第5話 恋の観覧車

 僕が昼休み、図書準備室で彼女とくつろいでいた時だった。

 ポケットにいれた携帯が小刻みに震え、開くとメールが届いていた。

 差出人は南川零。何か霧島の件で進展でもあったのかもしれない。

 内容は〈今日学校が終わったら事務所に寄って欲しい〉とそれだけ書かれていた。

「何かあったの?」

 机の上で微睡んでいる小坂さんは頭をゆっくりと起こし目を細くしてこちらを見る。

 うぅと唸りまだ意識は夢の中を彷徨っているように思えた。

「南川さんから、今日事務所に寄って欲しいって」

「そうなんだ・・・」

 そう言うとまた彼女は机に塞ぎ込みスヤスヤと眠りについた。

 最近彼女は居眠りをすることが多くなった、今まで蓄積された疲れがここになって出てきたのかもしれない。

「おやすみ」と彼女に言い僕も椅子の背に身を預け仮眠することにした。

 霧島悠哉を南川さんが監視し始めたのは僕達がオレンジカフェに向かった翌日からだ。

 登校と下校、その後家から出てこないかを一日費やして監視しているらしい。

 既に一週間過ぎ、あれから何か分かったことがあってもおかしくない。

 明日から夏休み、結局期末テストは延期になり行われなかったがそれで舞喜ぶ生徒はほとんどいなかった。

 気持ちの悪い雰囲気が後を引いたまま、一学期が終わる。


「来たか少年」

 ドアを開くと陽気な声で南川さんが歓迎してくれる。

 彼女はあらかじめ用意していたのか、コーヒーカップとソーサーをローテーブルに二つ並べていた。

「前から思っていたんですけど、何で僕は少年って呼ばれているんですか?小坂さんは名前なのに」

「それはまぁ、最初にそう呼び始めて馴染んじゃったから。今更変えるのもめんどくさいだろう。不満だったかい?」

「いや、ちょっと気になってただけで」

「でも確かに、似鳥君は可愛いから少年っぽいかも」と小坂さんはくすくす笑っている。

「何だその腑抜けた顔は。小坂さんに何か言われたのかい?」と南川さんも悪戯っぽく笑ってくる。

 可愛いって、そんなに僕は幼い顔立ちだろうか。

 僕と小坂さんはソファチェアに座りいつも通り南川さんは煙草を加えて火を点ける。

「先日から霧島悠哉を尾行しているわけだが、分かったことがあってね」

 南川さんは数枚のL版写真を机にばら撒く。

 そのうち一枚を指さして話を続ける。

「霧島は水曜日、夜の一時に家から出てきてどこかへ向かっていった。私は少し遠くに車を停めてそこでぐったりしていたから、慌てて起きて追いかけたよ。十キロ程歩いたかな。タクシーも、自転車すら使わずご苦労なことだよ。そしてこの写真に写っているアパートの一室に彼は入っていった」

 写真を見ると経年劣化の激しいモルタル仕上げの白いアパートが映っていた。外壁は所々にクラックが目立ち、陸屋根の樋は部分的に割れている。

 四戸一で霧島が入室したであろう一室は照明の明かりが出窓から漏れていた。

「一時間程して霧島は出てきたよ。写真で明かりが漏れてる部屋があるだろう。そこに入っていて最初からその明かりは点いていた。奴が部屋にいる時私も近くで覗こうと思ったが、ブロックで囲まれた敷地内は防犯カメラが目視で二か所は設置されており近づけなかった。設置場所だが、一か所はアプローチに、もう一つは階段下にあった。ボロアパートで修繕が施されていない割にはセキュリティが充実している。妙なアパートだよ」

「誰に会っていたのか気になりますね。そこの入居者が誰なのか、管理不動産に問い合わせたら教えてくれませんかね?」と小坂さんが言い、僕がそれを南川さんに伝える。

「不動産は分からなかった。看板もないし、アパート名も分からない。仮に不動産が分かっても個人情報は教えてくれないだろう。巻雲刑事に相談したら早いんだろうが、それは最終手段だな」

「あんな夜遅くに、いったい何をしていたんでしょう」

「さぁ、ここに住んでいるのが若い女性なら早い話遊びに行ったんだろうが。なんとなくそれは違う気がする。はっきりとは分からないけど、この場所はどこか、犯罪の匂いがした」

 犯罪、という言葉が引っかかった。

 小坂さんの事件と木原さんの事件、これを霧島に繋げるとなれば犯行は複数で行われた可能性が高い。

「仮に霧島が事件に関与しているなら、この人気のないアパートで彼らは密会をしていたのかもしれない。彼らというのはもちろん、小坂さんと木原舞を殺害した犯罪集団の事だ」

 南川さんの言う犯罪集団。ここで僕は今までの事件を振り返ってみる。

 小坂さんの時は石田萌香が殺害した後死体は河原に投げられ、現場は清掃され証拠を隠滅されている。八谷は路地に大柄な男が立ち見張りをしているようだったと言っていた。

 木原さんは通り魔に襲われた単独殺人の可能性もある。

 しかし何故彼女はあの路地を訪れていたのか。

 あんな人気のない場所、女子高生一人で行くには危険なこと位一目瞭然だ。

 何者かにおびき寄せられ襲われたと考える方が自然な気がした。

 数々の不審な点、仮に霧島が事件に関与しているとするなら小坂さんの行動パターンを誰かに教えることも、木原舞をあの路地におびき寄せることも容易に思えた。

「とりあえず、来週の月曜日、巻雲刑事の立ち合いで霧島と会うことになっている。そこでこの写真について尋ねてみるよ」

 そう言って南川さんは煙草の灰を灰皿に落とし、僕達はまたその結果を待つことになった。


 そしてその日はやってきた。

 私は普段と変わらない、赤いスカートと黄色いカーディガンを羽織り、気持ち程度の化粧を施すと洗面所から出る。

 机に置かれた鍵と携帯、煙草とライターをポケットに突っ込み窓辺でくつろぐシャロンに近づく。

「それじゃ行くね、シャロン」

 頭を撫でても何の反応も示さず、振り向くそぶりも見せない。

「全く、誰に似たんだか」

 この子と出会ったのはいつになるだろう。

 確か、私が警察を辞め路頭に迷いかけていたあの頃だ。

することもなく昼間から公園でビールを飲んでいた時、一匹の子猫がこちらを見ていた。

 物欲しそうに手に持った缶を見てきて、さすがにアルコールを飲ませるわけにもいかないから当時住んでいたアパートに上げてミルクを飲ませた。

 この事務所を借りるまでは放し飼いをし、昼間には私の部屋にやってくるのでその度ミルクをあげていた。

 あれから数年経つが一向に懐いてくれない。

 あの子から見れば、私はエサをくれる人以上の認識はないのだろう。

 逃げ出さない辺り、この場所は案外まんざらでもないのかもしれないが。

 私は冷房を付けたまま部屋を出て、階段を降り共用廊下の庇を出ると黒いセダン車が停まっていた。

 運転席のパワーウィンドウが開き、そこに薄ら禿のおじさんが顔を覗かせる。

「よう。相変わらず色気がねぇな。違う服持ってないのかよ」

 巻雲刑事が嘆くように言うと「これが私の制服なんですよ」とおどけたように言い助手席に乗り込む。

 高水高校へ走り出し、いよいよ霧島悠哉と直接対面を迎える。

 あの猫には私の秘密を隠してある。

 私の身に何かあった時、少年がそれに気づいてくれれば幸いだ。


 一時間程経っただろうか、幅が狭く水道工事の跡が目立つボコボコな道路を進んでいきやがて四角い建物が二棟並んでいるのが見えた。

 窓は決められたピッチで施工されておりその様子は街で見かける市営住宅を思わせた。

 高水高校と金属のプレートが埋め込まれた門を通り入ると運動部の掛け声が閉めた窓伝いにも聞こえてくる。

 青春してるなーと横目で見ている内に車は停車した。

「何だ、気になる男でもいたのか?」と巻雲刑事は薄ら笑いを浮かべる。

「いえ、みんな楽しそうだなと」

 何一つ世の中を疑っていないような、真っ直ぐに前を見つめ走り続ける彼らは私の失ったものを見せつけているようにも見えた。

 これから先彼らの人生に何が起きるのかは分からないが、決して世の中の理不尽に屈してほしくないと思った。

 そして、若さを謳歌する多くの学生の中には、既に世の中に鋭い牙を向けるものも確かに存在する。

 その人物が、これから会う相手なのかもしれないのだ。

 教員棟の接客室に案内され、幕板の無いミーティングテーブルとパイプ椅子に座り霧島を待った。

 横の棚には数々の賞状やトロフィーが飾られ功績を見せびらかしているようだった。

 頬杖を突きそれらを見ている内に後ろの引き戸がノックされ、学校の教員と霧島が入ってきた。

 銀縁メガネをかけた強面の教師は会釈をした後こちらを睨んできた。

「困りますね、刑事さん。こう何度も来られますと」

 そう言って二人は机を挟んで私達の前に並んで座る。

 私の目の前には霧島悠哉が座り、話で聞いた通り端正な顔立ちと長めの髪、右目の下には特徴的な泣きぼくろがあった。

「お忙しい所すみませんね。少々確認したいことがございまして」

「確認も何も、前回彼にはアリバイがあり事件とは無関係と分かったじゃないですか」

 不満そうに言った後教師は私を一瞥する。

「ところで彼女は?」

「えぇ、ご紹介します。彼女は南川探偵事務所の南川零です」

「探偵?誰かに雇われここに来たと?」と彼は眉を顰める。

「いえいえ。事件の捜査に協力してもらっているだけですよ。南川、こちら霧島悠哉さんの担任、江原正二先生だ」

 私は用意した名刺を取り出し、彼の机の前に置く。

「初めまして、南川零です。本日は貴重なお時間いただきありがとうございます」

 江原は私の名刺を乱暴に取り上げた後内容も見ずにスーツの胸ポケットの中に入れた。

 どうやらあまり歓迎はされていないようだ。

「霧島悠哉です。よろしくお願いします」

 対して霧島は江原とは違い礼儀正しく挨拶を返してくれる。

 態度だけ見れば霧島の方が幾分大人に見えた。

 頭を軽く下げる私に江原は舌打ちし苦言そうに口を開く。

「さっさと用事を済ませてくれ」

 そう言って彼はパイプ椅子の背もたれに寄りかかり深くため息をつく。

 彼からしてみれば面倒事を押し付けられ早く片をつけてほしいのだろう。

「では、単刀直入に」

 私はポケットから数枚の写真を取り出し、それを霧島の前にばら撒く。

 彼はそれらを凝視し目を細めた。

「この夜、君はここで何をしていた?」

 その質問の意図を理解した時、彼は明らかに狼狽し始めた。

「・・・これは、南川さんが何故この場所を知っているのですか?」

 彼は巻雲刑事の方を不安気に見る。

 巻雲刑事もまた、厳しい視線を彼に向けていた。

「やましいことが無ければ答えられるはずだ。平日の深夜に家を抜け出して誰に会いに行ったのか、それを教えてくれ」

 私は何度かあのアパートを外部から観察してみた。

 防犯カメラに映らない程度にしか動けなかったので満足のいく発見は無かったが、彼の入っていった部屋以外は生活感が全く無いように思えた。

 出窓や掃き出し窓にはカーテンといった目隠しが一切無く、換気扇ダクト穴からすぐ下の外壁は汚れた空気を排出する為黒く汚れやすいが、あの部屋以外汚れは目立たなかった。

 網戸は破れ、エアコンのダクト穴は冷媒管も通されずパテで埋められ、きちんと管理されているならあそこまでずさんにならない。

 例の部屋を覗いては、メンテナンスをされている形跡が一切見られなかった。

 入居者を呼び込む看板も無く地元の不動産会社を当たっても該当の無い事から自己管理物件の可能性が高いように思われた。

「僕をつけたんですか?驚いたなぁ。立派なストーカー行為ですよ」と彼な苦笑いする。

「被害届を出したければ出せばいい」

「出しませんよ。そんなことをすればあなたの経歴に傷をつける」

 人の心配をしている場合か、と心の中で呟き彼の追及を続ける。

「それで、どうなんだい?この場所で何をしていた?」

「知り合いと会っていただけですよ。このアパートのオーナーさんで、一階の一室に住んでいます」

「わざわざ夜遅くにかい?」

「工場で夜勤勤めの方です。名前は中田栄治さん。十五時から夜の十二時まで働いて、だから朝と昼間は会えないんですよ」

「中田栄治さん・・・一体二人で何をしていたんだい?」

 霧島の受け答えは朗らかで、しかし行った目的を中々話そうとしないように見えた。

 天井を見上げ、考え込む様子を見せた後携帯を取り出した。

「それは、中田さん本人から直接聞いてもらってもいいですか?」

 何?と私が返す前に彼は携帯画面を操作していく。

「今から中田さんに電話します。出社前で忙しいと思うので、手短に」

「自分の口では答えられないのかい?」

「えぇ、少なくともここでは」

 画面をタップすると電話を耳に当て、数秒すると彼の表情は笑顔になる。

「霧島です、お忙しい所すみません。少しお時間いいですか?―ありがとうございます。今警察と探偵の方が来ていて、先週の夜僕が中田さんの所に行ったのを覚えています?そこで何をしていたのか聞かれていてー先日女子高生の殺人事件があったのはご存じですか?その被害者と僕が知り合いだったんですけど、まぁ要は怪しい人物の一人だからマークされていて、深夜に一人で出かけていたことを不審がられているというかーはい、なのでその日何をしていたのかを覚えている範囲で説明して頂けたらーお願いします」

 そこまで言って霧島は携帯を私の方へ差し出す。

 受け取って耳に当てると、荒い息遣いがスピーカーを通して聞こえてきた。

「お電話代わりました。南川探偵事務所の南川零と申します」

「・・・中田です。探偵さんですか」

 低音でくぐもった声、声色だけでは判断できないが不愛想な人を想像した。

「あまりお時間は取らせません。一点確認したいだけです。先週霧島さんが深夜お伺いした時、二人で何をしていたのですか?」

 中田は声を唸らせ、「捜査協力の為でお話ししますが、彼の学校、周囲にはこのことを口外しないで頂きたい」と条件を提示してくる。

 断れば電話を切られ、話が停滞しそうな気がするので「約束します」ととりあえず了承しておく。

 口外するかはこれから聞く内容にもよるし、周囲がどこまでの範囲を言っているのか分からないが当然巻雲刑事には報告をするつもりだ。

「お願いします」

 彼がそう言うと私は次の言葉を待った。

「・・・彼は月に二、三回程私の部屋を訪れ、その時は事前に連絡をしてもらっています。私のレコード鑑賞の趣味に彼が興味を持ってくれて、わざわざ仕事の終わる深夜に合わせて聞きにきてくれるのです。しかし、それは建前で本当は違う目的の為だと察しはつきますが」

「違う目的、ですか?」

「えぇ、私が買ってくるお酒と煙草。これにありつける為です。最近は取り締まりが厳しく、未成年にはどこも売ってくれないですから」

「はぁ・・・なるほど」

 中田が口外するなと要求してくる理由と、霧島が自分の口で説明したがらない理由がなんとなく分かった。

 ここは学校で、横には担任教師、正面には警察が座っているのだ。言えるはずがない。

「彼には匂いのつかない電子タバコをあげています。私はこれで禁煙しようとしましたが、失敗していらなくなったので。彼が来るときは缶ビールを買い、レコードを流しながら飲み、満足すると煙草のカートリッジをあげて彼は帰っていきます。カートリッジが空になると、また電話が掛かって来てこの場所に来る」

 なんだかいいように使われているな。本当にそれでいいのかと心の中で失笑する。

「未成年に利用され寂しい話だと思われているでしょうが、何分孤独な身なので。私の趣味に興味を持ってもらえることは嬉しかったし、コミュニケーションの無い工場勤務の後無人のアパートに帰っていく毎日は精神的に辛いので。彼が来ると話し相手ができるので嬉しい限りです」

 低く通らない声で口下手なイメージだったが、思った以上に流暢な調子で話していく。

 彼にとって、霧島は数少ない友達の様な存在なのだろう。

「すみません、そろそろ仕事の準備をしないと」

「いえ、こちらこそお時間頂きありがとうございました」

「最後に、探偵さん。彼を殺人事件と結び付けているようですが、彼は人を殺すような人じゃありません」

「えぇ、仕事上念の為ご確認したまでです。ご協力ありがとうございました」

 中田に対して聞きたいことはまだ山ほどある。

 しかし今は霧島の事実確認が最優先だ。

 電話が切れ、携帯を霧島に返す。

「ご満足頂けましたか?」

「いいや、疑問が増えただけだ。まだ君に聞きたいことは沢山ある」

「あなたの質問はあの夜、ここで何をしていたかです。確認は取れたでしょう。私はこれ以上何も話せませんよ」

 霧島は微笑みながら言ったが、口調は尖っていた。

 その堂々とした高校生の態度を見て私は違和感を覚えた。

 大人三人に囲まれ詰問されているのだ、何故この青年はこうも毅然としていられる?

 この部屋には刑事もいるというのに。

「もうやめて置け。南川」

 巻雲刑事は腕を組んだ状態でそう呟く。

「しかし」

「分かっただろ。彼は事件に関係ない。これ以上の詮索はできない」

 何か反論しようと思ったが、彼の鋭い眼光に睨まれ私は委縮する。

 これ以上の質問はできそうになかった。

「もういいですかな?」

 江原は深いため息をついた後、巻雲刑事を睨む。

「これ以上質問を続けるようなら、正式に抗議します。事を荒立てたくなければお引き取り下さい」

「・・・随分物分かりがいいんですね?ただでさえ高校生が深夜に出歩いていたことが発覚し、そこで何をしていたのかこの場で生徒に確認すらしようとしない。補導の対象ですし、内容によっては相応の措置を生徒に講じるのが教育機関の筋なはず。何故そうしないのですか?」

 言い放つと江原は目の前の机を両手で思いっきり叩いた。

 鈍い音が部屋の中で反響し、彼の表情は怒りに塗れていた。

「全く失礼な方だ。私は教育者と同時に生徒を預かり保護する義務もある。それは生徒の将来、人生がかかっている責任重大な職務です。それをあなた方は殺人事件と絡め、ましてや確証のない罪を彼に押し付けようとしている。当校への侮辱もいい加減にしてください」

 確証の無い罪だと?いっそ中田が言った事をここでぶちまけたやろうか?

 警察にクレームがいこうが知ったことかと私は衝動に任せて言い返そうとした時、巻雲がそれを制するように私の前に手を伸ばしてきた。

「大変申し訳ありません。こいつは口が悪くてですね。よく言い聞かせておきます。ほら、帰るぞ」

 私の腕を強引に引っ張り椅子から無理やり立ち上がらせる。

「そんな、まだ」

「終わりだ。事件と無関係の未成年をこれ以上詰問するな」

 威圧するように睨んでくる巻雲刑事を前に、私は言葉を失う。

 私はただ、霧島を睨むことしかできなかった。

 絶対にまだなにかある。こいつは、何かを隠しているんだ・・・!

「失礼しました、先生。貴重なお時間ありがとうございました」

「えぇ、分かって頂けたなら結構」

 部屋の出口に引っ張られ、廊下をしばらく歩いているうちにようやく彼は掴んだ腕を離してくれた。

 男の力で強く握られ、ヒリヒリと痛む。

 車に入るまで彼とは一言も口を利かなかった。

 無理を言い霧島に会わせてもらえたことは感謝しているが、しかしあまりにも不本意な閉じ方だ。

 霧島を睨んでいる時、彼は最初から見せている笑顔を最後まで貫いていた。

 しかし部屋を出る一瞬、勝ち誇るようにこちらを冷笑してきたのを見逃さなかった。

 その顔が頭の中から離れず、思い出す度得体の知れない寒気を覚えた。


 私は前を走る黒いセダン車を一定の車間を保ちつつ追いかける。

 法定速度プラス十キロ位のスピードで法律の範疇で飛ばしている。

 山々に囲まれた道路をしばらく走ると運河に架かる赤い橋にさしかかる。

 晴れていれば山々の自然と運河の色鮮やかな景色を堪能できたのだろうが、今日は生憎の曇り空だ。

 やがて道路から外れ、山の隙間を縫うように狭くごつごつした砂利道を進んでいく。

 これを道と言っていいのかは分からない、タイヤ痕の跡に沿ってただ走り続ける。

対向車が来れば間違いなく動けなくなるだろう。

 幸い最後まで対向車は来ず、開けた空き地の様な場所に黒いセダン車は停まっていた。

 目の前には運河が広がり、知る人ぞ知る秘密のデートスポットのように思えた。

 私が車をセダン車の横に停めると、中から白のポロシャツとチノパンを履いた初老がドアを開け出てきた。

「デイオフですか?巻雲刑事?」

 私も同じように出て彼と対峙し、私の姿を見るなり薄く笑みを浮かべた。

「尾行のつもりなら失敗だぞ。見覚えのある車にサングラスを掛けた女がずっと後ろをつけてくる。フェリーの時点で車の正体には気づいていた。バレバレだよ」

 私は屈託なく笑い、しかし心中は彼の思惑を探っていた。

「巻雲刑事相手にばれずに尾行なんて無謀ですよ。仕事もなく暇でしたから、ただついてきただけです」

「わざわざこんな場所まで、ね。要は俺が出掛けるのをずっと見張っていたわけだろう。その時点でお前の事は気付いていたし、何の真似かと思ったよ」

 呆れたようにため息をつき、頭を掻き毟る。

「そんなに霧島の件が悔しかったのか?」

 彼は呟くように言ったが、心を見透かされたようなその言葉に私は苛立ちを覚えた。

「あの日、あなたはすぐに霧島から手を引いた。事件当日にアリバイがあっても、小坂結衣と木原舞の関係がありまだ関与を否定できないのにも関わらず」

「それで俺を疑ってついてきたわけだな?全くどうかしている」

「霧島は事件に関係ないと、断定するのが早すぎたんですよ。あまりに不自然だ。それにこの場所、なぜあなたがここに来たのか?そして私の尾行に気付いても尚道を変えなかったのか?いえ、誘導されたと言った方がしっくりきますかね」

「はぁ・・・南川。一体何の話を」

「ここは万関瀬戸の運河。浅茅湾と三浦湾を結ぶ。同時に密航船がよく通過する場所でもある。当然密航船は闇夜や荒天に紛れ無灯火で航航しますし広大な海からすべての船を把握するのは海上保安でも至難の業でしょう」

「だから南川、何が言いたい?はっきり言ってくれ」

 私の遠回しな言い方にイライラしているのか、巻雲刑事は眉間にしわを寄せていた。

「巻雲刑事、私はあなたが人身売買に関与しているのを疑っているんですよ。女子高生殺人に行方不明、これら全ての関与をね」

 そう言うと彼は目を見開き、こちらを見据えたまま首を左右に動かし関節を鳴らした。

 彼が怒った時の癖だと私は思いだす。

「冗談なら笑えねぇぞ?俺が首謀者だと言いたいわけか?ふざけるな!」

 怒声が山々に反響しその迫力に私はたじろぐ。

 しかし予想通りの反応だ、私は続ける。

「ここからは何の証拠もない、情報を繋ぎ合わせた私の推理です」

 彼はふんっと鼻息を鳴らしポケットから煙草を乱暴に取り出し咥える。

 私はライターを取り出して彼に近づき、彼が自分のライターを使用する前にその煙草に火を点ける。

「まず、霧島が深夜訪れていたアパート。そのオーナーの中田栄治に関してです。私はその名前にどこかで聞き覚えがあった、それが誰なのかは分かりませんでしたが、警察時代私の同期だった井上に聞いたらすぐ分かりましたよ。中田栄治は情報屋で、元刑事だった。警察時代のコネクションを活かし情報を得て、それを警察組織に流していた。あなたはよく使っていたらしいですね。金銭を渡していたか知りませんが、汚職刑事らしいやり方です。あなたと霧島は中田を通して出会った。それが霧島との出会いです。その後でしょう、人身売買という裏の仕事が回ってきたのは。あなたがそう言う裏でマージンをもらっている事をしているのは前から知っていました。そこであなたは金銭を払う代わりに協力を頼んだ。女子高生の調達を女性受けのいい霧島に、中田にも何らかの役割を与えたのかもしれない。依頼主は恐らく暴力団か、海外組織辺りでしょう」

 彼は何も反応を示さない、ひたすら煙草を吸い続け聞いているのかも怪しかった。

「元四課だったあなたは暴力団との繋がりもあった。小坂結衣が殺された路地の場所、石田萌香が路地に入った後、立ち塞がるように男が立っていたとある人物から目撃情報がありました。死体の破棄、現場の清掃、その計画されたような段取りの良さからその時点で私は裏の組織の系列を疑っていた」

「陰謀論もいい所だな。行方不明者ならともかく、何故小坂結衣と木原舞を殺す必要があったんだ?」と巻雲刑事は私を睨んで言う。

 煙草の灰になった部分が重さに負け地面にポトリと落ちる。

「小坂結衣に関しては計画的な犯行だった。第一の事件、あなたは霧島と組む上でテストを行った。彼女の動きを観察し、誘拐もしくは殺人の行える場所を事前に把握しあなたに教える。石田萌香の犯行も霧島が彼女に命じたものでしょう。彼女の恋心につけこみ殺人を行わせたんだ。それが利用されているとも知らず。霧島は彼女に自首させ、今でも犯行動機を黙秘しているのはまだ彼の事が好きだからでしょう。石田萌香は小坂結衣を殺し、組織は現場の証拠を隠滅し死体を河原に投げ捨てた。もしかしたら殺人はイレギュラーな事態だったのかもしれない。テストだけなら行方不明でも十分で、売買の取引材料も得られるわけですから。しかし不測の事態でも対応し真相を隠蔽できたことはあなたにとって大きな自信になった。その後は霧島が引っかけた女性たちをポイントに誘導し組織に誘拐させ自身売買の材料をあなたに提供する。被害者、そして加害者に霧島の繋がりがあったのはその為でしょう。次に木原舞、彼女を殺した理由は単純。知りすぎたから。霧島がぼろを出したのか、彼女が裏を見てしまったのか、それが何なのかは分かりませんが、あなた達は彼女を消す必要があった。しかし小坂結衣のときの様に計画的ではなかった。現に、死体は現場に放棄され犯行痕は塗れていた。見せしめの様にも思えますね。木原舞を殺した人物もまた自首してくるでしょう。その事件はそこで閉じ、仮に犯行動機を言っても霧島悠哉の名前が出てくるだけ。彼が捕まりあなたの事で騒いでも直接手を下さず証拠を残していない為逮捕までは行きつけないでしょう。あなたはまた、霧島の代わりになる人物を探せばいいだけの話。結局彼も利用されていただけだ」

 巻雲刑事は短くなった煙草を地面に落とし、靴で火をもみ消す。

 そこで彼は私を見て冷笑した。

「長く話した割には何の証拠もない、お前の頭の中で広げられたくだらない陰謀論だ」

「そうです、しかしあなたの周囲を嗅ぎまわれば何かが出てくるでしょう。以前と違い、私は自由の身だ。何の束縛もない」

「そう思うなら何故、その推理を俺に言う。泳がせて尾行し、ボロを出すのを待っていればよかっただろう」

 私は彼から目線を外し、運河を見つめる。

 曇天の空が反射し映し出されるように灰色の世界が広がっていた。

 巻雲刑事の言う通り、ここで全てを話すべきではなかっただろう。

 でも私は、彼を止めるなら今しかないと思い心を突き動かされたのだ。

「巻雲刑事、もうやめてください。先程も言った通り、あなたがこの他にも裏の仕事を行っていたことは知っていました。告発のネタはいくらでもある。でも、私はそうしたくない。お世話になったあなたを、救いたい。これまで行った罪の対価を受け、戻ってきてほしい。でないとあなたは、もっと深い地獄へと落ちていくだけだ」

 私がそう言うと、巻雲は空を見上げた。数秒の沈黙があり、改心してくれることを願った。

 しかしその途中だった、後ろから黒色のバンが荒々しいエンジン音を立てながら空き地に侵入してきた。

 適当な場所に駐車すると中から作業服を着た四人の男が扉を開け出てきた。

 手にはバッド、拳銃を持っており、拳銃は基本公務関係しか所持できないが彼らの出で立ちはそれではない。

「巻雲さん、こいつですか?」

「あぁ、捕えろ」

 私は四人の男に囲まれ一人が私の首を後ろから締めてくる。

 この人数では抵抗しても勝てない、むしろ逆上され殺される可能性を高くするだけだ。

 うなじの辺りに生暖かい感触があり、舐められたと理解した時は背筋が凍った。

「いい女だ。こりゃ高く売れるぜ」

「監禁中は何してもいいんだよな?いっぱい楽しませてくれよ姉ちゃん」

 耳元で囁かれ、酒臭い口臭に咽そうになる。

 何してもいい、その言葉を聞いた時私は得体の知れない恐怖を覚えた。

 逃げ出したくなるが、足がすくみ動くことができない。

「あぁ、南川。もういいや」

 巻雲刑事が笑みを浮かべながら近づいてくる。

 今まで見たことのない、汚らしく歪んだ表情だった。

「俺は事件に関与している。告発してみろよ?生きて戻ることができるならな」

 彼が首で男達に指示をすると私はバッドで背中を小突かれバンの方向へ歩かされた。

「お前が行く所は野獣の住処だ。身も心も汚された後、海外で奴隷にでもなってるんだな」

 うす気味の悪い笑みを浮かべ、それを見た私の視界は真っ暗になる。

 警察にいた頃、私の意見を唯一真剣に聞いてくれた。

 上にも掛け合ってくれて、愚痴にも付き合い、夜遅くまで残業していると温かい缶コーヒーを買ってきてくれた。

 そんな優しい先輩の面影は、跡形もなく消え去っていた。

 いや、最初から全てが嘘だったのかもしれない。

 本当の彼は今目の前にいる、私が見ていた巻雲孝介は全て偽物だったんだ。

 それを悟った時私の心を支配したのは身悶える程の苛立ちだった。

「くそ」

 力のこもった拳は爪が皮膚に食い込み、食いしばった歯はギシギシと音を立てる。

 殺してやりたい、そう思い飛び出そうとしたがすぐに男達に取り押さえられる。

 地面に押し倒され、眼下から見据える巻雲を睨む。

「巻雲・・・お前を殺してやる!」

「おいおい探偵のセリフとは思えんな。ま、できるものならやってみろよ。その威勢がいつまで続くか、楽しみだなぁ」

 その言葉を最後に巻雲は私から離れ、セダン車の中に戻っていく。

私は男達に抱えられ、バンの後部座席に入れられ拘束される。

 目も、耳も、口も塞がれ四肢はロープで何重にも括り付けられていた。

 移動中、体の至る所が触られ弄られた。

 その間巻雲の歪んだ顔が脳裏に映る。

 この屈辱は、到底耐えられそうになかった。


「ねぇ、気分転換しない?」

 朝食を食べ終え、キッチンで洗い物をしながら小坂さんは言った。

 僕はダイニングチェアに座り携帯に映るネットニュースを見ている最中だった。

「気分転換?」

「そう、夏休みに入ってからあまり遊びに出ていないから」

「そうかな?」と呟くように言うと「そうだよ」と彼女はむくれながら言う。

 思えば確かに、スーパーの買い出し以外あまり外に出ていない様な気がする。

「似鳥君はインドアだから、たまには外の空気を吸わないとだめだよ」

 彼女の言う通り、ろくに外出せず溜め込んだ本を読み漁る毎日、高校生らしい夏休みとは程遠い。

 そんな僕に付き合って彼女も並んで本を読んでくれているが、さすがに嫌気が刺したのだろう。

「出掛けるか・・・どこに行こうか」

 彼女は他の人には認識されない。

 外出しようにも、人出の多い場所ではろくに会話もできないし万が一という時もある。

 どこか落ち着いて二人でのんびりできる場所があるといいのだがと思考を巡らせていると、彼女が「そうだ!」と何か閃いたように声を発した。

「遊園地に行こうよ!」

「へ?」

 そう言い屈託なく笑う彼女、僕はその言葉に唖然とした。

 いや、まずいだろう。

「さすがに危険じゃないか?小坂さんの正体がばれでもしたら」

「それくらい私だって考えてるよー。だから、夜に行こっ!それなら人が少ないし、ちょうど潰れかけの遊園地を知ってるんだ!」

 水栓の水を止め、僕の元へ近づいてくると携帯を奪い取られる。

 素早い指の動きで画面をタップし、それを僕に見せる。そこにはマップアプリに目的地と電車の時間などが記載されていた。

「夕方の五時半出発ね。決まりっ!」

 軽やかなスキップを踏みながらキッチンの方へと戻っていく。

 今までにないほど強引な誘われ方だった。強制と言っていいだろう。

 でも彼女の無邪気で楽し気な様子を見ていると、まんざらでもないなと思った。

「それって今日行くの?」

 窺うようにして聞くと彼女は満面の笑みで返してくれる。

「もちろんっ」


 僕は部屋で本を読み、デスクに置かれた電子時計を見ると午後五時を表示していた。

 そろそろ準備しないとな。

 立ち上がり、クローゼットを開け私服を取り出す。

 黒シャツにジーンズ、外出するときは大抵この格好だ。

 ファッションに疎い僕は無地の服ばかりを着用し、今後もそれで困る事は無いと思っていた。

 まさか女子と遊園地に出かける日が来るなんて、こうなるならお洒落な服を一着二着は買っておくんだった。

 腕時計をつけ、財布と携帯、鍵をポケットに入れると一階のリビングに降りる。

 彼女はもうそこで準備万端と言わんばかりに僕が来るのを待っていた。

「準備できた?それじゃいこっか」

 僕を見ると朗らかに笑い、ダイニングチェアから立ち上がった。

 今日の彼女は鮮やかなイエローニットと艶感のあるとろみ素材の白スカートを着ている。

 全体的にダボダボなデザインで彼女の細さがより一層強調され、華やかな色合いは普段よりも上品な雰囲気を漂わせていた。

「何ボーとしているの?もしかして見惚れてる?」と冗談っぽく言い彼女はクスリと笑ったが、見抜かれたと思い僕はぎくりとする。

「・・・似合ってるよ。今日も」

 照れながら言う僕を見て彼女は可笑しそうに笑った。

 駅に着き切符を買うと乗り場へと向かう。

 幸い無人の駅なので改札口も切符を切る駅員もおらず、小坂さんは難無く乗り場に入ることができた。

 これから向かう駅は恐らく自動改札口があるので、彼女には悪いがそれを飛び越えてもらうしかない。

「遊園地なんていつぶりかなー?」と彼女は嬉しそうに話す。

「僕は、中学校の修学旅行以来かな」

「へーいいなぁ。私、風邪引いて行けなかったから・・・遊園地は多分最後に行ったのは小学校の頃かな」

「意外だね。小坂さん友達多いからもっと出掛けているのかと思った」

「それは、生きていたら分からなかったよ。私、昔から体が弱かったから。遠出とかあまりできなかったんだ。だから同級生と遊園地に行くなんて、夢みたい」

 そう言い笑う彼女。

 体が弱かった、それは最近寝込むことが多くなった事と関係があるのだろうか?

「もう、体は大丈夫なの?」

 え?と僕を見て手の平で口を覆い可笑しそうに肩を震わせる。

「大丈夫だよ。前は発作が起きて倒れていたけど、学年が上がるにつれてだんだんなくなっていったから。それに今の私は幽霊なんだから、もう関係ないよ」

「・・・なら、いいんだけど」

 僕の様子を見て彼女は不思議そうに首を傾げる。

 ライトを炊いた電車がホームに入り、けたたましいブレーキ音を立て僕達の前で停まる。

 彼女の横顔が、一瞬掠れて見えた。

 この時点で僕は気づいていたのかもしれない。

 彼女といられる時間が、残りわずかだということを。


 数時間後、僕達は遊園地に着いた。

 錆びた門を潜り抜け、周囲を見渡すと殺風景な光景が目に映った。

 アトラクションは一通り揃い、輝かしくライトアップはされているもののそこに人はほとんどいなかった。

 潰れかけの遊園地、彼女がそう言っていたことを思い出す。

 夜とはいえ、夏休みシーズンにこの客足だと経営としては致命的だろう。

 設備を運用するための光熱費の方が高くつきそうだ。

「ね、人少ないでしょ?」

 彼女は自慢げに言い、「そうだね。さすが小坂さん」と僕は彼女のご機嫌を取る。

 先程まで駅の自動改札口を飛び越え、遊園地は改札ではなくチケットを店員に見せ腰の高さ程度の門が開くという仕組みだったので開いた瞬間僕と一緒に中へ飛び込んだ。

 無賃乗車と侵入とも言える入場は仕方がないとはいえ多少の罪悪感はあったようで、彼女は後ろめたそうにしていた。

 その為あの出来事を上塗りするように僕が彼女の機嫌を取るが、効果があるのかは分からない。

「ほんとにいつ潰れてもおかしくなさそうだな」

「うん。今日が見納めになるかもね」

 そう言って彼女は僕の背中に回り込み、「似鳥君!あれ乗ろうよ!」と押されてその場所に誘導される。

 ウォーターアクアと書かれた水上のアトラクションだ。

 丸みを帯びたボートに乗りその中央に振り落とされないよう掴む手摺がある。

 ゆっくりと水の流れに沿ってボートは動き、光の照明等で効果的に演出された遊園地を眺めていくことができた。

「きれいだね」

 彼女は辺りを見渡し少女の様に無邪気に笑う。

 長く艶やかな黒髪が風に靡き甘い香りが漂ってくる。

 景色に見惚れている間、ボートのスピードが少しずつ上がっていることに気付かなかった。

遊園地の景色をゆっくりと眺めるだけの遊覧かと思ったが、最後に待ち受けていたのは上流から下流に流される激流の絶叫ポイントだった。

 ボートは上下左右激しく揺れ、彼女は楽し気に悲鳴を上げていたが僕は恐怖のあまり声も出なかった。

 一瞬宙に浮かび上がり浮遊感を感じた後激しく着水する。

 その時には最初と同様緩やかな流れになっており、ボートの揺れは収まった。

「あー怖かった!まさか最後飛ぶなんてね!・・・似鳥君?」

「・・・吐きそう」

 僕は程度にもよるが、基本絶叫系は大の苦手だった。

「まさか似鳥君が怖いの苦手だったなんてね」

 小坂さんは手で口を覆いくすくすと笑っている。

 恥ずかしくなり火照った頬を手の平で仰ぐ。

「まさか最後あんなに揺れるなんて。聞いてないよな」

「ふふっ。確かにびっくりしたね。でも私は物足りなかったかなー」

「嘘だろ・・・」

 屈託なく言う辺り冗談ではないらしい。

 体が弱いという話は嘘だったのではないかと思ってしまう。

「やっぱりかわいいね。似鳥君」

「うるさいなぁ」

 僕がムッとするとまた彼女はくすくすと笑った。

 その後もいろんな場所を回った。

 ジェットコースターのように一人一席シートベルト着用だとバレる危険性がある為当たり障りのない場所を選んで巡る。

 黄金色のライトで光り輝くメリーゴーランドはパレードの一場面のようで、僕達は並んで白馬に跨り円の中をぐるぐると回った。

 回りながら横の映りゆく景色を見る。

 人通りが少なく殺風景な遊園地だが、照明だけが虚しく光る敷地内はどこか非現実的な気持ちにさせてくれた。

 次に向かったグッズショップでは看板がオレンジのネオンで彩られた赤い建物で中に入ると、どこかで見たことのあるキャラクターグッズや地元限定のお菓子、その他諸々あったがどの商品も数量が僅かしかなかった。

 朝と昼で大量に売れたのか、売り上げが芳しくない為あまり入荷をしていないのか、僕達は日用で使える遊園地のキャラクターが書かれたマグカップを二つ買った。

 大きな目をした黒猫で可愛らしいデザインだった。

 そして僕たち二人が乗れそうなアトラクションを探す為園内を歩き回ったが中々いい場所が見つからず、結局一番無難なものに乗ることにした。

 観覧車、どの遊園地でもシンボルに成り得る大型水車風の乗り物。

 ここでは軸受とスポークがオレンジ色に、外輪は内側に白、外側に赤のライトで照らされ夏らしく花火の様なデザインになっていた。

 チケットを一枚購入し、暇そうな店員に渡すと回ってきたゴンドラの扉を開け僕と彼女は急いで中へ飛び込む。

 動く度ミシミシと軋む音がしたが、彼女の上げる歓声でそれは不安と共に打ち消された。

「上がってる!ワクワクするね!」

 無邪気にはしゃぐ彼女を見て僕も自然と笑顔になる。

「そうだね。楽しみだな」

「あれ?観覧車は怖くないの?」

「さすがに大丈夫・・・だと思うよ」

「えーほんとかなぁ?」

 上目遣いに悪戯っぽく言われ、僕は悟られぬよう窓の景色に視線をずらす。

 実は、ちょっと怖かったりする。

 観覧車は徐々に上昇していき街の夜景が全体的に見えてくる。

 ビルの窓一つ一つに映る蛍光灯の光が、マンションの共用廊下で光る外灯が、ネオン街のレーザーが街を彩り輝いていた。

 綺麗だね、そんな月並みの言葉を彼女に伝えようと見た時、彼女もまた、僕を見ていた。

「隣、座ってもいい?」

 真剣な眼差しを向けられ僕は言葉に詰まり、首を縦に振るので精一杯だった。

「ありがと」と言い彼女は立ち僕の隣に腰掛ける。

 ゴンドラ内は狭く並んで座ると互いの体が触れる形になる。

 サラサラした洋服の生地が、柔らかな肌の感触が、感じるほのかな温もりに僕の体は沸騰したように熱くなった。

「ねぇ・・・」

 彼女は呟き、僕は固唾を飲む。

 ポケットに手を突っ込み何かを探している。

 取り出したのは紫色の石が巻かれたブレスレットだった。

 彼女が今腕に巻いているものと同じだが、それとは別にもう一つの物だ。

「これ、覚えてる?」

 手渡され、観察するが彼女がいつも身に着けている装飾品という以外認識できなかった。

「覚えてないって顔だね」

 彼女は無理もないかーと言い苦笑する。

「小坂さんがいつもつけてるブレスレットだよね」

「そう、今巻いているのは私のだよ。でももう一つのブレスレットが見つかったのは似鳥君のお姉ちゃんの部屋」

「姉ちゃんの?」

「うん。それで思い出したんだ。昔、似鳥君と会った時の事」

「え?」

 どういうことだ?記憶を探るが彼女と出会った時のことは思い出せない。

 目の前にあるブレスレット、お洒落に無頓着な僕が買ったものとは到底思えない。

「小学生の頃、私達はこのブレスレットを一緒に買ったんだよ」

 彼女は窓の景色を見つめ、もう少しでゴンドラは最上部へと向かおうとしていた。

「私は今でも思い出しちゃう。あれは寒いお正月の日で、私はお母さんと初詣に行っていた。似鳥君は一人でポツンと寂しそうに歩いていて、なんだかそれが放っておけなくて私が思わず話しかけちゃったの」

「初詣・・・」

 僕は毎年母さんと一緒に行くはず。いつもすれ違いで顔を合わせる日も少なく、だから正月くらいは一緒に過ごすのだ。

 そういえば、いつかの正月に喧嘩して家を飛び出していった時があったかな。

 その時に彼女と出会ったのかもしれない。

 当時子供だった僕は、毎日母と居られない事が寂しくて不満が募っていた。

 毎日仕事漬けで疲れ果て、ようやく一緒にいられる貴重な時間を得られたというのに、喧嘩なんてつまらないことをして。母さんに悪いことしたな・・・。

「その時御守りを一緒に買ったんだ。それがこのブレスレット。お揃いの物をお母さんに買ってもらって、無邪気に喜んではしゃいだ。あの時は似鳥君も楽しそうだったかな。私にはそれが、忘れられない思い出。母との貴重な・・・」

 彼女は最後の言葉を淀ませた。

 うっかり口を滑らせたような、でも吐き出したくて堪らないように表情を強張らせている。

 スカートの裾を握り下に俯く。横髪が垂れさがり表情が読み取れなかった。

「あの初詣の後、お母さんは亡くなったの。今のお父さんとお母さんは、養親なんだ」

 彼女は視線を下に落としたままで呟くように言った。

 養親?僕は呆気にとられ何も反応できない。

「お母さんは体が弱くてよく入院していたけど、最後は家によくいてくれた。後から知った事だけど、余命が宣告されて最後の瞬間まで私といたいって言ってくれたらしいの。あの初詣は、お母さんとの数少ない思い出の一つ。だからこのアメジストの御守りは、お母さんが最後に残してくれたものなの・・・」

 腕に巻いたブレスレットを握り、肩を震わせる。

 お母さんっと呟いた後、彼女の頬に涙が伝いそのまま崩れ落ちてしまった。

「お母さん・・・ごめんね。私、死んじゃって。もっと生きたかった・・・お母さんの分まで・・・生きたかったのに・・・ごめんなさい・・・」

 ごめんなさいと、彼女は何回もそう言った。

 嗚咽を漏らす彼女を見て、僕は彼女をここまで陥れた奴への憎悪が激しく沸いた。

 同時に、自分自身にも腹が立った。

 好きな人が隣で悲しんでいるというのに、どうしてあげたらいいのか全く分からないのだ。

 気の利いた言葉も、背中を擦りなだめてあげることも、力いっぱい抱きしめ悲しみを一緒に分かち合う事すらも、一切の行動に移すことができない。

 頭を逡巡とさせ、僕は自分なりの言葉を紡ぎ伝えるしかないと思った。

「小坂さん」と彼女を呼び、涙を啜りながらも彼女は僕の方を向いてくれた。

「アメジストに込められた意味、知ってる?」

「・・・え?」

「花に花言葉があるように、宝石にも言葉があるんだ。アメジストの言葉は、真実の愛、誠実」

「・・・真実の愛、誠実?」

「そう。邪悪なものから身を守ってくれる。愛の守護石とも呼ばれているんだ。だから・・その。小坂さんのお母さんも、そんな人だったんじゃないかなって。例え離れていても、君を守ってくれる。今もこうしてこの世界にいられるのは、君のお母さんが邪悪なものを取り払い、最後まで生を全うさせようとしてくれているからじゃないのかな?悔いが残らないよう、最後まで」

「似鳥君・・・?」

「だから、決して未練や恨みでこの世界にいるんじゃない。悪霊なんかじゃない。君のお母さんがその御守りを通じて守ってくれているから、今君はここにいられるんだ。愛の力なんて僕の口から言うと似合わないけど、でもそれ以外に考えられない」

 自分が何を語りだしたのかは正直分からない。

 生き方に後ろめたさを感じてほしくない、彼女にはいつでも笑っていてほしい。

 ただそう伝えようと必死なだけだった。

「君の生きたいという願いをお母さんはできる限りの形で叶えてくれたんだ。少なくとも僕は、そう思うよ」

 直後、僕の胸に柔らかな衝撃があった。

 見ると彼女が僕の胸に顔を埋め両手が背中に回されている。

 彼女は顔を上げ、上目遣いに僕を見る。

「突拍子もない発想だけど、似鳥君らしいや。ううん。きっとそうなんだと思う。私はお母さんのおかげで、今もこの世界にいられるんだね」

「・・・そうだよ。きっと」

「うん・・・」

 また彼女は顔を埋め、甘えるようにぐりぐりと動いている。

 その様子を見る限り、もう泣いていないようだ。

「でも、よくアメジストの言葉なんて知ってたね」

「前、本で読んで覚えてたんだ」

「ふふっ。やっぱり似鳥君らしいや」

 可笑しそうに肩を震わせ、温かい息が胸にかかりくすぐったかった。

「案外、私達がこうして出会えたのは互いの御守りが引き合わせてくれたのかもね。真実の愛みたいに」

「そうだね・・・えっ?」

「似鳥君・・・ううん、和哉」

 彼女は僕の背中から今度は首に手を回し、彼女の顔が目の前に映る。

 真実の愛と呟いたことや、名前で呼び直された疑問はその美しい表情で見つめられただけで全てどうでもよくなった。

 僕はただ、彼女が好きなんだ。どうしようもないくらい、純粋に。

 彼女の目を見て、同じことを考えてくれたらいいのにと思った。

 口が僅かに開かれ、その表情に思わずドキッとする。

「好き。和哉」

 そう言って彼女は華やかに笑う。

 僕が疑問を口にする前に柔らかな感触があり、僕の言葉は彼女の中に飲み込まれた。

 初めての感覚だった。頭がボーとして、時間の流れを感じない。

 このまま二人でいつまでもいられたらどんなにいいだろうと、切ない気持ちが込み上げてくる。

 そしてその感覚は離れていく。

 次に見た時は彼女の顔がまた視界に映り幸せそうに微笑んでいた。

「ごめん、強引だったかな?」

 謝りながらも悪びれている様子はなさそうだ。意外とあっさりしているところも彼女らしいなと、僕は思わず頬を緩ませた。

「それで、和哉はどうなの?」

「え・・・うん。もちろん。僕は、ずっと前から小坂さんの事が」

「結衣。ちゃんと名前で呼んでほしいな」

「あぁ・・・ごめん」

「いいの、お願い」

 僕の頭を優しく撫で、彼女はクスリと笑う。

 一度深呼吸をし、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。

 緊張しているはずなのに、自然と笑みがこぼれていた。

「結衣。出会った時からずっと好きだった。僕と、恋人になってくれませんか?」

 そう伝えると彼女の目から涙が零れた。

 今度の涙は先程とは違う、それを証拠に、彼女は満面の笑みを浮かべたからだ。

「はい、喜んで」

 まるで結婚式みたいだなと内心思いながらも、きっと彼女は私達らしいと言ってくれるだろう。

 僕達の唇はまた触れ合い、その瞬間僕と彼女の間で何かが生まれたような気がした。

 愛なのか、絆なのか、分からないけれど。それはきっと、恋をした人にしか分からない素晴らしい何かなのだろう。

「和哉が私の事好きだったの、前から知ってた」

 彼女はそう言い、可愛かったと次の言葉を言われる前に彼女の唇を塞いだ。

 僕達しか乗っていない観覧車は一番上まで到達し、その景色は先程よりも増して綺麗だと思った。

 観覧車を降り、出口を出たところで彼女が立ち止まる。

「今度は忘れないでね。ブレスレットも、私の事も」

 繋がれた手に力が加わり、その言葉は懇願するようにも聞こえた。

 彼女は怖いのだろう。やがて来るかもしれない別れと、この記憶が時間の流れで忘れ去られてしまうかもしれないことを。

 どうかそんな、悲しい事を考えないでほしい。僕達はいつまでも一緒にいられる。幸せな瞬間はこれからいくらでもある。

 例え世界に許容されない愛でも、僕はいつまでも信じ続けるから。

 僕は彼女を抱き寄せ、思いを伝える様に抱きしめた。

「忘れない。何があっても、絶対に」

「・・・約束だよ」

 僕の言葉に安心したように彼女はクスリと笑い、「今度は花火大会に行きたいね」と言った。

 先程乗った観覧車のライトが花火の様なデザインだったのできっと連想したのだろう。

「そうだね。行こう。夏は始まったばかりなんだから」

 彼女の手を握り、また僕達は歩きだす。

 もっと遠くの遥か彼方まで、いつまでも結衣と歩き続けたいと思った。

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