3.春香(下)

 千春のフリをして、椎名先輩に会う。

 夢みたいなシチュエーション。何度もやろうとしたけど、どうしても勇気が出なかった。


 タコビルに着いて、一歩一歩慎重に踏みしめながら、非常階段を昇る。

 とっておきのサンダルで、しかも八階建てのビルだから息が少し上がるけれど、全然辛くない。

 鼓動が高鳴るのは、階段のせいじゃなくて先輩と二人きりで会えるというシチュエーションのせい。


 屋上に着くと、椎名先輩は手すりに背中を預け、スマホを見ているようだった。5分袖の濃いグリーンのストライプシャツに黒のジョガーパンツ。足元も黒で、キュッと引き締まっている感じ。

 パンツは何回か見たことがあるけど、あのシャツは初めて見る。今日のために、下ろしたんだろうか。

 ……千春のために。


 痛む胸を抑えながら、ゆっくりと近づく。

 それでも、これは私と椎名先輩の初デート。絶対に上手くやるわ。


「椎名先輩、こんにちはぁ!」


 千春のフリをして語尾をやや伸ばし、軽く手を振る。

 小さい歩幅で駆け寄って、なるべくこぢんまりと、可愛らしく。


「……ああ」


 スマホから顔を上げた椎名先輩は、私を見るなり「ん?」と訝しげな顔をした。


 今の私は、間違いなく千春の身体。

 服だって千春好みのショートフレアー。バスケで鍛えた太ももはすごいことになっていて、私にはとてもできないファッション。

 だけどなめらかな曲線を描く千春の足にはよく似合っている、はず。

 顔も、ほくろだってなくて肌もツルツル。そんな怪訝な顔をされるはずがないのに。


「本当によく似た双子なんだな」

「え?」

「……まぁ、本人が来たなら手間が省けた、とも言えるか……」

「は?」


 本人? ええ、千春本人です。身体はね。


「ねぇ。俺につきまとうの、やめてもらえないかな」

「え……」


 千春、が? 先輩につきまとってたの?

 私が見た限りじゃ、部活中に会話をしていたぐらいよ。


「家までついてきて、じっと俺の部屋を見上げてたり。公園で遊んでる俺の妹に、馴れ馴れしく話しかけたり。下駄箱に、手作りの栄養ドリンクを入れたり」

「え……」

「確か、誰もいない部室に忍び込んで匂い嗅いだりもしてなかった?」

「……」

「当たり前だけどさ。そういうの全部、気持ち悪い。すごく迷惑」


 どうして……どうして!?

 どうして千春に向かって、春香わたしがしたことを言うの!?


 それに、迷惑って? どうして?

 私、先輩には全く近づいてない。だって先輩のファンが怖いもの。

 全部、先輩の知らないところでやっていただけよ。物を盗んだりもしてないわ。


 妹さんとだって、仲良く遊んだだけ。栄養ドリンクだって、ネットでレシピを検索して、その通りに一生懸命に作ったの。味見もしたけど、美味しかったわ。部室は鍵が開いてて誰もいなかったの。制服はちゃんと元の通りにテーブルの上に投げておいたわ。本当はきちんと畳みたくなったのを、必死に堪えたのよ。ポケットに入ってた紙屑だって、持ち帰るのを止めたんだから。どんな小さなものでも、たとえゴミでも盗んじゃいけないと思って。


「あの、私は……」

「皆月春香でしょ」


 先輩がズバッと言い切る。


「俺、何回か見たんだよね。間違いなく、君だったよ」

「ええっ!」


 頬がカアッと熱くなる。両手で思わず覆ってしまった。


「私だって、判ったんですか!?」

「はぁ?」


 先輩がこれ以上ないぐらい眉間に皺を寄せ、口元を引き攣らせている。

 どうしてそんな顔をしているのか解らない。

 『間違いなく君だった』と台詞と、合ってない気がするわ。


 部活中ならともかく、後をつけていた私や部室に忍び込んでいた私を春香だと気づくなんて。考えられない。

 しかも今は、正真正銘、千春の身体なのに。


 ねぇ、千春。

 いたわよ。本当にいた。

 ほくろとかじゃなくて、私と千春を見分けられる人が! ちゃんと中身を見てくれる人が!


「それは……」

「嬉しい! それって、私をずっと見てくれてたってことですよね!?」

「いや、」

「身体は千春なのに中の私を見つけてくれるなんて! やっぱり先輩は、運命の人です!」

「もうマジで止めてくれ、本当に!」


 いつの間にか先輩の腕を掴んでいたらしい。その手をガッと引き剥がされ、激しく突き飛ばされた。

 屋上の、冷たいコンクリートの上で派手に尻餅をついて転がされる、私。


「確実な証拠も無いし、マネージャーの姉だから様子を見てたけどさ。本人が認めたんなら、クロだよな」

「え……」

「悪いけど、録音したから」


 先輩がスマホを私に掲げて見せる。

 録音? 私たちの会話を? あの、記念すべき台詞を?


「それ、私にもください!」

「はぁ!? お前、マジで何言ってんの!?」

「だって、記念です!」

「はー……もう、ヤバさしか感じないわ」


 先輩が私に背を向けて、スタスタと歩いていく。


「待って……待ってください!」

「離せよ。マジで訴えるから」

「意味がわかりません! それより……」

「だから、離せって!」


 必死に掴んでいた腕を、振り払われてしまった。

 体がぐらりとよろけて、お洒落のために見栄を張った踵の高いサンダルじゃ、自分の身体を支え切れなかった。

 非常階段の手すりの向こうへ、私の身体が投げ出される。


 先輩のひどく驚いた顔が見える。今にも泣き出しそうな、苦しそうな、何とも言えない表情。

 ああ……真っすぐに、私を見てる。射抜かれそうなほど。


 間違いなく君だって、言ってくれた。

 先輩は――一生、私を忘れない。

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