9.25歳の秋(6)

 街の中心部から外れた、小さな平屋の一軒家。

 かつてお父さんが消えていった扉の奥に、私は案内されていた。


 記帳に残されていた三上啓子さんの住所は、確かにこの家のものだった。

 自分の嫌な予感が全部当たっている気がして、本当に気分が悪い。眩暈がする。


 綺麗な先輩。美しい思い出。平穏な我が家。真面目なお父さん。

 私が夢中になったもの。私が憧れていたもの。私が大事にしていたもの。私が大好きだったもの。

 全部、泥水をぶちまけられたように汚くなって台無しにされた気がした。嫌な臭いまでしてきそうで、吐き気がする。


「大事なお話があるんです」


 いきなりやってきて玄関先でそう切り出した私に、先輩は「どうぞ」とだけ言って中に招き入れた。

 その瞬間、心の奥底に溜まっていた澱がかき混ぜられたようなざわつきを覚えた。


 だって、これはもう、クロだ。

 もし何もないなら、もっと怪訝そうな表情になるはず。どうして急に家に来たのかしら、と。

 ――お父さんは、三上啓子と浮気した。


「あの……香澄ちゃん?」


 大事なお話があるんです、と言ったっきり何も言わない私に、啓子先輩が心配そうに声をかける。

 どう切り出したらいいかわからなくて、目の前に置かれたコップに入った茶色いお茶を見る。

 続いて台所。案内されたのは、ダイニングテーブルの方だったから。

 狭い、四畳半ぐらいしかない。壁紙といい、取り付けられているガス器具といい、ちょっと見たことがないぐらい古い。


 ふと奥に目をやると、六畳ぐらいの和室が見えた。野球のグローブと白いボールが床に無造作に置かれている。壁には世界地図、その脇には水色っぽい椅子が置かれた学習机。

 多分、先輩の子供のものだ。男の子だったんだ。もしあの噂通りなら……多分、七歳か八歳の子。


「……まさか私と、兄弟じゃないですよね」


 ぬるりと口に出た言葉は、そんな意味不明なものだった。

 しまった、そうじゃなくて……問い詰めるにしても順番が明らかに違う。

 慌てて正面の啓子先輩を見ると、大きく目を見開いて、言葉を失っている。


 ……噓でしょ。本当にお父さんの子供なの。


「何を、そんな……」

「だって、お父さ……私の父が、ここに来てましたよね?」

「えっ!」


 どうして知ってるの、という顔。

 もう完全にそうだ。信じられない! 汚い!


「最低です、先輩!」

「え、あ……」

「父とはいつからですか? まさか、この手紙からですか!?」


 カバンから白い手紙をひっつかみ、バーンとテーブルに叩きつける。

 あちこちに折り目があるレポート用紙が、カサリと音を立てた。


「これ……」

「先輩の字です! あのときの手紙です! そうですよね!?」

「……」

「Kさんって何ですか! 気持ち悪い!」

「だって……」


 啓子先輩の瞳からぶわわっと涙があふれる。


「ずっと……」


 後から後から涙がこぼれて、先輩は必死に拭ってはいるけど止まる様子は無かった。


「……、そう呼んでたから……」


 喉をつっかえさせながらも、必死で絞り出したような声。

 それが、かえって私の頭の血を昇らせた。


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