第四章 さらなる高みへ

第二十六話 転換点

 翌日の新聞記事には、メリッサとブルーノのデュエットの写真が大きく取り上げられている他、ヘレナのことも特集されていた。案の定、といったところだった。実際、会場内で大きな話題になっていたのはヘレナだったし、昨晩はツヴェルクの家の住人さえもヘレナの話題で盛り上がっているのを見た。ツァウベラーのことも褒めてはくれたが、気を遣われているような気がして、アリアはいたたまれない気持ちになった。


 カミラの語った、五年前の審査員特別賞の歌手の話と、自分の境遇が重なる。ヘレナに追いつかなければ、とずっと思ってきた。並べる存在にならなければならないと。でも、彼女はその間にもどんどん進んでいく。

 甘かったのだ。技術、表現力、魅せ方、緊張感、覚悟。何ひとつ、足りていなかった。慢心していたつもりもなかったけれど、デビューが決まってから、自分には変わろうという意識すらなかった。目の前のことに追われるばかりで、何かに新しく挑戦しようとすることもなかったのだ。ニーナは演奏に磨きをかけて曲作りにも意欲的に取り組み始めたし、ユウトは自分にしかできない表現を追求し始め、編曲にもその才能を発揮していたにもかかわらず。


 ひさびさの休日だというのに、アリアはまだ沈んだ気持ちのまま、ひとつの茶封筒を手に、ある場所へと向かっていた。

 それは、誕生日直前のミサで、エリスが渡してくれたものだった。


「少し早いけれど、誕生日おめでとう!

 これ、前に言っていた、オリジナルの靴を作ってもらえる私の行きつけの靴屋の地図よ。

 デザイン画は私からあちらに渡してあるから、あとはアリアの足の採寸をしたら、ぴったりになるように作ってもらえるわよ。気難しいお爺さんだけれど、腕はこの街で一番だから、安心して任せるといいわ」

「まあ、ありがとう、エリス! とても楽しみだわ。こんな素敵なプレゼント、なかなかないもの」

「ふふ、どういたしまして」

 あの時、エリスが浮かべた心底嬉しそうな笑顔が脳裏に鮮やかに蘇る。


「こんな浮かない気分で行くのはもったいないわね。楽しまなくっちゃ」

 アリアはそう言い聞かせながら、地図に記された靴屋への道を睨むように凝視した。靴の採寸なんて初めてだし、昨日のフラッシュバックのこともあって、楽しもうと思っても、得体の知れない不安が膨らんでいく一方だった。気分転換をしなければ、とアリアは一人でかぶりを振った。


 靴屋へは、すぐに辿り着いた。『靴屋ブルーム』と書かれた古びた看板は、靴の形なのだろうが、劣化でかろうじてわかる程度になってしまっている。本当にここなのだろうか? 半信半疑で、アリアはそのドアを開いた。

 店の中に入ると、そこには話に聞いていたお爺さんらしき人の姿はなく、代わりにアリアと同年代の青年が店番をしていた。

 やはり間違いだったか、と踵を返そうとしたところ、彼に声を掛けられた。

「いらっしゃいませ。ご予約のツェルナーさんでお間違いありませんか?」

 名前を呼ばれて、アリアは思わず目をぱちくりとさせた。

「あ、はい、そうです。ええと、ここの店主の方は……」

 アリアが困惑気味に尋ねると、青年は苦笑した。

「じいさんなら、腰をやってしまってしばらく休んでます。全く、いい歳して働き詰めするから……。そういうわけで、今日は僕が担当します。エリック・ブルームです、よろしくお願いします」

「ええ、こちらこそ」

 アリアはまだ戸惑っていた。同年代の男性と一対一で話すなんて、ほぼ学生の時以来だし、それも家族同然である孤児院のメンバーと話したことがある程度だ。学校の生徒は皆自分を遠巻きにしていたし、教会では、年の離れた男性はいたが同年代はいなかった。つまりアリアにとって、同年代の男性というのはほとんど未知の存在だったのだ。

 それが今日は、彼が靴の採寸をしてくれるという。どのくらい時間がかかるのかはわからないが、思いがけない状況にアリアの顔はこわばるばかりだった。

「そう緊張しなくても大丈夫ですよ、すぐに終わりますから。奥の方に椅子がありますから、案内しますね」

 彼はアリアの手を取り、彼女の足取りに合わせてゆっくりと椅子のある方へ案内した。アリアが椅子に座ったのを確認すると、エリックはにっこりと愛想の良い笑顔を浮かべ、

「それじゃ、道具を取ってきますね!」

 エリックの背を見つめながら、アリアはほっと溜め息を吐いた。人当たりがよく、紳士な好青年である。勝手に不安になって身構えてしまったのは良くなかった、とアリアは反省した。


 エリックは道具を持って戻ると、アリアの片足を手に取り、巻き尺を引き伸ばして丁寧に巻きつけた。

「そういえば、ツェルナーさんって、なんだか聞き覚えのあるお名前ですね。どこかでお会いしましたっけ」

 エリックの言葉に、アリアはきょとんとしたのち、ふふ、と微笑んだ。

「お会いしたことはないと思いますよ。エリスから話くらいは聞いているかもしれないけれど」

「いや、それもないです、僕、いまだに店番くらいしか任されないので、これが初仕事なんですよ。……あっ、もしかして、芸能人の方ですか?」

「ええと、芸能人、というほどではないですが……。ツァウベラー、ってご存知ですか?」

「ああ! 知ってます、街中で最近よく聴く……」

「そのメンバーで、その、一応、歌手をやっています」

「えっ」

 エリックの手が止まった。彼がまじまじと自分を見つめるので、アリアは少し気恥ずかしく思った。

「ああ、そうか、ツァウベラーのアリアさん……どうりで何かオーラがある気がしました」

「気を使わなくて大丈夫ですよ、私にオーラなんて……」

 そう言いながら、顔を伏せたアリアに、エリックは明るい声でこう言った。

「ありますよ。一目見た瞬間、目を奪われてしまいました。……あっ、変な意味ではなく!」

 アリアはその台詞を聞いて、お世辞とは思いつつも、なんだか心が浮き足立った。そんな存在感のある歌手になりたいと、何度願ったことだろうか。

「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」

「それならよかった、僕、余計なことを言ってしまいがちで。ごめんなさい、すぐに終わると言ったばかりなのに、無駄話ばかり。これだから俺は店番しかさせてもらえないんだ……」

 ぶつぶつと何か口にしている中に、彼の素が垣間見える。不意に親近感が湧いてきて、アリアは思い切って話を切り出した。

「いえ。話してくださった方が、気が紛れます。エリックさんは、ここで見習いをしているのですか?」

「うーん、見習いっていうんですかね。小さい頃からじいさんの側で作業を見てきて、見様見真似で靴を作ってみたりとかはしてたんですけど、あの人、ダメ出しはするけど教え下手で。見て覚えろっていうから必死になって技術を盗もうとして……あ、そういう意味では見て習ってましたね」

 文句を言いながらも、エリックの顔は穏やかだった。

「成り行きとはいえ、じいさんが初めて、お前が作れ、って言ったんですよ。まさか、こんな大物歌手の方の靴が初仕事になるとは思いませんでしたけど」

「エリックさん、お口がお上手ですね。そんな、大物なんかじゃないです、まだデビューしたてで、右も左もわからなくて……」

 語りながら、だんだんと声が小さくなっていく。唇を噛み締めたアリアに気づいて、エリックはふっと微笑んだ。

「僕で良ければ、話を聞きますよ。全く関係ない人の方が、話しやすいことってあると思いますし」

 エリックの言葉に、アリアは彼の目を見た。鳶色の瞳が、真っ直ぐ自分を捉えている。

「……では、少し聞いてくださいますか」

 そう言ってアリアは、昨日のことの顛末を簡単に話した。すると、エリックは苦笑して、「ちょっとその気持ち、わかるかもしれないです」と言った。

「俺にも、他の工房に、同世代のライバル的な靴職人見習いがいたんですけど。俺が足踏みしている間にどんどん先に進んでしまって、しまいにはもう自分の店を開いたとかで。自分は彼ほど努力できていたのかと悩んで、ちょっと迷走していた時期がありました」

 睡眠時間を削って靴の縫製をして大怪我したりとかね、と彼は頬を掻いた。

「でも、焦っても仕方ないんですよね。急がば回れってやつなんですよ、結局。そういう時こそ、基本に立ち返ってみたりとか、むしろ初心を思い出すことのほうが必要だったなって、俺は思います」

 あ、また俺って言っちまった、と口を慌てて塞ぐエリックに、ふふ、とアリアは我慢しきれず笑みを漏らした。

「ありがとうございます、初心、忘れかけていたかもしれないです。もう一度、自分と向き合ってみます」

「いえいえ、お役に立てたなら何よりです。それにしても、形は違っても、ものづくりにはこういう悩みが付きものなんですかね。まさかプロの歌手に俺のことを話す日が来るなんて」

「形は違えど、本質には似たところがあるのかもしれないですね。靴作りの話、面白かったです、もっと聞きたいくらい」

「本当? あ、いえ、本当ですか、それは良かった」

 どんどん言葉が崩れていくエリックに、たまらずアリアはこう言った。

「無理に丁寧な言葉を使おうとしなくて良いわ。ここまで語り合ったのだもの、私たち、もう友達でもいいんじゃないかしら」

 エリックは一瞬呆けたような顔をして、それからどこか安心したように息を吐いた。

「ありがとう。正直、話せば話すほどボロが出てきて参ってたんだ。短い会話ならなんとかなるんだけど、採寸は初めてだったし、アリアさん、なんだか親しみやすくて余計に」

「アリアで良いわよ、エリック。私も、初めて会ったと思えないくらい自然に話せてびっくりしてるわ」

「はは、そうだね、アリア。友達になったからには、また遊びにおいで。靴の受け取りは少し先になるから、様子見に来てくれてもいいよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 即答すると、エリックは晴れやかに笑った。


 採寸を終えて帰宅すると、アリアは久しぶりに作曲以外でピアノに触れた。弾いたのは、トイピアノを貰ってから何度も弾いていた、辿々しいメロディー。幼少期に自分で作った音楽だった。

「私の目標は、人を楽しませるだけじゃなくて、感動させる音楽を作って……それで、いつか、何処にいらっしゃるのかわからないお母様にまで、届くような歌手になること」

 そう呟いて、アリアはピアノから離れて、カミラのレッスンで取ったメモを読み返した。

「そして、そのために、他人の作品をよく研究して、自分の表現に取り入れる……思考を止めないこと……」

 はっと顔を上げて、アリアは急いでノートと万年筆を取り出す。そこに記しはじめたのは、昨日のイベントで他のアーティストを見て得た気づきや、自分の課題。そして、『変わるため』にどうすべきか。

 頭の中でぐるぐると悩んで落ち込んでいるだけではいけないのだと、アリアはようやく気が付いた。考え続けなければならない。歩みを止めないとは、そういうことなのだ。


 数日後、週末に控えた先日の演奏についての反省会の前に、アリアだけが事務所に呼び出された。ソロ活動の件だろうか、と思いながら中に入ると、バールが気難しい顔で何やら一人で呟いては右往左往していた。

「どうしたんですか?」

 アリアが不安げに尋ねると、バールは、

「ああ、ちょっとね、君個人への依頼が入ったんだけれど、これが……」

 アリアは首を傾げつつ、バールの手元の資料を覗き込み、その内容に思わず目を見開いた。

『ヘレナ・ティールとアリア・ツェルナー、話題の二人のコラボ楽曲制作について』

「映画とのタイアップの仕事だよ。なんでも、二人の歌声が作品のイメージとぴったりだから、君とヘレナのコラボ楽曲を使用したいらしい」

 アリアの脳裏によぎったのは、イベントの出演順が決まった時からずっと引き摺っていた『引き立て役』という言葉だった。ヘレナの歌声に、自分の歌声は並ぶことができるだろうか? ただの引き立て役になりはしないだろうか? あの日のヘレナの姿を思い出して、アリアはまた不安に駆られた。

 しかし、彼女とのコラボともなれば、自ずと話題になるはずだ。ソロ活動への足掛かりにもなる上に、ツァウベラーの知名度や人気をより高めていくきっかけにもできる。

 それにこれは、ヘレナのルーティーンや歌に対するスタンスを知ることのできる、なかなかない機会だろう。

「私、この仕事、受けます」

 アリアはバールを真っ直ぐに見据えて、真剣な面持ちでそう言った。それを見たバールは呆気にとられたように何度か瞬きをしてから、ゆっくりとその目を細めた。

「ああ、わかった。あの音楽祭の直後だから心配していたけれど、どうやら持ち直したみたいだね。

 そうと決まれば、承諾の連絡をして、相手方との面会の予定を決めておこうか。面会には僕も付いていくよ」

「ええ。よろしくお願いします」

 そう応えて、アリアはバールの持つ資料を改めて見せてもらった。


『対極的な二人の女の子が出会い、共に夢に向かって歩むという作品のイメージを汲み取った楽曲』

『二人の対極的な歌声が交じり合うことで生まれる化学変化』


 その『化学変化』という言葉に、アリアはコンテスト前、ツァウベラーの三人で曲作りを始めた頃のことを思い出した。『魔法』はこの三人だからこそできた曲であるし、二人に出会わなければ音を重ねあう喜びも知らないままだっただろう。

 ヘレナとの曲は、一体どんな変化をもたらしてくれるのだろう。この機会を逃してはならない、と直感が告げていた。この企画は、自分を大きく成長させてくれるに違いない、とも。

 期待に胸を膨らましつつも、アリアはかつてない闘志に燃えていた。

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