君の夏が消える

emo

第1話 彼女の運命


 これは、もう僕が忘れてしまった昔の記憶。

 それは僕が小学生の頃。

 十二月三十一日の大晦日、何気ない事で母と喧嘩し、僕は拗ねて部屋に閉じこもり年明けをその部屋で過ごした。

 朝起きても挨拶する母を無視して家を飛び出し、隣町にある神社まで出掛け一人初詣に来ていた。

 身が張り裂けそうな程寒く、風が吹く度体温が奪われていくようだった。

 世間は元日で、新年の祝いでどこも賑わっていた。

 僕は神社の石階段を上り、その度様々な人達とすれ違う。

 若い男性や女性の集団に家族ぐるみで来ている人たち、中には着物を着てしっかりとおめかしが施された女性達がおり正月らしさを一層感じさせてくれた。

 よくもあんな歩きづらそうな格好で急な階段を上り下りできるものだ。

 階段を上り終えると石の鳥居をくぐり、広い参道とそれに沿って様々な屋台が設営されているのが目に入った。

 やはり集団で行動している人たちが多く、小学生の僕一人で訪れるのは場違い感を否めなかった。

 手水舎で清めると拝殿を目指して参道の列に並んだ。

 長蛇の列で体の小さい僕は人の波に押しつぶされてしまいそうだった。

 数十分経ち、拝殿までたどり着きポケットから適当に小銭を取り出す。

 たまたま五円玉が取れたのでそれをお賽銭箱に放り投げ鈴緒を鳴らす。

 新年のあいさつは終わり、さあこれからどうしようと途方に暮れる。

 目的を失った僕は周囲を彷徨い、気づけばお守り売り場で足を止めていた。

 お金もないからお守りの一つすら買えやしない。

 僕はただ木製の入れ物に詰められた色鮮やかな商品を漠然と眺めていた。

 そんな時、僕の右肩がトントンと優しく叩かれる。

 振り返ると知らない少女がきょとんとした様子で僕を見つめていた。

 サラサラな黒髪は肩の辺りまで伸び、それとは対照的な白い肌。

ふっくらとした頬は少し赤みがかっていて柔らかいお餅を連想させた。

 互いに数秒の間無言で見つめ合い、僕はどう反応してあげたらいいか分からず硬直していた。

 やがて少女がゆっくりと口を開く。

「君、一人なの?」

 優しく囁いてくるような声は僕の耳に抵抗なく溶け込んできた。

 僕は首を縦に振り、少女は「そうなんだ」と下に俯く。

 彼女は一体誰なんだろう、見た感じ年は近そうだけど。

「僕達、どこかで会ったことあるのかな?」

「ううん、初めてだと思うよ」

「じゃあ、何で僕に話しかけたの?」

 人と人には見えない溝があり、特別な理由がない限り関わる機会はない。

 この時の僕はそういう認識で、だからこそ彼女が初対面の僕に話しかけるのは不自然に思えたのだ。

 彼女は両手を合わせて僕を上目遣いに見る。

「だって君、寂しそうだったから。みんなが楽しそうな中ずっとボーとしてて、何かあったのかなと思って」

 要は同情されたのだろう。

 一人ぽつんと立ち尽くす僕を見て。

 でも確かに、周囲から見ればかなり存在が浮いているだろう。

「一緒に来る人がいなかったから、一人で初詣に来たんだ。それだけだよ」

 角の立ちそうな言い方で僕は言う。

 それでも少女は嫌な様子を一切見せず、笑いかけてきた。

「なら、私と一緒に回る?お母さんも一緒なんだけど」

 余計な気を遣わせてしまったと思い、僕は断りの返事を言おうとすると少女の後ろに女性が近づいてきた。

「あら、お友達?」

 頬の皺がやや目立つ三十代後半位の女性は朗らかに話しかけてきた。

 少女と同じ艶やかな黒髪で大きなまる目がそっくりだった。

 恐らく彼女が少女の母親だろう。

「ううん、初めてあった人。一人で寂しそうだったから話しかけたの」

 少女は事実をはっきりと母親に告げる。

 言葉にされると気恥ずかしくなり僕は下に俯いた。

 神社内では邪楽が流れ周囲はガヤガヤと賑わっている。

 僕は周りとの温度差で一層惨めな気持ちになっていった。

「そうなの・・・確かに、せっかくのお正月なのにねぇ」

 彼女はそんな僕を見て頭を悩ませた。

 そんな少女と一緒に悩まなくたって、僕の事なんて放っておけばいいのに。

「そうだ!二人ともこっちに来て!」

 彼女は声を上げ、手招きをしながら歩いていく。

 僕は少女に手を掴まれ強制的にお守り売り場に引っ張られていった。

「僕、この中から好きなものを選んで!」

 木製のカウンターの上には複数のお守りやお札、キーホルダーなどが各箱に仕分けられていた。

「そんな、悪いですよ」

「いいからいいから!せっかくここまで来たならお守りの一つでも買わないともったいないよ!」

 参ったなと思い少女に目配せをすると「どれがいいの?」と微笑んで言ってきた。

 どうやら逃げ場はないらしい。

 仕方なく商品を一瞥すると紫色のブレスレットが目に入った。

 丸い紫色の石が複数装飾されそれぞれ光を違う角度から反射し輝いていた。

 綺麗だな、そう思い気づけばそれを手に取っていた。

「それがいいのね?」と少女の母親が言うと「わぁ、素敵」と少女も両手を合わせながら言った。

「お母さん、私もそれ欲しい」

「うん。お母さんも欲しいな。皆で同じもの買っちゃおっか!」

「賛成!」

 少女は片手を真っ直ぐに上げ無邪気に声を張った。

「え、いや・・・」

 僕が断る暇もなく勘定が済まされ、白い袋に包まれたブレスレットを後から渡された。

「みんなお揃いね、えっと名前は?」

「・・・似鳥、和哉です。あの、お金は」

「和哉君ね。お正月はみんなで新年を祝う日なんだから、そんな細かい事気にしないの!」

 彼女は愉快そうに笑い、僕の頭を優しく撫でてくれた。

 気を張っていた僕は恥ずかしくなり、火照った頬を手の平で仰ぐ。

「お母さん!次は屋台回ろうよ!」

 少女は満面の笑みでそう言った。

「そうね。一つ一つ見ていきましょう」

 僕がボーと突っ立っていると少女が走って来て再び僕の手を掴んだ。

「和哉、いこっ!」

 少女は走り出し僕もまた彼女に引っ張られ走り出していた。

 無邪気な笑顔はまるで眩しい光で、僕の心の中にあったモヤモヤを払ってくれるようだった。

 気づけば僕も笑い出し、そんな僕の様子を見て少女はさらに笑った。

 今思えば、この時彼女は自分の運命を分かっていたのかもしれない。


 人が死ぬとはどういうことなのだろう。

 この前まで四肢を動かし、表情を変化させ、声を発していた物体が嘘の様に動かなくなる。

 死んだ人と出会うには思い出の中だけに限られ、もう二度と視認することはできない。

 それが普通で、常識で、この世界の鉄則の様に思えた。

 残された人達は大切な人を失った喪失を抱え、かつての日々と今を比較しその温度差が大きいほど悲しみの比率は上がっていく。

 人の死には悲しみが必ず訪れ、そして今僕の目の前に倒れている彼女の死体も同じように大きな悲しみを引き起こすだろう。

 高架橋下の河川敷。

 高速道路を走る車の騒音だけが響き、橋の隙間から差し込む夕日が死体を残酷に照らしていた。

 僕は立ち尽くし、思考は僕の目に映る現状を正しく認識できず、酷い混乱状態に陥っていた。

 最初に発見した時、それが死体だということはすぐに分かった。

 酷い腐敗匂、虚ろな目、半開きの口、地面に突っ伏して倒れ乾いた血の跡が複数見て取れた。

 この状態で生きている方が不思議に思う。

 僕が混乱しているのは死体を見たからではない。

 その死体が、小坂結衣の物だったからだ。

「あっ、あ」

 助けを呼ぼうとしても掠れ外した声がわずかに漏れるだけだった。

 例え声を上げられたとしても無駄なことだと後から気づく。

 死体になっている時点で彼女は助からないのだから。

 焦燥感が頭を支配し、冷たい汗が背中を伝う。

 震える手を片手で押さえながらポケットの携帯を取り出し、汗でべとべとの指先でボタンを押していく。

 数分後、警察が現場に到着した。

 白と黒のトラテープで周囲は仕切られ、紺色の作業服と帽子を被った男性集団が死体を入念に調べていた。

 その間僕はパトカーの後部座席に乗せられ、運転席にはスーツを着た仏頂面のおじさんとその隣に座っている黒い手帳とペンを持ったオールバックの青年にジト目で見られていた。

 鋭い目つきで一瞬も視線を逸らさない、刑事の目だと思った。

「小坂結衣さんはあなたの同級生だった」

 仏頂面の刑事は後退した前髪を指先で掻きながら話す。

「はい」

 僕は下に俯いたまま静かに言う。

「関係はそれだけ?」

「・・・それだけです」

 他にも質問はいろいろとされたが、本当に僕と彼女の間には接点が一切なく答えられることは限られていた。

 その時、パトカーの窓がコンコンと叩かれた。

 刑事が窓を開けるとそこには金髪の女性がおり、僕の姿を見るなり優しく微笑んだ。

「何かあったんですか?巻雲刑事?」

 陽気な様子で話しかけられた巻雲という刑事は困った様子で頬を掻いた。

「河川敷に死体が放棄されていたんだ。それでこの男の子に通報してもらって直行してきたわけだ」

「それでもまずは鑑識の結果を待ってから動くのでは?お膳立ての整っていない今、あなたがここにいるのは不自然だ」

「鑑識?へっ!そんな悠長なもん待ってたら現場は回らんよ」

 親しく話す二人を見て、彼女も警察の関係者だろうかと想像したが金の頭を見るなりそれは違うかなと思った。

 黒無地のシャツにイエローカーディガンを羽織り、ベイクドカラーのスカートと全体的に主張性の激しい服装、恐らくすっぴんだが少女のように可憐な幼さを感じさせる顔立ちは余計なものを塗らない方が返っていいように思えた。

 マスコミ関係の人だろうか?

 助手席に座っている若い刑事は眉をひそめ、怪訝そうに彼女を見ていた。

「南川、お前はもう現場に入れないはずだろ?部外者は立ち入り禁止だ」

「いやいや、近所に住んでるんだけど、パトカーの音がうるさいからさ。何かあったのかなって。見に来ただけだよ」

 何か言い返したそうにしている若い刑事を巻雲が手で制す。

「まあ南川、心配かけたがここはまかせろ。俺だって伊達に二十年警察やってるわけじゃないんだぜ」

「それもそうだね」と南川と呼ばれた女性は返すと、僕の方を見てクスリと笑いかけた。

「ショックだったね。あまり自分を追い込まないことだよ」

 そう言って彼女はズボンのポケットから黒革のケースを取り出し、その中から一枚の紙を僕の前に差し出した。

 僕がそれを受け取ると、彼女は僕の頭を優しく撫でた。

「困ったことがあれば来るといい」

 そう言って踵を返し、カーディガンのポケットに両手を突っ込んだまま歩き始めた。

 もらった紙に目を落とすと〈南川探偵事務所 南川零〉と書かれその下に住所と電話番号が記載されていた。

「最近開業したんだとさ。どうせあいつも暇だろうし、気が向けば寄ってみるといい」

 巻雲刑事は笑い、最初に見せた仏頂面は影も形も失くしていた。

 探偵・・・僕にはきっと縁のない人だろうとこの時は思った。


 僕は、小坂結衣の事が好きだった。

 初めて出会ったのは高校の入学式。

 広い体育館で取り仕切られ、生徒は用意されたパイプ椅子に座り退屈に過ごしていた。

 彼女は僕の一個斜め前の席に座り、サラサラで艶やかな黒髪と目鼻立ちの整った横顔を僕はチラチラと見ていた。

 なんて綺麗な人なんだろう、初めて彼女を見た時僕はそう思った。

 その後の学生生活も彼女の事が気になり、遠くから僕はただ見ていた。

 友達と無邪気に笑い合う姿、勉強に真剣に打ち込む姿、困っている人がいればすぐに手を差し伸べる姿。

 彼女はただかわいいだけじゃない、心が誰よりもクリアで寛容なのだ。

 僕がクラスの日直で大量のノートやプリントと言った提出物を職員室に運んでいるとき、廊下ですれ違った彼女が「手伝おうか?」と聞いてきた。

「大丈夫だよ」と返す前に一部を既に抜き取り両手で抱えてくれていた。

「似鳥君っていつも本読んでるよね!どんな本読んでるの?」

 彼女は柔らかな声色で聞いてくる。

 渡り廊下の腰壁上にあるフェンスから冷たい風が吹き、思わず身を縮めてしまう。

「小説だよ。別に大した本読まないよ」

「小説かぁ・・・すごいね!私活字苦手だから読めないや」

「意外だね。勉強できるからそういうの好きなんだと思ってた」

「別に、勉強できるわけじゃないよ・・・内容を暗記してその場凌ぎをしているだけで、何一つ分かってないから。それに、国語は昔から苦手だから、似鳥君はすごいと思うな」

 似鳥君、と彼女が僕の名前を知っていることが意外だった。

 初めて話すはずなのに、少し嬉しかった。

 廊下の夕日に照らされながら、くすくすと笑う彼女の顔が脳裏に焼き付いている。

 きっと、あれが彼女と交わした最後の会話だった。

 実るはずのない初恋は唐突に終わりを告げた。


 警察署から出ると外は既に真っ暗だった。

 入口前の庇を抜け、さあ帰ろうかと俯いた視線を目の前に戻すと僕は固まる。

「母さん?」

 両手を脱力したように垂らし、目に涙を浮かべながら僕の方を見ていた。

 呼吸は荒く、家から走ってきたのだと想像した。

「・・・和哉っ!」

 母は僕の胸に飛び込んできて、両手が首に回される。

 目線の下で泣きじゃくる母を見て、いつの間にか僕の方が大きくなったんだなと場違いなことを思った。

 彼女は手を解き今度は僕の両肩を掴み、僕の顔を凝視する。

「大丈夫!?どこも悪くない!?」

「大丈夫だよ。大袈裟だな。僕は元気だよ」

 本当は彼女の死を受け入れられず沈んだ心境だったが、母の泣き顔を見ているとそうもいかなくなる。

 母はほっとした様子で完全に僕から手を離した。

「大変だったわね・・・今日はしっかり休みなさい」

 優しくなだめる様に言った母は僕の背中をそっと押しながら帰路を進んでいった。

 暗雲が漂い星の一つも見られない空を見上げ、小坂さんの事を思った。

 君の死は唐突で、今は手の届かない存在になってしまった。

 元々関わる隙なんて僕にはなかったけれど、失った喪失はどうしてあの時君の傍に居てあげられなかったのだろうと胸を締め付けてきた。

「ほら、しっかり」

 母はフラフラの僕を優しく支えてくれて、暗い夜道に迷わぬようしっかりと誘導してくれた。

 二十分程かけ自宅に到着し、夕飯もお風呂も入らず自室にこもりそのまま眠りについた。

 あんな光景を見た後に寝付けるわけがないと思ったけれど、案外目を閉じるとすぐに眠気が訪れ、後は落ちていく感覚に身に任せた。


 夢の中で僕は彼女を見た。

 初めて彼女を見た時、そして廊下で初めて言葉を交わした日。

 あの会話で僕達は意気投合し、その後も関係が続いていく夢だ。

 その時限りで終わった現実とは違い、親睦を深めていくもう一つの未来。

 それは願望のように思えた。

 登下校を共にし、僕達はくだらない話をして訳もなく笑いあう。

 学校が近づくと周りに勘違いされてはいけないから少しの間距離を取り、教室の中では時々目配せをしながら違う友達と話す。

 休み時間は隙を狙って人気のない場所で集まり、僕達はまた笑いあう。

 友達以上恋人未満、そんな曖昧な関係はもどかしいようにも感じたけれど心地が良かった。

 そのまま季節が巡り、君は死なない、そんな夢だ。

 この夢が現実だったら、どんなによかっただろう。

 やがて白い光が僕の視界を覆い、次に目を覚ました時は白い天井とシーリングライトの紐が風に煽られているのかプラプラと動いている様子が映った。

「夢、か」

 当たり前だけど、信じたくなかった。

 夢と現実が逆だったらよかったのに。

 壁に掛けられた時計を見ると午前十時過ぎを差しており、学校は完全に遅刻だった。

 でも、そうか。昨日母さんが学校には休むよう連絡を入れておくと言っていたっけな。

 気怠い体を起こし、しばらく窓の外を見つめた。

 雨の雫が窓に叩きつけられ、吹く風は窓をカタカタと揺らしていた。

 目が冴えてまた眠れそうにない。仕方なく起きることにした。

 部屋の開き戸を開け、階段を一段一段ゆっくりと降りていく。

 一階が近づいてくるとテレビの音が聞こえてきた。

 リビングに入ると母さんはソファに座り洗濯物を室内物干しに掛けていた。

 僕に気付くと母は微笑み、それでも心配しているのかその表情は不自然に思えた。

「おはよう。早いんだね」

 手に持った洗濯物を籠に戻し僕を真っ直ぐに見つめる。

 異常はないか目視で確認されているようだ。

「もう十時、学校だったらとっくに遅刻だよ」

「大丈夫。今日はちゃんと休みを取ったから。私も仕事を少しの間お休みを頂いているから」

「そんな、僕は大丈夫だよ。寝たら気分も良くなったし」

 母の仕事は基本夜にある。

 父は僕が幼い頃に離婚していなくなり、女手一つで僕を今日まで育ててくれた。

 だからそれなりの収入が必要で、それを得るには夜の仕事が一番稼げるのだ。

 普段は朝寝て夕方に出ていき、僕が学校から帰る頃にはとっくに外出している。

 昨日と今日母は家にいてくれたが、こうして会話をすること自体正直久しぶりのことだ。

「いつもあんたの顔をよく見れていなかったからさ。悩んでいる様子すら気づくことができなかった。情けない話だよね。母親なのに」

「いいって。とにかく、僕は平気だから」

 僕は電子レンジの上に置かれた籠を取り、その中から食パンを一斤取り出す。

 トースターに入れ二分くらいにセットすると顔を洗う為洗面所へ向かった。

 部屋を出るとき、終始母の目線を感じた。

 洗面台に立ち鏡を見ると青ざめている自分の顔を見た。

 精神的に痛手を負っているのは一目瞭然で、そりゃ母さんも心配するわけだよなと失笑した。

 顔を洗顔で洗い、それでも顔色は少しも改善される事は無かった。

 その後は朝ご飯を食べ部屋の中に戻り、学習机に着き黙々と文庫本を読んだ。

 羅列した文字を読み進めるが、言葉の内容は全く頭に入ってこなかった。

 十分も経たずに読む事を諦め、また僕は窓の外を見る。

 掃き出し窓から見える景色は同じような建物が並んだ住宅街で、張り巡らされた電線と降る雨はどこか冷酷に思えた。

 今まで僕は安全で保障された世界で生きているように感じていたが、それは錯覚だった。

 小坂さんの死体が脳裏に焼き付き、その光景はノイズがかかり歪んだ景色が再生される。

 気づけば僕は席から立ち、パーカーを羽織った後部屋を飛び出していた。

 傘を差して数十分歩くと例の河川敷にたどり着く。

 高架橋上に走る車が走る度鉄筋の揺れる音が下まで響いていた。

 やはり立ち入り禁止で複数の捜査員が現場を検証していた。

 天端からその様子を無表情で見下ろす。

 あそこに、彼女は。

 胸が苦しくなりその場で蹲る。

 誰が一体彼女を殺したんだ?あんなに心優しい少女をどうして・・・。

 視界が霞み、このまま倒れた方が楽になれそうだ。

 そう思った時、目に映るわずかな視界に誰かの足元が見えた。

 まだ新しいローファーに白い靴下、それに見覚えがあった。

 靴下には緑色のマーク、間違いない、これは内の学校で使われているものだ。

 しかし平日水曜日のお昼時、何故生徒がこんな所をうろついているんだ?

 吐き気を抑える為口元を手で押さえつけながら僕は顔をゆっくりと上げていく。

 そこで息が詰まった。

 何故、何故彼女がここにいる?

 降雨で濡れた長い髪が頬に張り付き、虚ろな目で僕を見下ろしている。

 その美しい容姿は多少の汚れでは損なわれず、むしろ映画のワンシーンの様に彼女を引き立てているように見えた。

「小坂・・・さん?」

 僕がその名を口にしたとき、彼女、小坂結衣は目を大きく見開いた。

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