第3話 君が笑ってくれるなら
その日は雲一つない晴天だった。
ガラス張りの四角い建物からは電球色の光が見え、外壁に取り付けられた飾り格子はアップライトで光の明暗を作り出していた。
外部の華やかさとは裏腹に室内の空気は重苦しく、部屋に用意された椅子に座る人達もまた、その空気に歪まされたように表情を崩していた。
周囲が着る黒い喪服はその雰囲気に馴染み不気味なほど落ち着いている。
僕が椅子に座っていると、昨日知り合った緑川さんが部屋の入口に立ち一礼して入室する。
僕と同じく制服姿で、僕の存在に気付くと小さく会釈をしてくれた。
それに続いて制服姿の高校生がぞろぞろと入ってくる。
部屋の一番前には白色の花が愛でられ、その真ん中には小坂さんが無邪気に笑っている写真が置かれていた。
その写真を見て、涙を浮かべる人たちが沢山いた。
多くの人に惜しまれ、どれだけ彼女が周囲にとって大切な存在だったかがひしひしと伝わってきた。
悲しみと憎しみ以外の感情が混在しないこの部屋で、小坂結衣の葬式は執り行われた。
彼女は、この場に来なかった。
お葬式が終わって家に帰り、部屋の扉を開ける前に僕は立ち止まった。
姉の部屋に彼女はいる。声を掛けようか迷ったが、やめておいた。
僕の口から何を言っても、今日は彼女を傷つけるだけだ。
そっと自分の部屋に入り、その日彼女と顔を合わせる事は無かった。
〈さて、君たち準備はいいかい?〉
だってさ、と緑川さんは僕に言う。イヤモニは彼女が付けているから南川さんの声を唯一聞くことができる。
南川さんは少し離れた川沿いに車を停め、僕達を双眼鏡で見つめている。
僕と緑川さん、そして小坂さんは八谷啓吾の自宅前に立っていた。
彼に渡す提出物がファイルに挟まれたものを緑川さんは両手で抱え、小坂さんは口を真一文字にして顔を強張らせていた。
「緑川さん、あまり緊張してたら怪しまれるよ」
小坂さんはともかく、僕達は相手から見られる立場だ。
少しの綻びが原因で警戒されれば今後この家に立ち入れなくなり、そして今後の手がかりをつかむことも困難になる。
それだけは何としても避けたい。
「ご、ごめん・・・」と緑川さんはかぶりを振り、深呼吸をする。
〈よし、行ってみよう〉というのを合図に門扉を開き、外壁に取り付けられたインターホンを鳴らす。
〈はい。八谷です〉と感じの良い声が子機から聞こえてくる。
「あの、緑川です。八谷啓吾君の同級生で、プリントとか持ってきました」
上ずった声で彼女は言うと〈はーい。ちょっと待ってねー〉と廊下を走る音が中から聞こえる。
数秒後、玄関ドアが開かれる。
出てきたのは初老の女性で、恐らく八谷啓吾の母親だ。
茶色い髪によく塗られたお化粧、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ「わざわざありがとね」と朗らかに言った。
緑川さんはプリントを両手で渡し、しかしそれだけでは終われない。
「八谷君はお元気ですか?最近来ないから心配で・・・」
「そうねぇ・・・元々心の弱い子だったから。今はまだ・・・ね」
その時明らかに彼女の反応が暗くなった。
〈まだ、じゃない。その母親は会わせる気がさらさらなさそうだが、諦めずに押せ〉
分かっていると言わんばかりに緑川さんも引き下がらない。
「どうにか、部屋の前だけでもいいんです。声を聞かせて頂けませんか?」
「うーん、そうねぇ・・・」
八谷の母は迷い、手の平で頬を触る。
「今は、そっとして置いてほしいな」
そう言われた瞬間、小坂さんは一歩踏み出した。
土足のまま玄関框を超え、そのまま階段室へ向かいだす。
僕と緑川さんは呆気にとられ、「今、何か音が・・・」と八谷の母も不審そうにしている。
まずい、何をする気なんだと内心激しく焦り、やがて二階から物音がした。
「え、啓吾?啓吾なの!?」
八谷の母は血相を変えて廊下を走りだした。
僕達も後に続いて家の中に入った。
小坂さん、まさか・・・。
僕は最悪の想像をし、そして階段を駆け上がり開かれた部屋の中を見る。
閉め切られた、暗く異臭のする部屋だった。
そこは、物置と見間違うくらい足の踏み場がなく、散らかされた漫画やライトノベル、音楽や映像の媒体に大量のフィギュア、その他お菓子や飲み物のごみなどが至る所に散らばっていた。
壁には元々張られていたクロス壁が見えなくなる位二次元のポスターが張られ、唯一原形を留めていたのは机に置かれたデスクトップ周辺だけだった。
その部屋の真ん中に、僕にしか見えない小坂さんが漫画類を踏みつけ佇んでいた。
「いないわ・・・」
小坂さんはそう言い顔をゆっくりと上げこちらを見る。
視線がぶつかった瞬間、僕の体は恐怖で凍りついた。
その表情は彼女とは思えない位冷たく狂気じみたもので、いつものやんわりとした雰囲気は影も形もなかった。
「圭太じゃないの・・・?じゃあさっきの音は」
「お母さん、これは・・・」
僕が話しかけると、八谷の母は体を震わせながらこちらに向き直った。
あなた達は見てはいけないものを見てしまった、そう言わんばかりに彼女の目には殺気のようなものを感じた。
「・・・息子は、二日ほど前から行方不明なんです。部屋から出てこないのはいつものことで、顔を合わせる日もなかったから。本当はもっと前にいなくなっていたのかもしれない」
行方不明?
僕は横で唖然としている緑川さんを見る。
表情から察するに彼女は何も知らないようだった。行方不明だなんて、学校側から何かしらの説明があってもいいものだと思うが。
「警察に、このことは?」
僕が聞くと彼女はかぶりを左右に振った。
「言っていません。私しか、このことは知りません」
は?と僕は思わず声が漏れてしまう。
どうしてだ?この人は息子がいなくなったことに気付いたうえで、数日間何もしなかったのか?
探す気が無いのか、とても正気の沙汰とは思えなかった。
「私は、信じたいのです。啓吾は必ず戻ってくると。主人、そして近所の人たちも、啓吾のことを気持ちの悪い目で見ている。高校生にもなって堕落していく息子を見て、失敗したと、主人は言っていました」
緑川さんのイヤモニからかすかな音が聞こえた。
南川さんが何かを指示したのかもしれない。
僕は八谷の母の目を引くため、真っ直ぐに彼女の顔を見据える。
「でも私は信じたかった。息子は、誰よりも優しい。ただ不器用なだけで、周りにそれを分かってもらえないだけ。少なくとも理由も無しに家を出ていくような子ではないです」
手を拳にし、下に俯く。
息子を唯一信じ抜いてあげられる人、それは誰よりも愛情を注いだ母親以外にありえないかもしれない。
この母親の気持ちも分からない事は無いが、だからといって放っておいていいわけがない。
「お願いです。このことは誰にも言わないでください。啓吾は、必ず戻ってきます」
警察に言えば、恐らく見つかる可能性は高いかもしれない。
でも捜索の際周囲へ家出の事実が広まり迷惑をかけ、八谷啓吾が連れ戻された時彼の居場所は今よりもずっと息苦しいものになるだろう。
はっきり言えば自業自得だが、でもこの母親は息子が帰る場所を用意して置く意味であえて誰にも口外していないのだろう。
緑川さんが部屋の中で封筒のようなものを取り、ポケットに入れるのが見えた。
「・・・分かりました」
僕は一旦そう答え、その場を凌ぐように僕達は部屋を出た。
南川さんの外車に乗り、途中でコンビニの駐車場で停まる。
運転席から後部座席に身を乗り出し、「収穫を見せてくれ」と緑川さんに言う。
彼女はポケットから先程持ち帰った封筒を取り出す。
既に封は開かれていたが、地下アイドルのコンサートライブの案内状と一枚のチケット入っていた。
日時と場所が案内状には書かれ、ライブは二日後の十九時に行われるらしい。
「紙にはチケット二枚の送付と書いてあるな。ってことは一枚は八谷が持っている。この会場にくるかもしれない」
「でもなんで二枚なんですかね?誰かと行く予定だったんでしょうか?」
「さぁ、彼にもそういう友達がいるんじゃない?学校では一人でも、今はネットで人と繋がれるからね」
でも一枚しかチケットが抜き取られていない辺り、それは叶わなかったのだろう。
「とにかくよかった。彼と会えるチャンスができたわけだからね」
南川さんは両手の指先を絡めて前に伸ばし、気持ちよさそうに唸る。
「よくぞ頑張ってくれたね。どれ。飲み物でも奢ろう」
そう言って車から出て、コンビニへ入るよう促される。
僕達もそれに続き、南川さんに続いて入店していく。
その間、八谷の部屋に入った時、中で立ち尽くしていた小坂さんの事を思いだす。
冷たく、背筋がぞっとするようなあの目。
あれは、本当に彼女なのか・・・。
土足で上がり込んでいく辺りから様子はおかしかったが、一瞬八谷を殺そうとしていたかのように思えた。
彼女の復讐は、殺した犯人を捕まえる事じゃなかったのか。
「似鳥君」
明るい声で朗らかに話しかけられる。その時、冷たい汗が背中を伝った。
僕は声の方向へゆっくりと振り向く。
そこにはいつもと変わらない彼女の笑顔があった。
「あの炭酸ジュース、取ってくれないかな?私が取ると不審がられるから」
彼女は赤いラベルの貼られたペットボトルを指さしていた。
「・・・うん。いいよ」
僕は取り、横でお酒を選んでいる南川さんの籠に入れる。
「ごめんね。ありがと」
その照れたように微笑む様子は間違いなく僕の知っている彼女だった。
僕は思わずほっとする。
「どうかしたの?なんだか顔色が悪そうだけど・・・」
彼女は心配して上目遣いに僕を見る。
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れたかも」
彼女が八谷を殺そうとしていたなんて、そんなはずないだろ。
部屋は暗かったし、荒らされた後の様に散らかり独特な異臭も漂わせていた。
誰だっていやな顔になる。
きっと、あれは殺意なんかじゃない。嫌悪感から出た表情。僕の見間違いだ。
そう思って心を落ち着かせたところで、僕は彼女に笑い返した。
曇天の空が重苦しく広がり、ぬるい風が肌を撫でていく。
梅雨という季節特有のむさ苦しさがあり、シャツの中は気持ちの悪い汗でぐっしょりと濡れていた。
歩を進めていくと段々と見慣れてきたボロボロのビルがある。
中に入り、階段を上がっていくと人の話し声が微かに聞こえてきた。
光の漏れた木製のドアを叩き、しばらく待つとガチャリとそれが開かれる。
「おぉ、少年。早かったな」
いつもと同じ黄色のカーディガンを羽織った南川さんが意外そうな顔をして迎えてくれる。
「実は今日からテスト習慣なんですよ。いつもより一時間位早く帰れるんです」
「そっか。そんなのがあったね。大事な時期に、勉強は大丈夫なのかい?」
僕は目を逸らし「はは・・・」と乾いた笑いをする。
察したように彼女も苦笑いする。
「今日小坂さんは?」と南川さんは小声で言う。
「いますよ。僕の後ろに」
南川さんには見えないが、彼女は笑顔で会釈をしている。
「あれ?似鳥君。中に誰かいるみたい」
小坂さんは言い、そういえばさっき話声が聞こえていたことを思い出す。
部屋の奥に目をやるとブラウンのスーツを着た初老のおじさんが仏頂面でソファに座り、コーヒーをちょびちょびと飲んでいた。
僕の視線に南川さんは気づく。
「あぁ、先客がいてね。もうちょっと待ってもらっても・・・」
「いいよ、もう帰るぜ」
スーツの男は立ち上がり、髪の面積が少ない頭をポリポリと掻く。
その声は野太く低い声で威圧感があった。
こちらへ向かって歩いてきて、僕を視界に入れると立ち止まる。
「おぉ、久しぶりだな。似鳥さん」
男は不敵に笑う。
久しぶり?どこかで会ったことがあるのか?
そういえばソファに座っているときに見せたあの仏頂面。確かにどこかで見覚えがあったような気がする。
「まあ覚えてなくて当然だな。俺は巻雲孝介。あんたが小坂結衣の死体を見つけた日に取り調べた、刑事だよ」
「あ・・・」
そうだ、あの日パトカーの中で話した、その時の様子が思い返される。
そういえば取調べの途中、南川さんが窓から割り込んできたっけ。
巻雲は部外者の彼女を追い返さず、それどころか楽し気に会話をしていた。
今日この事務所に来ている辺り、南川さんは警察と何かしらの繋がりがあるのかもしれない。
「あれから大丈夫か?あん時お前顔色悪かったからな。まぁ今日見た感じじゃ元気そうだが」
彼は膝を曲げ僕と同じ目線になり、心配そうに言う。
あの時は車内で互いに座っていたので分からなかったが、この人はかなり長身で百八十センチくらいありそうだ。
「えぇ、なんとか」
「そうか、まあ変なことに首突っ込みすぎるなよ?こいつ結構危なっかしいから」と巻雲は南川さんを一瞥する。
彼女は何故か両手を腰に当て偉そうにしていた。
「ま、ほいじゃな。また用があったら呼んでくれ」
「あいよーありがと!巻雲刑事!」
階段を降り始めた彼の背中に言い、彼は片手を挙げ去っていった。
「待たせたね。さぁどうぞー。小坂さんも」
僕達は部屋に通され、いつも座るソファチェアに腰掛け南川さんはコーヒーを淹れに台所へ向かった。
ローテーブルには吸い殻の溜まった灰皿と小山になった書類があり、小さな字でびっしりと埋められていた。
すぐに南川さんがお盆に三つのコーヒーカップ載せ持ってきてくれる。
「はいどうぞ。うん?書類が気になるのかい?」
「いえ、座ったら目に入ったので」
南川さんはソファにドスンと座り、ポケットから煙草とライター取り出し慣れた手つきで着火する。
天井に向かって煙を放つと話し始める。
「さっきの巻雲刑事がくれた資料だよ。例の、小坂さんに関する」
そこで僕と小坂さんにはいくつか疑問が生まれる。
「警察の資料ってことですか」
〈リークですか?〉と小坂さんはメモを見せる。
「はは・・・まぁ、要はそういうことだ。捜査資料の横流し。あの人とは昔お世話になって、だから協力してくれたんだ。もちろんタダじゃなかったけど」
そう言って資料を数枚掴み僕達に見せる。
「例えばここの、小坂さんには見せづらいけど。死体の状態に死亡推定時刻、指紋や現場検証の数々。知っての通り、外傷は複数の刺し傷で外傷は酷く、その他にも暴行の跡が加えられていた。よほどの恨みがあったのかと考えられるけど。周囲の人間関係を探っても目立って恨みを買うような話はまだないらしい」
〈私も、心当たりはありません〉
「ただ、人間生きているだけで無意識に人を傷つけている時があるからね。そんな隠れた動機なんて当の本人にしか分からないから、考えればキリがないけどね」
その可能性を否定できないのか、小坂さんは下に俯く。
「正直警察もそこまで進んでいないっていうのが正直な感想かな。でも権力のある組織だけあって集めた情報は多い」
そう言って南川さんは紐でまとめられた書類の束を机に置き、そこには上から下まで名前がびっしりと記載されていた。
「これは君たちの学校と、あと小坂さんと親しい関係にあった友人の通う学校の名簿だ」
名前、住所、備考欄とあった。備考欄はほとんど空白だったが、何かしらの処分を受けた場合その欄は埋められていた。
〈私の友人を疑っているわけですか?〉
小坂さんの表情は険しいものになる。いい気分はしないだろう。
「まぁ、あっちも疑うのが仕事だから。あくまで可能性の話だよ」
そうなだめる様に言うと資料の説明を続ける。
「この赤いマーカーで引かれた人たちは、停学か退学処分、もしくはそれに等しい処置をされた生徒達。前科者みたいな感じかな。青いマーカーは小坂さんと交友関係のあった人。まあ青い奴は話を聞けた範囲だろうからあまり当てにしない方がいいだろうけど」
僕と小坂さんは資料を手に取り、確認していく。
確かにこれだけの人数を確実なものに絞るのは時間もかかれば人も割かれる。
どこまで力をいれて調べたのかは分からないが、現段階で分かる範囲なのだろう。
資料をめくっていくと一人の名前に目が留まった。
高水高校というここから少し離れた男子校のページだ。
この資料で唯一、赤と青いマーカーが同時に引かれている人物がいた。
霧島悠哉。僕達と同級生で、備考欄には中学の頃不純異性交遊が原因で周囲とトラブルがあったらしい。
「君もそこに目をつけたか。不純異性交遊する奴が今は男子校に身を置いている。家族が問題に思って無理やり入れたのかもな。小坂さん、この男との関係は?」
聞かれた彼女は反応を示さなかった。表情を変えず、その資料をじっと見つめていた。
しかしその目からは苛立ちのようなものを感じた。
「小坂さん?大丈夫?」
そう聞くもやはり返事はない。答えたくない、ということなのだろうか。
ようやく小坂さんは動き出してペンを持ち、メモに言葉を書き込んでいく。
〈この人は犯人じゃありません〉
筆圧の濃い字でそう書かれていた。
南川さんは首を傾げる。
「関係を聞いたつもりだったんだけど・・・犯人じゃない、どうしてそう思うんだい?」
軽い調子で聞くがその表情は何かを探っているように目を光らせていた。
小坂さんはさらにペンを走らせる。
書き終わった後、南川さんの前方の机に向かってそのメモを思いっきり叩きつけた。
バンッと大きな音を立て、その音に反応して南川さんはソファ後部に向かって驚いた様に飛び上がった。煙を飲み込んだのか盛大にむせ苦しんでいた。
〈この人は、人を殺すような人じゃない。いい加減にしてほしい〉
変わらず濃い字、そのメモを最後に彼女は大股で部屋の出口へ向かっていく。
扉を開き、最後に思いっきりその扉をバタンッと閉め外に出ていった。
ステンドグラスにひびがいっていないか心配になったが、幸いどこも割れていないようだ。
「ゴホ・・・ぐぅう」
南川さんは顔を真っ赤にし涙ぐみながら閉められたドアの方を見る。
「怒らせちゃったかな・・・」
「多分・・・彼女に名簿は見せなかった方がよかったかもしれないですね」
「まぁ、親しい人たちが疑われるのは気持ちのいいものでは決してないからね・・・ゲホ」
彼女はソファで横になり、落ち着くまで安静にすることにしたようだ。
目を閉じた彼女を見ると、普段でさえ幼げな顔立ちが風邪を引いた少女のようなものになっていた。
「すみません、僕彼女を追いかけます」
慌てて鞄を持ち一礼し、走り出そうとした時「少年」と弱弱しい声で呼び止められる。
振り向くと寝っ転がった南川さんがわずかに目を開き、真剣味を帯びた声で言う。
「霧島悠哉。彼女はその名前を聞いて態度を豹変させた。今は八谷が有力だが、彼も調査対象に入れておくべきだろうな」
先程の小坂さんの様子を見る限りそれは火に油を注ぐような行為に思えた。それを察して南川さんは続ける。
「あくまで可能性の話だよ」
電車に一時間ほど揺られ、隣の県まで移動する。
僕たちの住む畑や日本母屋に囲まれた田舎町とは違い、ビル群が立ち並び町並みは何もかもおしゃれで若者の好みそうな店が多く出店してあった。
外灯やネオンの光が多く光り、それらが町を鮮やかに色づけていた。
駅前から徒歩十五分ほど歩くとメインのアーケード街に着く。
しばらく通りを歩き、路地に差し掛かる頃僕達の前を歩いていた南川さんが立ち止まりこちらを見る。
「絶対にはぐれるんじゃないぞ。周りとも視線を合わせるな。私の背中だけみてついてくるんだ」
何故、と思ったが路地に入るとすぐに分かった。
そこは町の中でも深い場所で、高校生の僕では入れないお店やガラの悪そうな人達で溢れていた。
飲み屋から出てくるのはべろべろに酔っ払ったサラリーマン達と、それを露出の多い服装の女性たちがお店の入り口辺りから手を振り見送っていた。
目を合わせれば絡んできそうないかつい若者が路上に座って煙草を吸い、僕達が目の前を歩くと彼らの威嚇する様な視線を感じた。
僕は慌てて視線を落とし、その場から存在を薄める様に務める。
この場所は大人だけが訪れる禁制の場所、即ち社会の裏側と南川さんが言っていた。
周囲に見られているような気がする、やはり似た目や雰囲気からこの場所にそぐわない人間だということがばれ目立っているのだろう。
もう長く歩いたような気がする、南川さんが立ち止まり、白色のビルがそこにはあった。
多く設置された昼白色のダウンライトやポーチライトが入り口を照らし、しかしこれから向かう場所は明かりに照らされていない薄暗い地下階段の先にあった。
「じゃあ、少年。入る準備は大丈夫かい?」
僕はスマホを開き、先日緑川さんに送ってもらった八谷の写真を表示した。
クラス写真をズームしたものだから少しぼやけているが、これ以外手掛かりがないのでどうしようもない。
チケットをポケットから取り出し、イヤモニをつけ帽子を深くかぶることでそれを隠す。
「大丈夫です。行きます」
「おっけー。何かあったらすぐに連絡してくれ。私はこの近くでお店を見張っているから」
南川さんはそう言い、踵を返した。
今回は僕と小坂さんがお店の中に入り、八谷を探す。
アイドルのライブなので南川さんと緑川さんが入るとかえって目立つし、なにより外の見張りは大人の南川さんの方が絡まれた時に対処しやすい。
そう言った理由で僕と、姿の見えない小坂さんがお店を探索することになった。
初の歓楽街がこういった形で来ることになるとは、中々トラウマになりそうだ。
僕は小坂さんを確認し、彼女はコクリと頷いた。
そうして暗い階段を一段ずつ降りて行き、黒い扉のレバーを引いた。
扉を開けた先で小さな受付があり、チケットを渡すと奥へ通してもらえた。
ライブハウスの中は薄暗い電球色の光が照らされ、三十人程の人がほんのりと青く染まったステージに向かって密集していた。
僕と小坂さんは彼らを横目にカウンター席に座り、適当にオレンジジュースを注文した。
そろそろライブが始まる頃だろうか、辺りはそわそわし始め期待で溢れていた。
片手にはアイドルのグッズであろうタオルやうちわ、キングブレードを光らせ準備万端といった様子だ。
八谷は、当然だがこの人だかりでは顔の見分けがつかず、かといってあの中に安易に混じるのも危険に思えた。
やがて照明が落ち、辺りが真っ暗になる。
その瞬間歓喜の声がハウス内に響いた。
そして爆音が流れステージが明るくなり、五人組のアイドルがメイド服のような格好で笑顔を振りまき、登場する。
挨拶もなしに曲が始まり、ファンの掛け声が揃って響き、色とりどりに光る棒を使い踊る人達もいた。
僕と小坂さんは目の前で起こる光景に面食らって唖然とし、なるほど、これが俗で言うアイドルオタクかと認識した。
〈中々盛り上がってそうじゃないか〉
南川さんがイヤモニ越しで楽しげに言う。
僕は口元を手の平で覆い小声で答える。
「笑い事じゃないですよ。暗くて、しかも人が乱れてて顔なんてとてもじゃないですけど分からないです」
〈ま、そうだろうと思ったよ。だからって暗視ゴーグルなんて持って入れないし。最悪ライブが終わった後扉の前で構えて、一人一人確認していくよ〉
そっちの方がいい気がしてきた。じゃあ僕はこの中に入る意味があったのかという意図を察して南川さんは続ける。
〈重々承知だろうが、八谷が殺人犯だった場合、その会場は非常に危険だ。暗くて、人が密集して、このライブハウスはセキュリティも軽そうだ。周りはアイドルに気を取られているし、八谷の殺意に気付くこともできないだろう〉
確かに、この様子では誰が殺されてもおかしくないし、誰かが倒れていたとしてもそれに気付くのは遅れるだろう。
〈そういう意味でも君には目を皿にして人の動きを見てもらいたい。不審な所が無いかね・・・それにしても、アイドルの為とは言え知らない人間同士で密集してその場を楽しめるなんて、こいつらの神経は理解できないな。人を疑わないにも程がある〉
目の前に餌があればたかる野獣の様で、そう思うとこの人たちが非常に醜く見えてきた。
僕と小坂さんは黙って人混みを観察し、それでも特段怪しい動きは見られなかった。
アイドルの曲が中盤に差し掛かり、クライマックスに入ろうとしたその時。
一人の男性と思われる人物が人の波を潜り抜け集団から脱出した。
思われる、というのは彼の長い髪が肩甲骨の辺りまでまっすぐと伸び女性のように見えたからだ。
ジーパンに黒いシャツ、黒い帽子を被りグッズ品を纏った周りと比べて質素な服装をしている。
周りをきょろきょろしている辺り挙動が安定していないように見えた。
そこで僕は八谷の写真を思いだす。
彼の特徴の一つは男性にしては異常な程の長髪で、前髪は目を覆うほどあるらしい。
明らかな特徴はそれくらいしか分かないが、でも今の男はそれに該当していた。
僕は小坂さんと目を合わせ、互いに席を立ち男に近づく。
「すみません、少しお聞きしたいんですけど」
僕がライブの音量に負けないよう張った声で言うと男は肩をびくりとさせこちらを見た。
「八谷、啓吾さんですか?」
そう言った瞬間、彼の目は見開かれた。
その反応から間違いないと思った。
「・・・!」
彼は血相を変え走り出し、黒い扉を勢い良く開き外に飛び出した。
「南川さん!八谷がそっちに逃げました!」
僕達も慌てて追いかける。
以外にも足が速く、扉を抜けた時には奴は階段を上り切っていた。
一段飛ばしで駆け上がり、周囲を見渡すと金色の後ろ髪がビルの隙間に入っていたのが見えた。
南川さん?あそこか!
僕は走り、普段の運動不足が裏目に出てすぐに呼吸が荒くなった。
おぼつかない足取りでビルの隙間に入ると、そこには八谷と、その先に南川さんがおり二人が対峙していた。
南川さんの方が先へ回り込んでいたのか、八谷は僕達に挟まれ逃げ場を失う。
「荒いことはしたくない。話を聞かせてくれるだけでいいんだ。痛いのは、私も嫌いだしね」
彼女は落ち着かせる様に言うが、八谷は「うるさい!どけよ!」と声を張り上げる。
後ろに振り向き僕と目が合うが、再び南川さんを睨んだ。
こいつ、強行突破する気だ。男の僕より細身の南川さんの方が勝機があると思ったのだろう。
こぶしを握り締め、彼は地面を蹴る。
「危ない!」
八谷は腕を後ろに引き拳を南川さんに向けて勢いよく振るった。
その一撃を、南川さんは片手で受け止める。
諦めずもう片方の手で同じように振るったが、その一撃はかわし同時に片手を両手でしっかりと捕まえる。
そしてその捕まえた手を関節とは反対側にねじり八谷は悲鳴を上げる。
南川さんはその手をさらに後ろに引いて引っ張り、手の痛みのせいで力が入らないのか、ふらついた八谷は勢いに流されるまま地面に倒れこんだ。
片手を人質に取られ、八谷はたいして抵抗もできず体を震わせていた。
「はい確保。これ以上抵抗しないでくれ。君も痛いのは嫌いだろう?」
八谷はわずかに地面から上がった首をこくりと上下し、観念していた。
彼女が手を放し立たせると彼はおとなしくもう抵抗する気は失せたらしい。
「近くにカフェがある。そこで話し合おうじゃないか」
南川さんは笑って言うが、誰一人言葉を返すことができなかった。
「一応武道をかじっていた時期があったんだ。久しぶりに使ったけどね。だからって、そんなに驚くことないだろう。そんな弱そうかい?私」
まぁ、似た目だけ見たら華奢な女性だから。暴力には疎いものかと先入観があった。
それが先程、覆されたのだ。
「正直意外でしたよ」と僕は苦笑いする。
僕達は八谷を捕まえ、現場から十分程歩いた先のカフェで腰を落ち着けた。
モザイクタイル調のクッションフロアで床は仕上げられ、木目柄のクロスと電球色のペンダントライトが吊り下げられアンティークで落ち着いた雰囲気のお店だ。
木製で凹凸のあるテーブルにアイアンの椅子に腰かけ僕は八谷と南川さんと向かい会う形になる。
「それじゃ、八谷啓吾。話を聞かせてもらおうかな」
南川さんはポケットから煙草を取り出すが、禁煙マークの紙が貼られた壁を見て慌てて戻す。
八谷は貧乏ゆすりをしながら南川さんを横目に見る。
「話って、何がだ。路上で抑え込まれてこの店に無理やり引っ張ってきて。お前らは誰なんだ?」
強い口調で不平そうに言う。
南川さんはズボンのポケットから黒革の名刺入れを取り出し、中からその一枚を八谷の前に放り投げる。
「私はこういう者だ」と彼女は頬杖をつく。
八谷は名刺を手に取り、「探偵・・・」と呟く。
「誰かに依頼されて僕をつけた・・・?」
「そうだな」
「誰に」
「さぁ・・・?」
南川さんはわざとらしく欠伸をする。
「言っておくが、質問の主導権はこっちにある。君が質問攻めしないでくれ」
「何でお前んなんかの言う事」
「小坂結衣」
八谷の言葉に被せるように彼女は言う。
その瞬間、何かを思い出したように彼の表情は硬直した。
目を見開き、口をパクつかせていた。
「知っているな」と南川さんはにやりと笑う。
八谷は下に俯き、やがて静かに話し始める。
「・・・知っている。彼女は俺の、光だったから」
そう呟き、「ほー」と彼女は手の平で尖った顎を触る。
「光ねぇ。よくわからんな。一体どういう意味かな」
「・・・俺には、どこにも居場所が無い。いつだって一人で、友達なんてできたことがない。学校にも、家にも、心の拠り所の無い僕は次第にその空虚を何かで埋めようとした。アニメやゲーム、今日のアイドルだってそうだ。でも、変わらなかった。返って孤独をこじらせるだけだ」
その結果があの部屋か。
壁一面に貼られたポスターや棚に並べられたフィギュア、床に散らばった漫画類が思い返される。
「家にも居場所が無いねぇ。勝手だけど、君の家に上がらせてもらってね。その際君の母と会ったんだけど、いいお母さんじゃないか。君の事を第一に考えている」
「あんた・・・勝手になにしてるんだ」
「勝手は君の方だろう。家出して家族を心配させて」
「あの人は、確かに優しい母だ。俺がどんなに落ちぶれても叱らず、ただ俺自身を理解しようと努めてくれた。ただ、時々怖くなる。独占欲に近い何かがあって、そいつが俺を支配してくるようで・・・」
「確かに、愛が強すぎるような気がしたけど」
南川さんは頭を指先でポリポリと掻く。
「でも、それも確かな愛情なんだよ」
八谷は彼女の言葉にきょとんとする。
何の話をしているんだと言わんばかりに小坂さんの表情が強張っている。
「おっと、話が逸れてるね」
ははっと陽気に笑った後、真剣な表情で八谷を見つめる。
「単刀直入に聞こう。君が小坂結衣をストーカーしていた事は知っている。彼女が亡くなった後、君は学校に行かなくなり家からいなくなった。これはどういうことかな?」
そう聞くと彼は口を堅く閉ざす。
何かを堪えているように眉を寄せ、目線を机に落とす。
そのタイミングで店員が先程注文した飲み物をお盆に乗せて持ってきてくれる。
ブラックコーヒーが三つ僕達の前に置かれ、砂糖とミルクの入った籠を机の真ん中に置く。
一礼して店員は去るが、そのコーヒーに手を伸ばす者はいなかった。
「さっき言ったように・・・」
彼は目を瞑り、かぶりを左右に振る。
「彼女は俺の光だったんだ。孤独で苛まれている俺にとって、彼女の存在は一層輝いて見えた。気づけば彼女を追っていて、知っての通り俺はストーカー行為に走っていた」
その言葉を聞いて、僕は彼の言っていることが少しわかる気がした。
僕自身も一人心の中に籠り、あるのは手に持った本だけで、それは孤独以外の何物でもなかった。
自然と周囲を明るくしてくれる彼女の存在は孤独を抱えた人にとって、世界観を変えてしまう不思議な力があるように思えた。
「それが生きがいだった。どんな媒体に頼っても満たされなかった心が唯一刺激を感じた瞬間。ストーカー行為がばれ周囲に気味悪がられ、本人にも拒絶され、警察に突き出されるリスクがあろうと、どうでもいいと思えるくらい彼女に夢中だった。ストーカー行為を通して彼女を知ることができる。一目でも見ることができれば、その一日は意味があったもののように感じられたんだ」
彼はそこまで流暢に話したが、途端に口を閉ざす。
数秒の無言の後「でも」と彼は続ける。
「彼女はいなくなってしまった。ようやく見つけた生きがいが、唐突に失われた。彼女という尊い存在が見知らぬ誰かに奪われ、そして俺はまた光を失ってしまった。俺の心は彼女への思いが溢れるくらい募っていて、でもその死を知った瞬間、その思いが俺自身に牙をむいたような気がした。胸が苦しくなり、心が蝕まれていくのがはっきりと分かった。もう生きていけない、彼女の後を追って死のうとも考えたがそんな勇気は俺には持ち合わせていなかった。当然だ、元々憶病で空っぽな人間だったんだから」
そこまで聞いて僕は眉を顰める。
彼女を奪われた?ずっとストーカー行為から生じる歪んだ愛情を拗らせ、独占欲から彼女を殺したものかと考えていた。
違うのか?彼女を殺したのは彼じゃないのか?
「後は知っての通りだ。俺は学校に行かなくなり、家も飛び出した。どこにも居場所が無いなら、もういっそどこかへ行ってしまおうと考えたからだ。彼女のいない世界なんて、俺には耐えられないからな」
以上だと彼は言う。
本当にこれが全てなのか、僕は中々内容を素直に落とし込むことができなかった。
「ありがとう、君が思う彼女への愛はよくわかったよ。最後にいくつか、いいかな?」
南川さんは探るような目つきを解き朗らかに言う。
「君が最後に彼女を見たのはいつだい?ストーカーなら彼女が亡くなるギリギリまで見ていたんじゃないか?」
そう言うと彼は困った様子で目頭を押さえる。
「それが、彼女がいつもの帰り道を歩いていて、それをつけていたんだ。いつも彼女は近道の為なのかビルの隙間を縫って歩いていって、その日も路地の中に入っていった。ギリギリの距離感で追いかけたけど、その日はガラの悪そうな男たちが路地の途中に立っていて。人を寄せ付けなかった。でも彼女は普通にその路地を通っていったのか俺が覗いた時には見えなくなっていた。よく通ったなって、案外肝が据わっているのかな。それが最後だ」
ガラの悪い男達?僕は小坂さんをちらりと見るが、彼女も意味が分かっていない様子だった。
複数犯で行われた計画的犯行。
南川さんが現地で言っていたことを思い出す。
もし小坂さんが路地に入り、その後人が路地に立ち入らぬよう見張りをつけていたとしたら。
彼女は一体どこの誰に狙われたんだ・・・?
南川さんの何かつぶやいた声が聞こえ僕は彼女の方を向くが、その時には八谷に屈託なく笑い「よく分かったよ。ありがとう」とお礼を言っていた。
「最後に、君が彼女をストーカしていて気になった点はないかい?些細な事でも構わない」
八谷は腕を組んで考える。
「そういえば、男といるのを見た。楽しそうに遊んでいるのを。それも何回も。彼氏なのか、分からないけど・・・」
声は次第に低くなっていく。僕はその言葉を聞いて静かに小坂さんの方を見る。
彼女は目を見開き、唖然とした様子で八谷を見ていた。
「あいつは知っている、名前は霧島悠哉。隣町の高水高校っていう男子校に通っている」
霧島悠哉、名簿で見た名前。また、あいつが出てきた。
「中学の時あいつと一緒だった。最低だよ、あいつは。ちょっとモテるからって学校中の女を誑かし、遊び、最後には捨てる。そんな奴だった。女子と同じ環境が危険だからって周囲の人間が無理やり男子校に入れさせたらしい。妥当だと思うがな」
中学生にしてそれとは、とんでもない奴だな。そいつと、小坂さんが付き合っていたかもしれない?初耳だった。
「小坂さんもあいつにとっては数ある女子の一人。どうせ遊ばれていたに違いない。そう思うと可哀そうになるよ。案外、あいつが彼女を殺したんじゃないか?」
そう八谷が言い放った瞬間、黒い液体が彼のシャツに向かって放たれた。
「熱っ!」
後ろに飛び上がった八谷は足を机にぶつけ、両手で黒く染みたTシャツを持ちパタパタと仰いでいる。
小坂さんはその様子を見て満足すると手に持ったコーヒーカップを僕の元に返した。
「嫉妬よ」と彼女は言う。
僕と南川さんは唖然とする。
ひとしきり苦しんだ後一旦落ち着いた八谷が僕を睨む。
「てめぇ・・・何しやがる」
長い前髪の隙間から怒りを帯びた目がこちらを見て、僕は委縮する。
それと同時に言い訳を考える。
実際彼にコーヒーを放った人物は違うが、それを説明できるわけがない。
結局僕は口を噤むことしかできなかった。
「・・・もういい。話は済んだだろ?俺は帰らせてもらう。まったく最悪だよ」
机を叩き乱暴に立ち上がる。大股で通路を進み、店の外へ出て行ってしまった。
ようやく出会えた貴重な情報源が去ってしまい、店内は重苦しい空気になった。
「どうしてくれるんだよ・・・まったく」
南川さんは両手を組んで天井を見上げる。シーリングファンが一定の速度で回り続けていた。
小坂さんの横顔を僕は見つめ、でもなんて声を掛けてあげればいいか分からなかった。
陰りのある表情、自分が起こした衝動的な行動とそれによって生じた損失の意味を彼女が分からないわけがないだろう。
「なあ、そこにいる小坂さん」
普段よりも低い声色で、彼女は子供の様に足をプラプラさせながら言った。
「今いい気持ちかい?自分の鬱憤を相手にぶつけて。でも私は大変不愉快だよ」
天井を見上げたまま話し、顔は見えないがその様子は明らかに怒っていた。
「ないんじゃないかな?少ない手掛かりでようやく彼に出会えた。緑川さんの協力もあってね。でも君は今それを全て台無しにしたんだ」
小坂さんはずっと机の木目を見つめそれを聞いている。
下唇を噛み、両手の指を結び握り締めていた。
「バカにしやがって。全部君の為にやってるんだ。目には見えない幽霊のお願いでも、少年が必死にお願いしてきて、緑川さんもその存在を信じて決心してくれて、だから私もその思いに突き動かされた。でも当の君がそんな態度じゃはっきり言って話にならないし、波風立てて周囲に迷惑を掛けているだけにしか私は思えない」
次々に彼女は不満を垂らしていく。
確かに南川さんの気持ちも分からなくはない、むしろ同意見だった。
何故小坂さんがあのような行動をとったのか、理解に苦しんだ。
「霧島悠哉。この名前を聞いて君は様子がおかしくなった。事務所で名簿を広げた時からそうだ。彼と行動していたなんて私は・・・いや、少年さえも知らなかった様子だ。何故黙っていた?君はこの男と何かあったんじゃないか?」
そう言って彼女は見上げた顔を戻し、小坂さんの座る席の方向を見る。
小坂さんは下に俯いているだけで、何も反応を示さなかった。
「少年、彼女は何か?」
「いえ、何も・・・」
「そっか・・・」
南川さんはズボンの後ろポケットから長財布を取り出し、千円札を三枚机に置き席を立った。
「彼の事を教えてくれない限りこれ以上協力はできない。こっちにだって、客を選ぶ権利はある」
そう言い放ち、「それじゃ」と踵を返して店の出口へと歩き出してしまった。
小坂さんは終始俯いたままだ。
店内は僕達だけが残され、シーリングファンと天カセエアコンの駆動音だけが静かな音で響いていた。
南川さんと別れてから数日が経った。
結局僕は彼女に、霧島悠哉の件を聞くことはできなかった。
彼について教えてもらわなくては南川さんの協力は得られず、それは事件の真相に辿り着くことができないことを意味していた。
僕と彼女だけではどんなに調べても獲物のしっぽすら翳めることはできないだろう。
でも、それでもいいと僕は思っていた。最近の彼女の様子を見て、正直気が気でなかった。
頭の中で蔓延る醜い感情は心を歪ませ、彼女自身を蝕んでいくようで。
事実、八谷の件が進行する度彼女の笑顔は失われていった。
もういいじゃないか、復讐だとか未練なんて。解消されなくても、例え成仏することができなくても。
彼女自身が幽霊として楽しく過ごしていければ、それが幸せな事なのかは分からないけれど、復讐に囚われ苦しみ続けるよりはずっといい。
ライブハウスの件から翌日、僕が寝室から出て一階のリビングに向かうと彼女はダイニングチェアに座って下に俯いていた。
グレーのスウェット姿のまま身を縮こませ、表情は少しやつれているように見えた。
彼女は僕の姿を捉えると気まずそうに目を逸らした。
例の件について申し訳なく思っているだろうし、霧島のことを問い詰められると思っていたのだろう。
「おはよう、早いんだね」
でも僕はそうしなかった。何事もなかったかのように振舞い、いつも通り彼女に接することにした。
そんな僕の様子に彼女は何かを勘付いたようだが、しばらくするといつもの笑顔を向けてくれた。
事件の事なんて忘れよう。今目の前の彼女が笑ってくれるなら、それでいいじゃないか。
犯人の逮捕なんて、他の誰かに任せればいいんだ。
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