第十九話 知らなかった世界
そうして、時間は経って、ファッションショー当日になった。
「ここね……」
アリアはチケットに印刷された地図から目を離し、そのビルを見上げた。
都の中でも中心街にあるその建物は、街の雰囲気を崩さない配慮はされているものの、モダンな様式もふんだんにあしらわれ、洒脱な空気を醸し出していた。
「なんだか場違いなところに来てしまった感じだわ」
アリアは恥ずかしくなって少し俯く。すると視界に、今日のために奮発して買った服が入った。
秋らしい、深い葡萄色のシンプルな形のドレスには、首元に銀の糸で蔦模様が描かれ、細やかなプリーツのスカートが優雅に靡く。温度調節しやすいように羽織っているのは、黒いロングカーディガン。トラウム・シュナイダーで、オリヴィアに相談しながら決めたこの服が、彼女の気持ちを沸き立たせてくれた。よし、と気合を入れて、アリアは中に入った。
受付でチケットを見せ、パンフレットを受け取って会場に足を踏み入れる。その瞬間、凍り付くような張り詰めた空気がアリアの全身を包んだ。
ああ、これが。これが、エリスの闘う世界なのだ。アリアは戦慄を覚えた。審査するものとされるもの、試すものと試されるものの空間。カミラの前で初めて歌った時、ニーナとユウトとともにカミラの試練を受けたとき、コンテストの予選の時、アリアが感じたあの刺すような厳しい視線が、あちこちで飛び交っているのだ。
急いで席を探して座り、逃げるようにアリアはパンフレットを開いた。エリスの言っていた通り、専門学校の生徒がほとんどではあるが、外部参加も数人ほどいるようだ。コンテストのプログラムとは違い、あまり詳しいことは載っておらず、出場順と主催の学校の紹介やコメント、あとは協賛企業の名前程度しか書かれていない。エリスの出場順だけ確認して、アリアは顔を上げた。
周りにいる人々は、業界関係者のような人々ばかりのようで、あちこちから専門用語らしき言葉が聞こえてくる。やはり自分は場違いなのではないか、とアリアは再び思った。
長い待ち時間が終わり、ショーが始まった。音楽に合わせて、ランウェイに出てくるモデルたちが着ているのは、流行りの細身のシルエットのドレスに大胆にあしらいを付けた挑戦的な服や、東洋の民族衣装に斬新な解釈を加えた服、伝統的なファッションを今風にアレンジした服。そのどれもが、彼女にとっては別世界のもののようで、衝撃的ですらあり、同時に大きな不安を抱かせた。エリスが頑張っていたことは知っているけれど、こんな才能たちと渡り合えるのかしら。明らかに、この闘いはレベルが高すぎる――。
しばらくして、エリスの手掛けた衣装を纏ったモデルが歩いてきた。あっ、と声を上げそうになって、慌てて口を噤む。
パンフレットを見なくても、一目でわかっただろう。大きな薔薇を肩にあしらい、美しいドレープでまとめ上げた、品のある緋色のドレス。スカートを蕾に見立てた大胆な形で、しかし妖精のような清純さをも含んだ雪のようなドレス。乙女心を象ったように可愛らしい、歩くたびふわりと花開く、薄紅色のドレス。あれは、エリスの服だ。いつも夢に向かって真っすぐで、自分を支えて励ましてくれる、彼女の勇敢さと優しさをその服の中に感じ、アリアはじんわりと目頭が熱くなった。このショーの華やかな才能たちの中でも、彼女の服は見劣りすることなく、存在感がある。これなら、きっと、とアリアは強く期待した。
そうしてショーは終わり、審査ののち、結果が発表された。入賞者として幾人もの名前が呼ばれるものの、一向にエリスの名は呼ばれることがない。アリアは拍手をしながらも、気が気ではなかった。
自分の結果を待っていた時でさえ、こんなに苦しくはなかった。ミサの時のエリスの、ぼろぼろの手と酷い隈を思い出す。あれほどの努力をした人が、報われなくていいわけがない。神様はちゃんと見てくださっている、どうか、お願いします、とアリアは懸命に祈った。
「優秀賞は以上です。そして最優秀賞、コルベット・ルロワ」
アナウンスが響くのを、アリアは呆然と、どこか遠くに聞いていた。
ショーが閉幕して、人々がぞろぞろと席を立ち始めても、アリアはまだ上の空で、しばらく立ち上がれずにいた。会場内の人がまばらになった頃、アリアはようやく、動かなければ、と席を立ち、ふらふらと歩き出した。
会場を出ると、片付けを終えたらしいエリスがアリアを見つけて、こちらに駆け寄ってきた。
「アリア! 大丈夫? 顔色が良くないわ」
アリアは、大丈夫よ、と弱々しく微笑んだ。こんな状況でも自分のことを心配するエリスの姿に、アリアは胸が詰まる思いだった。
「……エリス、お疲れ様。本当に素敵なドレスだった。賞を獲れないのがおかしいと思うくらい」
「え……ええ、ありがとう。……やっぱり、そんなに簡単にはいかないわね! また、何度でも、挑戦するわ」
エリスは明るい口調でそう言って、笑ってみせる。その笑顔があまりにも苦しげで、思わずアリアはエリスを強く抱きしめた。
「本当に、本当に、私、エリスの服が大好きよ。いつだってあなたの服は優しくて、私に勇気をくれる」
涙声で語るアリアの腕の中で、エリスも啜り泣きはじめた。
「ああ、あのね、私、今日、とっても自信があったのよ。なのに、なのに、どうして、どうすれば私……」
アリアは、何も言うことが出来なかった。ただ、エリスが落ち着くまで、彼女の泣き顔を誰にも見られないように、守るように抱きしめ続けた。
ひとしきり泣いた後、エリスはアリアから離れて、ハンカチで顔を拭いた。
「ごめんなさい、みっともないところを見せてしまって。もう落ち着いたわ、ありがとう」
「こんなときくらい頼っていいのよ。話ならいくらでも聞けるから」
微笑んだアリアを見て、エリスははっと目を見開いた後、苦しそうに顔を歪め、そのまま目を逸らして俯いた。怪訝に思ったアリアが口を開こうとする前に、遮るようにエリスが言葉を溢した。
「……でも、アリアには、わからないもの」
「……え」
聞こえるかどうかの小さな震える声で、吐き出すように呟かれたその言葉に、アリアの思考は止まった。
私には、わからない?
目の前で拳を固く握りしめ、わなわなと震える彼女は、アリアの良く知る、いつも明るく親切なエリスとは、全く別の人のように思えた。
「それって、どういう……」
恐る恐る絞り出した言葉に、俯いたままでエリスは何も答えない。身を切るような沈黙が、二人の距離を浮き彫りにする。
逃げ出してしまいたい、と思ったとき、エリスが顔を上げた。
「本当に、今日は来てくれてありがとう。ちょっと一人になりたいから、もう私、帰るわね」
有無も言わさぬような早口でそう言って、エリスはアリアの返事を待たずに、背を向けて歩き出す。
「わかった、気を付けて」
アリアが慌てて声を掛けるも、エリスが振り返ることはなかった。
その晩、アリアの頭では今日の出来事がぐるぐると渦巻いて、なかなか眠ることができずにいた。
私には、わからない。確かに、私たちは一緒に育ったとはいえ、血も繋がっていない赤の他人だし、そもそも誰かの考えていることを完全に理解することなんて出来ない。でも、それでも、話を聞きたいのは、助けになりたいと思うのは、いけないこと?
寝ることを一旦諦めて、立ち上がって照明を付けた。引き出しを漁ってハーブティーの茶葉を探す。ローズヒップ、ラベンダー、ミント、いろいろな茶葉を手に取って吟味して、結局、普段安眠のために飲んでいるカモミールを選んだ。
温めたティーポットに茶葉を少し入れて、お湯を注ぐ。いつも寝る前に共有スペースで湯を沸かして部屋に置いておくので、時間が経って少し冷めているものの、お茶を入れるのに十分な温度があった。
茶を蒸らしている間も、アリアの気持ちは沈んでいた。後ろ盾もなく、たった一人で都に出てきて、二年も闘ってきたエリス。今まで言葉にも顔にも出さずにいたけれど、彼女はずっと、思うように結果が出せず葛藤していたに違いない。もっとエリスのことを見ていれば。……見ていたとして、私に何ができただろう?
『アリアには、わからないもの』。またエリスの言葉が頭を木霊して、アリアは眉間に皺を寄せた。
「……わからないわよ。話してくれないと、わかるわけ、ないじゃない」
それとも、話せない事情があるのだろうか。考えれば考えるほど、アリアの思考はぐちゃぐちゃに絡まって解けなくなる。
いつの間にか五分が経っていて、アリアは急いでカップにお茶を注いだ。鼻腔をくすぐる甘い香りを楽しんでから、一口啜る。
「……少し放りすぎたかも」
蒸らしすぎたカモミールティーは、その香りとは裏腹に、苦みが強くなりすぎていた。
結局よく眠れないまま、翌朝アリアは音楽教室に向かっていた。
この日はツァウベラーの今後の方針を決めるため、三人でカミラに相談に乗ってもらう予定だった。じっくり時間を掛けて話したい、とカミラからの要望で、まだ学生である二人の一日空いているこの日に決まったのだ。
まだエリスのことが頭から離れないままだったが、集中しなくっちゃ、とアリアは両頬をぱちりと叩いて、教室のドアを開けた。
中に入ると、すでにユウトとニーナが来ていた。
「アリア、おはよう」
「おはよう、二人とも」
挨拶を交わして、椅子に座ると、タイミングよくカミラか部屋に入ってきた。
「揃ったようね。それじゃあ、今日はツァウベラーの今後の活動について話し合うわよ。
コンテストの帰り道、ユウトからあなたたちが貰った名刺を受け取って、ある程度事務所は絞ってあるけれど、まずはあなたたちの意思を確認しないとね。ニーナ、ユウトの二人はきちんと両親にも相談したかしら?」
ええ、と二人は頷いた。
「僕の両親は、最低でも、中学校を卒業する来年夏まで学業を優先するのであれば、音楽活動をしていいと言っていました。活動すること自体には肯定的で、特に母は、望んだ形ではないけれど、僕がピアノを生業としようとしているのが嬉しいって」
はにかんだユウトに、ニーナも続いた。
「私も、両親ともに喜んで受け入れてくれて、だからプロとして活動できるなら願ったり叶ったりだわ!」
「そう。アリアは、聞くまでもないわね。……プロになる、というのは、あなたたちの思う以上に厳しいことよ。新人のコンテストでは多少目を引いたかもしれないけれど、若手の才能なんてこの世界にはたくさんいるし、これからはプロの実力者たちの中で、あなたちにしか出来ないものを示していかないといけない。一層激しい競争に揉まれることになるわ。覚悟はできている?」
ユウトとニーナの顔がこわばった。覚悟をして歌手を目指してきたアリアも、改めてそう聞くとやはり大きな不安に襲われる。
「でも、やるしかないわ」
緊迫した空気の中、ニーナがぽつりと呟いた。そうだね、とユウトも同意する。アリアは安堵して、こくこく、と頷いた。
「それじゃあ、事務所を探さないといけないわね。今、ユウトは十四歳、ニーナは十七歳。アリアは独り立ちしているけれど、まだ十六歳よね。全員が未成年だということを考慮してくれる、信頼できる事務所でないといけないわ」
カツカツとヒールを鳴らして移動すると、カミラは机の上の書類を手にして振り返った。
「ヘレナの方は、本命だった最大手のエーデルシュタインからスカウトが来たからそこに決めたけれど、あなたたちの方は、その事務所からはスカウトは来ていなかったから、次点で有力なこの事務所はどう? アイファー・レコード、聞いたことはあるでしょう。あそこの事務所に入った教え子が何人かいるけれど、活動のサポートも手厚いし、若手の育成にも力を入れている。何より、アーティストを尊重してくれる良い所よ」
三人は顔を見合わせた。
「アイファー・レコードって、『至福の朝』の発売元じゃなかったっけ?」
「ええ、そうなの? 何処かで聞いたことがあるような気はしたけれど」
ユウトの言葉に驚いて、ニーナはカミラを見た。
「言われてみれば、そうね。『至福の朝』の三人組、ヴェルトライゼはアイファー・レコード所属だわ。他にも、メリッサ・コーネインなんかがここの所属よ」
カミラは最大手ではない、と言っていたが、この事務所も相当やり手らしい。少なくとも、アリアの好きな歌手は何人か所属しているようだ。
「なんだか、運命を感じるわね。三人で初めて合わせた曲のアーティストのいる会社に所属できるなんて」
うっとりと言ったアリアに、二人はうんうん、と顔を輝かせて頷いた。
三人の様子に、カミラは満足気に目を細めた。
「ならここで決定ね。はい、これが名刺と、事務所のパンフレットよ。自分たちで連絡なさい。
それじゃあ、コンテストの反省会に移りたいところだけれど、その前にニーナから二人に話があるのよね?」
アリアは驚いてニーナを見た。ニーナはコンテストの時以来の真剣な表情で、カミラの言葉にこくりとした。
「アリア、ユウト。私、ツァウベラーの活動、一年しか出来ないかも」
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