第18話 彼女の名前

「どこへ行ったのだ、一体……」

 

 困ったとばかりに肩を竦めながら、アークは玄関で立ち尽くす。

 

 ふと生霊の書の守り人、ルドウィックの言葉を思い出す。

 

 ――いわば目覚めたばかりの今の彼女は、何も記されていない白紙の状態なのだよ。

 

 その言葉どおり、確かに生霊の書の少女は、この世界のことについて何も知らないようだった。針の山を降りてからここに来るまで、彼女は目にするものすべてを珍しそうな顔で見つめていた。それに話し方もひどく拙い。まだ五歳のベルの方が、彼女よりまともな話し方をすると感じるほどだ。

 

 そんな彼女をひとり歩きさせるのは、危険なのではないだろうか。その結論に至ったアークの顔に、焦りの色が浮かび始める。


「もしや、外に出ていったのでは……」

 

 アークは慌ててグレッグ家を飛び出す。時刻は午前七時前。まだ朝早いせいか、ロジン村の中に住民の姿は見えなかった。そのおかげで、捜し人の姿をすぐに見つけることができた。

 

 生霊の書の少女は、村の入り口近くにたたずんでいた。彼女はこちらに背を向け、外の景色に目をやっているようだった。

 

 生霊の書の少女に声をかけようとして、アークはあることに気づく。

 

 ――何と声をかければよいのだ? 一体……。


 生霊の書、などといちいち呼びかけるのは、何か不自然な気がする。アークは困ったように鼻の頭を掻き、仕方なしに背後から生霊の書の少女の肩を軽く叩く。少女は細い肩をぴくりと動かすと、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「アーク」

 

 キョトンとした顔を向けられ、アークは大きくため息をつく。


「こんなところで何をしている?」

「村の中、見ていました」

「村の中を? 何もこのような朝早くからでなくてもよかろう」

 

 生霊の書の少女は、翡翠色の瞳を瞬かせながら首を傾げた。


「いけません、でしたか?」

「いや、別に咎めているわけではないが……何か理由でもあるのかと思ってな」

「わたし、目覚めたばかりです。この世界のこと、何も知らないです」

 

 生霊の書の少女は、キョロキョロと辺りを見回す。


「早くこの世界のこと、知りたい、です。だから、世界をたくさんこの目で見なければいけない、です」


 その言葉を聞き、アークはハッとする。

 

 ――そういえばルドウィックが言っていたな、生霊の書の存在意義は知識を得ることだと。

 

 だから、彼女は知識を得るべく、朝早くから村の中を歩き回っていたのだと、ようやく得心がいく。


「村の中を歩いて、ここのことがわかりました。この村の名前はロジン。村が存立したのは約五十年前。人口は三十人。村の人々のほとんどが農業で生計を立てています。家屋の数は八軒。住民の名前はグレッグ、エマ、サルコー、フィリップ、クレマ……」

「ちょ、ちょっと待て!」

 

 すらすらと何かを読み上げるように話す生霊の書の少女を、アークが制止する。


「そこまで、この村のことを調べ上げたのか? 一体どうやって……」

 

 生霊の書の少女が大きく首を横に振った。


「調べると違う、です。わたし、自分の目で見て自分の耳で聞き自分の足で歩けば、そこのことがわかります。頭の中に自然と刻み込まれます」


 アークは思わず唖然とする。

 

 ――それだけで知識を得ることができるのか。大したものだな、生霊の書というものは……。

 

 それに、生霊の書の少女の話し言葉は、昨日に比べて大分聞き取りやすくなっている。それも一晩で知識を得た成果なのだろうか。アークは思わず感心したまなざしを生霊の書の少女に向ける。


「アーク」

「……何だ?」

 

 生霊の書の少女が不思議そうに自分を見つめていることに、アークは気づく。


「どうして、わたしの顔見ている、ですか?」

 

 いつのまにか生霊の書の少女に見入ってしまっていたことに気づき、アークは大きく戸惑う。


「い、いや、何でもない。さあ、グレッグの家に戻るぞ」

 

 動揺したことを悟られないよう、アークは生霊の書の少女に背を向け歩き出す。だが、すぐに歩くのをやめ、生霊の書の少女を振り向いた。


「そういえば、お前に名はないのか?」

「名、ですか?」

「そうだ。生霊の書、といちいち呼びかけるのも何やらおかしな感じがするからな。そのほかに呼び名はないのか?」

 

 生霊の書の少女は少しの間、思案顔を浮かべると、かぶりを横に振った。


「ないです。わたしは生霊の書、それ以外のなにものでもないですから」

 

 それが至極当然といったように言われ、アークはどこか複雑な気持ちになる。


「でも、アークが呼びにくいのなら、好きなように呼んでほしいです」

「……好きなように、と言われてもな」

 

 急な提案にアークは面食らった。だが、このままではいろいろと不都合がありそうだ。アークは頭の中をフル回転させ、生霊の書の少女の呼び名を考える。


「……スノウ」

「はい?」

「お前の呼び名だ」

 

 生霊の書の少女は小首を傾げる。


「スノウ……それはどういう意味ですか?」

「雪、という意味だ。自然現象の一つだな」

 

 真顔で問われたアークは、つられたように真剣な口調で答えた。

 

 生霊の書の守り人ルドウィックは、生霊の書の少女はいわば白紙の状態だと言っていた。ならば、と「白」という意味にちなんで名づけたつもりだった。


「スノウ……雪、ですね。わかりました。では、これからわたしをそう呼んでください」

「ああ、そうさせてもらおう」

 

 生霊の書の少女スノウの言葉に大きくうなずくと、アークは彼女を連れ、グレッグ家へと戻る。

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