転移とバックレ
こうして、俺は夢でオオカミに殺された。合掌。
とはいえ、殺したのがオオカミではなさげなことは、この時点では知る
もちろん、これが
*
もっとも当初は、殺されたことにさえ気づかなかった。
地に伏し、指先さえ動かなく、冷たくなっても、意識は死と
死んだまま、死んでいる自分を、定点カメラのような視点で眺めている。そんな具合だ。
喉を噛み砕かれた死体を、噛み砕いた獣が見ている。闇の中に、クリーム色の眼光がふたつ。
これはイヌ科の眼だ(理科の先生に見分け方を教わったのだ)。それにノズルも、かろうじて観察できる限り、イヌ。上下二本ずつの犬歯もまさにそれ。
犬歯? まあ、この白く光る鋭い、血にまみれているのは、犬歯だろう。それは間違いない。
問題は、なぜそれが見えているかということで、それは口を開けているからに決まっている。
ではなぜ口を開けているのかというと、俺の腹に噛みついているからだ。
いかにもな唸り声をあげて、ユニクロで買った安手の
牙と牙がこすれるざらついた音にまぎれて、
俺の血だ。犬歯、もとい牙の先端から垂れ落ちたものだ。そして牙の生えたイヌなどいない。こいつはオオカミだ。
スコップの先端を埋めるように、オオカミは裸にした俺の腹を、自分の歯先でひらき、引き裂き、掻き分ける。
ゴム管のようなものをくわえると、月に向かって首を伸ばす。
つられてまっすぐ伸びるのは、たぶん小腸だ。詰め物のようなゼリーのような肉感が、脂に濡れて輝いている。
ぶちゃぶちゃと引きちぎっては、口内へおさめていく。毛だらけの喉袋が膨らんでは縮む。こちらも
オオカミは黒く、イヌよりもタヌキとかフェレットに似ていた。まなじりの垂れ下がった、独特な顔つきだ。かわいい。しかし俺の内臓を食べている。
腹部をあらかた喰い終えると、今度は
めまいもしてくる。視界がぶれて、ノイズも多くなる。砂嵐だ。
間髪入れずブヅッと音がして、画面が青く染まる。デジタルじゃなくてVHSだったみたい。真夜中の草原とは異なる、浅はかな虚無。
だというのに、置き去りにされた意識は
*
およそ1ヶ月前の話である。
事の発端はこんな感じだ――教育系の出版社に勤める後輩が、タイムラインにいきなり錠剤の絵文字をベタベタ貼り付けて、抗うつ剤ゲットだぜ、と投稿した。
別件で連絡を取ろうとしてそれに気づき、込み入った話をしていたら、いつの間にやら呑むことに。男同士の腐れ縁ならよくある話だ。
こちらも死にそうだったが、冗談じゃなく、目を離した隙に自死する可能性のある相手である。
呑まざるをえない。
というわけで集合したところ、その後輩は自分の先輩(つまり俺の同級生。面倒見がよく、後輩に好かれているゲーオタで、ゲーム会社に勤務していてデバッグに後出しでダメ出しする上司を殺したい)と、別の後輩を連れてきていた。
後輩は単位が足りず、二度目の留年が確定しているのだという。
さらに、店に入って少しすると、出版社の後輩の同期が合流した。
しばらく雑談していると、ふとスーツの胸ポケットから、なにかを取り出す。
メンタルクリニックの名刺だ。
ふたりは偶然にも、同じ場所で診療を受けていたわけ。なんたる奇縁。
さらに少しして、後輩の後輩、すなわち留年野郎の同期が、くたびれた丸首シャツ、短パン、キャリーバッグという、
席につくなり、飲み物を注文するより先にバッグを開け、スケッチブックを取り出す。俺たちの母校は美大ではないし、彼女がデザイン系の仕事をしているとも聞いていない。
描かれていたのは、岡本太郎の「太陽の塔」だ。勤めていた会社をバックレて、日本一周した際に立ち寄ったのだという。
史上最も、誰をなぐさめればいいのかわからない呑み会となった。
*
「何これ?」
「太陽の塔です」
「上司になんか言われた?」
「鬼電やばいです」
「旅行楽しかった?」
「温泉に入ったんですね。空を、雲が流れていくんです。きれいだなって」
「これからどうすんの?」
「無職なので先立つものがありません。この場のどなたかとシェアハウス希望です。フミ先輩って学生のとき、トド先輩と同棲してたじゃないですか?」
「言い方」
「あれ完全に付き合ってる距離感だったじゃないですか? あんな感じがいいなあ。なんせ家賃が……」
「聞けよ!」
そんな会話の過程で、異世界転移とは会社バックレのようなものである、という話が出た。
そういう小説でよくある、ネトゲや通り魔やデスマーチや大型トラックの絡んだ諸事情で
あれを現実で再現すると、勤務先からの
「にゃー、俺も転移したーい! ネコミミ幼女の奴隷になりたーい!」
宮内は叫び、俺の乳首をつねる(書き忘れていたが、彼は酔うと他者の乳首をつねる癖がある)。
「いっでぇ!」
「てか先輩、自分が奴隷になりたいんだ……」
「
昔のオタクの話し言葉で宮内が叫ぶ。こいつもたいへんだ。
「フミ先輩はどーすか?」
「俺?」
聞き返すと、プーアル茶を痛飲していた出版社の後輩は、首を縦にふった。
「……え、あんま考えたことないけど」
「いやそういうのいいんで。どうなんすか? やっぱチートハーレム無双全部乗せっすか?」
「パキシルを咀嚼しながら言うなよ……え、でも……うーん、……やっぱ、何かを教える仕事がいいな。教師じゃなくても。賢者とか。あと自分のスキルは気になるよな。あと、年上のお姉さん騎士とイチャつきたい」
横でモスコミュールを飲んでいた、甘い物好きの友だちが肩をどついてきた。持ち上げていたビール瓶が、手元から滑り落ちそうになる。
「えーっ、フミはさあ、いせかいでもモノ教えるつもりなのかあ?」
「行くんだったらな。まだ飲む気?」
「当然でしょ、そーいう集まりでしょ!?」
「楽しそうだなあ、無職がいっぱいいるのに」
酔っているなあと思いながら、グラスが空なので酌をしてやる。もちろんビールじゃなくて、隣にあった麦茶のピッチャーをつかんで。
うほー、と猿のように叫んだ友だちは、そのままひといきに呑み干して、さらにグラスを突き出してくる。
「そんなにゆーならおれが連れてっちゃる!」
「モスコミュールでそんな酔うの、お前くらいだぞ」
「おれはお酒が好きなのっ! そんでおまえは、誰かに何かを教えるのが大好き――」
突如として音声と映像が途切れる。誰かがケーブルを引き抜いたみたいに。
そうか、そういえば俺は、殺されていた。
*
書き割りのような暗闇には見覚えがあった。これはおそらく、自分のまぶたの裏だ。
夢を、見ていたのか?
それはともかく朝が来た、絶望の朝が、いやこの感じ西陽が差し込んで、夕方だ、やべえ寝過ごした。無断欠勤。さようなら定職。
というのはすべて勘違い。まず俺に、朝は来ていない。パジャマ姿で仰向けになっていたものだから、眼が醒めたのだと
そして夕方だと誤認したのは、ドーム型の天井に吊るされた、巨大なシャンデリアの
そんなものに見覚えはない。俺は、俺の部屋ではない場所の、ベッドではなく床に寝ていたことになる。
自分で自分の頬をビンタする。痛い。
つまり夢じゃない。
「起きたか、センセイ」
視界に、覗き込む影の目鼻立ちがうつる。
炎のように逆巻く髪を携えた少女が、牙を剥いて
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