第二十二節 雪夜の中で

 わたしは、かじかみ、握れない手で雪をすくい、抱きしめ、溶けない事にもどかしさを覚えつつ、歯を噛み締め耐える。

 寒い。まくられたスカート、太ももに直接当たる雪、手は冷え雪は溶けず、口の中に放り込む。すすった泥水をゆすぎ、吐き出すと、再度雪を口に含み、溶けたそれを目に当てた。

 上っ面が洗えても、目に入った泥水の痛みはすすげない。何度も何度も同じような事をしたが、目の中まで確りとは洗い落とせなかった。

 じゃりじゃりとし、異物感を多量に含んだ目。それでも何とか開ける事が出来るようになった。

 何度も何度も更に雪を口に含んで溶かし、それで目を洗う。痛い痛い痛い痛い。

 異物感でわたしは自身の胸を掻きむしりながらも膝を突き、立ち上がろうとして、また雪の中へと転んだ。

 足がかじかんで、手と同じように動かない。

 倒れ込んだまま、視線を雪の中からゆっくりと上げる。

 ぼやける視界。既に夜のとばりは下りており、世界は白と灰色の空で満たされていた。雪ははらはらと降っているが、そう強いものではなかった。そして雲間から覗く月の光とクリシュナスピールの赤い光が、山肌を照らしている。

 光があれば、クリシュナスピールが方向を教えてくれる。わたしはそう思い、もう一度足に力を込め立ち上がる。ふらつき、倒れそうになるのを足に力を込めてこらえ、そして辺りを見回した。

 そこは白い雪原。木々に囲まれた小さな開けた場所。そして山の中である事は間違いなかった。

 足元を見る。思ったよりも暗い。そして泥水の影響でぼやける視界で、人の足跡を見分ける事は出来なかった。

 素足が丸出しであるのに気付いて、まくられたスカートを本来の位置へ戻し、わたしは下る方向に向かって歩く事にした。

 下の方へ向かえば何とかなる。その時はそう思った。

 下り、窪地、下り、更に下ると、今度は上りの傾斜が待っている。

 わたしはそんな事を繰り返し、思った以上に深い所まで運ばれていた事に気付いた。悪魔の洞窟があり、危険と先生達に言われ続けてきた所。いくらケレミー達とはいえ、そんなに深く分け入ったりしないだろうという頭があった。でも違った。

 きっとケレミーは、本気でわたしを殺したかったのだと思った。そんな事を考えると、このまま孤児院に戻っても、いい事なんて何もないと思った。このままどこかへ行こうか、そう思い、

「どこへ?」

 自身のその呟きが、自らの心をえぐった。

 手はまだましだった。だけれど深い雪の中に延々と差し入れられてきた足は凍えを通り越して、ひりひりとしみこむような鋭い痛みに変わっていた。

 わたしはぼやける視界、見渡せない世界の中、歩き続ける事に疲れ、木の根本の雪の上、腰を下した。

 息を吐くと白いふわっとしたものが出る。それをぼうと眺めながら、

「何の為、ここにいる? わたしは、誰?」

 そう呟き、その呟きはわたしにすべてのやる気を失わせた。元々やる気等はどこにもなかったけれど、それでも、〝いる〟事はしていた。それも、その時は意味のない事のように思えた。

「知らない内に、ここにいて、知らない内に、フェルミナになって、わたしは、何も、望みはしていない」

 木の幹に身を委ね、わたしは目をつむる。

「居る意味も、居たい思いも、見いだせない。だから、ここで、もう、眠らせて」

 足の痛みも手の感覚も、どこか遠いもののような気がして来た。今までの現実と、今の現実のどちらが本当なのだろうと思った。

 孤児院で甚振られる現実、アルシェール達と過ごした現実、今、雪の中で凍えている現実。それらはわたしがそう認識しているだけで、眠ってしまえば全部消えるんじゃないかと思った。

 どさりと音がした。木の枝から雪が落ちたのだろうか。


 わたしはどのくらいそうして居ただろうか。寒くて、身を縮こまらせて、疲れて、痛くて、動きたくなかった。

 そんな時、遠くから何かの音がかすかに聞こえて来た。

 その音に耳を澄ます。

 やがてその音はざくざくと雪を踏む音に変わる。

 動物か何かだろうか、それとも神域の子だろうか。どちらでもいい。この夢をそれはきっと終わらせてくれるんだと思った。

 でもその音はわたしの近くまで来てぱたりと止まる。

 目を開ける気もなかった。しばらくそうしていると、かすかに息遣いが聞こえた。そして、

「やっほ、久しぶり」

 わたしは目を瞑ったままそれを聞いた。

 どこか懐かしく、それでいて聞きなれない音調。

「こんな所で何してるのかな? もう疲れちゃったの?」

 わたしは、話しかけて来る〝それ〟に向かって何も答えない。

「ひどいなぁ。久しぶりなのにその扱いはないんじゃないかなぁ」

 わたしはしつこく話しかけて来る〝それ〟に、ようやく目を開く気になった。

 瞼がうっすらと上がり、より上に行くにしたがって、ぼやけている視界の中にあって、〝それ〟だけははっきりと見る事が出来た。

 雲間と木々の隙間から差し込む月光、そしてクリシュナスピールの光がそれを照らす。黒いドレスの裾が風に泳ぐ。金色の髪が細やかな線となって広がる。

 わたしは開いた目を再度細めた。

「だれ?」

「わたしはアルシェール、アルシェール・アティス。アルシェールと」

「嘘だ!」

 わたしがそう叫ぶと〝それ〟はきょとんとした顔をした。

「アルシェールはそんな風には喋らない!」

 再び叫ぶとそいつは、人差し指を下唇に当てると少し考え込んでから、首をかしげた。

「そうなの?」

 わたしは咄嗟とっさに、

「知るか!」

 そう言って、

「幻覚か、神域の子か知らないけれど、わたしを食べるなら、食べればいい」

 するとそいつは目を細め、

「意外と元気ね。ん、じゃあ、頭からまるかじり?」

 首をかしげてニコリと微笑む。

 わたしは顔をそっぽに向けると、再び目をつむる。

「好きに、すればいい」

 わたしはそう言った。

「わかった」

 衣擦れの音。雪を踏む音。近寄って来る。

 わたしはうつむき、歯を噛み締めた。

「え」

 うっすらと目を開ける。

 わたしはそいつに抱き締められていた。

 屈み、わたしの頭の横に自身の頭を寄り添わせて、

「ただいま。今、戻ったよ」

 そう、静かに言った。

 姿だけは声だけは、何もかもアルシェールなのに、何もかもアルシェールじゃないそいつにそう言われ、わたしは、自身の頬に何か伝うのを感じた。頬の曲線を流れ、それは口元に辿り着く。

 しょっぱかった。

「わたしはあなたの友達。唯一の友達。わたしだけしかあなたの気持ちはわからない」

 そう言ってからそいつはわたしの頭から自身の頭を離した。

「何を……」

 そいつはわたしの足をさする。小さな声で歌いながら。

 懐かしい歌声だった。

 しばらくそうしていると、不思議と足にあった刺すような冷たさが薄れていった。

 驚いてそいつの顔を見上げる。

 優し気な笑顔。

 頭に手を置かれ、一撫ですると、そいつはわたしの顔に手をかざす。

 驚いて目をつむった。

 そいつは、わたしの瞼に手を当てる。

 温かい、柔らかい、目の痛みが、じゃりじゃりが、消えて行く。急に異常な程の涙が流れ、それが目から異物を何もかも流して行くようだった。

 歌声が止まり、

「もう、平気かな?」

 そいつがわたしの顔から手を離す。

 目を開けると、視界は以前のように澄んでいた。

「平気なようね。さ、行こう。あなたをここで死なせたりしないわ」

 立ち上がり、わたしに手を差し出す。

「本当に、アルシェール?」

 そいつは、アルシェールは、ニッと笑って、

「もちろん!」

 そう言った。

 手を取る。

 グッとアルシェールがわたしの手を引く。

「これで揃った。わたし達は二人で一人」

 そう言ってからアルシェールはまるで道が分かるように、

「こっちよ」

 そう言ってわたしの手を引いて歩き出した。

「アイツ等、結局怖がって、あんまり登らなかったみたい。詰まる所、あなたが自身で山深くに入り込んだと」

 わたしはその言葉にうつむくと、アルシェールは振り返り笑った。

「気にしないで。今はわたしがいるから平気よ」

 ウインクをし、わたしはなんだかとても恥ずかしくなった。

 そんなわたしに、

「お帰りのキスと抱擁をしてくれてもいいのよ」

「するか!」

 わたしは慌ててアルシェールの手を離した。

「あら残念」

 こいつは本当にアルシェールなのか、その疑念は消えない。

 そもそも〝本当〟のアルシェールと欠片も似ていない。

 誰なのだろう。なんでわたしを、アルシェールを、知っているのだろう。考えれば考えるほど、分からなくなっていく。

 そんな事を考えながら、ずっと無言で歩くわたしを、そいつは、面白そうに見詰めていた。

「考えたって無駄なのに。あなたや、木や雪、ほかの人達が〝いる〟こと自体不思議な事よ。そんなものたちが何かの法則を信じて暮らしているの。わからない何かの上に立って、無理やり決めた法則があると信じてね」

 ぽかんとするしかなかったと思う。

 そんなわたしにそいつは続けた。

「でもそれはただ、信じているだけ。〝知らない〟〝わからない〟はそこかしこに口を開けて待っているわ。わたし達はわからないままだと〝それ〟を判別する事すら出来ないの。だからわたし達は決まり事を作り、法則を作った。でも大元はわからないまま。不安定な土台の上に建てた家がどれだけもつのかしら」

 わたしは足を止め、アルシェールの顔をじっと見詰めた。

 アルシェールはにこりと笑い、遠くの方を指さした。

「見えたわ、孤児院。あなたの始まりの場所」

 アルシェールの指の先には、わずかな光が窓からちらちらと漏れる、孤児院があった。

「本当に、帰って来れた」

 わたしは数歩前に進む。

 振り返り、そこにいたアルシェールは頷いた。

 わたしは傾斜を駆け下りる。そこは別棟だった。

「ありがとう! アルシェール!」

 もう一度振り返ると、そこには闇が広がっていた。誰もいなかった。

 呼びかけるが返事はない。

 わたしは慌てて探し回ったが、今抜けて来たばかりの暗い口を開ける森の中に、踏み入る勇気はなかった。だから待った。座り込み、待ちながら、アルシェールの名を叫び続けた。

 だけれど闇の中から、誰かが出て来る事はなかった。


 そんな事をしていると、本館の方から、ランプの明かりがやって来る。

 わたしはそれに気付いたが、そんな事は、もうどうでもよかった。

 すると、ランプを持った、バノック夫人に先導されたエスタンティア先生がやって来て怒鳴る。

「こんな深夜に何事です!」

 わたしは必死に言った。

「アルシェールが! アルシェールがいなくなったんです!」

 エスタンティア先生とバノック夫人は顔を見合わせる。

「バカな事を言っていないで戻りなさい! アルシェールなら町に居ると言ったはずです!」

 エスタンティア先生のそんな言葉にも耳を貸さず、ひたすらアルシェールを呼び続けていると、エスタンティア先生はわたしの腕を摑み、無理やり立ち上がらせた。

「戻りなさい」

 厳しい表情でそう言った。

「あわ、会わせてください!」

 わたしの言葉にエスタンティア先生は眉を吊り上げた。

「ここにはいないと言っているでしょう! それにこんな時間にですか!?」

 慌ててバノック夫人がわたしに声をかけて来る。

「ほら、お嬢ちゃん。無理言ってないで、もういい加減帰りなさい。今はみんな、寝る時間だよ」

 わたしはその言葉にうつむくしかなかった。

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