第二十五話 圧倒

 ヘレナの演目の時間が近くなり、三人は楽屋を出て、自分たちの席で彼女の歌を待っていた。

 自分の出番は終わったことだし、あとは残りの演目を楽しめばいいだけ。大丈夫よ、アリア、と心の中で言い聞かせても、不安が落ち着くことはない。舞台裏で見たヘレナの横顔が、脳裏から離れない。

「アリア、大丈夫? 体調が悪いの?」

 ニーナに尋ねられて、アリアは眉間に寄っていた皺を慌てて伸ばした。

「大丈夫よ。ちょっと疲れちゃっただけ」

「こんな大勢の前で演奏したのは初めてだものね。お疲れさま、アリア」

「ええ、そうね。ありがとう」

 どこか上の空でそう答えるアリアに、眉を顰めながらも、ニーナは追及せずステージに目をやった。

「そろそろ始まるかしら。楽しみね!」

「そうだね、ヘレナの曲はコンテストとレコードでしか聴いたことがないから、どんな曲を歌うのか興味があるな」

 アリアには、そう話し合う二人の声も頭に入ってはいなかった。ぼうっとステージを見つめ、胸の上で両手を重ねてぎゅっと握る。瞼を閉じて、呼吸を整える。

 なぜこんなにも苦しいのか、分からないまま、突如湧き上がった歓声に瞼を開けると、いつの間にかヘレナが舞台袖から中央に向かっていた。


 まるでランウェイを歩くように闊歩するヘレナは、その姿だけで人々の目を奪った。夜空のようなスパンコールの散りばめられた黒い膝丈のドレスの豊かなドレープが、揺れるたびきらきらと陽光を反射して、眩しく輝く。アリアはそれを見て、ファッションショーで見た堂々たるモデルたちの姿を思い出していた。ヘレナの纏う雰囲気は、あの時のひりひりとした緊張感とよく似ていた。

 やがて立ち止まると、ヘレナはすう、と大きく息を吸って、第一声を発する。

 空を切り裂くようなその歌声に、アリアはびくりと身体を震わせた。コンテストで聴いた曲と全く同じなのに、あの時は感じなかった畏怖が全身を支配する。

 これは、何? アリアは無意識のうちに、ヘレナの歌声を一音も聴き逃すまいと舞台上に全神経を持っていかれる。この異質感は、アレンジの違いなどとは関係ない、と直感でわかった。そこに立って歌うヘレナが、アリアの知っていたものとは全く別物になっているのだ。

『あのコンテストで、彼女はまたひとつ殻を破った……いいえ、あれは化けたと言った方がいいかしら』

 カミラがいつか口にした、『化けた』という言葉を思い出す。そして、アリアはようやく、自分の感じている恐れの正体に気が付いた。

 圧倒的な差と、敗北感。彼女の歌には、プロの歌手としてやっていく覚悟が、この『進め』という曲の節々まで込められていて、歌詞と共鳴してより強く感情に訴えかけられる。ひとときの瞬きさえ許されない気がするほど、惹き込まれてしまう。


 全ての魂を注ぎ込んだような歌が終わり、次に流れ出したのは、打って変わって、アップテンポでポップな前奏だった。ドラムの軽快なリズムに、ピアノの可愛らしいリード。ヘレナの真剣な雰囲気は一転し、口元に不敵な笑みが浮かぶ。

『ねえ 私のことだけ見ていて

 後悔することになっても知らないわよ

 世界で一番あなたのことを幸せにできる

 あなただってわかるでしょ?』

 語気は強いけれど、可愛らしいラブソング。アリアは唖然とした。こんなに可愛らしい曲を、しかもヘレナの強気なイメージを崩さずに取り入れるだなんて。真に幅を見せるとは、きっとこういうことなのだろう。流行りであるジャズなどの大衆音楽のさらに先を行くような前衛的なメロディは、妙に耳に残って離れない。

 ヘレナはかわい子ぶるわけでもなく、あくまでも彼女らしくこの曲を歌いこなす。不敵な笑みは崩さず、ステージ上を右往左往しながら、観客に手を伸ばしたり、ウィンクを投げたり、アリアでさえときめいてしまうような小悪魔的な魅力がたっぷりと詰まっていた。

 まるで、彼女は自分の魅せ方を完璧に分かっているかのようだった。ヘレナは最後まで自信満々にパフォーマンスを終えた。


 二曲目が終わって、初めてヘレナは話し始めた。

「こんにちは、今日は私の歌を聴きに来てくれてありがとう。もちろん、楽しんでるでしょう?」

 熱狂的な歓声に応えられて、満足げにヘレナは頷いた。

「一曲目は私のデビュー曲『進め』、二曲目は新曲『世界一の私』でした。そして、最後の曲も今日のために用意した新曲です。それでは、聴いてください、『きらめき』」

 ヘレナが曲名を口にして、四カウントの静寂ののち、勢いよくドラムが叩かれて、ピアノの華やかな旋律が散りばめられた星のように輝く。心地よく重なるコントラバスの低音。夜が明けて太陽が昇るような、だんだんと差し込む光を彷彿とさせた。

『明けていく朝が私を連れ出してくれる

 とびきりお洒落をして出掛けましょう

 太陽にさえ負けないくらい

 心から輝けるように』

 まるで歌劇のヒロインの登場曲のようだった。これから物語が始まるのだと感じさせるような軽やかな伴奏に乗せて、やがて始まる出来事への期待感に胸を膨らますように、楽しそうに歌う。

 そこから、少し雰囲気の変わったメロディと、自身の置かれた逆境に触れる歌詞。しかしそれも決して重たくはなく、力強く突き進んでいくように、サビへと繋がっていく。

 ピアノのグリッサンドで変化する世界。そして、曲の盛り上がりは最高潮に達する。

『一度きりの人生だから

 きらめきながら生きていたいわ

 過ぎ去っていく時間のなかで

 きらめきだけを見つめていくの』

 夢見がちな歌詞の中にも、意志の強さがはっきりと滲み出ている。それは、ヘレナのこれからの生き様を表す決意のようだった。


 曲が終わってからしばらく、アリアは拍手もせずに呆然と舞台を見つめていた。

「みんな、ありがとう。また会いましょう」

 手を振って去っていくヘレナの姿を見て、我に返ったように慌ててアリアは拍手をする。しかし気持ちは、放心しきったままだった。


 ヘレナが去ってから、アリアは一言も発することができなかった。そして、それは隣の二人も同じだったらしく、呆然と舞台上を見つめたまま、沈黙を保っていた。

 ヘレナの演奏について、興奮のままに賞賛する声があちこちから聞こえてくる。アリアはそれを聞くたび、自分の至らなさに窒息しそうだった。

 全力を尽くして歌ったはずだった。あれが自分の最大限だと自信を持って言えるし、努力も怠ってはいない。でも、足りなかった。自分がプロとしてやっていけるか不安に思っているときに、ヘレナはもう、覚悟を決めて突き進んでいたのだ。

 舞台裏で見たヘレナの横顔を思い出す。あれほどまでの強い存在感は、自分にはないものだ。他のアーティストたちだって強いオーラがあったし、ニーナもユウトも、プロデビューが決まってから、今までになく著しい成長を遂げた。未だ自分だけが、迷い込んだ素人のようだとさえ、アリアは思った。


 その後、他のアーティストの出番も終わり、トリを飾るブルーノの演奏が始まっても、その音楽はアリアの耳を掠めて流れていくのみだった。大衆を巻き込むグルーヴも、湧き上がる歓声も、どこか遠い世界のもののようだった。

 こんなに良い音楽を聴く機会を逃すなんて、勿体ない、とアリアは必死に自分を囚える思考を振り払って、食い入るように舞台を見つめた。しかし、楽しげなリズムも、明朗な歌声も、アリアの心を晴らしてはくれない。ただ、圧倒的な隔たりが形になって現れるように、時に緻密で時に奔放な音楽が、自分との差を突きつけてくる。

 私には、足りない。こんな風に、この一瞬だけの、心を震わせる体験をさせられるような歌は歌えない。

 ただ気持ちを込めるだけじゃ、楽しませようとするだけじゃ。じゃあ、何をすれば、私は本当の意味で、プロになれるだろう?

 考えているうちに、ブルーノの歌が終わった。席を立って、最後に舞台上での出演者全員の紹介に参加する。ツァウベラーの名を呼ばれて、手を振る。今の自分が上手く笑えているかどうか、アリアには自信がなかった。


 全てが終わって、舞台袖に戻っても、三人は一言も会話することがなかった。他の出演者たちからの「お疲れさまです」を上の空で返しながら、その他には何も言葉を発することのないまま、楽屋の前まで戻ってくると、バールが待っていた。

「改めてお疲れさま。デビューして最初の舞台として、期待以上だったよ。今日はゆっくり休んで……」

 重々しい三人の雰囲気に困り果てながらもそう声を掛けたバールを遮ったのは、ニーナの悲鳴のような声だった。

「全然ダメだった。期待未満、いいえ、それよりもっと惨めだわ。

 私のせいよ。ユウトの意見に反発してばっかりで練習を妨げて、技術も二人より未熟で、私がいなかったら、もっと良かったはずだわ」

「ふざけるなよ、ニーナ。ニーナのせいじゃない。僕の責任だ、だって、僕は慢心してたんだ、自分の実力を過信して、意見を二人に押し付けて、編曲だってもっと上手くできたはずだった」

 怒気の篭った激しい声でそう口走ったユウトの肩を、ニーナは強く掴んで何度も揺さぶった。

「そんなことユウトはしてないわよ! 私のせいだってはっきり言いなさいよ、私の実力不足は、ユウトが一番知ってるくせに!」

「ちょ、ちょっと、落ち着いて。焦る気持ちはわかるけれど、三人とも良かったよ、相手が悪かったんだ」

 必死で間に入って止めようとするバールの努力も虚しく、それからも二人は激しく自分のせいだと主張し続け、ついには取っ組み合いにまで発展しそうになったとき、ずっと黙り込んでいたアリアが突然、顔を覆って啜り泣き出した。

「ちょ、アリア、どうしたのよ!」

「ごめん、アリア、アリアが一番ショックだったのに。やっぱり僕が……」

「だから、ユウトのせいじゃないわよ!」

「ニーナのせいでもないよ!」

 アリアはおもむろに顔を上げて、弱々しく呟いた。

「二人とも悪くないわ。私のせいよ。ヘレナを見た時、はっきり分かったの。

 ……格の違いを、見せつけられた気持ちだった。私は、あんなに自信を持って、堂々と歌えなかった。お客さんを楽しませようって気持ちは強くあったけれど、それだけじゃ、足りなかった。ヘレナや他の出演者たちは、ステージに立った時、鳥肌が立つような存在感や、カリスマ的な輝きがあったけれど、私は、違った」

「そんなこと……アリアだって、魅力的な歌手だわ」

「そうだよ。そうじゃなきゃ、僕らは一緒にデビューしようなんて思ってないよ」

 二人の言葉に、アリアは鼻を啜りながら、かぶりを振った。

「そうじゃないわ。そうじゃないの。それだけじゃ、プロとして生き残ってはいけないの。

 二人の演奏も、セットリストも、編曲も、ヘレナと比べたって何も劣っていなかったわ。ただ、私が、私の歌だけが、まだアマチュアのままだった」

 私の歌だけ、私の歌だけ……と繰り返し呟きながら、涙を零し続けるアリアに、誰もが掛ける言葉を失ってしまった。


 しばらくしてアリアは涙を拭って立ち上がり、黙々と楽屋の片付けを始めた。気を抜くと溢れそうになる涙を必死に堪えながら、なんとか心を落ち着かせようとするも、沈んでいくばかりだった。

「ねえ、アリア。やっぱり、アリアだけの責任じゃないわよ。三人でやってるんだから」

 ニーナに声を掛けられて、アリアは無理に口角を上げようとしたものの、上手く笑顔を作ることができなかった。

「ありがとう、ニーナ」

 アリアには、そう答えることしかできなかった。


 イベント会場からの撤収作業も終わり、ようやくツヴェルクの家に戻ってきたアリアは、そそくさと自室に向かった。荷物を置いて顔を上げると、ふと姿見に映った自分と目が合う。

 泣き跡がまだ残っていて、白い睫毛を隠すための染料も取れかかっている。アリアは慌てて鞄の中からマスカラを取り出し、上から塗り直した。そうなると髪の方も気になってしまって、彼女はクロゼットにある大きな箱から髪染め用の染料も取り出そうとする。

「……あと少ししか残ってない」

 大量に買い込んでいたはずの染料は、いつの間にかあと数箱になっていた。買い足さなければいけない。でも、名前が売れてしまった今、堂々と髪染めを買いには行けない……。

 アリアは真っ青になった。これがなければ、私はこの街でやっていけないのに。そもそもが間違いだったのだろうか? 髪を染めて自分を偽っていること、それなのにプロの歌手を目指したこと……。

 そうとは思いたくない。それでも、不相応だったのではないか、という考えがこびり付いて離れない。アリアは頭を抱えて蹲った。幼い頃に浴びた罵倒や嘲笑、暴力に嫌がらせが走馬灯のように駆け巡って、呼吸が浅くなる。

 こんなに追い詰められたのは、初めてだった。あの頃は孤児院のみんながいたけれど、今は離れ離れだ。唯一そばにいる理解者のエリスも、来年には学校に通うために離れてしまう。いつか誰にも頼れなくなる。それなのに、このままでいいはずがない。

 変わらなくてはいけない。でも、どうやって?

 分からないまま、アリアはじっと自分の中の嵐が去るのを待っていた。

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