夢とオオカミ

 こちらの世界へ来てしまう前は、夢のような生活を送っていた。

 この場合の夢とは、醒めない悪夢という意味だ。



 夢は、ベッドから起き上がる場面から始まる。アラームは5時に設定されていて、なぜかといえば理由は単純、昨日の仕事が片づいていない。

 スヌーズが鳴り響くワンルームにて、歯を磨いてヒゲだけ剃ってから、愛機の中型バイクを駆って職場へ直行。朝日が昇るかどうかの瀬戸際だ。太陽のほうが、俺より休息を取っているらしい。


 小学校の先生なので、担当教科は全部だ。個人的には国語が好き。自慢じゃないが(自慢だが)、母校の入試も満点で突破した。ちなみに私立だ。なんでかというとセンター試験の数学で……

 とにかく、それくらい大好きな国語も、算数や理科と同様、小学生が好きな知的営為とは言いがたい。

 いくら漢字の書き順と部首の関係を力説しようが、「スイミー」の朗読を行おうが、机に頬杖をつくやつ、すぐ騒ぐやつ、いきなり立ち上がり廊下へ出ていくやつなど、生徒のバリエーションには事欠かない。


 とくにまぶたに、いじめられているわけでもないのに、いつも青アザのある生徒を見つけたら、国語どころじゃない。院卒のスクールカウンセラーと協議する必要があるし、その資料として家庭環境を調査しなくてはいけないし、そのために家庭訪問を行わなくてはいけない。

 そんなこんなで仕事は雪だるま式に膨張、昼休みに給食の八宝菜をかっこみながら、エクセルでチューリップの水やり当番表をつくるなど。


 もっとも俺ばかりでなく、定年間近の社会科の先生も似たようなことをしている。

 というか主任も教頭も、校長すらもそんな感じだ。事務員や司書のみなさんが非正規扱いとなったせいで、各所の引き継ぎがうまく行かず、教員の代行が常態化しているのも原因のひとつだった。


 昼からこんなありさまなので、定時に帰宅できるはずがない。引き続き学童の受け持ち、校庭の清掃、備品の調達、答案の採点などで時計の針は刻々と回転。

 気づけば21時、22時はザラだが、これでも一番手に帰してもらっている。

 出世するほど労働環境がひどくなるのは、ブラックあるあるだから、みんなも気をつけようね。



 そういや学生の頃、うちは教育学部だというのに、就活セミナーでメガバンクの役員が来て、


「この前の弊行へいこうの説明会でね、みなさんのことじゃないですよ、みなさんよりちょーっとだけ、レベルの低い、あの××大(名は伏す)の娘が定時になったら行員こういんも帰れるのでしょうかなんてね、そんなねッ質問をしていましたけど、もッ、みなさん! マナーや髪型の前に、常識を身に着けましょうね~。ねッ!」


 などと、デカい声でほざきやがっていた。

 内容もそうだが(定時に帰せ殺すぞ)、大便のような顔色と不安定な呂律が印象的で、銀行は受けるのやめようと決意したものだった。


 で、その結果がこれ。

 時間外労働が明らかに、そしていつも、過労死ラインを超えているのだった。

 残業代も出ない。公務員だから。

 いや出るっちゃ出るけど、月給の4%の調整額。残業100時間で8000円。ところでこのとき時間外労働は時間内労働の、なんと? 62.5%~!

 死ね。


 おまけに、同じ大学の法学部法律学科を同じ年度に卒業し、故郷の西表島にUターンした友だちからは、緑の連絡用アプリを経由して日夜、南国のハッピートロピカル画像が送られてくるのであった。マンゴーとかパイナップルとか、お姉さんとの自撮りとか。

 インスタでやれ。



 そんなわけで帰宅後、寝床に入れば泥のように眠るのが常だったが、その日はめずらしく、夢を見た。悪夢のしめくくりに本物の夢を見るのも滑稽だが、とにかく見てしまった次第。

 それが運命の分かれ道だとも知らずに。



 夜雨よさめの降りしきる草原を、裸足で歩いている。膝の丈まで伸びた下草の密生が、葉擦はずれの音を立てていた。

 額や耳にかかる雨滴うてきを避けるすべはなく、ぬかるみが足の指を汚して土臭く煙るのを、とどめる手立てもない。

 吸気とともに、前髪の何本かが唇に張りつく。払いのけようとして、就職してから髪を伸ばしていないことに思い至り、これは夢だと気づく。

 ひとたび気づけば、どことも知れない深更しんこうの草地をうろつくなど、夢以外の何物でもないとすぐにわかった。


 それにしても、夢にしては五感が冴えていた。

 自分の皮膚の冷たさや泥のまといつく感触が、体表に貼りついている。こんなにリアルなのに、夢であるはずがないと思えるほどに。

 そうして歩いていると、どうも、誰かに見られている気がした。しかも相手のいる場所が一定ではない。数学における点Pのごとく、渦を描きながら気配は近づいてくる。


 周囲に光源はなく、その姿を見定めるのは難しい。天上に浮かぶ緋色の月が、煤けた叢雲むらくもに隠れていく。ねじれたいくつかの影、おそらく灌木かんぼくが、遠方にぽつぽつと散らばる。

 雲と木々と草葉ばかりが、濃淡の異なる黒さで光っていた。


 やがて足音が聞こえてくる。人間の、ではない。四足歩行の動物が駆ける、爪の音だ。

 走り出そうとした自分の足がすくむ。灌木の狭間に、雷鳴が轟いたからだ。

 そのあいだを縫うようにして、稲光を背負った巨大な獣があらわれる。ぬかるみをかき上げながら身体を浮かしては沈め、こちらへ一直線に駆けてくる肢体したいは、その場のどんなものよりも、目鼻立ちの濃い闇に染まっていた。


 避ける暇も、避けようと判断する暇もなく、首筋に衝撃が走った。

 鋭利な鈍痛が、金属のように喉仏にめり込む。

 胸を踏み台にされて、喉に噛みつかれたのだと気づけたのは、やはり夢の中だったからかもしれない。

 熱いものをとぷとぷと、油のように垂らして、仰向けに草臥くたびれていく。


 大地が、頬に触れた。

 噛みついた獣は、いつまでも離れない。俺の喉と一体になることを求めるように、自身の鼻先を体液のほとりに沈める。

 草いきれに混じる鉄っぽい臭気と、内側から火をつけられたような、熱感とも痛みともつかない感覚で、血を流しているのだとわかる。



 こうして、俺は夢でオオカミに殺された。

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