8.25歳の秋(5)
心臓が胸の外に飛び出そうなほど、ドクドク鳴っている。
急に、高1の秋の光景が脳裏に蘇った。
3年生の校舎に繋がる渡り廊下。ぼんやりと中庭を見下ろしていた啓子先輩。
あのとき手にしていたのは、『Dear K』と書かれた白い手紙。
まさかね。だって、一瞬しか見てないし。
それに、その手紙がこれだとして――どうしてここにあるの。
* * *
“私の告白を、受け止めてくださってありがとうございました。
そして、私の存在を受け入れてくださってありがとうございました。
無茶を言って、困らせてしまってすみませんでした。
でもこれで、ちゃんと踏ん張れそうです。
こんな手紙を書いてしまってごめんなさい。
だけど、口に出す言葉じゃなくて。そんな消えてしまうものじゃなくて。
自分自身から出た言葉だって、ちゃんと確かめたくて。
だから、文字にすることを選びました。そうすれば、自分の言葉を目でも確認できるから。
この手紙を読んだら、捨ててしまってください。
Kさんのご家族に、ご迷惑をおかけしたくないですから。
恨んでなんて、いません。私はもう、大丈夫です。
本当にありがとうございました”
* * *
差出人の名前はなかった。だけど――この字には見覚えがあった。
演劇部の手書きの脚本。お手本のような、綺麗な字。
ついさっきも見た。葬式の受付で記帳された、名前と住所。
『三上啓子』。……ああ、結婚してないんだ、と思ったぐらいだけど。
「……噓でしょ」
十年前の、手紙? だよね?
どういうこと。どうして啓子先輩がお父さんに手紙を書くの。
告白って何? 受け入れてくれたって何?
どこで出会ったの……と考えかけて、それだけはすぐに腑に落ちた。
私が通っていた高校の大学受験組の多くは、この地区で一番大きい予備校に通っていた。
確か夏頃かな。啓子先輩が
「演劇部のコンクールが11月ぐらいまでかかるから、そこから受験勉強なんて間に合わないの。だから春頃から予備校に通っているのよ」
と言っていた。
その大手の予備校というのが、お父さんの予備校だったから、
「お父さん、そこの国語の先生なんです」
「ああ、棚橋先生! すごく解りやすいよね」
「本当ですか! お父さんに伝えておきます!」
……と、そんな会話をしたのを覚えている。
でもそれは、啓子先輩だけじゃない。いろんな人が通ってたから、そのたびにそんな話をしていたし、全然気にも留めていなかった。
まさか……違うよね。先輩が、浮気相手じゃないよね。
十年前から続いてるとか? だとしたら先輩が産んだのはお父さんの子供?
いや、ない。それは飛躍しすぎ。あり得ないよ。
でも……例えば、こんな手紙をお父さんが十年前に貰っていたとして。
大人になって、啓子先輩が予備校に入社して、それで、つい……とか。
それは十分に考えられる。
喪服に身を包んだ啓子先輩は、やっぱり綺麗だった。
小学生の子供を持つお母さんには見えなかった。
でも、私が知っている啓子先輩は、不倫なんてするような人じゃない。
――ちょっと待って、『私が知っている』?
「……バカだ」
卒業以来、連絡もしてない。一緒にいたのは、たった一年足らず。
そんな私が知っている先輩なんて、ほんの一部じゃない。
そんな切り取られた『ほんの一部』からわかった気になるなんて、おかしいよ。
それこそ、国語の問題じゃないんだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます