夢とオオカミ
こちらの世界へ来てしまう前は、夢のような生活を送っていた。
この場合の夢とは、醒めない悪夢という意味だ。
*
夢は、ベッドから起き上がる場面から始まる。アラームは5時に設定されていて、なぜかといえば理由は単純、昨日の仕事が片づいていない。
スヌーズが鳴り響くワンルームにて、歯を磨いてヒゲだけ剃ってから、愛機の中型バイクを駆って職場へ直行。朝日が昇るかどうかの瀬戸際だ。太陽のほうが、俺より休息を取っているらしい。
小学校の先生なので、担当教科は全部だ。個人的には国語が好き。自慢じゃないが(自慢だが)、母校の入試も満点で突破した。ちなみに私立だ。なんでかというとセンター試験の数学で……
とにかく、それくらい大好きな国語も、算数や理科と同様、小学生が好きな知的営為とは言いがたい。
いくら漢字の書き順と部首の関係を力説しようが、「スイミー」の朗読を行おうが、机に頬杖をつくやつ、すぐ騒ぐやつ、いきなり立ち上がり廊下へ出ていくやつなど、生徒のバリエーションには事欠かない。
とくにまぶたに、いじめられているわけでもないのに、いつも青アザのある生徒を見つけたら、国語どころじゃない。院卒のスクールカウンセラーと協議する必要があるし、その資料として家庭環境を調査しなくてはいけないし、そのために家庭訪問を行わなくてはいけない。
そんなこんなで仕事は雪だるま式に膨張、昼休みに給食の八宝菜をかっこみながら、エクセルでチューリップの水やり当番表をつくるなど。
もっとも俺ばかりでなく、定年間近の社会科の先生も似たようなことをしている。
というか主任も教頭も、校長すらもそんな感じだ。事務員や司書のみなさんが非正規扱いとなったせいで、各所の引き継ぎがうまく行かず、教員の代行が常態化しているのも原因のひとつだった。
昼からこんなありさまなので、定時に帰宅できるはずがない。引き続き学童の受け持ち、校庭の清掃、備品の調達、答案の採点などで時計の針は刻々と回転。
気づけば21時、22時はザラだが、これでも一番手に帰してもらっている。
出世するほど労働環境がひどくなるのは、ブラックあるあるだから、みんなも気をつけようね。
*
そういや学生の頃、うちは教育学部だというのに、就活セミナーでメガバンクの役員が来て、
「この前の
などと、デカい声でほざきやがっていた。
内容もそうだが(定時に帰せ殺すぞ)、大便のような顔色と不安定な呂律が印象的で、銀行は受けるのやめようと決意したものだった。
で、その結果がこれ。
時間外労働が明らかに、そしていつも、過労死ラインを超えているのだった。
残業代も出ない。公務員だから。
いや出るっちゃ出るけど、月給の4%の調整額。残業100時間で8000円。ところでこのとき時間外労働は時間内労働の、なんと? 62.5%~!
死ね。
おまけに、同じ大学の法学部法律学科を同じ年度に卒業し、故郷の西表島にUターンした友だちからは、緑の連絡用アプリを経由して日夜、南国のハッピートロピカル画像が送られてくるのであった。マンゴーとかパイナップルとか、お姉さんとの自撮りとか。
インスタでやれ。
*
そんなわけで帰宅後、寝床に入れば泥のように眠るのが常だったが、その日はめずらしく、夢を見た。悪夢のしめくくりに本物の夢を見るのも滑稽だが、とにかく見てしまった次第。
それが運命の分かれ道だとも知らずに。
*
額や耳にかかる
吸気とともに、前髪の何本かが唇に張りつく。払いのけようとして、就職してから髪を伸ばしていないことに思い至り、これは夢だと気づく。
ひとたび気づけば、どことも知れない
それにしても、夢にしては五感が冴えていた。
自分の皮膚の冷たさや泥のまといつく感触が、体表に貼りついている。こんなにリアルなのに、夢であるはずがないと思えるほどに。
そうして歩いていると、どうも、誰かに見られている気がした。しかも相手のいる場所が一定ではない。数学における点Pのごとく、渦を描きながら気配は近づいてくる。
周囲に光源はなく、その姿を見定めるのは難しい。天上に浮かぶ緋色の月が、煤けた
雲と木々と草葉ばかりが、濃淡の異なる黒さで光っていた。
やがて足音が聞こえてくる。人間の、ではない。四足歩行の動物が駆ける、爪の音だ。
走り出そうとした自分の足が
そのあいだを縫うようにして、稲光を背負った巨大な獣があらわれる。ぬかるみをかき上げながら身体を浮かしては沈め、こちらへ一直線に駆けてくる
避ける暇も、避けようと判断する暇もなく、首筋に衝撃が走った。
鋭利な鈍痛が、金属のように喉仏にめり込む。
胸を踏み台にされて、喉に噛みつかれたのだと気づけたのは、やはり夢の中だったからかもしれない。
熱いものをとぷとぷと、油のように垂らして、仰向けに
大地が、頬に触れた。
噛みついた獣は、いつまでも離れない。俺の喉と一体になることを求めるように、自身の鼻先を体液の
草いきれに混じる鉄っぽい臭気と、内側から火をつけられたような、熱感とも痛みともつかない感覚で、血を流しているのだとわかる。
*
こうして、俺は夢でオオカミに殺された。
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