11.25歳の秋(8)
「それが、私が高3の8月のことだったの」
「……」
啓子先輩のお母さんは、自分が長くないことを知った。
今の内に伝えなければ、と啓子先輩にすべてを話したと言う。泣きながら、時折喚きながら。
「話を全部聞いて……私もパニックになってしまって。お母さんはもうすぐ死んじゃう。お父さんは本当のお父さんじゃない。本当のお父さんはすぐ近くにいる」
「……」
「迷ったの。本当に迷ったの。お母さんが全部私に話をしたのは――Kさんに知ってほしかったからじゃないかって。最後に会いたかったからじゃないかって」
Kさんとずっと呼んでいたのは啓子先輩のお母さんだった。
そして先輩にとってのお父さんは、実の娘じゃないのにずっと育ててくれたお父さんだった。
私の父をお父さんと言う訳にはいかなかったのだ。
じゃあ、あの渡り廊下で先輩と白い手紙を見たときは。
予備校の先生である父に、もう告白したあと。
父のことだ。啓子先輩のことを邪険になんてできなかったに違いない。
それに、卑怯な言い逃れをするような人じゃない。ちゃんと認めたんだ、自分が父親だって。
じゃあ――啓子先輩のお母さんに、会いに行ったんだろうか。
「母とは、会ってないわよ」
私の心を読んだかのように、啓子先輩がポツリと言った。
「それだけは、できないって。家族を裏切れないからって」
「……!」
その言葉を聞いて……モヤモヤしていたものがあっという間に弾け飛んだ。
濁っていた視界が、急に開けたように感じた。
だから先輩は、手紙を書いた。
余計なことを言った、自分さえ我慢すればよかったのに、と。
ちゃんと話して謝るべきか、いやそんな時間こそ邪魔になるのではないか。
迷った挙句の、『Dear K』から始まる手紙だった。
そしてお父さんは、そんな娘からの手紙を捨てられるような人じゃなかった。
それは、私のよく知っているお父さんと寸分の狂いもなかった。
「ただーいまー!」
玄関から元気な男の声が聞こえてきて、飛び上がりそうなほど驚いた。
啓子先輩がハッとしたように顔を上げる。少し身を乗り出して、玄関の方へと声を届けるように。
「お帰り、シンゴ!」
「お母さん、今日ねぇ……あれっ!?」
ドダダダ、という足音と共に黒いランドセルを背負って黄色い帽子をかぶった男の子が現れる。
啓子先輩によく似た、可愛い顔をした子だ。ハァハァと息を切らしながら大きな目をまんまるにすると、ガバッと頭を下げた。
「お客さん!? ごめんなさい! こんにちは!」
「……こんにちは」
思わず笑みがこぼれる。
随分と礼儀正しい子ね。きっと、啓子先輩に厳しく言われてるんだろう。
「謝らなくていいのよ。もう帰るから」
「え、あ、えっ!?」
男の子にニッコリ微笑み、腰を上げる。それを見た啓子先輩が慌てたように立ち上がった。
「でも、あの、まだ……」
「いえ、いいんです。今日は、もう」
まだ全部は話してないんだけど、と言いたげな啓子先輩の言葉を遮る。
テーブルの上に投げ出してあった手紙を鞄にしまい、会釈をして玄関へと足を向けた。
この子の前で話をする訳にはいかないな、と思った。
勿論聞きたいことはいろいろある。だけど……それは、この子と啓子先輩の大事な時間をぶち壊してまですることじゃない。
啓子先輩は予備校で働いている。きっとこの子は、いつもは誰もいない家に帰ってきている。
だけど、今日は休みだったから。だからこの子はこんなに嬉しそうに息せき切って帰ってきたに違いない。
だてに小児科病棟で働いていない。親を待つ淋しそうな子供の顔、会えて嬉しそうな子供の顔はたくさん見てきた。
お父さんと啓子先輩の話は、もう過去のことだ。いま話そうが後で話そうが、事実は変わらない。
それに、お父さんは私が思っている通りのお父さんだった。そのことが信じられただけで収穫はあった、と思えた。
「また、来ます」
「え、ええ……」
「じゃあね、シンゴくん」
「うん! お姉ちゃん、さよならー」
靴を履き、扉を開けながら振り返る。
まだ困惑した様子の啓子先輩に微笑み、そして男の子に手を振って、扉を閉めた。
正直なところを言えば、完全に気分が晴れた訳じゃない。『Dear K』の手紙で距離を置いたはずの二人が、どうして今も会っていたのか。
気になることはいろいろある。だけどきっと、先輩の話に出てくるお父さんは、私の知っているお父さんなんだと思う。
この家に来た時と比べれば、気分は雲泥の差だった。
お母さんには到底言えない話だ。だけど、お母さんが知る必要はない。私だけが知っていればいい話だと思う。
私が黙っていればいいだけのこと。
……でも、もし私の気が弱くなるようなことが起こったら。
啓子先輩のお母さんや啓子先輩みたいに、ぶちまけたくなるんだろうか。
そのときには、誰か受け止めてくれる人が傍にいればいいな。
すっかり西に傾いた太陽に目を細めつつ、道路の脇に停めておいた車を見る。
手の中で遊ばせていた車のキーを差すと、ガチッというしっかりとした手ごたえを感じた。
ふと、この車をお父さんと一緒に買いに行ったことを思い出した。
性能がどうとかカーナビはどうするんだとかいつもの調子で細かいことを言ってたなあ。
でも、もう聞けないんだ。
そう思ったら、涙がほろほろとこぼれてきた。
思えば、あの日から今日までずっと、泣いてなかったことを思い出した。
ぐにゃぐにゃと曲がる視界を何度も拭いつつ、車のエンジンをかけた。
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