第二十話 それぞれの道
「はあ? 何でそうなるのさ、どういうことだよ、ニーナ」
「どうしてそんな……」
ユウトは勢いよく椅子から立ち上がり声を荒げ、アリアは血の気のひいた顔を両手で覆う。慌ててニーナは手を左右に振った。
「ああっ、違うの、別にツァウベラーを抜けたいとかじゃないわ! ただ、今のままじゃ、私は足手まといになるから」
「足手まといだなんて、ニーナ、私たちがそんなことを思うわけないじゃない」
「そうだよ、いつも僕らを引っ張ってくれるのはニーナだろ」
ニーナはかぶりを振った。
「二人がそう思わなくても、それが客観的事実だわ。……私は二人と違って、まともに音楽教育を受けてない。広場のみんなに時々教えてもらってはいたけれど、それは楽器の扱い方程度で、私は長い間テンポの取り方も分からずに演奏してたでしょ」
「でも、ニーナはこの半年、ずっと頑張ってきたじゃないか」
ユウトの言葉に何も応えず、ニーナは息を吐いた。
「コンテストで、同じサックス奏者のマルクの演奏に、頭を殴られるような心地がした。マルクの演奏は、音のひとつひとつ、装飾の細かな部分まで丁寧なこだわりがあって、マルクだけの世界観があった。私の演奏がどれほど稚拙なのか思い知らされたわ。
今のままじゃ、だめなの。私は自分の演奏に自信を持って堂々と二人の隣に立ちたい。だから、音楽の大学に行きたいの」
「……え?」
ニーナの口から出た単語に、二人は顔を見合わせて、それから同時に力んでいた肩を落とした。
「なんだ、そういうこと? つまり、ツァウベラーで活動できなくなるのは、受験があるから?」
呆れたように尋ねたユウトに、先程まで黙っていたカミラが答えた。
「そういうことで、ニーナには私の紹介で講師を付けたわ。来年の音大受験のためにみっちり扱いてくれるはずよ」
にんまりと意地の悪い笑みを浮かべるカミラ。慌てる私たちを面白がっていたのだな、この人は、と、アリアは胸を撫で下ろしながら頭の片隅で思った。
「全く、心配して損した。そうならそうと、先にはっきり言ってくれたらいいのに」
「私だって言おうとしてたわよ」
ユウトとニーナがまた軽口を叩き合うのを、まあまあ、とアリアが宥める。
「とにかく、応援してるわ、ニーナ」
「ありがとう、アリア!」
微笑み合う二人。和やかな雰囲気になったとき、カミラが咳払いをした。
「お取り込み中のところだけれど、時間も勿体ないからコンテストの反省をしましょう」
カミラの一声で、三人は背筋を伸ばした。
「お祝いモードも終わった頃だと思うから言うけれど、審査員特別賞は、最優秀賞とは注目度も違うし、今の実力を評価されたというよりは、今後の進化に期待されているという奨励賞。暗に伸びしろがたっぷりと言われているようなものね」
カミラは溜め息を吐いた。
「五年前の審査員特別賞のソロ歌手、オットマー・エステンは、最初の曲のレコードが最優秀賞のエルヴィーラとほとんど同時に出たものだから、彼女の話題に霞んでしまった。最近もあまり芳しくないようね。
彼の例から分かる通り、ここから一流に並んでいくのは、相当難しいものよ。でも、あなたたちは、実力だけでいえばヘレナに引けを取らないし、成り上がっていけるだけのポテンシャルはある。しっかり反省して、次に繋げなさい」
「あの、カミラさん。実力だけでいえば、とおっしゃいましたが、私たちに足りなかったのは、実力でないなら何なのでしょう」
アリアの質問に、カミラは左手を顎に当てて、少し考え込んだ。
「あの結果は、ヘレナが本番で予想を超えてきたから、としか言いようがないわね。あのコンテストで、彼女はまたひとつ殻を破った……いいえ、あれは化けたと言った方がいいかしら」
「化けた、ですか」
アリアは首を傾げた。化ける、とは一体、どういうことなのだろう。
カミラはそれ以上言及するつもりはないようだった。可動式の黒板を近くに持ってくると、チョークで何やら記し始めた。
「ここに書いていくから、気付いたことを一つずつ話し合っていきましょう」
結局、話し合いは日が沈むまで続き、ようやく終えて帰路についたアリアは、歩きながら小さく身震いをした。
「日が沈むのもずいぶん早くなったわね。もうそろそろ、マフラーを買ってもいいかも」
今度トラウム・シュナイダーに買いにいこう、と考えて、またエリスのことを思い出して落ち込む。
私には、わからない。わからないけれど、側にいたいと思う。支えになりたい。だって、ずっと私を支えてくれた家族なのだから。
「……何がなんでも、明日はエリスのところに行こう。ちゃんと話さないと」
アリアは夜空を見上げる。空にはもう、ちかちかと星が瞬き始めていた。
翌朝、いつものようにアリアがミサに行く支度をしていると、部屋のドアがノックされた。
「ツェルナーさん、お客さんだよ」
「はい、今行きます」
こんな時間に誰だろう、と玄関に向かうと、そこには思わぬ人物が立っていた。
「エリス! どうしたの、突然」
「……謝りたくて、来たの。一昨日はごめんなさい。本当は昨日謝りに来るべきだった」
深々と頭を下げるエリスに、アリアは慌てた。
「そんな、いいから顔を上げてちょうだい。部屋で話を聞くわ」
ありがとう、とエリスが顔を上げる。何かを決心したような、真剣な面持ちだった。
「まず、ファションショーに来てくれて、ありがとう。そして、あんなひどいことを口走ってしまって、ごめんなさい」
アリアの部屋に入り、椅子に座ると、エリスは謝罪を繰り返した。
「怒ってはないけれど、やっぱり少し傷付いたわ。私にはわからない、って、どういうこと?」
紅茶を準備しながら、思い切ってアリアがそう尋ねると、エリスは俯いた。
「……ショーが終わってすぐは、純粋に悔しかったわ。なんでこんなに頑張ったのに、報われないんだろうって。
でも、あの時、涙を拭いてアリアの顔を見た瞬間、私、突然心がぐちゃぐちゃになってしまったの。成功しているあなたが羨ましくて、妬ましくて、自分がひどく惨めに感じられた」
一息に語って、エリスは顔を上げ、苦しげに眉をきゅっと寄せた。
「私には、お金もつても才能もないけれど、アリアには、パトロンがいて、良い先生がいて、何よりそれに相応しい才能がある。そんなあなたには、きっと凡人の私の気持ちなんて分からないんだと思ってしまったの。アリアがずっと髪のことで苦しんできたのを、小さい頃から側で見てきたのに、嫉妬するなんて最低よね」
アリアは紅茶のポットを置いて、ぎこちなくエリスを抱きしめた。
「そんなことないわ、誰だって嫉妬はするものよ。話してくれてありがとう、エリス」
エリスはぼろぼろと泣き出した。アリアはハンカチでその涙を優しく拭いながら、微かに胸の痛みを感じていた。
カミラの指導を初めて受けた時には挫折感があったし、三人のセッションがなかなか上手くいかないこともあったけれど、それでも最終的には努力が報われてきた。髪の悩みは、ずいぶん苦しんだけれど、結局は自分の努力ではどうにもならないもので、だから、私にはわからない、という言葉は、ある意味正しかったのだろう。
アリアがそう思ったとき、エリスは涙を拭いながら、彼女の顔を真っ直ぐに見た。
「アリア、私、決めたことがあるの。聞いてくれないかしら」
もちろん、とアリアが応えると、エリスは微笑んだ。
「私ね、奨学金を借りて、来年の九月から服飾の学校に行くことにしたの」
「えっ、そうなの?」
ええ、と頷いて、エリスは放って置かれていたポットを手に、カップに紅茶を注いだ。
「今までは、奨学金で学費は払えても、生活費までは賄えないと思っていたのだけど、この二年でだいぶ貯金ができたし、なんとかなりそうだから。仕立て屋の店長に相談したら、学校に行った方がいいって言われてね」
エリスは紅茶のカップをアリアに一つ手渡してから、自分の紅茶を啜った。
「やりたい気持ちがあるなら、まだ諦めなくていい。学校に進めば、少なくとも今よりあなたのやりたいことに近い職に就けるだろうし、人生は長いのだから、辞めたくなるまで生涯をかけて夢に挑んでいけばよい。辞めたとしても、あなたが積み重ねたものは、絶対にどこかであなたの味方になってくれる。……店長は、そう言って私の背中を押してくれたわ」
エリスは晴れやかにそう語った。
「店長さん、とっても素敵な方ね。
いつまでだって応援しているわ、エリス」
「ありがとう。アリアならそう言ってくれると思ったわ。
私も、あんなこと言っちゃったけど、本当はずっと応援しているし、活躍を楽しみにしているわ。次のステージは、きっと見に行くから」
「ええ、必ずね。エリス、何だかんだ、今の私の歌、聞きに来てくれたことないじゃない」
不満げに漏らしたアリアに、エリスはむっと顔を顰めた。
「そんなことないわよ、ストリートのライブは聞きに行ったわ」
「あれ、そうだったかしら」
アリアには覚えがない。第一、来てくれたのなら、ニーナとユウトを紹介した記憶があるはずなのだが。
「……仕事の帰りに通りかかって少し聞いたわよ」
「それは聞きに来たとは言わないわ!」
呆れ気味にアリアが突っ込むと、エリスはばつが悪そうに苦笑した。
「でも、その一瞬でもよく分かったわ、あなたの歌、私、やっぱり好きよ」
その言葉を聞いて、にわかにアリアは、初めて孤児院に来た日のことを思い出した。
幼少の頃のことで、他のことは曖昧にしか覚えていない中、印象に残っていたエリスの微笑み。人生で初めて、自分の歌を好きと言ってもらえた瞬間のことを、アリアは今でも大切に覚えていた。
「……ありがとう、エリス」
アリアは頬を染めて、花を抱えるように柔らかい笑顔を浮かべた。
そうして二人は、ミサの時間まで互いの将来について語り合った後、そのまま共に教会に行ったのだった。
その二日後、ツァウベラーの三人はアイファー・レコードの事務所に来ていた。
「ここが、アイファー・レコード……」
アリアは息を呑んだ。緊張で震えてしまう手を、強く握り締める。
さすが大手の事務所とあって、大きな建物の立ち並ぶ通りの中でもひときわ存在感のある、近代的でまだ新しい、かなり大きなビルだ。しかもどうやら、このビル全体がアイファー・レコードの所有らしい。
「スカウトしてきたのはあちらだもの。気負うことないわよ」
ニーナがアリアの左手をそっと包んで、にこりとした。それを見て、ユウトは大袈裟な溜め息を吐く。
「それはそうだけどさ。僕ら、なかなか条件厳しいと思うよ? どこかの誰かは一年しかできないとか言うし」
「え? そうかしら」
きょとんとするニーナに、ユウトは呆れたように肩をすぼめた。
「そうでしょ。いくらスカウトしてきたからって、厳しい条件出したら相手がどう取るかわからないよ。最悪だめかもしれない」
「そんな……」
青ざめたアリアの背中をさすりながら、ニーナはユウトを睨んだ。
「ちょっとユウト、余計緊張させるようなこと言わないでよ。大丈夫よ、仮に断られたって、絶対に説得してみせるわ」
「ニーナは呑気すぎるよ、行く前に覚悟はしておいた方がいいだろ。それに説得って、何か策でもあるのかよ」
声を荒げる二人の間に、アリアが割って入った。
「……ニーナ、気遣いありがとう。ユウトの言う通りだけど、でも、どうにか説得できるように頑張りましょう。可能性はあるはずだわ」
アリアは表情を引き締めて、真っ直ぐ目の前の建物を見つめる。ニーナとユウトは顔を見合わせてから、同じく事務所を見た。
「……行きましょう」
「うん」
三人は、事務所へと踏み出した。
事務所の中に入ると、すぐに社員が出迎えてくれた。
「ツァウベラーの皆さんですね! ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそお声がけありがとうございます」
アリアがそう言ってぺこりとするのに倣って、慌てて二人も礼をした。
「早速、応接室にご案内いたします。どうぞこちらへ」
応接室に入り、出された紅茶を飲んでいると、すぐに担当者らしき人物がやってきた。
「お待たせ、このたびはアイファー・レコードに来てくれてありがとう。私は制作部のバールです」
バールと名乗った男性は、四十代半ばほどで、中肉中背の柔和な雰囲気の人物だった。
「こちらこそ、お招きありがとうございます。ツァウベラーのアリア・ツェルナーです。こちらがニーナ・アーベライン、ユウト・コンドウです」
アリアはにこやかに名刺を受け取り、自分たちを紹介した。
ニーナはきょろきょろと部屋を見回し、ユウトがそれを慌てて嗜めている。落ち着かない様子の二人を横目で見て、自分がしっかりしないと、とアリアは本題を切り出した。
「こちらの事務所で、私たちを雇っていただけないでしょうか。アイファー・レコードは実績があり、サポートも手厚いと聞いております」
「もちろんそのつもりのお声がけだよ。改めて特別賞おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
アリアがはにかんでぺこりとしたとき、突然ニーナが身を乗り出した。
「あの、私たち、一年しか活動できないんです」
唐突なニーナの台詞に、和やかに温まりはじめていた部屋の空気が急速に冷え、にわかに緊張が走った。
「ちょ、ちょっとニーナ! どうして君はこういつも無鉄砲なんだよ……」
「だって、大事なことは先に言うべきでしょ?」
口を尖らせるニーナを、急いでユウトが引っ張り戻すも、時すでに遅く、バールは眉を顰めていた。
「どういうことかな」
低い声で探るような目線を向けるバールに、萎縮しながらもアリアは答えた。
「ニーナが、音大受験を控えていて、来年の冬には受験に集中したいんです。だから、一年活動して、半年休止してまた戻って来れたら、と……」
「なるほど。なら、一年で解散というわけではないのか。しかし、全くの新人である君たちがたった一年で実績を出せるかと考えると、無条件で雇うわけにはいかないな。一年活動して半年休止だと、すぐ忘れ去られてしまうでしょう」
「そうですか……」
アリアはがっくり肩を落とした。ユウトがじろりとニーナを睨むも、ニーナはその視線を気にもせず、再び身を乗り出した。
「なら、実績を出せばいいんですよね?」
「なっ……」
固まるバールに、ニーナは畳み掛ける。
「必ず実績を出しますから、雇ってください!」
「そんな無茶苦茶な……」
苦笑するユウトの横で、不意にアリアも身を乗り出した。
「私からも、お願いします。どうか私たちを雇ってください。条件付きでも構いません」
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