第4話 第二の事件


「今日は焼き肉ができそうだね」

 小坂さんは僕に耳打ちをし、僕は周囲に聞こえぬよう小声で「そうだね」と返す。

 目の前に並ぶ国産の肉を手に取っていき、ラップには均一祭と書かれたラベルが貼られていた。

 カートに乗せられた籠には牛ミックスの切り落としや和豚ロース、和豚のばら肉のそれぞれ百グラム入りが入れられている。

 均一祭と名前の通り全て百九十八円だ。その他にも野菜や飲料水を入れる。

 今夜の夕食は豪華なものになりそうだ。

 帰り道は両手にエコバッグを持ち彼女と並んで歩く。

 もう十九時だというのに辺りは明るく、かなり陽は長くなった。

 気づけば七月で、梅雨が明けて行き本格的な夏に突入しようとしていた。

 彼女は白いワンピースと七分丈のジーンズを履き、袖から出た白くて細い腕には紫色のブレスレットが巻かれている。

「似鳥君はいつから夏休みだっけ?」

「あと二週間先かな」

「もうちょっとだね。やった」

「これが意外と長いんだよなぁ。期末テストもあるし。早く過ぎてほしいよ」

 最初の中間テストは微妙な結果だった。悪くはないが、良くもない。

 中学の頃は上位ぐらいの成績は取れていたのに、これも犯人探しに没頭した結果なのかもしれないなと言い訳を思う。

 少し歩くと近所の公園が見えた。

 彼女は僕をちらりと見て、疲れているように見えたのだろう。

 公園の方を指さして笑いかけてくる。

「あそこで一休みしようよ」

 指の先には屋根付きの休憩所があった。

 それを見て、少し懐かしいような気持ちになる。

 僕は休憩所のベンチに座り、両手に持った荷物をようやく手放せた。

 周囲に人がいないことを確認すると、彼女は一旦その場を離れ少しするとミネラルウォーターを二つ自販機で購入し戻ってきた。

 その一つを僕に渡し、彼女は僕の隣に座る。

 僕はもらったミネラルウォーターの蓋を開け、カラカラになった喉に流し込んでいく。

 体全体に行き渡っていき、疲弊した細胞が生き返っていくようだった。

「前にも来たよね。ここ。ほら、私達が出会った日、混乱している私をここで似鳥君が休ませてくれた。あの時は温かいココアを、こんな風に持ってきてくれた」

 彼女も覚えてくれているようだった。

 つい一か月前の話なのにあれからそれ以上の時間が流れているように思えた。

「僕も同じ事を思い出してた。その後銭湯に行って、母にばれないように僕の家に上がって」

 彼女は両肩を上げくすくすと笑う。

「ついこの間出会ったばかりなのに、いろんなことがあったね。不思議だよね。私が生きているときはお互い赤の他人だったのに。今は似鳥君とこんなに仲良しになれて」

 赤の他人、そう言われて僕は入学して間もない学生生活を思い出した。

 あの時は遠くから彼女を見つめるだけで、それ以上の関係にはなれなかった。

 僕が彼女に近づく度胸を持ち合わせておらず、彼女の魅力で周囲に人が集まっていき、そこに僕の付け入る隙はなかった。

 だから今こうして隣で笑い、話せていることは当時の僕からしたら夢の様な出来事なのだろう。

「もっと早く似鳥君と出会えていたらなぁ。絶対仲良しになれたよ」

 ペットボトルを頬に当て気持ちよさそうに笑う。

 例え早く出会えたとしても、仲良しになれたのかは正直難しいと思う。

 あの時と変わらない、僕達は同じ場所に居ても周囲が纏う環境が光と影の様に違っていたから。

「そうだね」と僕は笑い返すことしかできなかった。

 この公園で彼女にココアを手渡した日を思い出す。

 あの時君が死んで幽霊にならなかったら、僕達が言葉を交わすことは恐らくなかっただろう。

 だから河原で君と再会した時、君にとっては最悪の日でも僕にとっては光が射したような出来事だった。

 君が死ななかったら、僕は君の隣にいられなかった。君が死んでよかったと、心のどこかで無意識にそう思っていることを知っている。

 それがどうしようもなく、哀しいのだ。

「あ、そうだ。携帯持ってる?」

 彼女は何か思いついたように言う。

 ポケットからスマートフォンを取り出し渡すと画面をスワイプしていく。

「写真撮ろうよ!」

 彼女は携帯を操作しながら楽しげに言う。

「写真?なんで急に」と僕は戸惑いながら尋ねる。

「意味なんてないよ。思い出は忘れやすいから、形に残した方が思い返せるでしょ?あ、でも私幽霊だから映るのかな?」

「映ったらちょっとまずいかもね・・・」

 心霊写真になっちゃうしと心の中で呟く。

 その時、彼女の持っていた携帯が小刻みに震えた。

 彼女は肩をびくつかせ、画面を見て僕にそれを渡してくれた。

「電話だね。南川さん」

 南川さん?あの一件以来初めての着信だ。

 急にどうしたのだろう。

 戸惑いながらも僕は携帯を受け取り、電話に出た。

「はい、似鳥です」

「やぁ少年。急に悪いね」

 久しぶりに聞いたような南川さんの声。しかしその声色はいつもの陽気なものではなかった。

「あの一件以来だ。私からの電話を不思議に思っているのかな?」

「えぇ、驚きましたよ。どうかされたんですか?」

 そこで数秒の沈黙があった。

 何かを迷っているような、そんな感じがした。

 息の吸う音が聞こえ、彼女の声が漏れる。

「小坂結衣の犯人だけど・・・今日捕まったらしい」

「えっ」

 何を言われたのか、一瞬その意味を理解できなかった。

 言葉を反芻してようやく思考が回ったが、多くの疑問が浮かび上がってくる。

「自首したらしい。犯人は石田萌香。聞き覚えがあるんじゃないか?君達の通う学校、小坂さんの同級生だ」

 同級生、と言われてもその名前に聞き覚えはなかった。

 恐らくは違うクラス、いくら僕でもクラスメイトの名前くらい覚えている。

「今は巻雲刑事からの報告待ちだけど、どうにも腑に落ちない。これから色々分かってくるんだろうが、納得できないのが本音だな。やれやれ、彼女が犯人となると私達は全く見当はずれの調査を行っていたわけだ」

 そこで息の吐く音が聞こえる。恐らく煙草を吸っているのだろう。

 僕は何も言葉を返すことができなかった。

 喜んでいいのか、しかし何かが頭の中に引っかかる様な感覚があった。

「まぁ少年。とりあえずは事件解決?だそうだ。今日はその報告の電話。また何か分かれば連絡するよ」

「・・・はい。お願いします」

 それじゃと彼女は挨拶に電話がプツリと切れた。

 僕が耳から携帯を離し、まだ頭の整理ができず漠然としていた。

「どうかしたの?」と小坂さんの声が聞こえ、僕はゆっくりとその方向を向く。

 彼女は首を傾げ僕を心配そうに見つめていた。


 ソファチェアに腰掛け上に吊り下げられているシャンデリアを見つめる。

 オレンジ色に光る五つの電球は部屋をアンティーク調な雰囲気に仕立て上げていた。

 少しすると南川さんがコーヒーカップを二つ持ちローテーブルに並べてくれる。いつもと同じ、黄色いカーディガンとベイクドカラーのスカートを履いていた。

 小坂さんを殺した犯人が自首して数日、巻雲刑事から話を聞けたらしいのでその話を僕にも伝えてもらえることになった。

 その為彼女の事務所を訪れたわけだが、今回小坂さんは同席しなかった。

 理由は単純に、南川さんに会いづらいからだろう。

小坂さんが来ないことを電話で伝えると「まぁまた癇癪を起されても敵わないし、案外少年だけの方がいいかもね」と南川さんは正直な感想を述べていた。

「悪いね少年。またテスト習慣の忙しい時期に」

 彼女は頬を指先で掻きながら苦笑いする。

「全然構いませんよ。学校も正直テストどころではなくなっていますから。もしかしたら中止になるかもしれませんね」

 そうなってくれたらいいのになと願いを込めて僕は朗らかに笑った。

「まぁそれはそれでいいかもね」とコーヒーを啜りながら彼女はフッと笑う。

「本題だけど」と言われ僕は緩んだ頬を引き締める。

「石田萌香。小坂結衣を殺した犯人の話だ。彼女が殺人を行ったかどうかだけど、これは間違いなかった。警察署に彼女は犯行に使われていたであろうナイフを持ってきていて、刃に付いた血痕や指紋などから彼女が行ったことは間違いなかった」

 両腕を組み、彼女は天井を見上げる。

「すぐに取調べを行ったらしく、その時は私が殺しましたと、その発言を繰り返していたらしい。肝心な動機や手段はだんまりで、結びつかない点がまだ多くある。そこで小坂結衣との接点を調べてみた。君の方では、小坂さんは何か言っていたかい?」

「いえ、彼女に石田萌香について聞いたら何も知らないと言われました。接点も特になかったし、小中学校も違っていて高校は一緒になったといえクラスは違いましたし、関りは全くなかったらしいです」

「そうなんだ。被害者との接点がない。衝動に駆りだされた通り魔的な殺人だとしても、石田萌香はそんな軽率な人間とは到底思えなかったらしい。現に、担任の先生や中学で彼女を担当していた教師に聞いても、真面目で心優しい子だったと。人と話す時は物腰が柔らかくて、困っている人がいれば誰にでも救いの手を差し伸べるような生徒だったと。そんな生徒が同級生を殺人したと聞いた時は驚きを隠せられなかったらしい」

「接点もなければ動機も見つからない。しかし犯行に使われた凶器を所持していた、ですか・・・」

「おかしな話だろう?」

 そこまで言って彼女はカーディガンのポケットから煙草とライターを取り出す。一本を銜えて火を点け、天井に向かって煙を吐き出す。

「しかし、容疑者が他にいない今彼女が犯人だという線が濃厚だ。口を割るのを待つしかない。しかし、君も見ただろう。あの犯行現場を。一人では到底行えなかった計画的な犯行。協力者が必ずいる。そいつらを芋づる式に引っ張り出せたら、いいんだけどな」

「真犯人は別にいる、ですか」

 南川さんは煙草を灰皿の上に乗せ、上に立ち昇る煙を見つめる。

「動機がないと殺人なんて行えるはずがない。それが優等生だったというなら尚更だ。自首するまで誰一人彼女をマークしなかった。そんな犯罪未成年一人にできるわけがない。裏で手引きした奴ら、そしてそれで得をした奴らが必ずいる」

 今まで聞いたことがない位、彼女の声は憎悪に塗れていた。その目は、まるで猟犬の様に鋭く険しかった。

「石田萌香は利用された捨て駒だ。未だにだんまりを決め込んでいるあたり真犯人に相当心を掌握されているんだろうな」

 僕は下に俯く。まだ闇の中で事件は何一つ解決してはいないのだ。

 しかしこの話を聞いて僕は迷った。

 小坂さんの復讐は犯人が捕まった今、叶わないものになったし、これ以上事件の闇に歩を進めていくのは危険だと感じた。

 もう、関わらない方がいいのかもしれない。

 そんな僕の表情を見て、南川さんはこの日初めて陽気に笑った。

「まぁ、あくまでこれは報告だよ。小坂さんを殺した犯人を私達は探していた。それが思わぬ形で捕まった。歯切れは悪いけど、君達の目的は達成されたわけだ」

 彼女はそう言ってソファに寝転ぶ。片足を上げてくつろぎ、その時白い太腿が露わになったので僕は慌てて目を逸らす。

「君はこれ以上関わるべきじゃない。ここからは警察に任せれば大丈夫だ。と言っても私はまだ個人的に動くつもりだけど。このままじゃなんだかスッキリしないからね。未練調査、とでもいうのかな」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がすっと軽くなった感覚があった。

 もう他の誰かに任せればいいんだ、心の底から安堵した。

 そう思ってしまう自分が、本当に情けない。

「すみません」

「何で謝るんだ。君はよく頑張ったじゃないか。好きな女の子の為に危険な場所に飛び込んでいって。本当に君はいい子だよ」

 彼女は立ち上がり、僕の後ろに回り込んだ。

 それから片腕を僕の首に回し、もう片方の首には彼女の顔が回された。

 後ろから抱きしめられるような格好になり、頭を優しく撫でられる。

 シャンプーの甘い匂いが嗅覚を刺激し、華奢な体が密着し僕は思わずどきりとした。

「だから落ち込む必要はない。君は充分頑張った」

 まるで弟を可愛がる姉のように、彼女は僕を優しくあやしてくれた。

 頭がぼーとしてうっとりし、思わず微睡みの中に落ちてしまいそうだった。

「僕は、小坂さんの助けになれたんでしょうか・・・」

 そう言って彼女が撫でる手を止める。

 ふっと笑った鼻息が首をかすめ、後ろから強く抱きしめられる。

「絶対なったよ。大丈夫。君が思う以上に彼女は救われたと思うよ」

 私だったら好きになってると呟いたような気がしたが、恐らく気のせいだろう。


 その夜、僕が家に帰ると小坂さんが夕飯の支度をして待ってくれていた。

 リビングを覗くと彼女がキッチンで料理を盛り付けており、「おかえり」と笑顔で出迎えてくれた。

「ただいま」と挨拶を返した後、洗面所で手を洗い戻ってきたころには机の上に料理が並べられていた。

 今日はご飯に味噌汁、焼き魚が各皿に置かれ、机の真ん中にはボウルにサラダが盛られていた。

 先日焼き肉と奮発した分しばらく質素な食事が続くだろう。

 互いに席に着き、夕食を食べ進めている間僕達は当たり障りのない会話を繰り返していた。

 僕が南川さんの事務所に行ったことを当然彼女は知っている。

 いつその話を切り出すべきなのか、僕はタイミングを探していた。

 報告できたのは彼女がお風呂から上がり、互いがテレビの前のソファに並んで座りくつろいでいる時だった。

 このままだと石田萌香が犯人と決着がつきそうなこと、しかし動機や協力者については明らかにしないこと、歯切れは悪いが、僕達の追っていた事件は終わりを迎えようとしていること。

 それらを言うと彼女は「そっか」と毛先がカールした黒髪を片手で撫でた。

 安堵しているような、それでも何か腑に落ちない様な表情をしていた。

「事件解決・・・だね。ごめんね。私のわがままに付き合わせちゃって」

 申し訳なさそうに彼女は謝ると僕は「いいんだ」と朗らかに言う。

「僕が協力したかったんだ。あまり力にはなれなかったけど」

「ううん、似鳥君のおかげ。あなたが傍に居てくれたから、私は死んだショックから立ち直れて前向きになれた気がする」

 屈託のない笑いを真っ直ぐに向けられ言われたので僕は照れ臭くなる。

「でも、いつまでもお世話になるわけにはいかないよね。早く成仏しないと。私は、ここにいてはいけない存在だから」

「そんな・・・!」

 思わず声を上げ彼女に身を寄せた時、僕の手の平は彼女の手を握っていた。

 彼女は肩をびくつかせ驚き、しまったと恥ずかしくなり顔がみるみる熱くなっていく。

「・・・ずっとここにいていいから。成仏できるまで。ずっと」

 懇願するように僕は言い、握った手がみるみる汗ばんでいくのが分かった。

 僕は今どんな顔をしているんだろう。緊張して彼女の顔を直視できない。

 その時、彼女がクスッと笑った声がした。

 反応して顔を上げると彼女は可笑しそうに笑っていた。

「なんだか似鳥君、可愛いね」

「え?」

「ありがと。じゃあ傍に居させて。私が成仏できるまで」

 上目遣いにそう言うと彼女は肩を寄せ僕に密着した。

 さらに彼女は頭を僕の肩に預け、髪の毛から甘い香りが漂ってくる。

 鼓動が早くなり、僕は激しく動揺した。

 その様子から察したのか、また彼女は可笑しそうに笑う。

 頭を左右にねじらせ甘えるように擦ってくる。

「本当に、ありがとう」

 囁くようなその言葉に溶かされてしまいそうになる。

 しばらく僕達はそのまま密着し、胸の高鳴りは留まることを知らなかった。


 その夜、僕は寝床についたものの眠れずにいた。

 特に理由はない、ただ単純に眠れなかったのだ。

 一時間ほど経った頃だろうか、部屋の扉がコンコンと叩かれた。

 そこで僕は閉じた目を開き、返事も待たずに扉は開かれた。

「・・・似鳥君、いいかな?」

 小坂さんの潜ませた声が聞こえる。暗闇の中なので姿を捉えることはできなかった。

「うん、どうしたの?」

 僕は身を起こす。電気を点けようとしたが、「点けなくてもいいよ」と言われやめた。

 彼女はベッドに近づいてきて、布団の上に腰掛ける。

 わずかな彼女の感触が布団越しにあり、吐き出す息で傍にいることを確認できた。

 数秒の沈黙があり、彼女が発する言葉を僕は待った。

「一緒に寝てもいいかな?」

「・・・えっ」

 僕は戸惑った声を漏らす。彼女の質問を頭の中で反芻しその意味を理解した時僕は激しく動揺した。

 すぐに彼女が「ごめん!変な意味じゃないよ!」と補足を加える。

「ただ、中々眠れなくて。誰か隣にいてくれた方が眠れるかなって・・・いいかな?」

 僕はまだ驚きを隠せずにいたが、変な考えをすぐに振り払う。

「それは、もちろんいいけど・・・」

「ほんとに?よかった」

 彼女はベッドにゆっくりと入り布団を被る。

 互いに背中を向ける格好になり、ほのかな温もりは彼女の存在を近くに感じることができた。

 心臓の鼓動が早くなり、体中が熱く火照る。今日はドキドキしてばかりだ。

「ごめんね。急に」

「いいよ。ちょうど僕も眠れなかったから」

 声が上擦っていないか不安だった。彼女が横にいることでさらに眠れなくなるだろうが、離れたいとは思わなかった。

「ずっと謝りたかったんだ」

 そこで布団がゴソゴソと動き、彼女が体の向きを変えたのだと理解する。

 僕も合わせて姿勢を変え、彼女に向き合う格好になる。

姿は見えないが微かな息遣いが近くで聞こえた。

「八谷と会ったあの日、私が彼の発言に取り乱して台無しにしてしまった。それ以外にも、事務所で名簿を見せられた時怒って一人で帰ったこととか。みんな私に協力してくれてたのに・・・失礼な態度ばかりとって。だから、ごめんなさい」

 そこまで言って沈黙が流れる。無音の空間で互いの呼吸だけが部屋に響いた。

 何と返していいか迷い、僕は静かに口を開く。

「別に、気にすることないよ。南川さんには、ちょっとまずかったけど・・・。もう終わったことだから」

 朗らかに言うよう意識したが、彼女の緊張はほぐれていないようだった。

 でも、と僕は続ける。

「あの時は君らしくなかった。横で見てて、まるで別人のようだった。正直に言えば、ちょっと怖かったかな」

 本当はちょっと所ではなかった。今にも目の前の人物を殺してしまうのではないかと思うくらい、それくらい狂気に満ちた表情をしていたのだ。

「私・・・どうかしてたの。復讐なんて、ただ犯人を捕まえる事だけが目的だったのに、心のどこかでは私と同じ目に合わせてやりたいと無意識に思ってた。最低だよね。これじゃ、まるで悪霊みたいだよね」

 やっぱりそうだったのかと心の中で思った。

 でも、別におかしくなんてない。

 本来そう思うのが普通だ。

 ただ彼女は優しくて、その優しさは憎悪から生まれる殺意に抵抗し、その葛藤は彼女の心を苦しめているように見えた。

「小坂さんは、優しいよ。僕が同じ立場だったら、迷うことなく犯人を殺していたと思う。現に今苦しんでいることが、何よりの証拠だよ」

 そう言うと彼女は黙り込み、代わりに鼻を啜る音が聞こえてきた。

 泣いているのかもしれない、でも暗くて彼女の顔を認識することができなかった。

 僕は片手を布団から出し、手探りで彼女の頭を探す。

 柔らかな感触と小さくて丸みを帯びた頭部に触れることができた。

 こんなことをする権利が僕にはあるのか分からないけど、励まさずにはいられなかった。

 絹の様にサラサラで触り心地のよい長髪をとかすように撫でていく。

 彼女は僕のこの行動をどう捉えたのか分からないが、僕の背中に片手を回し、身を寄せてきた。

 彼女の顔は僕の胸の中に埋まる形になり、左右に動かし甘えてくるようだった。

 くすぐったさを我慢しながら彼女の頭を撫で続けていく。

「確認なんだけど・・・」と彼女はくぐもった声で言う。

「そばにいてもいいんだよね?」

 今、上目遣いに見られているような気がした。

 電気がついていなくてよかった、きっと僕はかなり腑抜けた表情をしていることだろう。

「もちろん。むしろ、いてほしい」

 そう言うと彼女はくすくす笑いまた顔を胸に埋めてきた。

 今夜は寝不足決定だなと、僕は嬉しく思った。


 僕がそれを知ったのは朝に見たテレビのニュースだった。

 近所で見たことのある路地、そこに人だかりができている。

 トラテープが仕切るように張られ、その先に紺色の作業服を着た男達とスーツを着た仏頂面の刑事らしき人物が映っていた。

 音声にはアナウンサーの切羽詰まった声が流れる。

 現場から中継し、その場は相当混乱に陥っているのだろう。

 木原舞という女子高生の死体が見つかり、複数の殺傷傷から警察は殺人事件と扱い捜査を進めるらしいとテレビ越しに伝えてくる。

 朝何気なくつけたテレビに僕達は呆気にとられる。

 事件はまだ終わっていなかったと、その時確信したからだ。


 学校に向かい教室に入ると、周りは今朝のニュースで話題は持ちきりだった。

 殺人、それも女子高生。被害者は他校の生徒とはいえ数か月前に起きた殺人事件と類似していた。

 学校中は恐怖に陥り、特に女子生徒は重苦しい雰囲気を漂わせていた。

 中には面白半分に犯人探しをしようぜと言う奴らもいたが、その話が耳に入ってきた時には本当に神経を疑った。

 殺された人間がどんな思いでいるのか、唐突に人生を他人に奪われた悔しさが彼等には想像もできないのだろう。

 小坂さんも学校に来て図書準備室にいるが、当然塞ぎ込んでいた。

 心配なので様子を見に行きたくなったが、今はそっとしてあげた方がいいと思った。

 いつもと変わらず時間は過ぎ、授業は淡々と行われていくが集中できているものはほとんどいないように見えた。

 ホームルームの時間になると今日は教室ではなく急遽全校生徒が体育館に集められた。

 体育館は蒸し暑く、硬いフロアに体育座りで座る。毎回聞こえるヒソヒソ話も今回は聞こえてこなかった。

 やがて生徒指導の教師がステージに立ちマイクも使わず話し始めた。

 話す内容はやはり今回起きた事件の事でそれに対する学校側の対応だった。

 登下校は必ず二人以上で行動すること、夜間は外出を控えること、夏休みが近づいているが浮かれず気を引き締め、自分の身を守る行動を常に取ること。

 そんな注意喚起を次々と発表していくが、生徒の不安はそんな言葉では到底軽減できていなかった。

 前回、小坂さんを殺した犯人はこの学校の中にいた。

 つまり今回の犯人も学校内にいる可能性だって当然あるのだ。

 今こうして肩を並べ座っている人混みの中に殺人犯が潜んでいるかもしれない。

 この状況こそ、生徒の恐怖心を逆撫でしているように思えた。

 放課後の帰り道は生徒指導の先生に言われた通り、複数人で下校することを強いられた。

 仲がいい悪いは関係ない、帰り道が同じ方向の者は塊になって行動する。

 その為僕も話した事の無い男子生徒一人と女性生徒一人と下校することになったが、当然その間会話が生まれる事は一切無かった。

 小坂さんは僕達三人から距離を取ってついてきてくれた。

「それじゃ」と途中の交差点で男子生徒と別れ、次に住宅団地が見えてくると女子生徒は何も言わず僕から離れていった。

 そこでようやく小坂さんと肩を並べた。

 二人の間にもまた、会話が生まれることはなかった。

 数日後、僕達はまた探偵事務所へと向かっていた。


「で、何でまたここに来たんだい?」

 南川さんは頭を掻きながら億劫そうに言う。

 いつもの定位置でソファに座り短くなった煙草が灰皿の中で煙を立てている。

 僕と、今日は小坂さんも一緒に並んでソファチェアに座り彼女と向かい合っていた。

「第二の被害者が出た。南川さんもご存じでしょう?僕にはあれが、小坂さんが殺された事件と何かしらの繋がりがある様に思えて仕方が無いんです」

「繋がりも何も、小坂さんを殺した犯人は捕まっただろう。石田萌香。それで君たちの目的は達成されたはずだ」

 小坂さんはメモに何かを書き込み南川さんに見せる。

〈ご無理を承知でお願いしますが、南川さんは真犯人を追っていると似鳥君から聞きました。その調査に協力させて頂けませんか?〉

 メモを読むと彼女は静かにそれを机に置いた。

「確かに私は少年に石田萌香は捨て駒だ、真犯人は別にいると言った。でもそれはただ憶測に過ぎない。君達が協力する必要はない。それに」

 彼女は箱から新しい煙草を取り出し、口にくわえ火を点ける。

 煙を吐くと小坂さんの置いたメモをこちら側に突き返してきた。

「協力と言われてもねぇ、小坂さん。君はあの時全てを話してくれなかったじゃないか。大事な手掛かりを台無しにもされたし。今思えば、八谷は見当はずれもいい所だったけどね」

 小坂さんはそう言われて申し訳なさそうに顔を歪めたが、視線は変わらず南川さん一点を見つめていた。

〈その節は申し訳ありませんでした。私も、あの時は自分の感情を先行させ過ぎていました〉

 一枚を机に置くと、また新しい紙に文字を書いていく。

〈私は自分を守ろうとして、だからあの時全てを話していなかった。立場をわきまえていませんでした。ごめんなさい。でも、もう何も隠し事はしません〉

「霧島悠哉、私はそいつを有力な犯人候補だと思っていると言ってもかい?君は取り乱さず、事件解決を一心に協力してくれるのかい?」

 責めるような口調だったが、小坂さんは動じない。

〈もちろんです。本来私は身の振り方を考えられる状況じゃなかった。それを理解できていなかった。もう隠し事は一切しません〉

 そこで僕が口をはさんだ。

「霧島悠哉については先日彼女から話を聞きました。彼は、彼女の好きな人だった。だから名前が挙がり彼が疑われていた時、彼女は庇ったんです」

「いや、それくらい聞かなくても分かるよ。あの態度から明白だ。見えていなくてもね」

 彼女は煙草の煙を僕に向かって勢いよく吐き出した。

 煙を振り払うように右手を左右に振り思わず咳払いする。

「問題は小坂さんと霧島の間に何があったかだ。隠し事は無しと言ったね?彼とはいつどこで知り合った?」

〈それを話す前に、調査に協力させて頂けませんか?〉

「それは君の話を聞いてから判断する」

 小坂さんは迷った後、〈分かりました〉と返事を送る。

〈お役に立てるかは分かりませんが、彼の話をお伝えします〉

 彼女のボールペンを持つ手が震えてきた。

 さすがにずっと文字を書いていくのは消耗して疲れるだろう。

「小坂さん、ここからは口で話そう。僕が南川さんに伝えていくから」

「・・・ごめん。お願い」と彼女は申し訳なさそうに言い、ペンとメモを机に置いた。

 深呼吸をし、話し始める。

「あれは私が高校に入学してからすぐのことでした。新しい学校に知らない人ばかりのクラス。当時はその環境が不安で早く友達を作りたくて必死でした。思った以上に友達はすぐにできて、四人の女子グループで話すことが多くなりました。その中の紗季という友達が、今日かっこいい人と駅ですれ違ったんだ。多分あの制服は一駅先にある男子校の生徒。アイドルみたいだったなぁと言うとみんなその話に飛びつきました。見たい、会いたい、次の日の朝、みんなで駅に集まってその男子を待ち伏せしていました。私も、流れで行くことになったんですけど、正直乗り気ではなかったです。でもせっかくできた友達だったので、断りづらくて」

「その男子が霧島悠哉か」と南川さんは呟く。

「そうです。私は徒歩通学でしたが、その日は遠回りして数キロ先の駅まで自転車で向かい友達と駅で合流しました。電車を待っている間、紗季がはしゃぎはじめました。来た。あの人、見て見てって。駅の入り口側を見るとすぐに分かりました。背が高くて、長い髪は前髪が若干目にかかっていました。白い肌にやんわりとした顔立ち、二重の右目の下にある黒子が特徴的でした。みんなえーかっこいいとはしゃいでいましたが、私は何も言えませんでした。言葉が出ない、呼吸が苦しい、油断すればその場で倒れてしまいそうな程立ち眩みを起こしました。あの時私は、霧島君に一目惚れしたんです。私達に気付くと彼は微笑み会釈をしてくれました。その手慣れた対応を見る限り彼からしたらよくある羨望の眼差しの一つに過ぎなかったのでしょう。彼は反対側のホームへ向かい、やがて来る電車に乗りいなくなってしまった。詰まりそうになる息を整えながら、私は正気を保とうとした。彼と出会ったあの日から、見える世界は色づき、世界は華やかなものに変わったような気がしました」

 彼女は話しつつ少し照れていた。当時の事を思いだし幸せな気持ちが蘇ってきたのだろう。

 僕はその言葉を代弁して伝えながら、彼女とは対照的に気分が落ち込んでいた。

 南川さんはそんな僕を見て気の毒そうに苦笑いしていた。

「それから私は個人的に彼と会いたいと思いました。あの時はもう彼の事で頭がいっぱいでした。その日、いつ会えるのか分からないけど、放課後駅のベンチに座り彼が帰ってくるのをずっと待っていました。待ち伏せをして三十分後に彼は電車から降りてきて待合室に歩いてきました。私はすぐに再開できて嬉しかった。彼を見つめて、でも緊張してなんて話しかけたらいいのか分かりませんでした。彼は私に気付いて、また今朝見せてくれた笑顔を私に見せてくれました。そこで私は彼を直視できなくなり俯いた。このまま彼が歩き去るのを見届けることしかできないのかと思った時、彼の方から声を掛けてくれました。君、朝も会ったよね。奇遇だねと朗らかに話しながら私の元へ近づいてくる。予想外な出来事に私はさらに緊張して体を硬直させました。大丈夫?体調悪いの?と私の額に手を当ててきて、大丈夫だよと小さな声で返事をするので精一杯でした。それから彼もベンチに座り、私達は話しました。何を話したのかよく覚えていないけど、あの時間は幸せでした。別れ際、私達は連絡先を交換して家に帰りました。やった!と、私は自分の部屋でトークアプリの連絡欄に映る彼の名前を見る度はしゃぎました」

 南川さんは持った煙草を灰皿でもみ消し、しかしその間も視線は僕の方へとむけられていた。

 鋭く、どこかおかしい点はないか見定めているようだった。

「彼とは夜の八時から九時の間にトークアプリでやり取りをしていました。今日学校であった出来事とか、夕飯が何だったのか、月並みな会話ばかりでとても恋愛に発展するとは思えなかったけど」

「文章でやり取りしたわけか。電話はしなかったのかい?」と南川さんが口を挟む。

「電話なんて、できるわけないです。きっと緊張して言葉が詰まってしまう。文章の方が、まだ会話になると当時は思っていました」

「そっか。八時から九時の間にやり取りという話だけど、何分くらいしていたんだい?」

小坂さんは確かと呟き「長くても、二十分くらいだったと思います」と答えた。

「おっけ。ありがと。続けて」

「そんな短くても毎日続けたやり取りが功を奏したのか、ある日彼から放課後どこかに遊びに行かないかと誘いがあったんです。その文を見てまた私ははしゃぎました。同時に学校帰りでよかったと思いました。私服だったら、何を着ていくか悩み永遠に決まらなかっただろうから。約束通り彼と駅で待ち合わせ、私達は近所のカフェに寄ったりゲームセンターで遊んだりしました。恋人にはなっていないけど、デートみたいだなって。そう思いながらも、少し悲しい気持ちもありました。彼の提案する場所は素敵な所ばかりで、同時にそういう男女が楽しめる場所を知り尽くしているように思えたんです。彼の容姿を見れば何も不思議なことではないのですが、手慣れているなと。他の誰かともこうやって彼が笑いあっているのかと思うと、胸が苦しくなりました」

 その胸が苦しくなる感情は僕が今まさに抱えているものだった。

 彼女の甘酸っぱい話を聞いているとその相手が僕だったらいいのにと思わずにはいられなかった。

 独占欲故なのか、嫉妬深いなと心の中で自らを失笑した。

「小坂さんが霧島と遊ぶのは基本放課後だったのかい?休日にあったことは?」

「休日は一度も会ったことがありません。放課後で、一時間か二時間の間位しか彼とは一緒にいませんでした」

 片手で顎を触り、南川さんは小坂さんの座っている方向を見る。

「よく遊びに行った場所はどこなんだい?」

「霧島君とはよく、カフェに行きました。駅前にオレンジカフェっていうお店があって、アンティークを意識した内装が特徴的でした。そこで彼はよくブラックを、私はキャラメルマキアートを頼んで二人でくつろいでいました」

「ふーん。そんな日々を繰り返している内に君は死んでしまったわけだ」

「そうです。彼との関係はそれきりで終わりました」

「それで、彼と最後に会ったのはいつになるのかな?」

「そうですね、日にちまでは覚えてないですけど・・・その日は放課後オレンジカフェに行って、その後雑貨屋さんで色違いのコップを二人で買いました。クラウドグラスっていうパステルカラーのコップで、波の様な模様とそこに彩られる色彩が綺麗でした」

「その日特別な事とかなかった?霧島といて気になったこととか」

「特にはなかったです。何も変わらない、いつもの彼でした」

「少年、小坂さんの葬儀が行われた時、霧島を見かけなかったかい?」

「霧島は、来ていなかったと思います。僕が見た限りでは」

 南川さんは金髪の毛先を指先で弄んでいる。何か考え込んでいる様子に見えた。

「話の続きはなさそうだね。ここまで聞いた限りただの恋バナだ」

「そう、事件には関係のないことです」

「なら何でこの話をすることを拒んていたんだ?隠すような内容でもなかっただろう」

 彼女はスカートの裾を握り締め、絞り出すような声を出す。

「好きだったから、疑われることに我慢できなかった。それが些細な事でも」

「彼を守りたい一心で防衛していたわけだ。やれやれ胸が熱くなるねぇ」と南川さんは冗談めかして言う。

「でも残念ながら、今の話を聞いて私は霧島悠哉をさらに疑っている」

 彼女は明らかに挑戦的な目で見えないはずの小坂さんを睨みつけた。

 しかし小坂さんは怯むことなく南川さんを真っ直ぐに見据えている。

「そうですか・・・」

「少年、小坂さんは今どんな感じ?」と聞かれると「落ち着いた様子ですけど」と答える。

「前みたいに怒って机を叩かないんだな」と感心そうに言う。

 彼女は宣言通り、感情を先行させることはなかった。

「でも、どうしてさらに疑いを深めたんですか?今の話で怪しい所はあまりなかったように思えるんですけど」

「どうしてって、それは小坂さんと密接に関わっていたからさ。そもそも何故霧島は彼女に近づいてきたのか。まぁ彼は中学時複数の女子と交流していただろうから遊びの一つと考えれば簡単だけど、殺人と無関係にはまだ考えられない。小坂さんの話はお姫様視点の浮いた話だ、彼は彼女をどう見ていたのか。そう考えるとまだ怪しい点が山ほどあるんだよ」

 はっきりとした物言いで南川さんは淡々と言う。

 霧島の不純男女交際の事について知ったのは南川さんの資料を見た時初めて知ったことだ。

 小坂さんはそのことをどう思ったのか、それでも尚彼の事が今でも好きなのか、僕は気になった。

「確かに、仰る通りだと思います。彼の事は好きでしたけど、今は本当の事が知りたい」

 だから、と彼女は続ける。

「南川さんの調査に協力させて頂けませんか?」

 そう言って彼女は頭を下げる。

 見えていないだろうが、南川さんの表情は柔らかくなる。

「いいよ。今の君なら大丈夫そうだ」

 彼女は笑いながら言うとローテーブル越しに握手を求めた。

「またよろしく。お二人さん」

 僕と小坂さんは顔を見合わせて表情を明るくさせる。

「お願いしますっ!」

 小坂さんは手を伸ばして握手を交わし、確かな感触を感じたのか南川さんは微笑んだ。


 次の日、早速僕達は南川さんの調査に同行することになった。

 幸い土曜日で一日中自由を利かせることができた。

 僕はジーンズに黒の半袖シャツを着て、小坂さんは花柄のフレアスカートに黒のノースリーブを着ていた。

 午前中に南川さんが車で迎えに来てくれて、彼女は相変わらずいつもの黄色いカーディガンを着ていた。

 以前、それ洗ってるんですか?と聞いた時消臭スプレー位吹いているよと回答していたが、衛生的に問題ないのかは分からない。

 僕達の姿を見て運転席側の窓を開けるとサングラスを掛けた南川さんが後部座席を親指で刺した。

 ジェスチャー通り僕と小坂さんは後ろに乗り、シートベルトをつけるのを待たずに車は急発進した。

「今から向かうのは木原舞の死体が見つかった場所。当然警察が囲んでいるから入らせてもらえないだろうが、私は巻雲刑事のコネでちょいと覗かせてもらうよ」

 そう言うと南川さんは煙草を加えて火を点けると窓の外に向かって煙を吐き出した。

「僕達は線の外で待って、中の様子を伺うようになるんですかね」

「そうだな。でも小坂さんは姿が見えないからこっそり入ってついてきたらどうだい?」

 小坂さんは頷き「見てみたいです」と言った。

「小坂さんが見てみたいと言っています」

「よし、じゃあ少年はどっかで待機な」

 はいと答え、窓の景色を眺める。同じようなビルの外壁とサッシが映り変わり歩道には家族連れや休日でもスーツを着た人間が忙しそうに走り回っていた。

 第二の被害者、木原舞もまた、彼女と同じように唐突に人生を奪われた。

 未練を残して成仏できず、まだこの世界を彷徨っているのだろうか?

 そうだった場合、彼女の姿を捉えることのできる人物は目の前に現れてくれるのだろうか?

 横にいる小坂さんを見て、あの時彼女が見せた虚ろな目を思い出す。

 視線に気付いたのか、小坂さんが不思議そうに僕を見つめ返す。

 僕はなんでもないよと笑ってごまかし、視線を落とすと彼女の手首が映る。

 今日も紫色の石が装飾されたブレスレットを右手につけていた。

「降りよう」と南川さんは言い車をパーキングに停める。

 彼女が外に出ると僕達も続いて降り、立体駐車場のエレベーターを目指して歩き始める。

 有料駐車場はどこもいっぱいで、停められる場所はパチンコ店の立体駐車場しかなかった。

 車が多い理由はマスコミや暇な奴らが現場に集まってきたせいだろうと南川さんは言っていた。

 駐車場を抜け駅前のアーケードに出て、そこから数十分裏に抜けて歩いていくとすぐに人だかりが見えてきた。

「いい目印だな」と南川さんは人混みの中に入りぐんぐん前に進んでいき、遅れて小坂さんも彼女の背中を追っていった。

 僕は人混みから背伸びをし、南川さんの様子を見ていた。

 彼女はテープを潜り抜けようとすると見張りの警察官に止められ、めんどくさそうに頭を掻き毟っているとグレーのスーツでネクタイを締めていない刑事が彼女の元へ駆け寄っていた。

 後退した髪の毛にいかつそうな顔を見てすぐ巻雲刑事だと分かった。

 見張りに口利きをすると南川さんは奥へ通してもらえたようだ。

 小坂さんは背中を追い、ひび割れた外壁に挟まれた路地の中に入っていった。

 僕は彼女達が返ってくるのを待ち、数十分すると南川さんがのんびりした足取りでこちらに戻ってきた。

 遅れて小坂さんも来て、彼女の方は気分が悪そうだった。

「大丈夫?」と聞いてみるが殺人現場を見て大丈夫なはずがなかった。

「・・・うん」

 彼女は表情を歪めていたが強がった様子でそう言った。

「現場の土間やビルの壁には血痕がいくつか染みついていたよ。被害者は仰向けの状態で何回も何回も刺されている。またしても怨恨かな。前回と同様、所持品は全て持ち去られている」

 鑑識の結果を待ち、そして巻雲刑事がその情報を流してくれるのを待つほかないなと彼女は呟く。

 また怨恨と言う言葉に引っかかりを覚える。

 石田萌香が何の恨みで小坂さんを殺したのかがまだ判明せず、それを怨恨と結び付けていいのか分からなかったからだ。

「どこかで一息つこうか。ちょうど駅前だし、例の小坂さん行きつけの店に行ってみるか」

 店の場所を事前に調べていたのか、軽い足取りで南川さんは僕達を置いてどんどん前に進んでいく。

 置いていかれないよう追いかけようとしたがふらつく小坂さんの歩行は安定しておらず、放っておけばいつか転んでしまいそうだった。

 僕は肩を差し出し、「ありがと」と言い彼女は僕の肩に手を掛ける。

 彼女のペースに合わせてお店へ向かった。

 駅の方向へ少し歩くと南川さんが道路脇のフェンスに持たれ煙草を吸っていた。

「なんだ、小坂さん気分が悪いのか?」

「当たり前でしょう。普通の女子高生なんですから、殺人現場なんか見たら気分も悪くなりますよ」

「そうなのか。それもそうか」と言い側溝に向かって煙草を投げ捨てる。

 僕達の横には黒レンガのサイディングボードが一面に貼られた建物があった。

 ステンドグラス入りの両開きドアが入り口となっており、すぐ上にはオレンジカフェと書かれたアイアン看板が吊り下げられていた。

「なんだか暗い外観だな。カフェというよりジャズバーって感じだ」

「中もそんな感じです。アコースティックの曲が常に流れてて落ち着いた雰囲気を作りだしています」

 その言葉を一応南川さんに伝えると「最近の高校生はお洒落だな」と呟く。

 入り口を開け、南川さんを先頭に僕達は入っていく。

「いらっしゃいませ」と縞模様の半袖シャツの上に黒いエプロンを付けた若い女性店員が挨拶してくれる。

 カウンターはないものの南川さんの言った通り雰囲気はジャズバーと見間違えるようだった。

 黒革のソファチェアにローテーブルが設置された席がいくつもあり、電球色のペンダントライトがいくつも部屋を照らしていた。

 部屋の壁は擁壁で使われていそうなコンクリートでその上に英語で書かれたポスターや額縁に収められた写真などが飾られていた。

 部屋の奥には大きな本棚と外国の書物が中に敷き詰められている。

 人目に付きにくい隅の席に座ると南川さんは口を開く。

「客は、スーツを着たサラリーマンが二人、大学生と思われる若い男女、それと私達だけか。休日にも関わらず案外少ないんだな」

 失礼な言葉を声量も抑えずさらりと言う。

店員さんに聞こえていないか不安だったが、でも確かに土曜日のお昼時にしては少ない気がした。

「駅前とはいえマイナーな店だと思います。外を見てもらった通り、不気味で暗いデザインで窓は一つもない。前はライブハウスだったので、その名残だと思いますけど」

 その言葉をそのまま南川さんに伝える。事務所で一回彼女の言葉を代弁してから、彼女はメモで会話をすることを止めていた。

 タイムラグが少なく、なにより書く手間も省ける。幾分負担は減っただろう。

「なるほど。それで部屋の壁が分厚いわけだ」と冷たいコンクリートの壁に彼女は触れる。

 スタンドに建て掛けられたメニューを開き、それぞれ飲み物を選ぶ。

 全員が選び終えると手を挙げて店員を呼んだ。

「お待たせしました」と先程挨拶してくれた茶髪でショートカットの女性が着た。

 濃い化粧に少しふっくらした体格の店員はメモとボールペンを持ってオーダーを待つ。

「キャラメルマキアートを二つ下さい」

 三つ注文すると不審がられる。君たちが一つずつ注文するといいと南川さんが気を遣ってくれたのだ。

「かしこまりました!」と店員は元気な声で返事をする。

「あ、そうだ君」

 背を向けた店員を南川さんは呼び止める。

「ここらで最近殺人事件があったのは知っているかい?」

「えぇ・・・もちろん」

「あの女の子、木原舞さんって言ったかな。彼女について何か知らないかな?」

「知らないかって・・・警察の方ですか?それともマスコミ?」

 先程の元気な様子とは一変して警戒心を剥き出しにして聞いてくる。

 そこで南川さんはカーディガンのポケットに突っ込まれた名刺入れを取り出し、南川探偵事務所の文字を見せる。

「探偵さん、ですか」

「無理にとは言わない。嫌なら何も答えなくていい」

「いえ、嫌とかじゃなくて・・・そうですね。ニュースを見るまであの人の名前は知らなかったんですけど、このお店に時々来てたんですよ。可愛いなってずっと思ってて。だからテレビに映った時、すぐに彼女だと分かりました」

「店に来てたんだ。それは一人で?」

「いえ、男の人と一緒でしたよ。ただその男、前は違う女子と来てたんですよ。彼女が変わったのかなって思ったら次の日には前来た女子と一緒に来店してきて。いろんな子と浮気してたのか、だから彼女達が可愛そうでした」

「最低な奴だな。ちなみにそれは」

 南川さんは携帯を開き一枚の写真を画面いっぱいに表示する。

「こんな男だったかい?」

 店員は画面に顔を近づけ、すぐに首を縦に振った。

「間違いないです。この男です」

 画面をこちらから伺うことはできなかったが、霧島悠哉以外ありえないだろう。

 浮気・・・過去の不純異性交遊という前科が頭をよぎる。男子校に行っても女癖は健在だったわけだ。

 小坂さんは机の一点を見つめ、細い肩を小さく震わせている。

 キャラメルマキアートが運ばれてきても、彼女はそれに口付けようとはしなかった。


「霧島君のこと、薄々気づいてはいたんだ。いろんな女の子と楽しげに話していて。あんなにかっこいいんだもん。無理もないよね」

 家に帰り、僕の部屋で彼女と話していた。霧島の女癖が悪いことは今更だが、それで小坂さんが傷つけられてしまうのは憤りを覚えずにはいられなかった。

「でもオレンジカフェに違う人と行ってたのはショックだったな。私と歩いた場所は、他の人とも訪れた場所。彼のエスコートが手慣れていたのはそのせいなんだろうね」

 彼女は短く笑うが目は開いたまま動いていなかった。

「まだ、彼の事が好きなの?」

 気づけばそう聞いていた。彼女は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに愛想笑いをする。

「人の心を弄んで、利用するだけ楽しんで最後には傷つけて。でも、そんな人と知った今でもまだ好きなんだと思う。バカだよね。でも、どうしようもないの」

 霧島のどこにそこまで入れ込むのか、やはり似た目なのか。しかしそれだけの為に小坂さんがここまで思い詰め苦しまなくてはいけないものなのだろうか?

 正直理解できない、でも分からないのが普通なのかもしれない。

 恋愛心は人間の本能が刺激され生じる現象だ。

 子孫を残す、優良な遺伝子を求める、生物的な喜びを追及する、それらの欲望を満たそうとする本能は自分の自我が芽生える前から予め組み込まれている。

 論理的では間違っていても、生物的には間違っていない。むしろ健全といえるだろう。

 そう言う僕もまた、彼女と同じ気持ちを抱えているのかもしれないけど、それもまた僕には分からなかった。


 木原舞の現場を見て数日後、南川零の元に巻雲孝介が訪れていた。

 白いポロシャツとチノパンとラフな格好をしていて、彼は事務所に入ると「煙草くせぇな。だから客来ないんじゃないか?外で吸えよ」と苦笑いして言った。

「立地が悪いんですよ」と笑い返すが彼が肩にかけているショルダーバッグを見て気が引き締まった。

 彼はソファチェアに腰掛けるとバッグに手を突っ込み、しかし取り出したのは煙草とライターだった。

 私の怪訝そうな表情を見て察したのか彼は口を開く。

「悪いな、資料はまとめてないんだ。今日は口頭で伝えようと思って」

「口頭?その為にわざわざここまで来たんですか?」

「まぁ、お前の顔見たかったのもあるしな。俺実は捜査課長からなんか目を付けられててよ。あまり自由が利かなくなってきたんだよ。だから今日も若い奴が見張りについてて、今外で待ってる」

「汚職がばれたんですか?」と私は不謹慎ながら少し笑ってしまった。

 彼は煙草をくわえ火を点ける。煙を天井に向かって吹くと換気扇の中に吸い込まれ消えていく。

「笑い事じゃねぇよ。バレてはないと思うけどよ、詳しいことはよくわかんね」

「色々ありそうですからね。あの組織は」

 そう言った私の顔を一瞥し、彼は机に置かれたインスタントコーヒーをもう片方の手で掴み、一口啜る。

 私は灰皿を彼の元に寄せるとすぐに煙草を灰皿の中に入れた。

「本題だが」と切り出しカップをソーサーに戻す。

「被害者、木原舞の司法解剖が行われた。その際胃袋の中から小豆が見つかった。食べ物が胃から消化されるには三時間から五時間と言われている。これらのことから三時間以内にデザートでも食べていたってわけだ。どこで食べたのか、ここら辺で小豆なんてこじゃれたもん食べるにはどこかのカフェやファミレスとかに行ったと考えるのが自然だろう。学校を当たり放課後になる四時まで在籍していたのは確認していたし、彼女の自宅で母親に話を聞いた時はいつも六時までには家に帰ってきていたそうだ。その四時から六時の間に絞って死体が見つかったのは駅前。移動も考えるとその駅前付近の店で食べたと推定した。片っ端からファミレスやらカフェを当たっていった。幸いここはど田舎だったからあまり洒落た店は多くなかったからな。探しやすいと考えた」

「結局その店はどこだったんですか?」

 店がどこなのかはもちろん知っていたが、私は情報を引き出す為あえて知らないふりをする。

「オレンジカフェってとこだ。あの店の外観は暗くてな、最初は飲み屋かクラブだと勘違いしてた。看板にコーヒーマークが無かったら普通に通り過ぎていたよ。店内の防犯カメラを確認したところ木原舞が殺害される当日彼女と制服姿の男子高校生と二人で会っていたことが確認できた。映像を見る限り、その男子生徒はお前が以前言っていた、霧島悠哉に間違いないだろう」

 私はそこで目を見開いた。予想はしていたが、やはり木原舞は殺される前に霧島悠哉に会っていた。

「私もそこのカフェにはいきました。その霧島悠哉の件を、小坂結衣の友人である緑川玲奈に聞いてそのカフェに辿り着いたんです。彼は中学時複数の女性と交流し問題になった為男子校に転入しましたが、今でもその女癖は健在で、デートスポットとして使用した場所の一つがこのカフェだった。店員に確認したところ木原舞に限らず他の女性ともそのカフェを訪れていたそうです」

 緑川さんから聞いた情報というのはもちろん嘘だ。

 巻雲刑事に霧島について話す際、死んだ小坂結衣から聞いたなんて言えるはずもない。

 緑川さんには事前に口裏を合わせてもらい、なんとか嘘を固めてもらっている。

「例の、小坂結衣が殺された事件の犯人。石田萌香はまだ口を割らないんですか?」

「あぁ、だんまりだ。だが進展はあったぞ。石田萌香の人間関係を洗う際、同級生の友達に霧島の名前を出し聞いてみると石田萌香が霧島を好きだった事が分かった。霧島の女癖を知っていたのか、弄ばれているだけだよと注意した友達がいたが、石田萌香の怒りを激しく買ったらしい。普段は人を怒鳴るような人じゃなかったから面食らったそうだ」

 それは、またまた新情報だ。

 霧島は石田萌香とも繋がりがあった、そのことが分かったとしたら。

「霧島に会いに行ったんですか?」

 私がそう聞くと、巻雲刑事は短くなった髪を指先でポリポリと掻く。

「あぁ、すぐに複数の女性と交流していたことを認めたよ。だが事件性は無かった。アリバイがあってな、木原舞と別れた後駅に向かいすぐに帰ったんだ。その際切符を買いホームから電車に乗ったらしいが、防犯カメラでその姿が確認できた」

「なんだ、関係なかったんですか」と私は今までの話を聞いて拍子抜けする。

「長く話した割には悪かったよ。お前が気にしていると思ってな」

「でも妙ですね。二つの事件で霧島は、小坂結衣の時は被害者と加害者と、木原舞の時は被害者と繋がりがあった。無関係のようにはとても思えません」

「そうなんだ。確かに妙なんだがな。アリバイがあるようでは仕方がない」

「でも、どうなんでしょう。霧島が複数の女性と交流している事、石田萌香もそれを知っていながらも思いを寄せていた。その浮気が女性たちにバレ、嫉妬心から犯罪へと繋がった。よくある、男女関係のもつれのような類でしょう。石田萌香は小坂結衣が霧島と一緒にいたところをどこかで目撃し、そこで激しく怒りを覚え小坂結衣を殺害した。木原舞もまた、同じような理由で殺されたと考えると犯人は女性の可能性が高い気がします。まぁ情報の少ない今はこんな推理しか出てこないんですけど」

「ありえそうな話だが、何とも言えないな」

 霧島は事件と無関係、そう考えるには私の中では無理があった。

 だがそう判断できる材料が今この場にはない。

「巻雲刑事、私を霧島に会わせてくれませんか?」

 そう言うと彼は眉を顰めコーヒーカップを手に持つ。

「それは俺に紹介しろってことか?」

 私はにこりと笑うと彼はまた頭を掻く。困ったときに見せる彼の癖だ。

 そのせいで会う度髪の面積が少なくなっている気がする。

「本当に必要な事なのか?学校側に言うのもめんどくさいんだぞ。奴に何か聞きたい事でもあるのか?」

「えぇ、実は」

 私は携帯の写真を見せ、それを見た彼の表情はしばらく硬直していた。

「これは・・・分かった。日程が決まったらまた連絡する」

「ありがとうございます、お礼に今度飲みに行く時奢りますよ」と言うと「金が無い奴が何言ってんだ」と苦笑いされた。

 彼は腕時計の時間を確認すると、手に持ったコーヒーカップを掲げ口に流し込んだ。

「そろそろお暇するよ。あまりいい情報を持ってこれなくて申し訳なかったが、そっちでも何か分かったら連絡してくれ」

「えぇ、お時間頂きありがとうございました」

 鞄を持ち立ち上がり、入り口ドアノブを持った時動きが止まった。

「なぁ、南川。別に帰って来てもいいんだからな」

 呟くように彼は言う。帰ってきてもいいというのはかつての古巣のことだろう。

「ここ数年で働き方が大きく変わった。上からの嫌がらせはなんちゃらハラスメントって名前がついて公になれば社会から囲いを受け糾弾される。抵抗手段ができた今、前程露骨な嫌がらせは確実に少なくなった」

「国の始めた改革ですか」

「あぁ。残業は少なく休みをしっかりとり、禁煙しろって言うのは大きなお世話だと思ったがな。成果は徐々にある。あと、今日俺の見張りで外で待っているのはお前のかつての同期、井上だよ。あいつはお前に弱いから、捜査情報の横流しに勘づいていても目を瞑り上に報告しないでいてくれる。車で待ってろって言うと素直に言うこと聞いて、本当は一番お前に会いたい奴はあいつだろうにな」

「井上、懐かしいですね」

 警察学校も、交番勤務時代も同じ地域に配属され二人で苦楽を共にしていた時を思い出す。

 彼は多分、私の事が好きだったのではないかと今では思う。こんな私を、物好きな奴だ。

「ありがとうございます。でも、あの場所に戻る気はありません。井上によろしく伝えておいてください」

「そっか。釣れないねぇ」

「巻雲刑事には感謝しています。皆が好奇な視線で私を見る中、私の声を最後まで信じてくれていたのはあなただけでしたから」

「お前は結局最後まで正しかった。耳を傾けない周りがアホだっただけだ。俺は男性女性で差別するような奴は嫌いなんだよ。俺たちは事件の真相、その究明を目指している。そのゴールはみんな同じだ。そこに余計なプライドや色目なんて必要ないんだよ」

 その言葉を聞いて、私の頬は無意識に緩む。

「変わりませんね、巻雲刑事」

「まぁ、生きづらい世の中なのは今も変わらないがな。俺もお前も」

 自分の心を歪めてでも組織の足並みに揃えられないものは糾弾され、一つの型枠に当てはまるよう強いられる。

 それができない場合、その集団から外れるしかない。

 どこへ向かおうと、ハブられ者たちの生きる場所は窮屈で息苦しい所しかないのだ。

「じゃあな」

 巻雲刑事はドアノブを捻り、また外の世界に駆り出していった。


 巻雲刑事が帰ってから数時間後、私は携帯を操作し連絡先欄を見つめていた。

 連絡帳アプリを開いて少しスクロールするとすぐに井上の名前がある。

 その名前を見て、私は懐かしさを覚える。こいつとも当分会っていない、正直今日まで彼の存在を忘れていた。

 名前をタップし、表示された番号をさらに叩く。

 通話状態になってコール音が二回鳴るとすぐに電話は繋がった。

「もしもし、井上です」

 低音で響く声は相変わらずだ。不愛想で気怠そうな印象を相手に与えてしまう損な声帯だと思った。

「南川だ。久しぶりだね、井上」

 そう言うと彼はあっと声を上げた。

「南川?ほんとかよ、急にどうしたんだ?」

「用が無いと掛けちゃいけないのかい?」

「そうじゃないけど、何年ぶりだと思ってるんだ。びっくりしたよ。それにしても、よくこの番号が分かったな」

「バカ、前と同じだったよ」

「ははっ、そうか」

 互いに朗らかな様子で言葉を交わし、その後は思い出話に花を咲かせた。

 警察時代ロクな思い出は無かったが、彼といた時間だけは特別なような気がした。

 かつて同じ釜の飯を食った同期、辛い職場環境では貴重な存在だった。

「それで、警察の仕事はどうなんだ?少しは出世したのかい?」と私が聞くと彼は乾いた笑いを返した。

「してないよ。そんなものには興味ないしな。最近ここらは物騒で仕事が忙しいんだよ」

「私と電話する時間はあるじゃないか」

「睡眠時間削ってやってんだよ。今何時だと思ってるんだ」

 私は電子時計に目を向けてみる。午前二時十六分と表示されていた。

「悪かったよ。ごめん。なんだか、久しぶりに話したくなってね。つい掛けちゃった」

「べ、別に、迷惑ってわけじゃないけど。俺もその、嬉しかったからさ」

 彼が言い淀んだ言葉を聞いて分かりやすいなぁと可笑しくなる。

「余談だけどさ、井上。最近変わった事はないかな?事件でも、ちょっとした情報でもいいからさ」

「なんだ、やっぱそういう魂胆か。急に電話が来るなんて変だと思ったよ」

「分かってるなら教えてくれよ。なんでもいいからさ」

「そう言われてもなぁ・・・」

 井上は唸り、数十秒後ようやく口を開いた。

「そういえば、女性の行方不明者が多いな」

「行方不明?」

「あぁ、データベースから提出された捜索願が見れるんだけど、若い女性、特に学生が最近増えた気がする」

「なるほど、その捜索は捗っているのかい?」

「いや、捜索願が出されても事件性が高いと認識されない限りすぐに捜索には乗り出せないんだ。捜索願なんて、他にも山程提出されているわけだからね」

「知らない所で女性がいなくなっている、か」

 最近女子高生が二人も殺害されているんだ、その中で女性の行方不明の件数が増えたとなると明らかに異常な状況だ。

 これら全てが一つに結びついているとしたら、その可能性も否定できない。

「なぁ、井上・・・頼みがあるんだが」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る