第四節 目覚め
わたしの記憶の始まりは、白い壁。気付くと目の前にあった。そこは、ベッドと僅かな調度品が置かれ、窓はあるけれど、差す光もどこか柔らかい、灰色に染まったような部屋だった。
わたしはそこでただ〝居た〟望みもしないのに〝居た〟ベッドの上でなく、ベッドに寄り掛かり、床に座っていた。白いローブのような服装。髪は長く、金色だった。変な話しだろうけれど、わたしの髪の色は今みたいに赤くはなかった。それは、他のフェルミナ達が証明してくれる筈。
そしてわたしは、それより前の記憶を全く持っていなかった。自身が何故、どうしてここに居るのか、全くわからない。小さな頃の記憶。他の子達にある家族の記憶。エルファティアの孤児院には、記憶はないと言う子はたくさん居たけれど、実際は断片的ではあるものの、持っているものだった。でもわたしには欠片もなかった。
多くの人は、わたしと同じ状況に置かれたら、ここはどこだろうとか、何が起こったんだろうとか、わたしは誰だろうとか考えると思う。でもわたしは無感動だった。自身のその時の感情を言い表すとしたら、無だ。自身が誰でここがどこでもいい。体の中に蔓延する倦怠感、ただそれだけが心を占めていた。
わたしは何をするでなく、ただぼぅと、目の前の白い壁を眺めていた。
勿論その人が誰かなんてわからなかった。けれど、その人の発する言葉はわかった。わたしはきっと虚ろな目をしていただろう。視線だけをその人に向けた。
その女性はエスタンティア・モロゾフと名乗った。そして、わたしが何か憶えていないかを聞いて来た。 わたしは一拍遅れて首を振る。
するとエスタンティアさんは、続けて、幾つかの質問をして来た。そのどれもに首を振ると、顔を
それからまた、
その後、多くの老人が居る部屋に連れて行かれた。
その老人達からも多くの質問をされた。どんな質問だったかよく憶えていない。憶えている事と言えば、すべての質問に首を振った事だけ。
すると導師の一番老齢と思われる人が、失敗か、と呟いたのが聞こえた。
それから全員で何かごそごそと話し合って、その後に、エスタンティアさんだけが、わたしの前に進み出た。他の老人達は、その背後でジッとわたしを見ていた。
エスタンティアさんは、わたしは何らかのショックで記憶を失っていて、身寄りがない事。これから孤児院に案内するので、そこの孤児たちと一緒に暮らして行こうと言った。
わたしはエスタンティアさんの言葉に黙って従った。
わたしはエスタンティアさんに手を繋がれ、孤児院に連れられて行く時、初めて外の世界を見た。
青い空の下、太陽に照らされたそこは、どれも白く輝いていた。白、白、白、白。白い建物で埋め尽くされていた。エスタンティアさんから、そこはエルファティアと言う町だと聞いた。
今にして思えば、人の往来は多いけれど、ランナカイに比べると随分少なかったと思う。協会の施設のある、ランナカイ、ランナルージュ、ランナディードは元々プリステ・アモージュの都市であるから、一般の人達も住んでいる。北方の城塞都市ランナエルや王都ファラスは言うまでもない。だけれどその町、エルファティアは協会が協会の為に建てた町だったんだ。
その頃の神域との最前線は今でも変わらないランナエル。そして、ランナカイではなくエルファティアだった。エルファティアは山と森と川の迫る場所に作られていて、ランナカイと同じくクリシュナスピールで守られていた。
そんな町の西端、町を外れ、田畑の広がる長い道を歩き、山の裾野の森の奥へと進むと、少し開けた場所があった。そこにひっそりと建つ白い建物が、孤児院だった。
鉄柵に囲まれたそこは、どこか監獄を思わせた。中も木々が生い茂り、背後には山が迫っている。鬱蒼としたそこは、どこかジメジメとしており、あまり居心地のいい場所ではなかった。
どうして町から離れたそんな場所に建てたのかはわからなかった。当時のわたしでも、そこは孤児達が暮らすのに、あまりいい環境ではなかったと思った。また、そう思う別の理由もあったのだけれど。
鉄柵を
そこで、老婆が一人で出迎えてくれた。
「バノック、お部屋の準備はいいかしら」
エスタンティアさんがそう言うと、老婆は整えておりますと恭しく頭を下げた。エスタンティアさんは、今思うと、随分と高位の導師だったんだろうと思う。
その後、一つの小さな部屋に案内された。そこは、わたしが孤児院時代にずっと使う事になる自室。中は、わたしが初めて目覚めた時の部屋と大して変わらなかった。
エスタンティアさんはわたしをベッドの上に座らせると、初めてわたしにわたしの名前を知らせた。
デルフィ・イルミナーゼ。孤児なのに、何故この人がわたしの名前を知っていたのか、わたしは
エスタンティアさんは、わたしには大いなる力がある事。やがて、人類を救う事になる事。その為にここで学び、鍛え、人々に役立つ力を身に付けなくてはならないと言った。
エスタンティアさんが言ったのは、恐らくフェルミナの力の事だろう。何も知らず、何も憶えていないわたしに取って、それはどんな意味があるのか。
エスタンティアさんは黙って聞くだけのわたしの気持ちを知ってか知らずかこう続けた。何かを成す事に意味等なく、そこに意味を見出す事が重要だと。人は、何か目的がある時だけ、強く生きられるのだと言う。
何故そんなものを望むのだろうとわたしは思った。この人も、生まれて来なければ、何かを必要とする事のない無で居られたのに、と。だけれど口にはしなかった。
当時のわたしは、今思い返しても、本当にわたしなのだろうかと疑ってしまう。実際、心を持たない〝物〟のような気がしてならない。自分なのに、どうしても、その時のわたしは、今のわたしではない気がしてしまう。そう思える程に異様で、異常だったのだとも思う。
わたしは、その後、シャンデリアのかかる大きな部屋へと連れて行かれる。
部屋の中央には大きな長方形のテーブル。テーブルの上に置かれた燭台には赤々と火が灯され、何人かの使用人と思しき男女が食事の用意をしていた。そして集まって来たのは、数人の先生となる導師の人達。そして三十人程の子供達だった。
みな、わたしを物珍しそうに見るが、誰もわたしに話し掛けては来なかった。みな陰気な目をしていたと思う。
エスタンティアさんはわたしに、喋れるかと聞いて来た。
わたしは頷くと、もう直ぐ夕食が始まるから自己紹介をしましょうと言う。
自身の事等、何もわからないのに自己紹介なんて酷な話しだと思うが、エスタンティアさんは、わたしに名前を名乗る事。即ち、わたしをデルフィ・イルミナーゼにする事。そして今日からここで暮らす事になったのでよろしく、ただそう言えばいいとだけ教えてくれた。
夕飯の席、先生達や孤児たちが大きな長方形のテーブルを囲んで座る。壁際には何人もの使用人達が立っている。その前で、わたしはエスタンティアさんに促されて立ち上がった。
「わたしはデルフィ、デルフィ・イルミナーゼ。今日からみなさんとここで暮らす、よろしく」
そうとだけ言った。
大きな拍手がなり、よろしく、という声が大きな部屋の中に木霊する。
「今日から新しい仲間が加わります。みんな仲良くね」
エスタンティアさんがそう言ってからテーブルの上の食べ物を手の平で指し示し、
「新しい仲間の歓迎には豪華な食事が必要でしょう。みなさん、今日の出会いを喜び、楽しみましょう」
孤児たちはわたしよりも、目の前の食べ物に興味をそそられているようだった。
「いただきます」
エスタンティアさんのその言葉を、席に着いた全員が唱和する。
いやわたしだけはしなかった。食欲もなく、ただ目の前の食べ物を眺めていた。そうしていると、
「お前それ食べねぇのかよ」
そう言って金髪の男の子が、わたしの目の前の食べ物を奪って行った。
エスタンティアさんは怒っていたが、わたしは食事に興じるその光景を醒めた目で見ていたと思う。
これが、わたしが、デルフィ・イルミナーゼとして始めた一日目の出来事だった。
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