第2話 探偵と幽霊

 

 南川は来客用のソファに座り、短くなった煙草を口にくわえる。

 煙を目いっぱい吸い肺に貯めると天井付の二十四時間換気扇に向かって勢いよくそれを吐き出した。

 吐き出された煙は宙に舞いやがて空気に溶け込むように消えていく。

 銀の灰皿にタバコを投げ捨てると新しい煙草をまた手に取り口にくわえた。

 その時雷の轟音が響き、窓の外を反射的に見る。

 一瞬光った後は風に吹かれる横雨がガラス窓に叩きつけられていく。

「もう梅雨か」

 探偵事務所を開いて数か月、ただでさえ客足が少ないのにこれからまだ豪雨が続くというのだ。

 当然人々は家の中で過ごす日が続くため、わざわざこんな辺鄙な事務所に来る人もいるはずがなかった。商売あがったりだ。

「なんだか嫌な予感がするんだよなぁ」

 昨日の女子高生、恐らく殺人の現場を見て南川はそう思う。

 上肢から下肢にかけて複数の殺傷傷、余程の恨みを買っていたのだろう。

 あんなに若くて綺麗な子が無残に殺されるなんて、相変わらず怖い世の中だ。

「ねぇ、シャロン」

 彼女は窓辺に座り空を見上げている猫に話しかける。

 シャロンは一瞬彼女を見たが、すぐに外の方に向き直った。


「どうして君が・・・」

 死んだはずの彼女、確かに僕は彼女の死体を目の前で見た。

 あの状態から生還するのは素人から見ても不可能だ。

 夢だった?そんなはずはない。

 昨日の光景は鮮明に覚えている。

 なら、今目の前で僕を見下ろしている彼女は一体・・・。

 僕の願望が見せた幻覚なのか、それとも。

 彼女は口をわずかに開き、やがて小さな声で言った。

「あなた、私が見えるの?」

 透き通った声が抵抗なく僕の耳に伝ってくる。

 見える?そうだ、僕には君が見える。

 不思議な事は分かっている、でも彼女の言い方から察するに僕以外の人間は君が見えない様な口ぶりだ。

「君は、昨日死んだはずだ。だから君がここにいるはずがない。これは僕の見せる幻か、精神的な病気か何かに違いない」

 そう言った僕を見つめ、彼女はかぶりを振る。

「そう、私は昨日死んだ。昨日、自分の死体をこの目で見たもの」

 何言ってるんだ?と僕は疑問に思う。

 死んだならこの世には存在しない、自分自身の死体を見るなんて不可能だ。

「じゃあ、君は幽霊になったとでも言いたいのか?」

 彼女は視線を逸らし、高架橋下で作業している人たちを見る。

「そうね、多分そういう事なんだと思う」

「・・・信じられないな」

「疑うのは当然だと思う。私だって、信じられないもの」

 視界が安定し、害していた気分が徐々に修復してきた。

 ゆっくり立ち上がろうとした時彼女から手を差し伸べられた。

 僕はその手を取り、引き上げてもらう。

 柔らかい確かな感触があり、その手には温もりすら感じることができた。

 とても死んでいる人とは思えない。

 僕は落とした傘を拾い、彼女の頭に掲げる。

「どこか、濡れない場所に移動しよう。それに、ここから離れた方がいいと思う」

 自分の死んでいた場所を見るのは気分がよくないだろう。

 彼女も、何かを確かめるためにここにきたんだろうけど。

「・・・分かった」

 僕と彼女は傘を半分ずつ使いながら河川敷の天端を歩いていく。

 下にある現場を横目に見ながら、全くどうかしていると心の中で呟いた。


 僕はホットココアの缶を自動販売機で購入し、彼女の元へ戻った。

 近所の公園にある屋根付きの休憩用ベンチに並んで座り彼女に温かいココアを手渡した。

「ありがと」と彼女は両手でそれを受け取る。

 プルタブを開けると子気味のいい音が響き充満したココアの匂いが漂ってくる。

 飲むと温かい液体が喉の中を通っていき、満たされた感覚に胸を撫で下ろす。

 そしてしばらくの沈黙があった。

 どう話を切り出したらいいのか、そもそも彼女の存在自体が疑わしい。

 彼女はすっと息を吸い、僕の方を見た。

「私は、殺されたの」

 静かにそう言った彼女の方を向く。

 陰りのある表情はまだ動揺しているようにも見えた。

「帰り道、いつもの路地を歩いている時だった。急に誰かの走る音が後ろから聞こえて、振り返った時には地面に倒れていた。そのまま何回も何回も激痛が走り、目に一瞬映った鋭利な物で刺されていることが分かった。抵抗する暇を与えず、私はされるがままに殺された」

 缶を掴んだ両手は震え、彼女は頭を左右に振る。

「目が覚めた時、私は例の路地で横たわっていた。争った痕跡もなく、信じられないけど眠っていて悪い夢でも見たんじゃないかって最初は思った。でも違った。家に帰っても、私が横にいるのに母は一瞥もせず慌てていて、ただ私が帰って来ないと携帯電話を握り締めていた。話しかけても全然聞こえていなくて、何かがおかしいって、この時点で気づいたよ」

「その時点で幽霊になっていた。そういうことなのかな」

 彼女は充血した目で僕をちらりと見た。

「そうだと思う」

 路地で殺された、なら彼女の死体は誰かに運ばれたことになる。

「学校に行く気になれなくて、近所を散歩して頭を整理していた。何の解決にもならなかったけど。その時、警察車両が近くを走っていたの。何かあったのかなと思ったんだけど、それが近くに停まって気づけば人だかりができていた。そして、私は自分の死体を見つけたの」

 僕の頭の中でまたあの光景が再生される。

 制服の至る所に血がこびり付き、白いシャツはほぼ赤く染まっていた。

 虚ろな目と人形の様に動かない姿、吐き気を催したが歯を食いしばり無理やり耐えた。

「家に帰れば泣きわめく母とそれをなだめる父の姿。私はここにいるよって言っても気づかれる事は無かった。そして私は、あの家から出ていった。行く当てもなく彷徨う幽霊。味わった事のない疎外感と孤独、そして自分の身に起こった恐怖が私の心を蝕んでいった」

 ここで彼女は口を閉ざした。

 話を聞いて、不思議と納得してしまう自分がいた。

 そういうことだったのか、と。

 理屈ではどうしようもならないが彼女の話を自分の頭に当てはめるとどこか辻褄が合うような気がして、きっと横にいる彼女は本当に幽霊なんだろうと思った。

「そして今、あなたと出会った。以上よ」

「ありがとう・・・でも一つだけ。何で僕にだけ君の姿が見えるのかな?」

 彼女は声を唸らせ、でもクスリと笑った。

「分からない。でも、誰かに気付いてもらえて嬉しかったな・・・」

 それは久しぶりに見る、彼女の笑顔だった。


 僕は濡れたタイルを歩き、石で囲まれた湯に浸かる。

 冷えた体に染み渡り、心に吹き溜まっていた有害物質を溶かしてくれるようだった。

 前髪を掻き上げ、仕切られた間仕切壁を見る。

 大丈夫かな・・・。誰かにばれたりしないよな。

 勘違いしてほしくないのだが、別に覗きたいわけではない。

 ただ、小坂さんが他人と共有するお風呂に入り心霊現象を目撃されないかが心配なのだ。

 例えば、シャワーを浴びている時一人でにお湯が出てきたとか、洗面器が宙に浮いているとか、そういう場面の事だ。

「姿は見えないけど、私の触るものは他の人から見ると勝手に動いているように見えるらしいの」と彼女は言っていた。

 その関係で銭湯に来るのも少々渋っていた。

 幽霊とは意外と融通が利かず不便な存在なのだなと思った。

 世にある心霊現象はそういった幽霊たちの生活をたまたま目撃し、大袈裟に話が広まったものではないかとも感じた。

 幸い今は平日の午後十五時頃、人気は少なく今は入っている男湯も僕一人だ。

 多分、大丈夫だろう・・・。

 彼女の話を聞いた後、僕達はとりあえず濡れた体をどうにかしようという話になった。

 しかし僕の家に帰っても今日は母がおり、その関係で彼女が浴室を使えない。

 彼女が実家のお風呂を使うことも同様で、使えば家の人が仰天することは間違いないだろう。

 考えた末僕達は少し歩いた先にある銭湯を選んだ。

 着替えは申し訳ないが、コンビニでシャツとボクサーパンツを二人分購入し一部彼女に渡した。

「しかし」

 驚いたな。まさか彼女が幽霊になっているなんて。

 未だに実感が沸かない。

 それと同時に安堵している自分がいた。

 二度と会えないと思っていた彼女に、歪な形だが、また会うことができた。

 彼女にとってそれが悪い事なのは間違いないけれど、心の中で安堵している自分がいた。

 これからどうするのか、新たな問題はそれだった。

 彼女はこのまま世界を彷徨い続けるのか、それとも成仏できる方法を探すべきなのか。

 どちらにしても、彼女がいないと話を進めることはできない。

 僕は目を閉じ、湯の中で休息を取った。


 男湯の出口に立ちのれんを潜ると小坂さんが休憩所のソファに座りテレビを見ていた。

 ニュース番組で、昨日の河川敷で起こった死体放棄の事件をちょうどやっていた。

 警察は殺人事件の線で捜査を進めているらしい。

 マスコミは手回しが早い。画面が切り替わり、彼女の父と母が映り娘の事を話していた。

 そこで僕は声を掛ける。

「行こう。あまり長居しない方がいい気がする」

 彼女は僕の方を見る。

 頬はほんのりピンク色に染まっており湿った髪からシャンプーのいい匂いが漂う。

 あのニュースはあまり見ない方がいい、彼女にとって毒でしかない。

 彼女は立ち上がり、おぼつかない足取りで僕の後についてくる。

「肩、使ってもいいよ」

 そう言うと彼女は僕の肩にゆっくりとした動きで手を置いた。

「・・・ありがとう」

 施設を出て庇から空を見上げる。

 若干小雨になっており今が移動のチャンスだった。

 僕は傘を広げ、彼女の方にそれを寄せる。

「ゆっくりでいいから」

 彼女は首をコクリと縦に振る。

 外の風は涼しく、火照った体に当たると心地が良かった。

 

〈お風呂と夕飯は済まして帰るから。作ってたならごめんね〉

 母にそうメッセージを打つとすぐに〈大丈夫なの?気をつけて帰るんだよ!〉と返信が来た。

 僕と小坂さんは再びコンビニに寄り、少し早めの夕飯を購入した。

 僕は牛丼、彼女は食欲がないと言いおにぎりを二つ籠に入れた。

 後はお茶を二つ入れ会計を済ませる。

 幽霊でもお腹は空くのかな、トイレとかどうするのかなという失礼な質問は心の中で留め、お店を後にした。

 先程の公園に戻り、僕達は購入した食品に手をつけていく。

 僕が牛丼を頬張ろうとした時、彼女が言う。

「ありがと。色々助けてくれて」

 彼女は目を細めて笑い、僕は思わずドキッとする。

「いや、僕は大したことしてないよ」

「ううん、とっても助かった。私、自分がこんな姿になってからどうしていいか分からなかったんだ。ただ彷徨うだけの存在になって、この先は孤独に塗れた闇の中を歩くしかないって思ってた。でも今日あなたがいてくれて、なんだか光が射したような気がしたの」

 僕は掴んでいた箸を置き彼女を真っ直ぐに見据える。

「だから、また会えないかな?私にはもう、あなたしかいないの」

 その言葉に僕は驚きたじろいでしまう。

 恋愛的な意味ではないことは分かっているのだが、女性への免疫がないせいかすぐそっちの思考で想像してしまう。

「もちろん、僕でよければ。いつでも会いに行くよ」

「ほんとに?嬉しい」

 彼女は両肩を上げくすぐったそうに笑う。

 彼女とまた会えるなんて、僕にとっては好機でしかない。

「あ、ごめんね。牛丼冷めちゃうね」

「いや、いいんだ」

 空いた小腹なんてどうでもいい。正直彼女の言葉でお腹いっぱいだった。

 こんなことを言ってしまえば僕の人生はどれだけ面白みがないのかと思われてしまいそうだが、彼女に必要とされることは今までの人生で一番嬉しい瞬間だった。

 彼女もまた、おにぎりを小さな口で少しずつ齧っていく。

 食べ終えて、僕はこれからの事を切り出した。

「これから小坂さんはどうするの?」

 そう言うと彼女は困ったように俯いた。

「そうなんだよね・・・私居場所が無いから。家には帰りたくないし、かといって行く当てもない。どうしたらいいのか」

「そうなんだ・・・」

 このまま公園で寝泊まりさせるわけにもいかない。

 お風呂も、食事も、お金があっても認識されない彼女は罪を犯して得るしかない。

 僕はどうすればいいのか必死で考える。

 そして思いつく、だがこれは色々とまずい気がした。

 でもこれ以上にいい方法はないように思えた。

「僕の家・・・なら大丈夫だよ」

「えっ」と彼女は小さく声を上げる。

「姉の部屋が余ってるし、母さんも夕方には仕事に出るからばれることはない・・・ごめん、これしか思いつかなくて」

「私は嬉しいんだけど、似鳥君はいいの?迷惑じゃない?」

「僕は大丈夫。元々家に一人で寂しかったし。好きに使ってもらって構わないから」

「そっか・・・じゃあ」

 彼女は照れ臭そうに頬を掻き、上目遣いで僕を見る。

「よろしくお願いします。似鳥君」

 そう言って彼女は微笑んだ。

 内心色々大丈夫か不安になったが、大丈夫。変なことはきっと起こらない。

「こちらこそよろしくお願いします。小坂さん」

 僕も笑い返すが、胸の鼓動が早くなり息が詰まってしまいそうだった。

 これからは毎日彼女の顔を近くで見られるのかと思うとなんだか贅沢なように感じてしまう。

「そういえば小坂さん、僕の名前知ってたんだね」

 僕の言葉を聞くなり彼女は可笑しそうにしていた。

「やだな、似鳥君。この前廊下で話したじゃない。クラスも一緒だし、当たり前だよ」

 覚えていてくれたんだ。

 胸の鼓動はさらに早く刻まれていった。


「今日は母さんがいるから、ばれないように気を付けてね」

 そう彼女に注意喚起をし、僕は玄関ドアを開ける。

 入ると洗面所の電気がついており、シャワーの音が聞こえてくる辺りどうやら母は浴室にいるらしい。

 チャンスだ、と思い彼女に手招きし玄関框を超えていく。

 彼女はローファーを脱ぐと先程のコンビニ袋にそれを包み僕の後に続く。

 音を立てないよう慎重に階段を上がっていく。

 二階には部屋が四室あり、手前の右側が僕の部屋、向かい側が姉の部屋だ。

 奥の方は母さんの部屋と、もう一つの部屋は離婚した父が使用していたが今は物置になっている。

 姉の部屋を開けるとベッドに学習机、大きな本棚が置いてある。

 大学進学の為他県に引っ越し、ほとんどの物を持っていったからもぬけの殻と言った状態だ。

 クローゼットの中には服や下着類があり、申し訳ないが彼女にはこれを使用してもらおうと思った。

 幸い姉は綺麗好きで汚れた服や破れた下着などは一切なく、新品と見間違えるほど清潔感があるものばかりだ。

「明日は学校に行こうと思ってる。そしたら母さんも安心して仕事に出ると思うから。今日だけは音を立てないよう辛抱してくれないかな?」

「うん。分かった。気を付けるね」

 彼女は微笑み、僕はその言葉に安心し彼女を残して部屋を出た。

 下に降りるとリビングで母さんがパジャマ姿にタオルを首に掛けた状態でテレビを見ていた。

「ただいま、母さん」

「あら、帰ってたのね!急に夕飯いらないとかいうから心配したのよ!」

「ごめん、でももう大丈夫。明日には学校に行こうと思ってるから」

「ほんとに大丈夫?もうちょっと休んだ方が」

 母さんは僕に近づき顔をじろじろと見てくる。

 異常がないか、目視の点検が行われているのだろう。

「うん、でも今朝と比べたら全然いいわね。でも気分が悪くなったらすぐ先生に言うのよ」

 ひとまず承諾は得られたから一安心だ。

「今朝って、僕どんな顔してたの?」

「顔面蒼白。生気のない様子だったわよ」

 僕は朝洗面所で見た自分の顔を思い出す。

 確かにそんな顔していたっけなと苦笑いする。

「でも、今はいい感じよ」と母さんは嬉しそうに笑った。

「じゃあ私も明日は仕事に出るわね。正直お店が忙しくて休みにくかったのよ」

「分かった・・・頑張って」

「もちろん!むしろあんたの方が頑張んなさいよ!」

 背中を強く叩かれ、いつもの母だなと安心した。


 翌日、学校へ向かい教室に入ると複数の人にじろじろと見られた。

 心配そうに声を掛けてくれる人もいれば、あいつが結衣を殺したんじゃないかと根も葉もない疑いの声が聞こえてくることもあった。

 最初の目撃者だからそう思われるのも無理はないのかもしれない。

 席に着き、そこから斜め横にある席を見る。

 小坂さんの席、当然誰も座っておらず誰かが小さな花瓶を置き花が添えられていた。

 普段よりも教室内の雰囲気はどんよりと重く暗かった。

 あまりここにいたくないな。

 学園アイドルの死、誰かがそんなことを言っていた。

 家に帰ると母はおらず、代わりに小坂さんがリビングの椅子に座り組んだ自分の手を見つめていた。

 僕の姿を見るなり彼女は微笑み「おかえり」と言った。

「ただいま」と僕は返し「ずっとここにいたの?」と尋ねる。

「うん。でも暇じゃなかったよ。似鳥君の小説読んでたから」

 朝出掛ける前、彼女が退屈してはいけないので小説を渡していた。

「どこまで読んだの?」

「全部読んじゃった。面白かったからついのめり込んじゃって」

「すごいね・・・」

 廊下で話した時あまり本は読まないといっていたような。

 二百ページくらいの恋愛小説だったが、今度はもう少し長編を渡してみようと思った。

「夕飯、すぐ作るね」

 彼女はそう言って席を立った。

「え?いやいいよ。僕が作るから」

 僕がそう言うと彼女は腕を捲って自信気に僕を見た。

「これでも、料理には自信があるんだよ」

 部屋で私服に着替えてお風呂の掃除を済ませる頃には香ばしい匂いが漂ってきた。

 その匂いで空腹感が刺激される。

 わざわざ申し訳ないなと思いつつ、居候して何もしないのは彼女も気まずいのかもしれない。

 浴槽に付いた洗剤をシャワーで洗い流し給湯器をセットする。

 お湯が満たされるまで一旦リビングに戻ると既に料理の盛り付けが終わっておりダイニングテーブルに並べられていた。

 いつかのパン祭りでもらった白いお皿にキャベツの千切りとたれのかけられた牛カルビ、茶碗には白いご飯がほくほくと湯気を立てている。

 お味噌汁と二人分のお茶を彼女がお盆で運んできたところで準備が終わったようだ。

 手際がいいなと思わず感心する。

「温かい内に早く食べよっ」と彼女は言い席に着いた。

 僕も席に着くと両手を合わせた。

「それじゃ遠慮なく、頂きます」

「うん。頂きます」

 牛カルビの上にレタスを少し載せ、口に含めた後ご飯を流し込んだ。

 ミニ牛丼を口の中で作っているようで、ご飯の温かさと牛カルビの触感が堪らなくおいしくレタスのシャキシャキした小気味のいい音が食欲を増進させた。

「おいしい・・・」

「そう?よかった」

 彼女は僕の反応を見て安堵したように笑った。

 そして彼女も箸を取り、食事を始めた。

 温かくて胸がほっとする、家庭的な味だった。

「料理はいつもやってるの?」

「お母さんの手伝いでね、一応毎日やって色々伝授してもらってるの」

「へぇ・・・」

 いいお嫁さんになれそうだね、と言いかけたがその言葉を慌てて飲み込む。

 もう彼女にその日は来ないのだ。

 こうして話していると彼女が幽霊だということをふと忘れてしまう。

 料理は腹八分くらいでちょうどよく収まり、二人で台所に立ち食器を洗った。

 彼女が洗剤で洗った食器を受け取り僕が拭いて水切り籠に並べていく。

 息はぴったりであっという間に食器は片付いた。

 その後はお風呂に入り、僕は自室に入り机に着いた。

 宿題には手を付けずしばらく机に突っ伏し微睡んでいた。

 三十、四十分程経っただろうか、ドアが叩かれる音がして僕は目を覚ました。

 立ち上がって開き戸を開けると風呂から上がった彼女が立っていた。

 パジャマは姉の物で灰色のスウェット姿だった。

 銭湯の時と同様頬はほんのりとピンク色に染まり、髪は水をわずかに含んでいてサラサラのストレートヘアーは毛先の辺りでくるりと巻かれていた。

「入ってもいいかな?」

 その言葉には少し陰りがあった。表情も夕食の時と比べて深刻そうだ。

 疑問に思いながらも「どうぞ」と言い、彼女を部屋に通した。

 彼女は先程僕が座っていたデスクチェアに座ってもらい、僕はベッドの端に腰掛けた。

「急にごめんね。話があってきたんだ」

「話?」

「その、これからのことなんだけど」

 そういうことか、と僕はいくつか考えを巡せる。

 このまま僕の家に居ていいのか、いつかは出ていく期日を決めたいのか、そしてその後どうするべきなのかなど。

 思えばきりがないが、彼女の相談は僕の予想したどれにも該当しなかった。

「似鳥君。私・・・復讐がしたい」

 そこで僕は硬直する。

 復讐・・・?その言葉の意味が僕には分からなかった。

 互いに無言になり、壁に掛けられた時計の針の音だけが部屋の中に響いた。


 僕は手に持った携帯画面に目を落とす。

 映るマップアプリには目的地到着と表示され、ということはこのビルが例の場所になるのか。

 三階建てのモルタル仕上げのアパートは外壁に多くクラックが入り、ガラスは所々割れ老朽化が激しそうだ。

 パッと見たら廃墟みたいな建物で、一瞬地図が違う場所に案内したのかと思った。

「ここの二階にあるらしい。怖いけど・・・とりあえず入ってみよう」

 後ろについて来ている小坂さんを見るとその表情は強張っていた。

「ほんとにここなのかな・・・私には廃ビルに見えるけど」

 僕はまたビルを見上げる。

 確かに、どこからどう見ても廃ビルなんだよな。

 僕達は正面入り口の両開きガラス戸を開け、錆びた手摺を触らないよう階段を上っていく。

 周り階段を上り終えると木製のドアが見え、オレンジ色の光が隙間から刺していた。

 扉にはネームプレートが掛けられ、そこには〈南川探偵事務所〉と表記されていた。

 間違いない、ここだ。

 扉の前に立ち、深呼吸をした後三回ほどノックしてみる。

 しばらく待ったが、返事はない。留守だろうか?

 ドアレバーを掴んでみるとラッチの外れる音がした。

 鍵は閉まっていない。扉を少し開き、中を覗いてみる。

 こげ茶色の床と電球色の光が見えた。

「すみませーん。誰かいませんか?」

 叫んでみるが返事はない。無防備だなと思いながら足を一歩踏み入れてみる。

 木が突き合わされてできた壁と床、閉まり切っていない収納扉からは服や道具類がはみ出ていた。

 部屋の中央にシャンデリアが吊り下げられており、五つ程のとがった電球がオレンジ色に光っている。

 そのシャンデリアの真下に木製のローテーブルが置かれそれを境にひじ掛けで三人ほど座れそうなソファ、その正面に一人分のソファチェアが置かれている。

 恐らく来客用だろう、そう思った矢先ソファの端に金色の絹みたいなものが見えた。

「ちょっと、似鳥君」

 彼女は声を潜めて僕に注意するが、それを無視し部屋の中にゆっくりと踏み込んでいく。

 近づくと思った通り、先日出会った金髪の探偵がソファに寝転がり寝息を立て眠っていた。

 この前出会った時と同じ、黄色いカーディガンにスカート姿だ。

 無防備な寝顔は子供のように無邪気だ。

 起こすのも悪い気がして、しかしこの人は当分起きそうに見えない。

「にゃー」

「うわっ!」

 僕は唐突に聞こえた声に驚き腰が抜け、そのまま床に崩れ落ちた。

 ドスン!と大きな音が立ち同時に埃も多く舞う。

 声の方向を見るとそれは猫だった。

 首元に赤色の首輪がされており、シャロンと彫られている。

 なんだ、飼い猫かと思った時今度はソファの方向から声が聞こえる。

「なんだ、騒がしいなぁ」

 気怠そうな声を出し、ぼさぼさの頭を掻きながら体を起こしていく。

 一回大きなあくびをした後、涙目で僕の方を見る。

「あぁ、少年。また会ったね」

 まだ寝ぼけてはいるが、彼女は僕の事を覚えている様子で優しく目を細めて微笑んだ。

「今日はどうした?私に用があって来たんだろう」

 彼女は立ち上がり隣の部屋へ移動していく。

「そうです。僕は似鳥和也。あなたの名刺を見てここに来ました。南川さん」

 僕は彼女を追いかけ、隣の部屋までついていく。

 そこはキッチンで彼女は二つのカップにコーヒーを淹れていた。

「そっか。少年、聞くの忘れてたけどコーヒー飲める?」

「えぇ、大丈夫ですけど」

「ならよかった」

 彼女は電子レンジの上に置かれた小物入れを取り「砂糖とミルクはここに入ってるから好きに入れて」と言った。

「あの、コーヒー淹れるならもう一つ追加してもらっていいですか?」

「コーヒーを?もう一人来てるのかい」

「・・・えぇ」

「おっけー」と彼女は軽く返事をしカップをローテーブルの方へ運んでいく。

 最初の部屋に戻ると小坂さんも中に入っており、足元には先程の猫がしっぽを振って彼女をじっと見つめていた。

「どうしたシャロン?そこになにかあるのかい?」

 シャロンと呼ばれた猫は探偵の言葉に反応を示さない。

 ただ小坂さんを興味深そうに見つめているだけだった。

 彼女は苦笑して困ったように僕を見ていた。

「不思議な子だ。あぁ、どうぞ少年。それでお連れさんはどこにいるのかな?」

 南川さんは辺りを見渡し、その後不思議そうに僕を見る。

「実は、もうこの部屋にいるんです」

「え?どこかに隠れてるのかい?」

「いえ、すぐ傍に立っています」

 僕が入り口側の方向を指さし、しかし彼女の目には何も映っていないだろう。

 南川さんは乾いた笑いをする。

「少年、私をからかっているのかい?」

「いえ、でも本当の事なんです」

「そうかい」

 そう言って彼女はカーディガンのポケットから煙草の箱とライターを取り出し、一本口にくわえ火を点ける。

 一息吸って煙を天井に向かって吐く。

 煙草ってこうやって吸うのか。喫煙者をこんなに近くで見たのは初めてかもしれないと関係のないことを思った。

「信じてもらえないのは当然だと思います。じゃあ、証拠をお見せしましょう。小坂さん、コーヒーを頂こうよ」

 彼女は驚いた様子で僕を見る。

 協力をしてもらうなら彼女の存在を認めてもらう事がどうしても必要だ。

 だってこれは、彼女の持ち込んだ依頼なのだから。

 南川さんは茶番だと言わんばかりにずっと天井一点を見つめている。

 小坂さんは隣のソファに座り、カップを片手手で持ち上げる。

 カチャンとカップは音を立て、その音に南川さんは反応して顔を向ける。

 次の瞬間南川さんは録画の再生を停止したときの様に動かなくなった。

 小坂さんはコーヒーを一口頂き、受け皿に戻した。

 その一連の動きを見て、南川さんの目には勝手にカップが浮いて机に戻り、コーヒーの量が減っていることに気付いたことだろう。

「南川さん、煙草・・・」

「え?あっちぃ!」

 彼女はほとんど灰になり短くなった煙草を慌てて銀の皿に擦りつけ捨てる。

 余程熱かったのか、指先を舐めて息を吹きかけている。

「おいおい少年、どんなマジックを使ったんだい?大人をあまり困らせないでくれよ」

 彼女は苦笑いし首元に汗が伝っていた。

 僕は胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、小坂さんに渡した。

 今度は何が始まったんだと南川さんは困ったように見る。

 小坂さんはボールペンを走らせ、そしてメモを机の上に置いた。

〈彼の言っていることは本当です。私は小坂結衣。先日河川敷で殺された女子高生です〉

 南川さんはメモを見てまた硬直した。

「何かのドッキリかい?」とまだ疑っている口ぶりだった。

 小坂さんはまたメモを取り、再び書き南川さんの前に置く。

〈ドッキリではないです。信じられないかもしれませんが、私は幽霊になりました。今回はあなたにお願いがあり伺いました〉

 南川さんは腕を組み、うーんと唸っていた。何か思考を巡らせているのだろう。

 猫は相変わらずしっぽを振って小坂さんを見ていた。

「・・・シャロン?君には見えるのかい?」

 南川さんが訪ねるとシャロンは「にゃー」と可愛らしい返事をした。

 そこで決心がついたように僕を見る。

「よし、少年。一旦信じることにしよう」

「ほんとですか、ありがとうございます」

「うん、じゃないと君ここから出ていきそうにないし。話も進まないからね」

 そう言ってまた南川さんは煙草をくわえる。

「初めての依頼主が幽霊とはね」と呟いた。

 先程と同じように火を点け、煙を吹き、そして僕と横にいる彼女に目配せする。

「それじゃ、話を聞こうじゃないか。お二人さん」


「復讐がしたいの」

 彼女にそう言われてから僕はしばらく言葉を失った。

 唐突に人生を奪われ、犯人を恨む気持ちは当然あるだろう。

 でもまさか温厚そうな彼女からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。

「復讐って・・・どうするつもりなの?」とようやく尋ねる。

「別に、犯人を見つけて殺したいわけじゃない。ただ、犯人を私の手で捕まえて、踏ん切りをつけたいの」

「踏ん切り?」

「うん。私がまだ成仏できないのって、きっとまだ未練があるからだと思う。多分、私は自分自身の死に納得がいっていない。だから成仏できないんじゃないかって思ったの」

 未練、幽霊がこの世に留まる理由でまず思い浮かべるのはそれだった。

 それらを解消することで成仏できる、実際の所は分からないが。

「私だって、まだまだやりたいことは沢山あった。それを全部奪われたんだよ?許せるはずがないよ。私がこうして彷徨っている事を犯人は知らないだろうし、どこかでまた他の誰かを傷つけているのかもしれない」

「うん・・・確かにまだ捕まっていないみたいだし。でも警察に任せた方が確実なんじゃないかな?」

「ダメだよ・・・さっきも言ったけど」

 彼女の口調は苛立っていた。

 かぶりを振り、手を拳にして強く握り締める。

「私がこの手で捕まえなくちゃ、私の気が済まない」

「それが復讐・・・」

「そう、せめてもの抵抗みたいなものかな。でもきっとそれが叶えば成仏できるって私は信じてる」

 成仏に関しては色々と欠けた理屈だと思った。

 幽霊の原理なんてそもそも知らないし、つい先日までその存在を僕は信じていなかった。

 でも彼女の気持ちはもっともで、抱いて当然の感情だと思う。

 殺してやりたいと言わないだけ、彼女は優しいように思えた。

「わかった・・・でもお願いがある」

「お願いって?」

「僕も協力させてほしい。君のその復讐に」

「え?」と彼女は声を漏らし、僕は机の引き出しを開ける。

「そんな、危険だよ!相手は殺人者で、姿の見える似鳥君が近づいたら私と同じ目に合うかもしれない」

「だからって、君一人で警察より早く犯人にたどり着けるとは思えない。誰か協力者が必要だ」

 彼女は視線を落とす。

「それはそうだけど・・・」

「外部と関わるには認識される必要がある。君は僕を利用してくれたらいい」

 確か引き出しの隅に・・・あった。

 彼女の死体を見つけた日、僕がパトカーの中で受け取った名刺。

〈南川探偵事務所 南川零〉

「この人に協力を頼んでみよう」

 頼みの綱だった。協力してくれるかは行ってみないと分からない。

 彼女も名刺を見て、首を縦に振った。


「復讐、ね。それが未練だと」

 南川さんは腕を組み足元に目線を落とした。

「そうです。それを解消するには警察よりも犯人を自分の手で捕まえないといけない。彼女はそう願っています」

「かといって・・・探偵一人に男子高校生、そして被害者の幽霊。この三人であのおっさんたち出し抜くのは不可能に近いよなー」

 ふぁーあと彼女は大きく口を開けあくびをした。

「ごめんごめん、最近昼夜逆転して眠たくて」

 その様子を見た小坂さんが僕の肩を叩き、不安げに見つめてきた。

「この人大丈夫かな?私達の話真剣に聞いてくれてる?」

「どうだろう。子供の言うことだから取り合ってくれないのかも」

 僕がそう言うと南川さんは机に身を乗り出してきた。

「お?なになに?彼女が何か言ったのかい?」

 南川さんの好奇の目は彼女とたまたま目が合っているらしく、小坂さんは苛立った様子で眉をひそめた。

「あと少年。別に子供だからって差別はしないぞ。探偵として、困っている人を助けるのは当然のことだ」

 本当にそう思ってるのかな?と南川さんの様子を見て僕は心の中で思った。

「だから手伝おう。その復讐。我々で犯人を捕まえようじゃないか」

 それを聞いて小坂さんはえ?と小さな声を漏らした。

 僕も急にやる気になった南川さんに呆気を取られる。

 犯人を捕まえるのは不可能に近いって言ったり、事情を話しても興味なさげにあくびしたり、かといって次は手伝おうと目を輝かせて言う。

 いまいち、読めない人だと思った。

 気分屋なだけだろうか?

「ところで少年、私は彼女と話をしたいんだけど、どうすればいいかな?」

「え?話ですか」

「それはそうだろう。ずっと君と話していても情報が足りなさすぎる。犯人を追おうにも事件に靄がかかりすぎて身動きが取れない」

 でも見えるのは僕だけで、当然直接彼女達同士でやり取りができるはずがない。

 となると、と僕が言う前に小坂さんはメモに何かを書き出し南川さんに見えるよう机に置いた。

〈これで話しましょう〉と手短な文章だ。

「うん。そうだな」

 南川さんはニッと笑った。

 そしてソファチェアの背もたれから身を乗り出し机に肘をつき両手を組んだ。

 猫背の状態で、上目遣いに彼女の座っている場所を見る。

「では、小坂結衣さん。まずあなたが最後に居た場所、殺された場所と言い変えてもいい。それはどこだい?」

 トーンの下がった声には緊張感があり、急に面接の部屋みたいな雰囲気になった。

 南川さんはわずかに的外れの方向を向いているが。

 小坂さんはメモにペンを走らせていく。普通に話すよりこっちの方が大変そうだ。

 書き終え、メモを南川さんに見せる。

〈通学路です。路地を歩いているとき、後ろから足音がして。振り返った時には地面に倒れ、その後激痛が走りました。何回も鋭利なもので刺されたんだと思います〉

 南川さんは顔をしかめる。

「通学路の路地?それはどんな?」

 メモを手元に戻し小坂さんがまた書いていく。

 次に見せた文章は先程より乱雑になっており、綺麗な体裁で書くことは諦めたようだった。

〈ビルの隙間です。そんな路地を縫うように歩いて毎日帰っていました〉

「ビルの隙間?そんな人気の少ない場所、格好の的だ。女子高生が一人で歩くのは感心できないな」

〈でも、あれが近道なんです。中学の頃もよく使っていて、慣れていましたから〉

「だが残念な結果になった。でも、それは狙われた犯行かもしれないな。君が人気のない路地に入るのを知っていて、犯人は後ろから君を刺した。ずっとその機会を狙っていたのかもしれない」

 だとすると、と南川さんは顎を片手で擦った。

「君によほど恨みを抱いていた人間か」と言うと小坂さんが〈そんな人いません〉とメモを南川さんの前に突き出した。

「意外と無自覚に恨まれているものだよ。そういう怨恨は。私もその一人だ」

 南川さんは困ったように笑う。

「逆もあり得る。君に異常な好意を寄せていて、その欲望は独占欲になり殺人を引き起こした。どうだい?この二つで心当たりのある人間は?」

 次の質問に小坂さんは否定を示さなかった。

 心当たりがある、ということだろうか。

〈ストーカーが、いました。高校に入学してから間もなくして〉

「そうか、確かに君はモテそうだ。そのストーカーの名前とか分かるかい?」

〈分かりません。でも、あの制服は何駅か先の進学校だったはずです。私の友達も通っていて。男女共通で紺色のブレザーを着ててそれと同じブレザーをストーカーは着ていました〉

「ほら少年、容疑者が一人出たぞ」

 南川さんは手を合わせて屈託なく笑う。

「そのストーカーも調べるとして、まずは君の殺されたという場所を見たいな。今日は・・・また降ってきそうだしな。少年、今日何曜日だっけ?」

「土曜日ですけど」

「明日は日曜日、君も学校は休みだろう。毎日サンデーの私には関係ないがね」

 この人、やっぱり暇なんじゃと先程爆睡していた様子を思い出す。

「朝、君たちを迎えに行く。よろしく、少年住所教えて」

 そう言うと彼女もメモで〈よろしくお願いします〉と丁寧な字で返した。

 同じメモに僕は住所を記載する。

「あ、そういえばお金は。依頼料とかあるんじゃ」

 僕の言葉に「あ、そうか」と南川さんは思い出したように考える。

「まぁ、高校生だし。お金はないだろうから、将来返すってことで。依頼が終わったら請求書を送っておくよ。いつでもいいから払っといて」

「そんな感じでいいんですか?」

「あぁ、これでも良心的な探偵なんだぜ。私」

 でもさっき初仕事とか言っていた気がする。

 高校生でも仕事が来るだけありがたい、もしかしたらそう思っているのかもしれない。

「さて、雨が降らない内に早く帰るといい」


「結構頼りになりそうな人だったね」

 小坂さんは帰り道の途中満足げにそう言った。

 気づけばもうすっかり暗い時間になっていた。

 あの探偵の予想通り、大粒の雨が激しく降りだしていた。

 念の為持ってきた傘は功を奏し、彼女に寄せて差した。

「そうだね。最初見た時はどうかと思ったけど、後半は人が変わったみたいに聞いてくれて」

 ダメもとで協力をお願いしたのだが、意外にあっさりと話に乗ってくれた。

「来てよかったぁ。今日はありがとね」

 彼女は笑い、見るからに上機嫌だ。

 仕事はなさそうだったけど、伊達に探偵事務所を開いているわけではなさそうだ。

 道に浮かんだ水溜まりを踏まないよう、ゆっくりとした足取りで帰路を歩いた。


 翌日の朝、僕達は身支度を済ませ、一旦それぞれの部屋に戻り南川さんが来るのを待った。

 今は午前十時、朝迎えに行くとは言われたがそれがいつを差すのかは分からなかった。

 いつもの様に机について本を読んでいると〈プップー!〉と大きなクラクションの音が外から聞こえた。

 何事かと思い出窓を開けて下を覗くと赤い塗装が施された外車がエンジンを掛け停車していた。

 運転席の窓からサングラスを掛けた金髪の女性がこちらを覗いており、僕と目が合うと陽気そうに手を振ってきた。

 似た目に裏切らず派手だなぁ。

 僕が部屋から出ると彼女も察したように廊下に出てきた。

 黒いブラウスにワイドパンツを着ており、姉の服でも本人の数倍似合っていた。

「行こうか」

 玄関ドアを施錠し、派手な車に近づいていく。

「遅いぞ少年」

 南川さんはサングラスを少し下げ上目遣いに僕を見る。

 昨日と同じ服を着て、変化はサングラスを掛けていることぐらいだ。

「いきなりクラクション鳴らさないで下さいよ。近所迷惑です」

「硬いこと言うなよー。まぁ乗りたまえ」

 今から殺人現場に行くというのに彼女は楽しそうだ。

 小坂さんは助手席、僕は後部座席に座る。

 車内はヘビィメタルの曲が激しく流れ、頭が痛くなりそうだった。

「小坂さんは助手席に座っているのかな?シートベルトは目立つからつけないで大丈夫だよ」

 言われて彼女はハッとし、シートベルトを外した。

 まだ見えない存在という実感が薄いのかもしれない。

「それじゃ諸君、出発だ」

 車は激しくエンジンを吹かし急発進した。


 現場から近いパーキングエリアに駐車し、そこから数分歩いて到着した。

 通り沿いに建てられたビル、その隙間に小さな道があった。

 汚れた外壁に囲まれたモルタルの地面は黒ずんでおり、衛生的によくなさそうだった。

「秘密の抜け穴、と言ったところかな」

 昨日予想した南川さんの見解通り、多くの人は立ち寄らなさそうだ。

「小坂さん、どこにいるのか分からないけど。どの辺で足音が聞こえたんだい?」

「もう少し奥に行ったところです」と言うが当然伝わらない。

「もう少し奥に行ったところと言いました」

 僕が代理で伝えると「おっけー」と答え路地を進んでいった。

 日の当たらない場所のせいか、肌寒く鳥肌が立った。

 所々に設置されたビルの窓ガラスは誰かに見られているようで得体の知れない恐怖があった。

 よく彼女はこの道を一人で歩けたな。

 一度角を曲がり、曲がった先にも路地は続いていた。

「ここです」と彼女は言い僕は立ち止まる。

 南川さんも僕が歩を止めたことに気付き振り返る。

「なるほど。完全に人目に付かない場所だな。犯人は君が角を曲がるのを見計らい、見えなくなった瞬間走って近づいてきたんだ」

 表の道を歩く人には映らない。

 ここで何をされても気づかれないし、叫び声を挙げても距離的に少し遠く遮蔽物もあり、届かない可能性が濃厚だ。

「ビルの隙間の路地なんて言ってしまえばここ以外にも複数ある。同時に通る人は多くないし、限られてくる。この路地で小坂さんが角を曲がった瞬間のピンポイントを狙ってきたとしたら、君をターゲットに練られていたんだろうね」

 通り魔に襲われたよりも狙われていた可能性の方が高いと南川さんは言いたげだった。

 同時に周囲を見渡し、その場でしゃがみ地面を水平に見る。

「血痕も争った跡もなし。キレイに清掃されてるね。証拠隠滅に死体を運んで河原に放棄する。一人では到底無理だ」

 南川さんは頭を掻き唸る。

「怪しいと今目をつけているのは君をストーカーしていた男だけだ。歪んだ欲望がもたらした殺意と言えば動悸にもなるし、君の行動を監視していたとなるとこの路地を通ることも当然知っていた。ただ、現役高校生がすることにしては手が凝りすぎている」

「確かに、どうしてこんな面倒なことをしたんでしょうか」 

「そうだ。ただ殺すことだけが目的ならこの場で死体を放置していればよかった。わざわざ河川敷に投げ捨てるなんて、何でそんな面倒な真似をしたんだ?」

 だめだ、情報が少なすぎると南川さんは考えるのをやめた。

 直後、小坂さんが壁に手を突き膝から崩れ落ちた。

 顔を歪め、呼吸を荒げ、呻き声を何度も漏らした。

「小坂さん!?」

 僕は慌てて彼女に駆け寄り両肩を持つ。

 彼女は僕の体に身を預け倒れないようしっかりと支えた。

「ごめん・・・気分悪くなっちゃった・・・」

 ここは彼女が殺された場所、思い出させてしまったのだ。

 来る前に僕が察し、気づいてあげるべきだった。

「少年?小坂さんは?」

「苦しんでます・・・なんとかしないと・・・!」

「そうだな・・・無理もない。今すぐここから離れよう」

 彼女の腕を肩にかけ、南川さんの車を目指し歩き出した。

 結局現場では不可思議な点が多く見つかり、真相が深まっただけだった。


 帰りの車、小坂さんは後部座席に横たわっていた。

 南川さんも状況を察して激しい音楽を流すのをやめてくれた。

 窓から外を眺めると街中ではしゃぐ子供たちとそれをなだめる母親が見えた。

 母親は無邪気な子供達の暴れっぷりに手が負えず、全力で落ち着かせようとしていた。

「お昼時だけど、食べる気分にもなれないか」

 南川さんは僕にだけ聞こえるよう小さな声で言った。

「そうですね。このまま解散した方がよさそうです。今後の方針は、また電話でお話しできれば」

 そう言った時、後ろから革のこすれる音がした。

 振り返ると、小坂さんが消沈した様子でこちらを見ていた。

 前髪は顔を覆い、表情までは分からないが訴えるような目をしていた。

「・・・このまま事務所へ行ってください」

「彼女、なんて?」

「解散せず、事務所へ向かってと」

「やれやれ。さっき参ったばかりなのに、タフな子だねぇ」

 南川さんは交差点を右折し、事務所へ向かうルートに変更した。

 先程横たわっていた小坂さんは項垂れ、ズボンを握り締めていた。

 数分して事務所の裏にある駐車場に到着する。

 開き戸を開けると煙草の匂いが鼻を刺し、窓枠に座ったシャロンが顔だけこちらに向けている。

「ただいまシャロン」

 南川さんがそう言うと再び窓の方に視線を戻した。

 途中コンビニに寄り簡単なお昼ご飯を購入していたのでローテーブルにそれらを広げた。

 みんなでつまめる小さなサンドイッチを手に取り食べていくが、小坂さんは手に取ろうとしなかった。

 サンドイッチが空中に浮かないことを見て、南川さんは小坂さんの様子を察する。

「辛いことを思い出させちゃったね。小坂さん」

 小坂さんはゆっくりとした動作でズボンのポケットからメモとペンを取り出し、〈もう大丈夫です〉と書いて南川さんに見せた。

「せっかくだけど、ここに来たからには事件の事を話していくしかない。それ以外にそれといった話題もないからね」

 僕は横に座る小坂さんを見る。

 大丈夫と書いていたが、そんなはずはない。焦点の合わない目と蒼白した顔色、組まれた両手の指先は小刻みに震えていた。

〈お気になさらず。話を進めていきましょう〉

 正直彼女の気持ちが分からなかった。

 復讐の協力をすると乗ったものの、それは彼女の殺された暗部に再び足を踏み入れるということ。

 彼女自身無事で済むはずがない。

 認識が甘かった、安易に協力するべきではなかったのかもしれないと僕の心は揺れる。

 彼女はボロボロになってでも尚、歩を進めようとする。

 どうしてそこまで・・・と正直思うが、彼女の気持ちは死んだことのない僕には到底わかるものではなかった。

「分かった。君がそう言うなら話を進めよう」

 南川さんはサンドイッチを取り、一口で頬張りお茶でそれを流し込んでいく。

 飲み終えた後、鋭い目でこちらを見た。

「正直現場の収穫はいまいちだ。分かり切ってはいたけどね。犯人は恐らく彼女を知っている人物、あの路地で殺すことを前もって練っていた。争った痕跡はなくキレイに清掃されており、彼女に言われなければ何の変哲もない路地だ」

 南川さんはこれまでの情報を大雑把にまとめる。

「まぁまだ最初の調査だ。これからだと言いたいが疑わしい人物が少ない。彼女をストーカーしていた学生。次はこいつに接触するのと周囲の人間関係を洗うのがいいかもしれないな」

 手がかりが出てくればいいがねぇと両手を頭の後ろに組みソファチェアの後ろに寄りかかる。

「僕達の通う学校から何駅か先の進学校、だったよね」

 僕と彼女は目を合わせる。

〈そう、名前は北条高校〉

「君の友達が通っていると。そこから紹介してもらえれば楽だったんだけどね」

 しかし実際に接触するのは難しいように思えた。当然小坂さんがメールを送れば友達は激しく混乱しかえって問題事を増やしてしまう。

「ストーカーの顔は?」

〈少しだけ見ました。怖くて近づけなかったので、あまり鮮明には覚えていないですけど〉

 その後メモにストーカーの特徴を書いていった。

〈身長は似鳥くんと同じくらい。体は細かった。長い髪で目が隠れるくらいあったと思う。あと、鞄にフィギュアみたいなものを沢山つけていた〉

「オタクっぽい人ですかね?」

「そんな気がするね。身長もあまり高くないそうだ」

「悪かったですね」

「とにかく、何か彼に繋がる手掛けが必要だな。それはこちらで何とかしてみよう」

 南川さんはそう言うと煙草を吸い始めた。

 それを見た小坂さんは匂いにしびれを切らしたのか、南川さんの後ろにある出窓を開けた。

 窓が勝手に開いても南川さんはもう驚かないようになっていた。

「何とかって、どうするんですか?」

 煙を天井に向かって吐き、僕の顔を見てニッと笑った。

「まぁまかせなさい」


「どうするつもりなんだろうね、南川さん」

 小坂さんはキッチンのIHで炒め物をしながら話す。

 香ばしい匂いが漂い、僕は空腹を刺激される。

「分からないけど、待つしかないね。彼女もプロだから信じても大丈夫だと思う」

 何かわかったら連絡するとだけ言われた。

 現状況で小坂さんをストーカーしていた人物は特定できず、調べようにも僕は学校の関係で時間を縛られ、小坂さんは単独で行動するには危険すぎる。

 よって自由が利く南川さんを信じるほかなかった。

 小坂さんはフライパンをIHから持ち上げ具を白いお皿に盛りつけていく。

 それを机に並べ、後は白いご飯とボウルに入ったサラダを持ってきてくれた。

「相変わらず手際がいいなぁ。もうできたの?」

「ふふん、上手い物でしょ」

 両手を腰に当て冗談っぽく言う。

 互いにダイニングチェアに向かい合う形で座り、行儀よく両手を合わせる。

 僕はピーマンと豚バラ肉の炒め物をつまみ、それをご飯に混ぜ口の中に流し込む。

「おいしい」

 彼女は上目遣いに僕を見て「よかった」と微笑む。そこでようやく彼女も箸を手に取る。

 毎回彼女は僕の反応を確かめてから食べ始めるのだ。

「でも、明日からまた退屈させるね」

 月曜日は当然学校、彼女はまた誰もいない家で過ごすことになる。

 朝、僕とすれ違いに母が帰ってくるので余計に自由が利かなくなるだろう。

「ううん・・・わざわざ泊めてもらってるんだから、でも何かできることがあればなぁ・・・」

「ずっと本を読むのも飽きるよね・・・」

 他にできることがあればいいのだが。

 そう思い、僕は考える。

「そうだ、学校に来てみない?」

「え?でも・・・」

 彼女は下に俯く。

 当然行きづらいに決まっている。

 もちろん、僕と一緒に教室へ向かうわけにはいかない。

「僕、図書委員なんだ。準備室は委員会で使うんだけど、授業中は誰も来ない。あそこなら本でもインターネットでも使えるし、僕も休憩時間中に立ち寄れるからさ」

「図書委員・・・そういえばそうだったね。本が好きな似鳥君にピッタリだって、私思ってた」

 覚えていたのかと意外だった。彼女はパッと明るい表情になった。

「鍵、開けておくからさ。家にいるよりずっといいと思う」

 僕がそう笑いかけると彼女もくすくすと笑った。

「ありがと。じゃあ、そうさせてもらおうかな・・・。学校を彷徨う幽霊、ばれたら怪談になりそうだね」

 その危険性は確かにあるので僕は苦笑いしたが、彼女が少しでも元気になれるならそれでもいいかと思った。

 幽霊も人間、精神的な安らぎは必要だ。

 復讐に囚われ苦しんだ彼女を見た後だと、尚更休息させるべきだと思った。


 僕達は朝早くに家を出て、並んで通学路を歩く。

「あそこのパン屋さん、帰りによく寄ってたんだ」と彼女は笑いながら言う。

 学校に行くのに合わせて制服を纏い、やっぱり彼女は一番制服が似合うなと再認識した。

 まだ死んで一週間も経たないのに、彼女は昔の様に懐かしんでいた。

 学校に着くと朝練の生徒がグランドで活動していた。

 生徒玄関から入り、彼女は靴を袋に入れ中へ持ち運ぶ。

 校内は当然誰も来ておらず、僕達は真っ直ぐに図書準備室へ向かう。

 改装した生徒棟と比べてこの棟は老朽化が激しく、歩く度床がギシギシと音を立てた。

 モルタルの壁は所々ひび割れ、夜になれば生徒たちの心霊スポットへと変貌するだろう。

 準備室の鍵をポケットから取り出し、建付けの悪い引き戸をこじ開ける。

 その瞬間埃が舞い、本のカビた様な匂いが漂ってきた。

 目の前にオフィスデスクが二つ向かい合う形で設置され、互いにパソコンが置かれてある。

 左奥の開き戸は図書室に繋がっており、後は書類の棚や本の山で埋め尽くされていた。

「なんだか似鳥君の部屋みたいだね」

 彼女はくすくすと笑う。

「そうかな?本だらけっていうのは確かに似ているかもだけど」

「あと、匂いとかも」

「まぁ、僕しか使ってないからね。匂いが移ったのかも」

 僕はデスクのパソコンを立ち上げ、パスワードを打ち込むとデスクトップが音を立てて開いた。

 これでネットもゲームもできるし、隣の部屋は図書室だから暇になれば本を取りに行けばいい。

 個人的には完璧な楽園を作り上げたつもりだが、彼女にどう映っているのかは分からない。

「ありがと、似鳥君」

 彼女は笑いかけ、僕は照れ臭くなる。

「暇になれば出歩いてもいいかもしれないけど、教室は・・・あまり近づかない方がいいと思う」

 危険なのと、あのどんよりとした雰囲気を彼女に見せるわけにはいかない。

 僕は先日見たお通夜のように重苦しい教室内を思い出す。

 僕自身顔を出したくないのが本音だった。

「分かってる、教室には近づかないよ」

 彼女は下に俯き、抑えたような声でそう言った。

「それじゃ、くれぐれも気を付けて」

「うん。勉強、頑張ってね」

 準備室を後にし、僕はぼちぼちやってくる生徒たちに紛れて教室に入っていった。

 それから休憩時間になれば委員会の面目で準備室へ向かい、彼女の様子を見に行く。

 覗く度に彼女は本を読んでいたり、ネットを見ていたり、机に突っ伏して寝ていたり。

 結構満喫しているように見えた。

 放置状態の部屋なので誰も来ないことは織り込み済みだったが、それが彼女にとって心地の良い空間になり、外部では数少ない安全地帯と言えた。

「そういえば今日、南川さんを見たよ」

 彼女が図書準備室で過ごし始めて数日経った頃、金曜日の昼休みに彼女は思い出したように言った。

「え?どこで?」

「この部屋から廊下に出てすぐの窓から教員棟が見えるんだけど、一階の接待室から教頭先生と、あとどこかで見たようなスーツ姿のおじさんと一緒に出てきて。確か体育館の裏の方に歩いていくのが見えたよ」

 接待室、何か学校の情報を調べに来ていたのかな?

 この五日間でどれくらい進んだのか、進捗の状況が気になった。

「体育館の裏に歩いていった?」


 僕と小坂さんは靴を履き急ぎ足で体育館裏を目指す。

 ぐり石で敷かれた道を歩き、一部の生徒が心配気にこちらをチラチラ見ていた。

 僕だって、普段ならあんなスラム絶対行きたくないさ。

 裏に回れば案の定、煙が漂ってきて濁った空気が僕の肺を刺激した。

 咳き込むのを堪え、周囲を見渡すと着崩した学ランと派手な髪型をしたいかつい男達があらゆる場所に座っている。

 そして男を囲うように数人の女子がガンをつけてくるようにこちらを細い目で睨みつけていた。

 煙の正体は彼らが手に持っている煙草。

 ここは学校中の不良が密集する、要は不良の溜まり場だ。

 一般生徒も、教師でさえこの場所には近寄りがたい。

 その中で、同じように煙草を吸い地面に胡坐をかいて座っている金髪の女性を見つけた。

 僕達は彼女に近づくが彼女の方は気づく様子もなかった。

「南川さん、こんなところで何してるんですか?」

 僕の言葉で気付いたのか、「あぁ、奇遇だね」と彼女は笑う。

「小坂さんがあなたらしき人を目撃したらしいので、まさかと思って来てみました」

「そっかそっか。じゃあ小坂さんもそこにいるわけだ」と南川さんは大きく口を開きあくびをする。

「少年、この学校には喫煙所はないんだね。隠れて吸える場所を探すのに手間取ったよ」

「まぁ、学校や病院とかは禁煙が基本らしいですから。ここは例外ですけど」

「生きづらい世の中になっていくものだ」

 普段見かけない僕達が気になるのか、複数の不良が無言でこちらを見ていた。

 すぐに僕は目を逸らし、絡まれる前に南川さんの肩をゆする。

「南川さん、逃げましょうよ。怖くないんですか?」

 僕が小声で言うが「え?何が?」ときょとんとするだけで煙草を止めなかった。

 どうしてこんな場所にいてそう落ち着いていられるのか不思議で仕方なかった。

「あ、そうだ。今日事務所に来れないかな?ちょっとしたサプライズがあるんだけど」

 南川さんは何かを企んでいるのか悪戯に笑う。

「事件に関係あるなら、もちろんお伺いしますよ。調査がどうなっているのか知りたいですし」

 そう返すと煙草を地面に擦りつけ、そのまま体育館下にある通気口にそれを投げ入れた。

「おっけ。じゃあ夕方に事務所に来てくれ。また会おう」

 彼女は立ち上がって気怠そうに歩いていく。僕達もその背中を追って足早に危険地帯を脱出した。


 放課後、僕達はすぐに南川さんの事務所へ向かった。

 歩いていくには距離がそこそこあり、電車を利用して次の駅で降りる。

「サプライズって何だろうね?」

 小坂さんは下に俯き呟くように聞く。

 当然心当たりもないので「行ってみないと分からないね」と返すが、今日学校に来ていた辺りもしかしたら収穫があったのかもしれない。

 廃れたビルの中に入り、事務所の扉を叩く。

 しかし返事はなく、僕は以前と同じようにドアレバーを引き扉を開けた。

 電気は点灯し、二十四時間換気扇も回っているが人気はない。

 窓枠にシャロンが定位置に座っており、小坂さんを見るとまたしっぽを振って近づいてきた。

「すみませーん、南川さん?」と声を掛けるが返事はなく、仕方がないので僕はソファに座り南川さんの帰りを待つことにした。

 彼女は下に屈み甘えてくるシャロンを撫でてあげる。

 数十分して、南川さんは帰ってきた。

「おー来てたか。悪いね」

 陽気な声で部屋に入り、「さ、上がって」と外に向かって言う。

 来訪者がいるらしい。

 躊躇っているのか中々入って来ず、しばらくしてどこかの制服を着た女子高校生が入ってきた。

 短い黒髪にぱっちりとした目、小さな鼻にピンク色の唇、身長は百五十センチもなさそうだ。

 その整った容姿を見てお人形のような子だなと僕は思った。

「紹介しよう。こちら緑川玲奈さん。北条高校の生徒さんだ」

 緑川さんは戸惑った様子で僕に小さく会釈をする。

 動きは硬く、緊張しているようだった。

「あの・・・結衣はどこにいるんですか?」

 彼女は周囲を見渡した後、南川さんにそう言った。

 結衣、という言葉に僕は反応する。

それは小坂さんの名前だ。彼女は小坂さんを知っているのか?

「小坂結衣はもうこの部屋にいるよ。君が見えていないだけで」

 南川さんが言うと彼女は顔をしかめる。

「・・・からかってるんですか?」

「ははっ。私も最初そう思ったよ」

 彼女の背中を片手でポンと押し、事務所に入る形になると南川さんは軋む開き戸を完全に閉める。

「まぁ、座りたまえ」

 そう言われ仕方なさそうに緑川さんは僕の正面に置かれたソファに腰掛ける。

 南川さんは隣の部屋に移動し、温かいコーヒーを淹れて戻ってきた。

 四つのカップはローテーブルに並べられ、その一つが僕の横に置かれた時緑川さんは首を傾げる。

「まだだれか来るんですか?」

「だから、多分そこに座ってるんだよ。私も見えないけど。小坂結衣がね」

 僕が小坂さんをちらりと見ると真っ直ぐに緑川さんを見て硬直していた。

 その表情から僕は察する。彼女は北条高校に通う友達がいたと言っていた。

 まさか彼女が、と思うのと同時に「さ、小坂さん。証拠見せてあげてよ。前と同じように」と南川さんは言う。

 しかし小坂さんは反応せず、口を小さく開いた。

「玲奈・・・」

 彼女の目には涙が浮かんでおり、指でそれを拭き取っていく。

「小坂さん・・・大丈夫?」

「ごめんね、でも、もう会えないと思ってたから。またこうやって会えるなんて・・・嬉しいなぁ」

 彼女は微笑みながら言い、涙はまたポロリと頬を伝う。

「あなたには、見えるんですか?」

 緑川さんが僕を訝しむように見る。

 彼女には僕が何もない空間に接しているようにしか見えないだろう。

「うん。どうしてか分からないけど。僕だけには見えるんだ。小坂さんは、確かにここにいるよ」

「・・・信じられませんね」

 無理もない、と思った。

 しかし南川さんがここに連れてきたということは、事件の調査に協力を求めているということだ。

 それは小坂さんをストーカーした人物を特定する上でのキーマンになるだろう。

 何とかして信じてもらわなくてはいけないし、その為には何より小坂さんがここにいるという証拠が必要だった。

 それを察して、小坂さんはメモとペンをポケットから取り出し書き込んでいく。

「え?」と緑川さんは声を漏らし、恐らくペンとメモが独りでに動いているように映っているのだろう。

 小坂さんはメモを差し出し、〈結衣だよ。久しぶり。玲奈〉と書かれていた。

 そのメモを見て緑川さんは狼狽する。

「これは、結衣の字・・・?」

 一目見ただけで緑川さんはそう見抜いた。

 丸みを帯び小さくバランスの良い字体は確かに特徴的だ。

〈私は誰かに殺されて、幽霊になったんだ。信じられないでしょ?〉

「うん。信じられないよ」

 彼女の文字と分かっても、それでも僕達の仕掛けた悪戯か何かという線を疑っているように見えた。

 そこで緑川さんは一つの提案をする。

「じゃあ・・・結衣しか知らない質問をこれから聞くから。それが分かったら信じてあげる。いいかな?」

 緑川さんはスカートを掴み、整えられたプリーツが乱れる。

〈いいよ。どんな質問がくるか楽しみだなー〉と小坂さんは楽し気な様子でメモを書きそれを緑川さんの前に置く。

 メモを見て緑川さんはゆっくりと口を開き話し始める。

「小学校の頃。修学旅行の帰り道、私達は近所の公園に寄り道した。ブランコで並んで座っていた時、結衣の足にこげ茶色の子猫がしっぽを振って近づいてきた。覚えてる?」

〈うん。チャッピーだよね。私の家に連れて行って、飼いたいってお願いしたけどダメだった〉

「そう。チャッピー。結局公園に返しちゃったけど。私の家も鳥を飼っていたから猫を飼うことは許されなくて」

〈でも、公園に行く度チャッピーはいてその度にミルクをあげたよね〉

「・・・気づけばいなくなっちゃったけど、可愛かったよね」

 下に俯き、緑川さんは初めて用意されたコーヒーを手に取る。

 猫舌なのか、口につけた瞬間顔を歪めすぐにカップをソーサーに戻した。

「チャッピーの特徴、覚えてる?」

 そう言うと小坂さんは悲し気に俯き、静かにペンを走らせる。

〈片目が、なかったよね。他にもいろんな場所が傷だらけで〉

「うん・・・きっと酷い目に合ってきて、急にチャッピーがいなくなったのは、私達が守ってあげられなかったから。私は今でも、チャッピーの事が忘れられないよ・・・」

 その時、小坂さんがソファから立ち上がり緑川さんの後ろに回った。

 そして彼女の頭をそっと撫で、その瞬間緑川さんは肩をびくつかせる。

 小坂さんは頭を優しく撫で続け、一枚のメモを彼女の手元に置く。

〈チャッピーはきっと幸せだったよ。玲奈に会えて〉

「・・・バカ」

 そう言って緑川さんは涙を浮かべた。

 頬を伝う雫は小坂さんの指先で拭われる。励ますようにシャロンが緑川さんの足元に頬を擦りつけている。

「似てるね。この子」

「にゃー」とシャロンはしっぽを左右に振る。

 南川さんは緑川さんの言葉にクスリと笑い、カップを持ち上げコーヒーをくいっと飲み干した。

「結衣、ほんとに幽霊になったんだね」

 肩を震わせくすくすと緑川さんは笑う。「笑い事じゃないでしょ」と小坂さんは頬を軽くつねった。

「いててっ。ごめん、ごめんって。でも、姿は見えないけど。またこうして再会できるなんて。夢みたいだな・・・」

〈信じてくれた?〉

「うん。信じた。というより、信じたいな」

 二人は笑いあい、その姿は仲睦まじい姉妹の様にも見えた。

 それを見切って南川さんは両手をパンッと叩く。

「さ、信じてもらえたところで話を進めようじゃないか。諸君」


 復讐、そう聞いて緑川さんは顔をしかめたが、結衣がそう願うならと協力してくれることになった。

 結衣のストーカーかどうかは分からないけど、結衣が亡くなった日以降学校に来なくなった男子生徒がいると緑川さんは言った。

 その情報でだけでストーカーの真偽を判断するのは難しい。緑川さんが言うには学校で人の交流は一切なく机の上でずっと何か作業をしていたという。

 少なくとも小坂さんが亡くなった日以降不登校になったということは何かしらの関係性はありそうだ。

 南川さんは調べてみる価値はある、接触してみようと言った。

「名前はわかるかい?特徴とかも教えてもらえたらいいな」

「はい。八谷啓吾。身長は百六十五センチくらいで、特徴は・・・黒縁の眼鏡を掛けていて、長髪です」

「八谷啓吾・・・家とかは分からないかな?電話だと突っぱねられる可能性が高いからできれば住所が分かればいいかな」

 緑川さんは両手を組み唸る。

「分からないですね・・・先生に言えば、もしかしたら教えてくれるかもしれないですけど」

「不登校児にはその日配布されたプリントを届けたりとか、出席できなかった授業のノートをまとめたものを渡すとか、色々措置があるはずだ。それに乗っかれば行けるんじゃないか?」

 確かに、その建前なら自宅に伺うことはできるだろう。

「でも、そこに探偵の南川さんが同行するのは難しいんじゃ・・・緑川さん一人でも、女性をストーカーして仮に殺したような男と会わせるのは危険だと思います」

 そこで南川さんはニッと笑う。

 毎回この笑いをするときは何か良からぬことを閃いた時だと僕は察する。

「そうだな少年。だから八谷の家には君に同行してもらおうかな。八谷啓吾の友達って設定で」

 そう言って南川さんは後ろの棚から袋を取り出してくる。

 中には無線のイヤホンが入っていた。

「イヤモニだ。これで私の携帯と通話状態にしておこう。横髪で隠しやすい、緑川さんが付けた方がいいかもね」

「・・・怖いですね。バレたらどうしよう」

「そこは少年の頑張りようだな」と横目で僕を見て微笑む。

 上手く使われているなぁと僕は苦笑する。

「それじゃ、休み明けの月曜日に。この事務所で待ち合わせようか」

 その言葉を最後に僕達は解散した。

 事務所を出て、小坂さんは〈ごめんね、色々巻き込んで〉とメモを緑川さんに見せた。

「いいよ、結衣のお願いなら。犯人探し、実は私結構ワクワクしてるかも」

 彼女は肩をすくめて笑って見せた。

〈ありがと〉と返し「だからいいって」と互いに照れ臭そうにしている。

 もう午後の十八時頃になっただろうか。

 夏に近づくにつれ陽は長くなり、まだ周囲は明るかった。

「それじゃ、結衣。あと、似鳥君だっけ?また・・・日曜日にね」

 そう言って彼女は駅を目指す僕達とは反対方向に歩き出した。

 この辺に住んでいるのかなと思いながら彼女の背中を見送った。

 日曜日、そうか。友達だった彼女は当然出席するのか。

「可愛くていい子でしょ。小学校以来の友達なんだ」と小坂さんは嬉しそうに言う。

「素敵だね。羨ましい」

 僕には無い、そして今後も手に入らないであろう友人関係。孤独を愛していると自らに言い聞かせ今日まで生きてきたが、実際目の当たりにすると羨ましくて仕方が無かった。

「そういえば、小坂さん。のど乾いてない?」

「え?」


「ここって・・・」

 小坂さんは眼下にある住宅街と広大に広がる海、それに沿ってそびえ立つ山々を見て声を漏らした。

 アルミガラスの入った手摺を持ってその光景を見つめている。

「最近駅前でできたテラスカフェだよ。田舎もたまにはこういう所作ってくれるよね」

 僕が楽しげに言うと彼女も「そうなんだ!すごい」と歓喜する。

 屋上の下にコーヒーの販売店があり、ここは休憩所として利用できた。

 僕は販売店で買ったチョコレートチップとクリームの入った甘そうな飲み物を彼女に渡す。

 黄色いパラソルが掲げられたデザイン調のテーブルと椅子が複数設けられていたが、僕達はその奥にある人気のないベンチに座り休憩した。

「じゃあ、頂くね」

 彼女は申し訳なさそうに言うとストローに口をつけ飲む。

 ほっぺを上にあげ「うーん!おいしい」と上擦った声で言った。

 そんな彼女の反応を見て微笑ましく思いつつ、僕は無糖のコーヒーを飲む。

 苦くもないサッパリとした味は身に染み渡り、心が落ち着いていった。

「似鳥君こんないい場所知ってるんだ!」

「たまたまクラスでカフェの話を知って、小坂さん、こういう場所好きかなって思って」

「うん!すごくいい!幸せ」

 綺麗な景色や甘い物が好きで、無邪気に喜ぶ様子は年頃の女の子そのものだ。

 こうして横にいると、彼女が生きているものだと錯覚してしまう。

 またストローでチョコレートを吸い上げ、心のどこかで安心する。

 最近は犯人を捕まえる事だけに捕らわれ、どこか無理をしているように思えた。

 僕はそんな彼女を見て正直心配で仕方がなかった。

 協力はしているけれど、彼女が壊れそうになるくらいなら身を呈して止めるつもりだ。

「でも、似鳥君。急にどうしたの?」

 彼女は不思議そうに尋ねてくる。唇にチョコレートが少し付いており気づかない様子が可愛らしく思えた。

「まぁ、僕もこういう店には前から来たかったというか。でも一人じゃなんとなく行きづらかったから。最近は小坂さんがいるから、どうかなと思って。付き合わせちゃってごめんね」

「ううん。私も楽しいから。そうだったんだ・・・」

 彼女は下に俯いた後僕を上目遣いに見る。

「本当は私を励ましたかったからでしょ?」

 そう言われ、僕はぎくりとする。

 彼女は僕の反応を見て「やっぱり」と微笑んだ。

「最近、だんだん似鳥君の事が分かってきたんだ。あなたは自分より誰かを気に掛けてくれる。優しい人なんだなって。学校に行こうって誘ってくれた辺りから思ってた」

 照れ臭くなって頬を指先で掻く。

 僕の余計な気遣いは見通されていたようだった。

「ありがとう。似鳥君のおかげで、私は幽霊になっても楽しく過ごせてる」

急な感謝の言葉に上手く反応できず、「そんなこと・・・」と変な言葉を小さく呟く。

「結構照屋さんなんだね」と小坂さんはクスクスと笑った。

 そんな彼女の笑顔が、僕は大好きだった。

 励ましでも何でもない、ただ彼女に傍で笑ってもらえれば僕はそれだけでよかったのだと思う。

 段々と陽が落ちてきて、オレンジ色に光る夕日は海の表面を照らし、その一つ一つの光は小さな宝石の様に輝いていた。

 この景色を、いつまでも二人で見つめていたいと思った。

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