第二十三話 プロのステージ
アリアたちがステージ裏に仮設された楽屋に向かうと、そこにはすでに何人かの出演者がいた。
「あら、ツァウベラーの皆さん、おはようございます。同じ事務所になれて嬉しいわ、今日はよろしくお願いしますね」
最初にそう声を掛けてきたのは、同じ事務所の歌手であるメリッサ・コーネインだった。落ち着いた大人の魅力があるその優美な仕草には、大物歌手たるオーラが感じられる。
「まあ、メリッサさん! お会いできて光栄です、今日はよろしくお願いします」
アリアが興奮気味にメリッサの手を取ると、ユウトとニーナも「よろしくお願いします」、とぺこりとお辞儀した。
「そういえば、私の曲をカバーしてくださるんですってね! あなたたちみたいな若い子たちに、私の昔の歌を歌ってもらえるなんて嬉しいわ。私の曲を選んでくれて、どうもありがとう」
「いえいえ、こちらこそ、ご許可をいただきありがとうございます。ご本人の前で歌うのは緊張しますけれど、良い演奏を届けられるよう頑張ります」
実は、アリアたちが今回のカバー曲として選んだのは、数年前に大ブームを起こし、今では国民的なウィンター・ソングとして知られるメリッサの楽曲だった。
ニーナとユウトが楽譜を持っていたのと、アリアも練習で歌ったことがあったので、せっかくならと相談したところ、メリッサ側も快諾してくれたのである。
『新曲と雰囲気が被ってしまってセットリストに入れられなかった曲だったため、あなたたちがやってくれるのはむしろありがたい』、とのことだった。
「うふふ、期待して楽しみにしているわ!」
紅い唇に楽しげな笑みを浮かべてメリッサが去ると、何処からともなくこちらに誰かが近付いて来た。
「ああ、ツァウベラーの三人だね? 今日はよろしくね。僕はフリューゲルのクリストフだよ」
次に手を差し伸べてきたのは、今流行りの五人組バンドのボーカリストだった。
「まあ、ご存じいただいて光栄ですわ。こちらこそ、よろしくお願いします」
アリアが彼の手を取ると、クリストフはにっこりと人のいい笑顔を浮かべた。
「僕らはこのイベントに去年も呼んでもらっているんだ。わからないことがあれば気軽に声を掛けてね」
ありがとうございます、と三人で礼を言い、クリストフが去ると、視界の端の方に、ヘレナが到着したらしいのが見えた。
ちらりと目線を向けると、ヘレナは不敵な笑みを浮かべる。隣の二人はむっと顔を顰めたが、アリアはぼんやりと、表情がどこかカミラに似ているな、などと考えていた。
コンテストでも、所属する事務所同士でも、ライバルではあるものの、だからといって敵対関係だとはアリアは考えていなかった。むしろ、同世代で同じ歌手の友人のいないアリアは、なにか彼女と仲良くなれるきっかけがあれば、とさえ思っていた。
しかし、他の出演者との挨拶をしているうちに時間が過ぎてしまい、とうとう会話もできないままにリハーサルが始まった。
リハーサルといっても、主に進行の確認と、立ち位置や音響、照明などの確認をするためのものだったので、一時間半程度で全体の確認は終わり、そこから開演時間まで各自の準備時間となった。
楽屋には簡易的な暖房器具があるものの、先ほど付けたばかりでまだ暖かくはなく、アリアのルーティンである声出しをしようにも、喉が冷え切ってしまっていて思うように声が出せない。彼女は困ったように眉を下げた。
「冬に野外ステージは、やっぱりちょっと厳しいわね」
アリアがぽつりと言うと、ニーナがサックスから目を離して振り向いた。
「そうよね、こんなに寒いと、手が悴んで上手く演奏できるか心配だわ」
「前みたいなドレスとかタキシードじゃなくて、温かい衣装みたいで助かったけどね。それでも寒いものは寒いな」
ユウトは手のひらを開いたり閉じたりしながら、ぶるっと大きく身震いした。
今回は分厚めの生地を使用した冬仕様の衣装が用意されていたが、それでも舞台衣装らしい煌びやかさを損なわないように、普段着よりは遥かに薄手のものなので、真冬の寒さの中ではやはり厳しそうに思える。
「でも、雪が降らなくて良かったわね。よく晴れていて、陽射しは暖かいわ」
アリアが明るくそう言うと、たしかに、と二人も頷いた。
「出番までにはここも暖かくなるだろうし、ステージも日向だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
側でリーフレットを捲って確認をしていたバールが口を挟むと、アリアたちはほっと胸を撫で下ろした。
「それなら、演奏に集中できるわね!」
「そうだね。よし、そうと分かれば、最後の練習に集中しよう! まずは『魔法』の合わせから、二人とも、もうできる?」
ユウトの呼び掛けに、二人は同時に頷いた。
「もちろん!」
そうして最後の合わせをしていると、あっという間に開場時間になり、会場は音楽を聴きにきた人々で賑わいを見せていた。
いつの間にやら屋台なども出ており、アリアたちは野菜がたっぷりと入った熱々のスープを買って、楽屋の方へとまた戻ろうとしていた。すると、楽屋の周辺でそわそわと歩き回る人影を見つけて、アリアはあっと声を上げた。
「エリス! エリスじゃない!」
アリアが興奮のままに呼び掛ければ、エリスはこちらに気づき、安心したように息を吐いた。
「ああ、アリア! せっかく来たのに、会えないかと思ったわ。良かった。楽屋まで来たのに、誰に聞いても、あなたがどこにいるのかわからないんだもの」
「聴きに来てくれたのね! 嬉しいわ。でも、ここまでよく入れたわね。関係者以外立ち入り禁止じゃないの?」
「そうみたいだけれど、どうしてもってお願いしたら、通してもらえたわ」
案外緩いのね、と呑気に言うエリスに、アリアは苦笑した。そして、ふと紹介がまだだったことを思い出して、ニーナとユウトの方に目を向けた。
「ええと、彼女がエリスよ」
「うん、話を聞いていたからわかるよ。初めまして、僕はユウトです」
「私はニーナよ! あなたが噂のエリスさんだったのね」
ユウトはぺこりとお辞儀して、ニーナはエリスの手を取り、ぶんぶんと縦に振った。
「初めまして、ユウトさんと、ニーナさん。いつもアリアがお世話になっています」
にこやかに応えたエリスに、アリアは頬を膨らませた。
「もう、保護者みたいなこと言わないでよ、エリス」
「あら、だって、アリアは私の妹みたいなものでしょう?」
「もう子供じゃないのよ。だいたい、二つしか違わないじゃない」
二人のやり取りを、ニーナとユウトがニヤニヤと眺めているのを見留めて、アリアは顔を顰めた。
「ちょっと、何笑ってるのよ、二人とも!」
「いやあ、本当に姉妹みたいだと思ってさ」
「アリアがこんなに子供っぽいの、なんだか新鮮だわ!」
面白がる二人に、アリアはさらに眉間に皺を寄せた。
「子供っぽくないわよ!」
すると、エリスもくすくすと笑い出して、まあまあ、とアリアの肩に手を乗せた。
「言い返すと余計に子供っぽいわよ。はい、これでご機嫌直してちょうだい」
エリスがそう言って差し出した紙袋を見て、アリアは驚きの声を上げた。
「これ、最近できたばっかりのお菓子屋さんの!」
「そう、人気ナンバーワンの焼き菓子よ。三人で分けてね」
「わあ、ありがとうございます!」
「まあ、素敵だわ! ありがとう!」
ユウトとニーナが紙袋を覗き込んで、顔を綻ばせる。アリアも、エリスの目を見て、口を開いた。
「ありがとう、エリス! 絶対にいいパフォーマンスをするから、楽しみにしていてね」
「ええ! 応援しているわ」
それじゃあ、と手を振って、エリスは楽屋を去っていった。
エリスと会っている間に、買ったスープがちょうど良い温度になっていた。アリアたちはそれを飲んで、焼き菓子を頬張ってから、ステージ前の関係者席に座り、開演を待ち侘びていた。
オープニングパフォーマンスは、同じ事務所のメリッサ・コーネインと、ベテラン歌手のブルーノ・フィンガーのデュエットから始まるらしい。著名な歌手のコラボに、アリアは胸を躍らせながら、そわそわと時間が経つのを待っていた。
しばらくすると、ブルーノがメリッサの手を取り、エスコートしながら二人が登場した。会場が歓声に沸く。アリアも声を上げずにはいられなかった。
二人の存在感は、遠目に見ても圧倒的だった。メリッサの厚手のファーの上着の下には、晴れた空の下でよく映える、細かなスパンコールが散りばめられたゴールドのドレスを着ている。そして、ブルーノは、燕尾服のようなシックなデザインの、紳士的な衣装を纏っていて、それがメリッサの佇まいを引き立てていた。
ぱっと眩しく照明が当たり、ピアノ伴奏者がポロン、と和音を鳴らす。そして、小気味良いリズムの音楽が始まった。
ピアノのみのシンプルな伴奏であるにもかかわらず、二人のパフォーマンスには息をするのを忘れるほどの迫力があった。メリッサのアルトボイスと、ブルーノのテナーボイスの絶妙なハーモニーが心地良い。二人がいるのが野外ステージで、自分たちがいるのが観覧席であることも忘れて、まるで違う世界に入り込むような錯覚さえ感じた。
演奏はあっという間に終わり、喝采が起こって、ようやくアリアは現実に引き戻された。素晴らしい演奏だった、と感動すると同時に、アリアはまた、一抹の不安を覚えた。
このレベルが、プロの歌手であり、プロの音楽家なのだ。果たして、自分たちはそれに並べるほどの存在感を示せるだろうか?
アリアが顔を曇らせているうちに、長く続いた喝采は終わり、マイクを持ったメリッサが口を開いた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。どうぞ、心ゆくまでお楽しみくださいませ」
「レディース・アンド・ジェントルメン、全員楽しめるようなパフォーマンスを披露していくから、楽しみにしていてくれよ!」
ブルーノが続いて声を上げると、また会場は喝采に包まれる。その最中に、ブルーノが片手を上げて軽く振り、ステージを後にして、そのままメリッサのプログラムが始まった。
メリッサのセットリストは、アリアが以前カミラから渡されたレコードの中から選んだ曲でもある『心に咲く花よ』と、次に切ない恋を歌ったバラード曲が一つと、最後に壮大な自然と人生を歌ったミドルテンポの新曲が一つだった。
どの曲も完成度が高いだけではなく、世界観に惹き込まれるような臨場感があり、つい感情移入してしまう。身体に心地よく響くビブラート、そしてまるで自分に語りかけられているかのような落ち着いた柔らかな歌声。
特に、最後の曲に込められたメッセージに、アリアは感動して瞳を潤ませてしまった。
『永い永い旅路の中で 孤独に彷徨い歩くけれど
どんな悲しみも苦しみもすべて あなたを導くしるべになる』
初めて聴く曲ではなかったが、アリアはこの曲の中に改めて、深く沁み入るものを見つけたのだった。
メリッサの歌が終わると、次はバンドのフリューゲルの出番だった。
五人が舞台に登場すると、熱狂的なファンがいるのか、一部から大きな歓声と、クリストフの名前を呼ぶ声があり、クリストフはそれに大きく手を振って応えた。
「やあ、みんな! 僕らフリューゲルの演奏を楽しみにしてくれてありがとう!」
その言葉に、会場が大きく沸き立つ。それこそメリッサとブルーノのデュエットの時と遜色ないほどの盛り上がりに、アリアはそれに驚いてしまった。ここまで会場を沸き立たせるバンドの生演奏は、一体どんなものなのだろう。
ドラムがリズムを取り、ピアノがイントロラインを奏ではじめる。そしてその上にアコースティックギターとウッドベースが重なり、分厚い音が身体全体を震わせる。
この曲は、アリアも聴いたことのある『世界』という曲だった。しかし、音源で聴いたよりも胸に迫るものがあり、細やかなアレンジも効いている。
そしてクリストフが歌い出すと、会場内でわあっと声が上がった。わかりやすく、親しみを感じる歌詞と、耳触りのいい、男性にしては高めの歌声。その声がまた、バンドの伴奏と調和して、ひとつの世界を作り上げていた。
最後にはドラムソロが入り、アリアは思わず身体を揺らしながらそれを聴いていた。
「ドラム、いいね。乗れる感じだ」
ユウトが感心したように呟く。ニーナはといえば、完全に曲の世界に入り込んで、目をきらきらさせながら手拍子していた。
二曲目、三曲目と進むにつれて、さらに盛り上がっていくようなセットリスト。楽しく聴きながらもアリアは、またもやもやと不安を覚えた。
こんなにも素晴らしい演奏の次に、自分たちの出番が来る。そのことを考えると、どうしても気持ちを落ち着けることができなかった。
アリアはまだ、プロの歌手としての自信を持ってはいなかった。練習はずっと頑張ってきたものの、ベルネットに出会い、プロになるために本格的にトレーニングを始めてからまだ二年も経っていない。自分には歌しかない、歌で生きていきたい、と思っているし、賞も獲れたにもかかわらず、相応の力が身に付いている実感は未だなかったのだ。
ニーナもユウトも、着々と実力を伸ばしている。私はそれに見合った力を、身に付けられているのだろうか?
不安が消えないまま、フリューゲルの演奏は終わってしまった。自分たちの出番の準備を始めるため、動き出したその時、不意に背後から、「ねぇ」と躊躇いがちに声をかけられた。
その特徴的な耳に残る声を、アリアが間違えるはずもなかった。アリアは振り返って、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔で彼女を見た。
「えっ、ヘレナさん? どうしたんですか」
「……その。えっと……、わ、私の出番の前に、酷い演奏しないでよね」
「はあ? 何よ、喧嘩売ってるの?」
ニーナが前のめりになって睨みつけるのを、アリアが無言で制する。ヘレナは指先で髪を弄りながら、もごもごとまだ何か言おうとしていた。
「えっと、その、だから……た、楽しみにしてる、ってこと! じゃあね!」
ヘレナが早口でそう言って立ち去っていく。顔を真っ赤に染めているのが見えて、アリアは思わずふふ、と笑った。
「やっぱり、仲良くなれそうだわ。いい子じゃない」
「……喧嘩売りにきたんじゃなかったのね?」
呆然とするニーナの肩を、ユウトが軽くぽんと叩いた。
「まあ、喧嘩売りにくるなら、もっと堂々としてるだろうね」
たしかに悪いやつではないかもね、とユウトが頷く。ニーナはまだ腑に落ちない様子だったものの、何を思ったのか、唐突に拳を突き上げた。
「とりあえず、認められてるってことね! 私たちも演奏で盛り上げるわよ」
「もちろん!」
アリアとユウトは声を揃えて応えた。
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