Nの現在、ぼくの現在

「どうしたの? それもう空なんだけど?」

 Nの声ではっと我に帰った。どうやらぼうっとしていたらしい。

 ぼくの唇に添えられた中ジョッキは側面にこびり付いた泡くらいしかなかった。


「もう、今夜はそればっかり、定番のネタなの?」

 ちょっとぼんやりしてただけなのに、まるでぼくがそんな呆けた一発ギャグが面白いと持ってるみたいに言わないでほしい。


 ぼくはNがどんぶりに盛らずに半分ほど残している牛皿を勝手につまんだ。同じはずなのに、牛丼の具より美味しい気がする。


 そういえば、Nは今も小説とか、書いたりしてるのだろうか、今の彼女が昔みたいに本に埋もれながら噛み付くように執筆に没頭する姿を想像するとちょっとおかしかった。


「もはや、書くことはアイデンティティだからね、ずっと書いてる。」Nは、空の色を訊かれたときのようにそう応えた。


「…、そうだねぇ、何度か小さな劇団の脚本を書いたりもしたよ。そうそう、それに、出版社とご縁があってね、もしかしたら何か出せるかもしれないらしいよ? 

 すごいねぇ」


 Nは他人事のように言った。

 その出版社というのも、大手のそれで、うまくいけば今年のうちにだせるかもしれないらしい。それじゃあ、もう、作家先生じゃないか。

 ぼくはさっきまで近づいていた距離が突然遠のいた気がして、やっと見つけたなくしものが実は全くの別物だったような気持ちになった。口の中が突然にからからになった。


「そう、私も信じられない。でもね、本当にそうなるなら、それ以上うれしいことなんてない」

 そう言ったNの顔はあまり嬉しそうには見えなかった。これもきっと本音だろうけど、慰めにはならなかった。



「そういえばさ、君はまだ何か書いたりしてるの? なんやかんや言いながら、結構面白いの書いてたじゃん、イタかったけど。」


 噛んでいたお新香の味がふいになくなった。


「——、ぼくは、ぼくもら学生時代は新人賞狙ってたりもしてたけど、最近は忙しくて。いやぁ、就職してからはさっぱり」


 気が付いたら、ぼくは早口でそう捲し立てていた。


 専門学校時代のぼくは時間もあったから、バイトをするか。書くか。そのどっちかしかしていなかった、と言っていいほどに小説ばかり書いていた。

 生活の中心に小説があった。


 けれど、ひとたび新人賞に作品をだしてみると、苦労して書いた自信作はほとんどが一次選考落ち、遊び半分で書いたあんまり気にいってない方の小説のほうがいいところまでに行ったりして。


 帰ってきた選評によれば「発想は大変おもしろいですが、独りよがりな表現や展開が目立ち、読者が置いてけぼりになるような部分があります。もっと読者を意識した展開を心がけましょう。」とのことだった。


 自分の文書がとるに足らない、つまらないゴミのようなものにしか見えなくなってしまったのは、いつからだったか。

 しかし、ぼくもまた、書くことを除けば、少しばかり背が高いだけのどこにでもいる人間でしかなくて。ぼくもN同様、書くことこそがアイデンティティなのかもしれなかった。


 咄嗟に嘘が口をついて出たのは、小説の体を成した文章で主人公に他人へ悪口を言わせることしかできない自分が情けなくて恥ずかしかった、だけではないのかもしれない。



「…そっか、それは残念。好きだったのに。」

 Nはさして残念でもなさそうに立ち上がった。「奢るよ」Nは財布を弄びながらレジへ歩いていく。

 ぼくもあわててジョッキの底に残ったビールを飲み干して、Nを追いかけた。



 Nは青色LEDの街灯に晒されながら笑みを浮かべて立っていた。


「そんじゃ、飲みなおそうか? 君の最近の作品も見せてもらわないとだからね。

 ――うーん、そうだな、後輩のお願い、聞いてくれないかなァ? 社会人としての先輩?」


 県道を抜けていった車のヘッドライトでNの一瞬真っ黒な影のように光って、その顔をとても楽しそうな笑顔だった。


「…、年功序列のまね事はナンセンスなんじゃなかったんですか?」


 ああ、ぼくはNにはかなわない星の下にあるらしい。


 仰いだ夜空は曇っていて、月すら見えなかった。

 

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