第6話 事件の終幕

 

 南川さんの連絡が途絶えた。

 巻雲刑事と高水高校へ向かい、霧島悠哉と面談。その後単独で気になる線を追うと言い僕達は彼女からの連絡を待っていた。

 しかし一週間が過ぎようとしているのに何も音沙汰が無い。

 さすがに不審に思い僕と結衣は探偵事務所へと向かった。

 見慣れたボロボロのビルの中に入り事務所の扉を開ける。

 人気はなく、錆びた換気扇が音を立てて回っているだけだった。

「南川さん・・・一体どこへ」

 辺りを見渡し、テーブルの上には吸い殻の溜まった灰皿に数枚の写真が山のように置かれていた。

 その内の一枚には経年劣化の激しいアパートの写真があった。

 霧島悠哉は深夜にここを訪れ、彼女はそれを問いただす為彼の高校へと向かっていた。

 結局その件がどうなったかは教えてもらっていない。

 いつも彼女がコーヒーを淹れるキッチンへと向かう。シンクには洗われていない食器が溜まっており、排水溝はその食器類の中に埋もれていた。

 本当に生活力の無い人だ。

「にゃー」

「うわっ!」

 思わぬ方向からの声に一驚する。後ろにたじろぎその際僕の肘が積まれた食器に当たり倒してしまう。

 ガシャーン!と食器は音を立てて崩れその音で「どうしたの!?」と結衣が慌てて駆けつけてくる。

 その食器が散らばった様子を見て「和哉・・・さすがにこれはまずいんじゃ」と絶句している。

「いや、半分は最初からだったから」

 僕は立ち上がり、声の聞こえた場所を見るとトラ猫が僕を不思議そうな目で見つめていた。

「シャロン・・・驚かさないでくれ」

「にゃー」

 自業自得だろうと言われた気がした。

 ただでさえ日当たりの悪い暗い部屋だ、足元は完全に死角で気付かなかった。

 僕は床に座りシャロンと向かい合う形になる。

「南川さん知らないかな?知っていることがあれば教えてほしいんだけど」

 当然シャロンはニャーとしか言えないので会話は成り立たない。

 一体どこに行ったんだ・・・例の霧島が行っていたアパートをまだ調べているのか?考えを巡らせるがそれ以外に思いつかない。

 シャロンは足を使って首辺りを掻く。こんな不清潔な部屋だ、ノミでもついているのかもしれない。

 そんなことを考え何気なしにシャロンの掻く姿を見ていると、ふと青色の首輪が目に入った。

「シャロン・・・首輪変えたのか?」

「にゃ?」

 初めてシャロンを見た時は赤い首輪をしていたはずだ。さらにその首輪にはシャロンとカタカナで文字が彫られていた。

 それでこの猫の名前が分かったのだ。

 しかし今はどうだろう。

 首輪は青く変わっており彫られた文字はN・Kに変わっている。

 N・K、シャロンとは特別関連性の無いようなイニシャルだ。

 そのイニシャルからパッと連想されるもの、それは〈似鳥和哉〉という自分の名前だった。

 それとも〈似鳥・小坂〉なのか、どちらにしても何故首輪を変える必要があったのか?特に深い意味はないのかもしれないが。

「シャロン、ちょっと貸してね」

 首輪を触り、裏のボタンをはずして首元から外す。

 手に取ると何の変哲もない首輪に見えたが、裏を覗くと小さなポケットの様な場所があった。細いものを突っ込めば中身の有無が分かるかもしれない。

「結衣、つまようじみたいに細い物はない?」

「え、ちょっと待ってよ」

 結衣はキッチンから出て南川さんのデスク辺りを探っている。僕もキッチンあたりで細いものを探したが、意外と見つからなかった。

 少しして結衣がこれならあったけどと僕に千枚通しを手渡す。

 お礼を言い、袋の隙間にそれを入れると中から徐々に黒く小さな部品のようなものが姿を現していった。

 最後まで押し出し首輪を振るって手の平に部品を落とす。

 それは小さなSDカードだった。


 その後も事務所を漁り、南川さんの行方を示すような情報を探した。

 キッチンを抜けると南川さんの個室があり、開きドアを開け中に入る。

 本棚には難しそうな書物が多く並び、出窓の枠下に机が置かれておりその上は資料で溢れている。

 床はカラフルな布が沢山落ちていたが、下着と気づいた時慌てて目を逸らした。

 机の引き出しを開けるとノートパソコンがあり、電源ボタンを押すとカラカラと音を立てながら起動する。

 充電はまだあるらしい。

 先程のSDカードを引き出しに入れられていた専用アダプターに差し込みポートにセットする。

 画面にはアカウントが二つあり、一つは〈REI〉と表示され、もう一つは〈N・K〉と記されている。

 その〈N・K〉という文字を見て、彼女は僕がこのパソコンを開くことを予知し予め作っていたように思える。

 シャロンの首輪も同様だ。自分に万が一何かがあった時、僕達に探してもらえるよう保険を用意していたのだ。

「さすが、抜け目がない」

 僕は〈N・K〉にカーソルを合わせクリックする。

パスワードの設定がされており、適当に南川零や僕達の名前をアルファベットで入力し試してみたがどれも違っていた。

「分からないな・・・」

 このままでは中身が見られないという焦燥感が徐々に押し寄せてくる。

 その時部屋に入ったドアからシャロンが覗き「ニャー」と可愛らしい声を上げた。

 そこで思いつき程度に僕はシャロンとアルファベットで入力してみる。するといとも簡単にパスワードは解かれ画面はロード画面に切り替わった。

 確かに、シャロンという名前を知っている人は限られているし名前の彫られた首輪がない今それを特定することは難しいだろう。

 パスワードに設定するにはちょうどよかったのかもしれない。

 結衣が「何かあったの?」と首を傾げ遅れて部屋の中に入ってくる。

 埃が舞い、パソコンの光が筋になって映画館のプロジェクターのようになっている。

 さすがに目と鼻が痒くなり空気を入れ替えたいと思ったが、誰かに見られているかもしれないという危機感を覚えそれをやめた。

 南川さんが急にいなくなったのは、何者かに誘拐された可能性もあるからだ。

 つまり、事件の深部に足を踏み入れすぎた結果彼女は狙われたのかもしれない。

だとすると僕達ももしかしたら危険な状況下にいるのかもしれない。

 やがてパソコン画面のロード表示は終わり、デスクトップの画面を全体に映し出す。

 表示されたアイコンは見覚えのあるようなものばかりだった。ライブラリを開き外部に挿入されたSDカードの欄が表示されている。

 それを開くと〈REI〉と記載されたフォルダーのアイコンがあった。

〈REI〉のフォルダーをダブルクリックし開くと恐らくプログラムコードが打たれているメモアイコンと四角の図形の枠内を黄色で塗られ〈Sherlock〉と書かれたアイコンが表示されていた。

「シャーロック?」

 この英語でシャーロックと書かれたアイコンは何かのアプリのように思えた。

 ダブルクリックでそれを開くとマップが表示され、赤いフラッグと黄色いフラッグが二本地図内に表示されていた。

「・・・赤いフラッグは現在地、なのかな」と結衣は呟く。

 彼女の言う通り、僕達が今いる場所をこのフラッグは示していた。

「だとしたらこの黄色いフラッグは何かな?」

 九州の北方にある島、対馬とその場所は書かれていた。現在地からかなり離れたこの場所、一体ここが何を意味しているのだ?

「赤のフラッグ通りだと、黄色いフラッグも何かの位置情報を示しているのかも」

「赤が僕達なら、黄色は南川さんかな?」

 黄色のフラッグを見て、単純に彼女のいつも着ているカーディガンを連想したのだ。イエローは彼女のイメージカラーだ。

「確かに、フォルダー名はREIと南川さんの名前だったし、シャーロックというアプリ名は探偵を想像する。黄色いフラッグも、あの人らしいし」と結衣も僕と同じことを考えていたようだ。

「赤いフラッグはこのアプリの発信源、黄色いフラッグは、恐らく南川さんは自分自身の携帯か何かのGPS機能を連動させて現在地を表示させているのかもしれない」

「シャロンの首輪にこのアプリを隠したのと、パソコンのアカウントが私たち専用のものが用意されていた事。自分の身に何があっても探し出せるよう予め用意していた・・・」

「でも、僕達が見つけ出せなかったらどうするつもりだったんだろう。直接隠し場所を教えてくれるならまだしも、こんな回りくどいやり方」

「遊び心があるからね、南川さん」

「めんどくさい人だなぁ・・・」

 苦笑しながらカーソルを動かし、黄色いフラッグをクリックしてみる。

 するとテキストボックスが表示されそこに〈七月二十八日 十五時十二分 lost〉と表示された。

「ロスト・・・発信源が途絶えたってこと?」

 二十八日というとつい三日前だ。この場所で何かトラブルがあったのか。

「和哉、下にまだ書いてある」

 彼女に指摘されマウスのホイールを下に転がしていく。

 テキストボックスの一番下には南川さんが事前に残しておいたであろう文章が記載されていた。

〈こいつと一緒に例のアパートへ向かえ、決して一人では行くな〉

 文面を読み頭の中で反芻させる。アパートは霧島悠哉が深夜に訪れた場所しかない、しかしこいつとは誰の事を言っているのだろう?

 数秒後、テキストボックスは自動的に閉じられ地図上に新たなフラッグが建てられた。

 白のフラッグ、恐らくアパートの場所を指しているのだろう。先程と同じようにそのフラッグをクリックすると住所と部屋番号、そこから一行の空白があり誰かの連絡先と顔写真が貼られていた。

 井上一馬、この人と一緒に例のアパートへ向かえと指示が書いてある。

「警察って書いてあるね。井上さん・・・巻雲刑事じゃないんだ」

「確かに、でも南川さんの事だからいろんな人と繋がりがあるんじゃないかな」

 僕はアパートの住所と井上一馬の連絡先を一旦控え、まだヒントはないかパソコン内を漁ってみる。

 しかしこのマップアプリ以外ヒントになりそうなものはなかった。

 離れた島で彼女の身に何があったのか、正直気が気でなかったが今は残された指示に従う他なかった。


 井上一馬に連絡し、最初は不審がられると思ったが要件を伝えると一度お会いしませんかと井上さん側から提案された。

「明日の午後四時に、駅前のわたぼうしというカフェがあります。そこで落ち合いましょう」

 わたぼうしという店がピンと来なかったが、ネットで調べると簡単にヒットした。

 当日僕と小坂さんはマップアプリに従ってその店に向かった。どこにあるのか、場所はすぐに分かった。

 白色の塗壁と寄棟屋根に焼き瓦が敷き詰められており、日本母屋を意識したような外観だ。

 在来工法で昔ながらの建物はビルやマンションが立ち並ぶ駅前通りには場違い感が否めなかった。

 目立ち分かりやすいからこそこの店を指定してきたのかもしれない。

 店内に入ると白のブラウスの上にエプロンを着た店員さんが愛想よく挨拶してくれる。

 井上さんの名前を伝えると中へ案内してくれた。天井にはあらわし柱が通り、壁はシルタッチで仕上げられ和風のつくりをしているが内装はどちらかというと洋風に仕立てられていた。

 薄暗い店内に電球色のダウンライト、モノトーンタイルのクッションフロアに木のローテーブルとソファチェア、異素材なデザインが組み合わされ和洋折衷の空間が作り出されていた。

「こちらになります」と店員が言い戸襖を三回ノックすると「どうぞ」と低い声が返ってくる。

 開けられたその部屋は六畳の畳と磨りガラスの出窓、座卓の上には青色の花手毬の模様が入った湯呑が置かれていた。

「こんにちは。お久しぶりですね、似鳥さん」

 声を掛けてきた男は白いポロシャツにスラックスを履き、胡坐をかいて壁に背中を預けている。

 髪はオールバックで固められ、やんわりと人当たりの良さそうな表情をしていた。

 まだ二十代だろうか、清潔感溢れる青年を思わせるフレッシュさだ。

「こんにちは。この度はお時間頂きありがとうございます・・・えっと、どこかでお会いしました?」

「えぇ、六月に一度。覚えてないのも無理ないですよね」

 井上さんは朗らかに言い向かい側に座るよう手で促した。

 僕と結衣は靴を脱ぎ中に入る。

 井上さんから座卓を挟んで座り、先程の店員さんが湯呑を一つ持って僕の前に置いてくれる。

「先に何か頼みましょう。ブラックコーヒー一つお願いします。似鳥さんは?」

 メニュー表を手渡され、何でもいいので一番早く目についた宇治抹茶ラテにしようと思った。

「宇治抹茶ラテ一つで」

「かしこまりました」と店員が去ろうとすると「ちょっと待ってください」と井上さんが制した。

「似鳥さんと同じ、宇治抹茶ラテでいいかな?」

 井上さんは笑って、僕の隣側を見つめそう質問する。一瞬彼が何をしているのか分からなかった。視線の位置はずれているものの、彼は確実に結衣に話しかけているのだと遅れて理解した。

「・・・はい、お願いします」

 結衣は呆気にとられつつも言葉を返した。

 しかし当然彼は何の反応も示さない。ただ誰もいない一点を見つめ続けていた。

「大丈夫だそうです」

「分かりました。宇治抹茶ラテを二つに変更で」と彼が店員に伝えると「ブラックコーヒーはキャンセルですか?」と不審げに確認を取ってくる。

「いえ、ブラックコーヒーも持ってきてください」

「はぁ・・・かしこまりました」

 店員さんは顔をしかめたまま部屋を後にし、廊下を歩き去っていくのを待ちタイミングを見かねて口を開いた。

「今の、どういうことですか?」

「え?どうって、私達だけ頼んで小坂さんは何も頼まないのでは申し訳が無いと思いまして」

 小坂さん、その言葉が出た瞬間僕は自分の耳を疑った。見えるはずがない、事実彼は彼女に話しかける時違う場所を見ていた。

 となると考えられることは・・・。

「南川さんに彼女の事を聞いたんですか?」

「正解です。驚かせちゃったかな?いや、驚いたのはこっちの方なんですけどね」

 やっぱりか、と僕は苦笑いする。

 彼女はどこかでサプライズを仕掛けないと気が済まない性分らしい。

「だけどよく分かりましたね。僕が君と同じく小坂さんが見えるとは思わなかったのかい?」

「一瞬そうかなって思いましたけど、違う所に話しかけていたので違うと分かりました。それに、彼女が返事をしても何も反応しなかった」

「そうですかー。その辺にいると思って話しかけたんですけどね」

 そう言って彼は天井を見上げてはにかむ。てっきり警察関係との繋がりは巻雲刑事だけとばかり思っていたが、恐らく井上さんにも色々と話したのだろう。

 それもそうか、例のアパートへ一緒に行けと指示されたということは彼もその件について知っているからだろう。

「ところで、六月辺りに会ったことがあるとのことでしたけど・・・すみません、覚えていなくて」

「あぁ、そうですよね。あれは、似鳥さんが小坂結衣さんの死体を発見し、警察に通報してくれた時でしたね。パトカーで事情を聞いている時、私もその場にいた。巻雲刑事の横に座ってメモを黙々と取っていました」

「あっ」

 思い出した、といっても鮮明なものではないが。そういえばそのオールバックの髪形に見覚えがあった。

「あの時の・・・」

「少しは思い出しました?」と彼が微笑むと戸襖がノックされる。

 店員が先程注文した飲み物を持ってきてくれて、僕と井上さんの前には迷わず置いてくれたが最後の宇治抹茶ラテをどうしようかと固まっていた。

「適当に置いておいてください」

 かしこまりましたと言ってそれを座卓に置き、その後一礼をして部屋から出て行った。

 僕はその抹茶ラテを小坂さんの前に置く。

「不審がられていましたね」

「無理もないですよ」と彼はブラックコーヒーを啜る。

 カップをソーサーに戻すと彼は僕を真っ直ぐに見据え微笑んだ。

「挨拶が遅れましたね。捜査一課の井上一馬です。南川と同じ時期に警察に入りました。とはいっても、彼女が辞めてからは最近まで疎遠でしたけど・・・」

「警察?南川さんが?」

「はい。ご存じなかったですか?」

「えぇ・・・」

 あの金髪でだらしのない女性が元警察官?正直全く想像できなかった。

「まぁ、色々と事情がありましたから彼女も他人に話したがらないのでしょう」

「何かあったんですか?」と思わず反射的に聞いてしまう。

 踏み込みすぎたかと後悔したが、井上さんは変わらない口調で淡々と話す。

「俗にいう、パワハラです。あの時は男女差別が特にひどい時期でして、彼女が現場に向かうと摘まみだされてしまうこともしょっちゅうでした。それでもあの性格ですから、気の強い彼女は色んな人たちに抗議し抵抗した。それがいけなかった。いや、決して彼女は悪くないんですけど。徐々に彼女は扱いづらい女だと疎外され組織で働く環境を失っていった」

「それで、辞めてしまった」

「うん、彼女も苦しかったと思う。僕も、自分のキャリアを気にして彼女に関わろうとしなかった。最低ですよね・・・最後まで彼女の声に耳を貸してあげたのは巻雲刑事だけだった。でもそんな彼も、今では・・・」

 そこまで言って彼は口を閉ざした。再びカップを手にコーヒーを啜る。

「本題に入りましょうか。似鳥さんが私に電話を掛けてきた理由は何となくわかります。南川の身に、何かあったんですね」

「そうです・・・何か知っているんですか?」

「いえ、一週間くらい前に彼女から連絡があって、似鳥和哉という学生から電話があったら手を貸してほしいと言われまして。その時私は死んでいるかもしれないねとも冗談っぽく言っていました。理由を聞く前に一方的に電話を切られて。全く、相変わらず変な奴ですよ」

「なるほど・・・」

 死んでいるかもしれない、それは最悪の想像だった。現時点では否定もできないし、その可能性は十分にあり得る。

「それで、似鳥さん。何があったのか教えて頂けませんか?」

 朗らかな声色が一段と低くなり、目つきを鋭くして僕を見据えてきた。

 その変貌ぶりに思わずぞっとした。

 人当たりの良さばかりに目を奪われていたが、彼も血生臭い現場を渡り歩いてきた刑事の一人なのだ。

「・・・これを、見て頂けませんか?」

 僕は南川さんの部屋にあったパソコンを取り出し、これを発見した経緯、中身に何があったか、不自然な点を彼に伝えた。

 パソコンを操作しながらフラッグとテキストボックスの内容を見せていく。

「なるほど・・・凄いアプリですね。誰に作ってもらったんだか。完全に電波法に抵触していますよ」と彼は苦笑いしながら言う。

「このアプリに書かれていることを信じるのなら、確かにまずい状況ですね。南川は行方不明、そしてこのアパートを調べてほしいと似鳥さんと僕に託したわけだ。しかし、このアパートは一体なんなんだ?」

「何って、霧島悠哉が深夜に訪れていたアパートですよ。南川さんと巻雲刑事は真相を確かめる為霧島に会いに行ったらしいですけど」

「なんだって、それは本当ですか?」

「えぇ・・・警察でも調べているものかと」

 当然南川さんはこの写真を巻雲刑事に見せたはず。当然情報共有されとっくに周囲を洗っているものかと思った。

「初めて聞きました。そんな話・・・」

 彼は頭を抱えて塞ぎ込み、唸り声を上げていた。この反応を見る限り、巻雲刑事は組織に黙り独断で行動していたことになる。

 何故そんなことを?彼にとって不都合な点があったのだろうか?

「調べてみる必要があるようですね。オーナーは中田栄治、しかし南川の事だ。とっくに接触して話を聞いているのかもしれない。その結果を聞く前に失踪してしまった・・・か。しかしこちらから彼を安易に刺激するとしっぽを引っ込めてしまうかもしれない。張り込みたいが、防犯カメラが設置されているし・・・」

 彼は考えを巡らせ、何か思いついたのか僕の方を申し訳なさそうに見てきた。

「似鳥さん、無理を承知でお願いしたいのですが・・・」

 僕は背筋を伸ばして次の言葉を待つ。こちらから協力を要請しているのだ、僕にできる事であればなんでも協力したいと思っている。

「例のアパート、小坂さんに見てきてもらうことはできませんか?」

「え?」

 僕は思わず間の抜けた声を出し、横にいる結衣を確認するように見る。彼女は目を見開き驚いた様に硬直していた。

「もちろん僕も近くで待機しています。ちょっとでいいです。窓から中が見えないかとか、耳を澄まして中の音を聞いてもらうとか。僕と似鳥さんが行くと、カメラに姿を捉えられてしまいますので」

「結衣なら姿が見えないから堂々と近づくことができる。しかし・・・」と僕が言い終える前に「分かりました。やりましょう」と彼女は声を上げた。

 僕の反応を見て井上さんはほくそ笑む。

「おっけーみたいですね。」

 僕は抹茶ラテのコップを持ち、「まぁ、彼女がいいのなら」と渋々承諾しストローに口付け一気に吸い込んだ。

 抹茶の濃厚な味わいが口の中で広がり乾いた喉が癒される。結衣も僕に続いて抹茶ラテを飲んでいた。

「ほんとだ・・・噂通りカップが浮いてる」と井上さんは歓喜し浮いたコップを楽しげに見ている。

「結衣に中を確認してもらって、その後はどうするんですか?」

「一旦彼女に中の様子を伺ってもらい、誰もいないようなら中への侵入を試みます。できれば、今夜の二十時あたりに行いたいです」

「急ですね・・・でも、中田栄治に直接話を聞いた方がいいのではないですか?」

「事は人命に関わりますから。南川が行方不明なんです。なりふり構っていられないですよ。中田栄治が犯人だとしたら、話を聞くだけ無駄ですから。それに、あまり時間は残されていないと思います」

「時間、ですか」

「はい。南川がまだ生きているとしたらどこかに監禁されているかもしれない。行方不明になった女子高生も同様です」

「それがあのアパートだと?」

「妙なアパートですから。パソコンに残された情報を見る辺り、自己管理物件で入居者はいない、経年劣化が目立つ割に防犯カメラが複数設置されセキュリティが硬い。可能性はあると思います。あくまで彼女たちが生きているという、希望的観測に基づいてですが・・・」

 その推理を裏付けるものは何もないが、刑事の勘、というやつだろうか。

 自信をもって話すその口調に信じてみたいという気持ちになった。

 そうだ、今は彼女たちの生存を信じる他ないのだ。

「今夜十九時過ぎ、小坂さんを迎えに行きます。似鳥さんは、どうされますか?」

 そう聞かれ、思わず僕は結衣の方を見る。急な話で覚悟が決まっていないのか、下に俯き動揺しているように見えた。

「もちろん、同行します。連れていって下さい」

 井上さんはその言葉を聞いて安心したように笑った。


 数時間後、井上さんの車に乗り現地へと向かった。僕は助手席に座り、静かに走るエンジンは車内の揺れを全く感じさせなかった。

 その乗り心地の良さに眠気を誘われ、思わずウトウトしてしまう。

 黒のセダン車で国産メーカーの有名車種、さすがに刑事は稼ぎがいいのだろうか。

 後部座席に目を向け結衣を確認すると、彼女は窓の外を不安気に見つめていた。

 近くの有料駐車場に停めそこからは歩いて現地へと向かう。駐車場から歩いて十五分程で例のアパートは見えてきた。

 一階の一室だけ窓から光が漏れ、その他の部屋は真っ暗だった。中田栄治は仕事中のはずだが、電気を点けたまま外出するものだろうか?

 アパートの姿が捉えられる、向かいのブロック塀の後ろに身を隠し僕達は顔を合わせる。

「じゃあ、小坂さん。周辺の確認をお願いします。窓から中を見て、でも恐らくカーテンがかかっているだろうから耳を澄まして音を探って欲しい。そして最後に、チャイムを鳴らしてみて下さい。誰も出てこないならそれでいいし、中田が出てくれば開いたドアから中を覗いて見て下さい。あと、これを」

 井上さんは銀色のプレートの様なものを取り出す。

「盤用のマルチキーです。建物の裏側に安全ブレーカーの集まったボックスがあります。それをこの鍵で開けて電気を落としてください。恐らく中に誰かいればブレーカーを上げに外に出てくるでしょう。誰も出てこないようであれば、私が中に突撃します。電気さえ遮断できれば防犯カメラも鉄くず同然です」

 井上さんはマルチキーを僕に渡し、それを彼女に渡す。

「ご無理を言い申し訳ありません。よろしくお願いします」

 中々の無理難題だ。

 数か月前まで普通の女子高生だった彼女が、他人の敷地内を探る手段を聞かされ実行しようとしているのだ。

 生前だと考えられなかった行為だろう。

「分かりました。やってみます」

 しかし彼女の目はやる気に満ちていた。

 その表情を見つめると、この作戦に反対する言葉も失ってしまう。

「結衣」

 彼女は振り返り、僕を不安気に見つめる。

「気を付けて。無理しなくてもいい。危ないと思ったらすぐに逃げるんだ」

 そう言うと、彼女は気が抜けたように笑った。

「大丈夫だよ。私の姿は誰にも見えないから」

「そうだけど・・・」

「和哉、ありがと」

 彼女は小走りで僕の前まで近づき、両手を後ろに組んで上目遣いに僕を見る。

 僕がたじろぐより先に、頬に温かく柔らかな感触があった。

「それじゃ、行ってくるね」

 硬直し動けなくなっている僕に踵を返し、アパートの方向を見据える。

 数秒立ち止まったまま、一歩、そして一歩とゆっくりとした足取りで敷地内を目指して歩き始めた。

 井上さんは僕を見て「何かあったんですか?」と心配そうに言う。

 かぶりを左右に振り、遠くなっていく彼女の背中を見た。

「今、彼女がアパートへ向かっています」

 本当は怖いはずなのに、彼女の動きにはまるで迷いは感じられなかった。

 どうしてあそこまで勇敢に立ち向かえるのか、僕には分からない。

「本当に嫌な役回りを押し付けて申し訳ない。でも警察が来たと勘付かれると、監禁されているかもしれない女性達の命が危ない」

「分かっています・・・」

 彼女の姿はついにブロック塀の後ろに隠れ見えなくなってしまった。

 上手くいっているのか、勘付かれ危険な状況に陥っているのか、ここからでは何も確認することはできない。

 どれくらい経っただろう、僕はただ闇に染まったアパートを見つめ続け、今のところ何も変化はない。

 井上さんを横目で確認すると、顔をしかめたままブロック塀の上部辺りを見つめていた。

 さすがに遅すぎる。周囲を確認するだけでこんなに時間はかからないはずだ。

 体がうずき、焦燥感に駆られる。

 やっぱり何かあったのかもしれない。だとしたらすぐに助けに行かないと・・・。

 その時、辺りが一段と暗くなった気がした。夜なので暗いのは当たり前だが、先程よりも闇が深くなったような気がする。

「よし・・・行ってくる!」

 そう言って井上さんは地面を蹴って走りだす。

 え?と呆気にとられた僕は反応が遅れ、次に彼を見た時には敷地内に侵入していた。

 なんだ!?防犯カメラは大丈夫なのか!?

 僕も遅れて走り出す。敷地内に入った時あまりの暗さに自分がどこを走っているのかもわからなくなった。

 井上さんと結衣の姿も捉える事すら困難だ。外灯が切れている?そうか、結衣がブレーカーを落とすことに成功したんだ。

 それに気づいた井上さんは数分観察して待ち、誰も出てこない様子を見て飛び出していったのだ。

 その時視界全体が真っ白に染まり、僕は目も開けていられなくなる。

「似鳥さん、来たんですね」

 光が足元に落ちていき、井上さんの持った懐中電灯だと認識する。

「ここから先は危険です。来ない方が身の為ですよ」

「今更何を言っているんですか・・・ここまでくれば最後まで付き合いますよ」

 僕が言うと彼はフッと笑った。

「なるほど、南川が入れ込むわけだ」

「え?」

「よし、入りましょう。小坂さんはどこに?」

「ここです」と声が聞こえ僕は声の方向を見る。懐中電灯の光が彼女の足を照らした。

 彼女の表情はよく分からなかったが、荒い息遣いと体の震えが感じていた恐怖を物語っていた。

 僕は彼女の元へ行き、力いっぱい抱きしめた。

「よく頑張ったよ。結衣」

「和哉・・・」

 今にも泣きだしそうなその声に胸が締め付けられた。もう引き返して休んでもいい、そう言っても彼女は頭を左右に振った。

 無理やりでも敷地の外に行かせた方がいい気もしたが、恐らく彼女は絶対に引き下がらないだろう。

「大丈夫。一緒です」と井上さんに告げる。

「中の様子はどうでした?」

 そう結衣に尋ねたが、挙動が落ち着かないのかしばらく僕の胸の中で呼吸を整えていた。

 やがて僕から離れ、彼女は井上さんを見て答える。

「全てカーテンなどで仕切られていて、中から音は聞こえてきませんでした。少なくとも中田栄治は外出していると思います」

 その言葉を伝えると彼は表情を変えず頷いた。予想通りと言った様子だ。

「了解です。少し歩きます。僕から離れないでください」

 彼は行く道に光を当て、僕と目を合わせコクリと頷くとゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 僕と結衣も彼についていき、繋いだ手が汗ばんでいくのが分かった。

 建物の側面に回り掃き出し窓の前で彼は立ち止まった。カーテンで覆われ中の様子を窺うことはできない。

 網戸を外し、ポケットからガムテープと小さなハンマーを取り出す。このハンマーはどこかで見たことがある、確か車などで閉じ込められた際ガラスを叩き割るためのレスキュー用のハンマーだ。

 彼はガムテープをガラスの一部分に張り付け、その後ハンマーを振り上げ縦框の召し合せ部すぐ横のガラスを思いっきり叩いた。

 何回も何回も叩き、ガラスは次第に割れていく。テープを張ったことにより割れる音を最小限に抑えられ、これなら近所に気付かれる事は無いだろう。

 手が突っ込めるほどの大きさまで割るとハンマーを置き、クレセント錠を外し掃き出し窓が開かれる。

 懐中電灯を室内に照らし、誰もいないことを確認するとこちらを振り返る。

 引き返すなら今だ、そう言われているような気がした。

 僕達の間で視線がぶつかり、テレパシーの様に意思疎通ができたような気がした。

 井上さんは頷くと靴を脱ぎ、窓枠を超えて中に入っていった。

 僕も同様に脱いだ後、次に足を踏み入れる畳の目を見る。

 恐怖心で足がすくんだが気持ちを押し切って中に飛び込んだ。


 室内を見渡すも暗くどのくらいの広さを持った部屋なのか分からなかった。

足を踏み出す度、何か物を踏んでいる感触があり散らかっている事だけは確かだった。

 井上さんが照らす明かりを目指して進んでいき、結衣も僕の手を握ったまま後ろをついてくる。

 懐中電灯の光がフロアを照らした時、細長い物体がくっきりと映し出されそこへ近づいていく。

 ぼさぼさの髪に黄色いカーディガン、その正体が分かった時僕は思わず声を上げそうになった。

 南川さんだ、間違いない。床に横たわりピクリとも動かない様子から最悪の想像をする。

 井上さんはゆっくりとした足取りで彼女に近づき、その場にしゃがみ込み彼女の手首に手を当てた。

「大丈夫、まだ生きている」

 その言葉に胸を撫で下ろし、しかし直後井上さんの背後に黒い影のようなものが接近していた。

「井上さん!」

 僕の叫びも虚しく金属の鈍い音が響き次の瞬間彼は南川さんの横に同じように倒れていた。

「はぁー、無防備だな。隙だらけだぜ。井上よ」

 低音で空気を震わせるような声が静かな部屋に響く。どこかで聞き覚えがるその声。頭の中で検索をかけるより先にそいつは僕の前まで近づき同じように僕の頭を殴った。

 頭が震えた後体全体が叩きつけられたような衝撃を覚える。

 瞼には白い光が映り、電気が復旧したことを遅れて理解する。

 今にも落ちてしまいそうな意識を必死で堪え、目をわずかに開き状況を確認しようとする。

 視界に映ったのは、薄ら笑いを浮かべる初老の男だった。その人物を見て一瞬安心するが、すぐに引っ掛かりを覚えた。

 違う、この人は・・・僕達を殺そうとしている!

 次の瞬間、再び頭に衝撃が加わり今度こそ意識が途絶える。

 巻雲孝介、彼の嘲るような笑い声が部屋の中に響き渡った。


 井上は朦朧とする意識のまま少しずつ目を開く。明瞭としない視界には床に足を組んで座り、体を壁に預け煙草を吸う巻雲の姿があった。

「やはり・・・裏切者はあなただったのですね」

 掠れた声が彼の耳に届いたのかは分からない。彼は目線だけをこちらに寄越し僕の姿を見るなりニヤリと笑った。

「何か言ったか?井上。やっぱりお前はしぶといなぁ」

 彼は不気味な笑みを浮かべ、煙草を口につけ煙を体内に入れ続けていた。

 何か・・・反撃の手段をと体を動かそうとするも手足はロープで縛られこの場から一歩も動けそうになかった。

「無駄だよ。お前に勝ち目はない」

 どうやらそのようだった。行動を封じられてしまえば地面を這いつくばる芋虫と大差ない。

 首だけは自由に動き、周囲を見渡すと自分と同じように縛られ地面に倒れている南川と似鳥さんの姿があった。

 二人共意識はないようだ。

「お前、二人をどうしたんだ!」

「別に、殺しちゃいねぇよ。南川は大事な商品になるし、お前らは身元不明の死体としてきちんと処理しなくてはいけねぇ。その為にはしっかりと段取りをしておかないとな」

 巻雲は腕時計を見つめ「後一時間もしない内に仲間が駆けつけてくる。そいつらに連れていかれた場所がお前らの最後の場所だ。顔を潰され指紋を焼かれ、四肢を断絶された後日本中の海にばら撒かれる。できることならここで息を絶たせておきたいが、生憎人様のお家でね。汚すことはできないんだ」

 くそっ!ふざけやがって!自分は一か月間こいつの行動を探ってきた。職務規定に数々の違反を重ねたことが問題になり、捜査課長より怪しい動きが無いか傍で見張っていろと命令があったのだ。

 それでも巻雲が捜査から外されなかったのは過去の実績と今でも現場で鼻の利く優秀な刑事だからだ。

 最後まで見抜けずこの有様では刑事としての自分は終わっているも同然だ。

「あーあー、暇だなぁ」と巻雲は煙草を灰皿の中でもみ消し、胸ポケットから新たな煙草を取り出そうとしている。

 奴は今油断している。不意を突いて反撃するなら今しかない。

 再び周囲を見渡し、何か使えそうなものはないかを探す。

 その時、隣の和室の隙間が僅かに開いていき、そこからスマートフォンが覗いているのが分かった。

 巻雲にバレず携帯を操作できる存在、それはたった一人しか思いつかなかった。

 あるじゃないか、この場を突破できる最終手段が。

「なぁ、巻雲。最後に教えてくれよ」

 僕は不敵に笑い、挑発するような口調でそう言った。

「あ?なんだよ」

 奴は意外そうな顔でこちらを見る。すっかり僕が諦めているものかと考えていたのだろう。

「事件の全貌だよ。冥土の土産にそれくらいいいだろ」

 はっ!と巻雲は鼻で笑う。

「ヤダよめんどくせぇ。お前に教えたところで何のメリットがあるんだ」

「南川の失踪を追う為僕は今まで目星の付けたことがいないアパートに忍び込みこうして捕まっている。実際南川はここにいたわけだけど、何故かあなたもここにいる。正直意味が分からないんだ。こんなごちゃごちゃした気分じゃ死んでも死にきれないよ」

「知らねぇよ。お前の気持ちなんて」

「小坂結衣が殺された時、あれは木原舞の殺人と類似していた。ありふれた通り魔の殺人かと思う事も出来ましたが、僕はこの二つの事件は繋がっていると思った」

「忘れたのか?小坂結衣を殺したのは同級生の石田萌香だ。木原舞とは一切関係ねぇよ」

「そう思わせたかった、いや、同じ犯人にやらせる必要が無かったんだ」

「は?」

「石田萌香は確かに自首しましたが、犯行動機を未だに話そうとしない。まだあの事件は何も解決していませんよ。もちろん木原舞を殺したのは別の誰かでしょう。しかし、彼女達三人には共通点があった。それが霧島悠哉という存在です」

 その時巻雲の手に持った煙草の灰がフロアに落ちた。

 彼は依然として僕を嘲るように笑う。

「確かに奴は木原舞が殺される直前、カフェで会っていた。でもその後はアリバイがある。防犯カメラに彼が駅のホームに映っている様子は確認しているし、その後自宅に帰っていることもご家族が証言している」

「アリバイがあるのは当然でしょう。だって彼が直接手を下す必要はなかったわけですから」

「何?」

「彼は過去に不純異性交遊が問題になっている。羨ましいことに彼は女性を口説くのが上手かった。だから石田萌香をそそのかしその殺意を小坂結衣に向けさせた。彼は小坂結衣と木原舞とも恋愛関係があったようですから、石田萌香は彼女達を憎んでいたのかもしれません。霧島の事を愛し盲目になっている彼女には彼を恨むという選択肢は無かったと思います。彼に好意を抱いているからこそ石田萌香は犯行動機を隠し続けているんだ。木原舞を殺した犯人も、そして数々の行方不明事件も全て霧島が誘導し仕向けたことだ」

 僕がそこまで言い終えると巻雲は口をぽかんと開け固まっていた。

 数秒の無言があり、その後彼は腹を抱えて可笑しそうに笑いだした。

 僕はその様子をただ睨むように見つめている。

 ひとしきり笑ったところで彼の表情は一瞬にして冷たくなる。

「馬鹿かお前。何でそんな回りくどいやり方をしなくちゃいけないんだよ。それに、いくら石田が霧島の事を愛しているとはいえそれだけで犯行動機を黙っているとは限らないだろう」

「確かに、その通りです。では、こう考えてみましょうか。彼女は彼の事を話すことができなかった」

「どうしてだ?」

「小坂結衣を殺したのが、霧島悠哉だったから」

 そう僕が言った瞬間、襖がガタンと音を立て揺れた。

「誰だっ!」

 巻雲はすぐに反応し大股で和室を仕切る襖まで向かう。バンッと勢いよく開かれるもそこには誰もいなかった。

 おかしいな、と頭を掻きながら和室の方へと入っていく。

 しばらくすると彼は眉間に皺を寄せ戻ってきた。

「やっぱり誰もいねぇ。隙間風か?ちきしょう」

 先程と同じ場所に座り直し再び視線を僕に向ける。

「それで、何だ。霧島が小坂結衣を殺しただと」

「えぇ。そう考えると辻褄が合う。石田萌香は霧島悠哉を庇い、警察に自首をしたんだ。動機を言わないのは彼女の言葉から不自然点があれば警察に勘付かれる可能性があるからだ。僕は南川から推理を聞いたことがある。飛んだ発想でそれを裏付けているものは何もないが、いい線を行っていると思った。そして疑問に思った。何故霧島とあなたは共同を組むことになったのか。誰かの仲介で知り合ったとしても、霧島があなたの犯罪行為に加担する義理はないはずだ。その間には何らかの事情が無いと成立しないはずだと。例えば、霧島悠哉が小坂結衣を殺してしまう。衝動的な殺人だったのか、彼は死体を見て混乱する。このままでは捕まってしまう、助かる手段を必死で模索する。そこであなたに連絡した。自分を助けてほしいと、愚かにも刑事の携帯にかけたんだ。それはあなたを汚職刑事だと知っていたからこそなのかもしれないが。殺人現場のあの路地、あそこはある暴力団の島だ。あなたとつながりの深かった、あの組織とね」

 巻雲は何も言わない。ただ黙って煙草の煙を天井に吹いていた。

「あなたが元四課にいたことは僕も南川も知っている。暴力団相手に密売を手引きしていたことは噂で聞いていたが、証拠が無い為問題にならなかった。その頃から繋がりがあったんでしょう。あなたは現場の証拠隠滅と死体放棄を彼らに手配し、警察は実際殺人現場を特定できていなかった。あなたは霧島に身代わりとなる人物を自首するよう指示し、そして石田萌香が自首した。彼女の恋心を利用してね。それからあなたはその殺人について黙っている代わりに霧島を犯罪行為に加担させたんだ。例え霧島が疑われ捕まったとしても、あなたの事を告発しようとも、直接手を下さず証拠を残していないあなたが捕まる事は無い。霧島は得意の話術で女性を落とし、特定のポイントまで誘導させ、後は南川の推理通り人身売買などに利用していたんでしょう」

 僕がそこまで言うと巻雲は煙草を灰皿に入れ、大きくため息を吐く。

 胸ポケットから新たな煙草を取り出すかと思えば、動かしかけたその手を止め下に降ろした。

「そこまで推理していて証拠がなけりゃ虚しいよなぁ。無駄な妄想ばかりに頭を働かせ現実は何も動いていない。税金泥棒とは、お前みたいなやつを言うんだろう」

 呆れたように言う彼に対して、僕は不敵に笑った。その様子を見て彼は眉を顰める。

「証拠は、ありますよ」

「・・・何?」

 彼は顔を険しくし僕を見て唸るが、すぐに「ハッタリだ」と言う。

「本当です。確かにあなたは痕跡を見事なまでに残らず消してきましたが、それは消される前に発見されれば決定的な証拠になる」

 その時、静まり返った町中にけたたましい音が響きこちらまで聞こえてくる。

 音は段々と大きくなっていき、近づいてくるたび巻雲は激しく狼狽し始めた。

「何!?どういうことだっ!」

 それは聞き馴染みのあるパトカーのサイレンだった。巻雲はこの場を切り抜ける算段を付けようとしていたらしいが既に手遅れだった。

 サイレンの音はすぐ傍まで来て、複数の人間が土を蹴り走ってくる音が聞こえてきた。

「終わりだよ。巻雲さん」

 そう言った後、僕は戸襖の先にいるであろう彼女を見る。姿は見えないので正直今そこにいるのか分からないが、親指を突き立てにやりと笑って見せた。

「警察だ!動くな!」

 屈強な男達が次々と部屋の中に押しかけ、巻雲はあっという間に押さえつけられた。

 先程まで勝ち誇っていた彼が今は地べたを這いずり回っているようにもがき苦しんでいる。

 その姿を確認した後、「あとはまかせた」と僕は重い瞼を今度こそ閉じた。

 まさか幽霊に助けられる日が来るとは。不思議なこともあるものだ。

 落ちていく意識の中、最後に彼は彼女を思う。

 早く、零に会いたいと。


 南川零は病室のベッドで長座位になり新聞を広げる。

 窓から入る風に頬を撫でられ、夏特有の蒸し暑さと不思議な高揚感を覚えた。

 早くここから出たい。窓の外を眺める度そう思う。

 白で統一されたこの部屋にはテレビ以外に娯楽要素は何もなく、特に禁煙と言う所が我慢ならなかった。

 はぁ、と大きくため息をついた後新聞で気になる見出しに目を落とし文字を読み進めていく。

 そこにある文面を読み、彼女は目を細めた。

「終わった、か」

 そこには小坂結衣、木原舞、そして相次ぐ行方不明者の事件が記されていた。

 巻雲孝介、反社会組織の一部のメンバー、そして霧島悠哉が自供したことにより捕まった。

 全てが明らかになるのも時間の問題だろう。

 そこまで読んで新聞を折りたたみ布団の上に投げ捨てる。

 結局私は、何もできなかった。彼らに偉そうな口を叩いておきながらこの有様だ。

 正直顔向けできない。

 そう思った矢先、部屋の開き戸が三回程ノックされる。

「はい、どうぞー」と私は反射的に答える。

 引戸がゆっくりと開かれ、足音が徐々に近づいてくる。

 袖壁から出てきた彼の姿を見て、私は恥ずかしさのあまり布団を頭から被り隠れた。

「いや、南川さん何やってるんですか」

 彼は呆れたような声を出し、私はさらに恥ずかしくなる。

「その声は少年か?まだ容態が良くなくってな。こうして寝込んでいる」

「慌てて布団を被る姿を見ちゃいましたよ。それに、今週には退院するんでしょ」

 そこまで見られたのなら仕方がない、私は潔く布団から身を起こし長座位に戻る。

「どうしてそれを知っているんだい?この部屋もよく分かったね」

「井上さんに聞いたらすぐ教えてくれましたよ。意外と怪我の程度が軽かった事も」

「まったくあの男は、プライバシーというものを知らんのか」

 少年は苦笑いし、手に持った袋から色鮮やかなボトルを取り出しそれを窓枠に置いた。

 私の視線に気づき、少年は朗らかに笑う。

「ドライフラワーです。結衣に選んでもらってこれがいいだろうって」

「花か。煙草の方が嬉しかったかな」

「ダメですよ。まだ病人なんですから」

 冗談だよと返した後私は彼が小坂さんではなく結衣と呼んでいる事が気になった。

 そうか、恋が実ったんだな。

「今、小坂さんは?」

「いますよ。僕のすぐ後ろに」

 少年は親指で後ろを指す。姿は見えないが礼儀正しく会釈をし微笑んでいる姿が頭に浮かんだ。

「ありがとう。わざわざ来てくれて」

「いえ、そんな」

「私は、何も力になれなかった。私が監禁された後、きっと君なら私のメッセージに気付いてくれると信じていた。すまないな。めんどくさいやり方を取って。でもいつ誰に事務所を荒されるか分からなかったから」

「確かにめんどくさいなと思いましたけど、でもあの手掛かりのおかげで最悪の事態が免れたんです。何も力になれなかったなんて、そんなこと絶対にないですよ。それに」

 また、風が吹く。デザインボトルのおかげだろうか、ハーブの甘い香りが部屋全体に広がった。

 少年は私の目を見て微笑む。

「暗闇の底に突き落とされたような僕達を、救ってくれたのはあなただった。本当にありがとうございました。南川さん」

 その時、少年の隣に誰かが立っていた。はっきりと見えるわけではない。

 うっすらとピントの合っていない写真の様に輪郭はぼんやりとしていた。

 艶やかな黒髪に白い肌、人懐っこそうでさわやかな表情をした少女。

 そうか、彼女が君の恋人なんだね。

 私にも、ようやく見えた。

「末永くお幸せにな。少年」

 私の見抜いたような言葉に、彼らはくすぐったそうに笑いあっていた。


 少年と小坂さんが帰った数時間後、再び部屋の引き戸がノックされた。

 返事も待たずに入ってきたのは愛想笑いを浮かべる井上だった。

「お前、勝手に人の部屋教えただろ」

 私の文句に彼は一瞬とぼけたような表情をする。

「別にいいじゃないか。二人とも会いたがってたし」

「まったく」

「怪我の具合は大丈夫そうだな」

「まぁ、体の方はな。精神的にはいかがわしい事をされてだいぶ参ったけどね」

「その先は聞かないでおくよ」

 そう言って彼は壁に立てかけてあるパイプ椅子を設置し腰掛ける。

 かつての同期とこうして直接話すのもかなり久しぶりの事だった。

 今回の件で電話越しには何度か話したが、接触するのは周囲に怪しまれると思い会わなかったのだ。

「やれやれ。でも今回の件は小坂さんのおかげで万事休すだったよ。捕まっている時浮いたスマートフォンが戸襖越しに見えて、すぐに通報しているものだと分かった」

「そこで現地をビデオで撮影していたこと、そして駆け付けた捜査員があの光景を目の当たりにしたことが決め手だったわけだな」

「そう。巻雲が捕まったことで芋づる式に関係者を特定することができた。案外口を割るのは早かったぜ。あのおっさん」

「そうか・・・」

 私は下に俯き、自分の半開きになった手を眺める。警察時代、巻雲さんと一緒にいた頃の記憶が走馬灯のように流れ込んできた。

「やっぱりショックか?」

 彼は心配気に私を見つめる。その視線に気づいて私は不自然な笑みを浮かべることしかできなかった。

「お世話になった人だから。裏があることは薄々気づいていたけど、やっぱりつらいよ」

「俺は最初からあの人を疑っていた。いつボロを出すのか目を光らせていたから、今回ようやく捕まえることができてせいせいしている。でも、そうだよな。あの人はいつだって、南川の味方だったからな」

「そうだった。今思えばあの優しかった彼は全て偽りだったのかもしれない。結局私の味方なんて、誰一人いなかったのかな」

 私の呟くような声は室内に響き、一瞬にして空気中へと虚しく消えていく。

 そうだ、私はいつだって一人だ。誰からも必要とされず、受け入れられず、きっとこの先だって、ずっと一人で生きていくんだ。

 そう、自らを納得させようとした時だった。

「僕が、いる」

「え?」

 彼の上擦った声に私は驚いて彼を見る。

 両手に拳を作り、真っ直ぐに私を見据えていた。

「君の味方は、僕がいる」

 強張った表情で彼はそう続けた。そうか、こいつは私の事が好きだったんだよな。

 普段はどんな事件にぶつかろうとも冷静に対処していた彼が、今は緊張のあまり呂律が回っていない。

 油断も隙も無いような印象だったが、案外ちょろい所もあるものだ。

「あぁ。そうだったね。私には井上がいた」

「そ、そうだよ。忘れんな・・・」

 そんな彼が可笑しくて、気づけば私はお腹を抱えて笑っていた。

「なんだよ!人が気を遣って言ってやったのに!」

「すまんすまん。でもこれは我慢できない」

「お前なぁ!」

 笑っているとき、なんだか心に温かいものが流れてくるような感覚があった。

 それは感じたことのない気持ちで、案外私もまんざらでもないのかもな。

「そういえばさ」

 彼は誤魔化すように話題を変える。

「小坂結衣を殺したのは霧島悠哉だった」

 そう言われ、私は下に俯く。

「そうらしいね。新聞で読んだよ」

「あぁ。その動機も取調べで明らかになった」

「私が気にしているだろうからって、わざわざ教えに来てくれたのかい?」

「え?ま、まぁ。そうだよ」

 彼は窓枠に置かれたドライフラワーを見つめ、ぽつぽつと語りだした。

「霧島悠哉と小坂結衣は、腹違いの兄弟だったんだ」

「何?まさか」

「そのまさかだよ。小坂結衣の父親、小坂宗平は霧島悠哉の母、霧島彩音と性的関係を持ちその際子供を授かった。ただその時佐藤瑠香との結婚が控えていた為、小坂宗平は霧島彩音にその子を堕ろすよう言い放った。自分は違う人との結婚を控えていて君とは遊びの関係だった。だから自分の前に二度と姿を現さないでくれと。その後小坂宗平は佐藤彩音と結婚をし、その間に小坂結衣が生まれた。霧島彩音は途方に暮れただろうし、抵抗する気力もなかったのかもしれない。でも、彼女は子供を堕ろさなかった。霧島悠哉を生み、一人で彼を育てた」

「その小坂宗平という男はとんでもないクズ野郎だな。結婚を控えている身で違う異性と行為に及んだわけか」

「あぁ。かなりの遊び人だったのかもな。でも小坂結衣が小学校に上がる前、彼は亡くなっている。その間霧島彩音が彼から支援を受けた事は無かった。未婚で妊娠した場合養育費はその父親が役所に認知届を行わなくてはいけない。そんなこと小坂宗平がするはずもないし、霧島彩音は裁判を起こす暇もない位働き詰めで霧島悠哉を育てるのに必死だった。そして、霧島悠哉は母親が苦労している姿を間近で見ていた。毎日疲弊し、たびたび体を壊し、急に泣き始めたり怒って家を滅茶苦茶にしたり。精神的に追い詰められていた。その度に霧島悠哉が聞かされていたのは、お前のせいだ。お前さえ生まれなければこんなことにはならなかったんだと押し倒され怒鳴られ、暴行された。時間が経つと頭を床に擦りつけ涙を流しながら謝罪をしていたらしい。その度に霧島悠哉は小坂宗平への憎しみを募らせていた」

「そして、小坂結衣と出会ったと」

「そう。小坂という名字からもしかしたらと思ったらしい。この辺ではあまり見かけない名字だからな。霧島は彼女に接触し、どことなく彼女の身辺について聞き出していった。そこで彼は気づく。僕達親子がこいつの父親のせいでどれだけ苦労し苦しめられたのか、こいつはちっとも理解していない。今日まで僕と母の存在すら知らずあろうことかこの僕に恋心すら抱いている。虫唾が走る。こいつらさえいなければ、母の人生は狂わされずにすんだのに。幼少期から溜め込まれていた殺意が一気に溢れ出し、彼女の一族全員を皆殺しにしてやりたいと思ったらしい」

「そして、小坂結衣は殺害されたと。皆殺しと言っておきながら、結局一人殺すと怖くなって巻雲に泣きついたわけか」

「そうなるな」

「彼は、いつ巻雲と知り合ったんだろうね?」

「それは南川の知っての通り、中田栄治の仲介で知り合ったんだ。たまたま居合わせた、と言ったところだ」

「そこでお母さんに隠れて酒と煙草を悪い大人からもらっていたわけだ」

「良くある話ではあるがな」

 彼は腕時計を眺め、あまり時間が無いのか眉をひそめた。

 私とは違い、彼は忙しい身なのだ。

「巻雲は霧島を利用して女性を特定のポイントまで誘導させる。一人一人ポイントを変え、その後は反社会組織のメンバーに誘拐させ監禁する。監禁場所は長崎県の山奥にある廃工場だった。中田栄治の父親が昔経営していた工場らしい。その場所で虐待と性的暴力を繰り返し行われ精神を犯され、彼女たちは逃げる気力すら失っていた。幸い死亡者は出ていなかったが、精神的な傷が深く社会復帰にはまだ時間はかかるだろう。その後は不法入国者を乗せる密航船に彼女達を売り渡し謝礼金を頂くと。若い女の方が高く値打ちがつくらしいから未成年の女性を狙ったのはその為だろう。巻雲もその海外グループとは匿名でやり取りしていた為その実態まで辿り着くのは難しいだろう」

「なるほどね。木原舞を殺した犯人は誰か分かったのかい?」

「小坂結衣と同じだ。巻雲が指示して彼女を殺したんだ。南川の推測では彼女は知り過ぎたから消されたとのことだったが、まさにその通りだった。オレンジカフェで木原舞は霧島悠哉と会い、実はその場に巻雲もいたんだ。話を盗み聞きし、彼は彼女の処置をどうしようか判断しようとしていたらしい。実は霧島は別の女子と一緒にいる所を木原舞に目撃され、尾行されていた。その尾行に気付かず彼は一緒にいた女子を立体駐車場まで連れ込み黒いバンから出てきた男達に彼女を渡していた。一連の光景を見た木原舞は一目散に逃げだした。霧島は彼女の逃げる後姿を見てまずいと思ったんだろう。巻雲に相談し、最悪どこかにリークされる前に殺すと彼は言っていたらしい。霧島は木原舞にいつものカフェに呼ばれ、そこであの時の事について尋ねられた。木原舞がすぐに他の誰かに漏らさなかったのは霧島の事が好きで信じたくなかっただろう。結果、木原舞は殺された。さすがに巻雲も木原舞の件でまずいと思ったのか、それ以来誘拐事件が起きる事は無かった」

「正確には私が最後だったわけだが。巻雲的にはさっさと売り渡して事を終わらせたかったんだろう。だからその後組織の人間と対馬に行き段取りを進め、その途中私が現れたわけだ。覚悟はしていたけど、殺されないだけマシだったかな」

「近日人身売買する現場で殺人なんて起こせるわけが無いからな。でもお前も、木原舞と同様知り過ぎたから牙を剥かれたわけだ」

 やれやれと私は呟き、天井を見上げる。

 真っ白なクロスが視界に広がり、私の心境を映し出しているかのようだった。

 今でも事件で苦しんでいる被害者たちを思うと、本当にやりきれない。

「とにもかくにも、南川、お前のおかげで最悪の事態は免れた。ありがとな」

 井上はそう言って屈託なく笑いかける。

 でも私は彼の目を直視することができなかった。

「私はただ拉致されに行っただけだ。伝言に気付いてくれたのは少年たちのおかげだし、そして最後に仕留めてくれたのは井上、お前のおかげだ。私は何もしていないよ」

 結局私はどうしたいんだろう。居場所を無くした挙句に警察を辞め、しばらくほっつき歩いた後気まぐれで探偵事務所を開いたものの全くうまくいかない。

 ようやく頂けた初めての依頼もこの有様だ。事件を解決したのは結局目の前にいる井上で私ではない。

 私は、この後どうすればいいんだ。このまま探偵を続けて果たして意味はあるのだろうか?

「ふっ」

 彼の息を吹くような声に反応して私はそちらを見る。

 その時、彼は可笑しそうに私を見て笑っていた。

「いや、ごめんごめん。あまりにもお前が落ち込んでるからさ」

「最悪だな。普通そこは励ますだろ。笑いたいなら笑いなよ」

「だから違うって!それに南川、お前はするべきことは全部達成しただろ」

 何を言っている?と言いかけて私は口を噤んだ。

 彼の優しく微笑みかけるような目とぶつかったからだ。

「先日似鳥さんと会ったんだ。彼、嬉しそうだったよ。事件が解決したからじゃなくて、小坂結衣の笑顔が以前よりも増えたからって」

 彼は私の頭に手の平を乗せ、笑顔のまま続ける。

「依頼を達成した上に依頼人が前よりも幸せになったんだ。お前はもう警察じゃない。今のお前は探偵だろ?だから、事件解決が全てじゃないんだ」

 髪の毛をわしゃわしゃと荒く撫でられ、朗らかに彼は笑う。

 いつもなら振りほどいてやるところだが、今日の所は許してやるか。

「依頼解決、だな。南川探偵」

 彼の言葉を聞いて思わず笑みをこぼしてしまう。

 初めての依頼人は幽霊だった。

 そんなこと誰にも話せないし、話せば頭の神経を疑われ敬遠されるだろう。

 だからこのことは、胸の内にそっと秘めておこう。

 私達だけが知る、秘密の依頼として。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る