人生で初めてだ。


「オーハルフミ?」


 長い名だ、とつぶやくと、きびすを返し、書斎の出入り口へ向かう。定規で測ったような歩き方で、彫り物がいかめしい取っ手まで辿り着くと、ふ、と短く、息を吐いた。

 音を立てずに重厚な扉が開き、素性の知れない廊下の光源は、部屋と同じくらい上品な明るさを持っている。

 角の影が煉瓦の壁に、模様となってうつりこむ。


「すぐに、忘れてしまいそうだ」


 やはり音を立てずに閉まる。コッ、コッ、という古風な古時計の針が刻む音が、しばらく響いている。


「センセイ」


 呼び掛けられたときに考えていたのは、長いってのは名前のことか? とか、そんなことだ。

 べつに長くない。武者小路実篤むしゃのこうじさねあつや綾小路きみまろに比べたら短い。画数も少ない。小学1年生の習う字で書ける。というか実際、漢字の指導で俺の名前を生徒に書いてもらっている。

 そんな、忘れてしまうほど長い名前じゃないだろ。知的うんたらなどと大見得おおみえを切っていたが、馬鹿じゃなかろか? 鹿シカだけに。


「センセイ?」


「あ?」


 俺の声は、ドスが利いていた。しかも敬語が取れていた。

 反応があったことに気をよくしたのか、ぱああ、という感じで気まずげなツラが一挙に明るくなる。舌打ちしてもそれは変わらない。

 こいつも馬鹿だ。ふふん、と得意げに鼻を鳴らすなクソガキ。


「彼は重大な勘違いをしたな。わたしは知っているぞ、ニンゲンは家名と名前の両方を持つことを。名前は先で、家名は後だ」


 立ち上がった魔王様は、俺の真ん前に来た。

 よくよく見ると、けっこう背が高い。歳はよくわからないが、ガリガリでノッポな俺と比べても(わくわくさんやウォーリーに似ていると評判だ)、さほど目線は下がらない。


「家名ではなく、名前を呼んでおきたい。いやしくも貴殿の主は、わたしだから」


 差し出されたのは人間らしい、5本指の手だ。スポーツでもやっているのか、ところどころに肉刺まめができている。銀灰色ぎんかいしょくに濡れた黒味が、鋭い爪の先端を輝かせていた。


「卒業研究の発表は1年後だ。どうかわたしに知恵をさずけてほしい。教えてくれ、魔界のニンゲンを、1匹残らず滅ぼす方法を」


 これと握手するのか。正気か。爪を切れ。手が血まみれになるだろ。

 ……いやそうじゃねえよ、そうじゃねえだろ? 握手したら、今こいつなんつった? 握手したら――魔界の人間を? 滅ぼす方法を? 教えなくてはならない?

 息を吸う、鈍い音が鳴る。

 俺ではない。魔王様だ。


「これからよろしく、センセイ。いや――オーハル」


 は?


「大春?」


「ああ」


「大春」


「ああ」


「そっちは苗字だよバカ」


「え?」


「そっちは、苗字だよ、バカ。聞こえた?」


「そ、そうなのか、ではあらためて」


「うっせーバカ、死ねっ!」


 もうやだ。ぎええええ。


「お前な! お前らな! 他人を殺して! 誘拐しといて! 謝罪のひとつもねーのかバカどっ! もっ! ぎああああンッ!」


 俺は吼えた。地団駄を踏んだ。だむっ、だむっ、だむっ、踏みにじる裸足の裏が、容赦なく情けない音を立てる。

 さすが王族の書斎、周囲には高そうな家具しか存在しない。力いっぱい、足元の豪奢な絨毯を雑菌で汚してやりたい。


「おっまえマジで、マジでガチでふざけんなよお前、おま、つーかなんだよこの状況は!? いくら異世界でも越えちゃダメな一線ってあるだろがっ!?」


「だ、大丈夫か、センセイ」


「この状況が大丈夫じゃねええええええええんだよボケッ!」


 渾身こんしんの力で叫び、腕を振り上げる。

 が、いやいや待った待った待った、振り上げて一旦止まる。暴力だ、これは暴力だろう。どんな理由であれ子どもに暴力はいかん。今のやりとりの感じだと子ども、だよな。たぶん。デカいけど。

 実際にいくつなのかは知らんが、少女だろうとおじさんだろうと魔王だろうと、体罰はダメ。ノー。


「……歳は?」


「ん?」


「だから歳は?」


「あ、ああ。よわいか。えーと、ニンゲンでいえばとおになる、かな」


 めまいがした。とお。小学4年生。小学生相手に地団駄踏んでたんかワシは。


「センセイ、熱でもあるんじゃないか? ニンゲンの病気には詳しくないが」


「……人間の病気については、まだ習っていない?」


 冗談だったが、うむ、と真面目な顔で、あどけないこともない、無垢な表情でうなずく。


「それで、どうなのだ?」


「ああ、まあ……」


「びっくりしたぞ。憤激に駆られたのかと」


「いやそんなこ」


 とはないです、敬語を復活させる手際より早く、地軸ちじくが傾いた。

 あ、だの、お、だの言うことができないのは、おそらく喉より上に、切断面があるからだ。

 鮮明な視界が、視界ごと空中で弧を描く。ソファーが書架が机が羽ペンが水の入った梨型のグラスが、光線になって渦を巻く。物体が回転し、光の帯と化しているのだ。


 あ、そうじゃない。回転しているのは俺だ。正確には俺の首だ。

 理解すると猛烈な吐き気がやってくる。乗り物酔いを何倍にも増幅したような、スプラッシュマウンテンに乗って吐いたときのような……

 どむん、という鈍い音がして、頭蓋ずがいの全体が手のひらに受け止められる。

 小学4年生が、俺の生首を覗き込む。生首の俺はそいつと眼が合うから、気まずそうなしかめ面を観察できる。表情が豊かで、実に人間的。


「その首輪は、嘘をつくと」


 事故物件の内実を打ち明ける、不動産屋みたいな口ぶり。


「首が飛ぶ仕組みになっている。どうだろう、ここはお互いさま、ということで」


 ぐわんぐわんというエコーとともに、そんな声が届けられた。

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