第三章 歌手の道
第十八話 繋ぐ明日へ
アリアの行きつけのカフェは、大通りから少し離れた場所にある、伝統的な建築を思わせる品のある場所だった。壁や床には草花をモチーフとした文様が描かれ、彫刻の施されたシャンデリアが内装を華やかに照らしている。いつもクラシック音楽が流れているのも、アリアがこの店を気に入っている理由の一つだ。
「ここ、チョコレートケーキがすごく美味しいんです」
アリアの言葉に、ベルネットはメニュー表をじっくり眺めながら、なるほど、と応えた。
「それなら、私はチョコレートケーキとこのコーヒーにしましょうか。あなたは何にするんです?」
「では、私も同じものを」
店員を呼び注文を終えてから、少しの間の後、ベルネットが口を開いた。
「改めて、特別賞の受賞おめでとう。私に師事していた頃からずっと良くなっていて驚きましたよ」
「ありがとうございます、都に出てこうやって大きな舞台に立てたのも、最初にベルネットさんが私を指導してくださったおかげです」
幸せそうにはにかんだアリアに、ベルネットは小さく首を横に振った。
「いいえ、私に指導しようと思わせたのも、都で大舞台に立てたのも、あなたの努力と情熱のおかげですよ。自分を誇りなさい」
滅多に自分を褒めなかったベルネットが、真っ直ぐにそう評価してくれた。そのことに、アリアは胸を熱くしながら、はい、と力強く頷いた。
しばらくして、注文したチョコレートケーキとコーヒーが届けられた。ナッツの効いた濃厚なチョコレートケーキで、ふわりと洋酒の香りが漂ってくる。
口にして、ベルネットは感嘆を漏らした。
「確かに、悪くないですね。舌触りがとてもなめらかで、甘さもしつこくない」
「でしょう? ここのコーヒーともよく合うんです。一日の疲れが癒されるので、よくレッスン後に食べるんですよ」
「良いですね。私も学生時代はよくカフェで甘味に舌鼓を打ったものです」
甘いものは、疲れを癒してくれますから。そう言ってわずかに顔を綻ばせるベルネットに、アリアはふふ、と小さく微笑んだ。
「あの、教会のみんなは元気ですか?」
「ええ、アルベルト司祭もリーゼルも、他の皆も元気ですよ。司祭様はあなたのことをとても心配しておられました」
懐かしい教会時代を思い返して、アリアは心がじわっと温かくなるのを感じた。
「司祭様には相談にもたくさん乗っていただきましたものね。心配いりません、私は楽しくやっています、と伝えてくださいませんか」
「そのようだと伝えておきますわ」
ベルネットは投げやりな口調とは裏腹に、朗らかな声でそう言って、コーヒーを一口啜った。
「孤児院の子供たちも、よく教会に来てくれますよ。復活祭のあなたの歌を聴いて、自分も歌手になりたいと言っている子もいるそうで。あなたに会えたら、きっと喜ぶでしょうね。……まだ、帰る気はないのですか? 皆会いたがっていますよ」
その言葉に、アリアはどきりとした。歌手になるまでは、故郷には帰れない、と覚悟を決めていたが、今日、コンテストで、賞を獲ることができた。もう、胸を張って帰っても良いのではないのか? ……
振り払うように、アリアはかぶりを振った。
「まだ、帰りません。都中、いいえ、国中の誰もが知るような一流の歌手になるまで、私は故郷には帰りません」
きっと今皆に会ってしまえば、ここまで張り詰めてきた気が抜けてしまう。賞といったって最優秀賞ではないし、ヘレナやエルヴィーラの生歌を聞いて、自分の理想である、人を感動させられる歌手にはまだ遠いと気付かされた。もっと自分の歌に自信を持って、プロの歌手として堂々と故郷に帰りたい。だから、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
ベルネットはふう、と溜め息を吐いた。
「そう言うだろうと思っていましたよ。だからこそ、私もカミラも、あなたに期待してしまうのでしょうね。
あまり待たせないでくださいまし。老人の時間は速いものですから」
「そんな、ベルネットさんはまだお若いでしょう。
でも、そうですね。ご期待にお応えできるよう、頑張ります」
待ってくれている人たちがいる。そのことが、アリアの心を強く奮い立たせた。
必ず夢を叶えて、立派になって故郷に戻ろう。きっとそれが、支えてくれた人たちへの恩返しになるのだから。
時間はあっという間に過ぎ、日が落ちきって月が明るくなり始めた頃、アリアはベルネットを駅まで送った。
「今日はありがとうございました。わざわざ都まで歌を聴きに来てくださって、私、本当に嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとう。観に来られて良かったですよ、本当に良い舞台でしたから。……かつて私の夢見たような大舞台で、あなたが歌っているのを見て、自分のことのように嬉しくなりましたよ」
その言葉に込められた計り知れないほどの想いに気付いて、アリアは返す言葉を失った。代わりに絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「……過去のこと、カミラさんから聞きました」
アリアの様子を見て、ベルネットはそっとその頭を撫でた。
「やはりそうですか。……私は自分の失った夢を、あなたになら託せる、と思いましたよ」
ベルネットの碧い瞳は、穏やかな海のように優しく凪いでいた。
「……絶対に、夢を叶えてみせます」
久しぶりに会った恩師の愛情に、泣きそうになるのを堪えながら、アリアは強く言い切った。
「教会や孤児院の皆も、もちろん私も、あなたの夢をずっと応援していますよ。励みなさい」
別れ際、そう言い残してベルネットは背を向けた。その毅然と伸びた背中を、見えなくなるまでずっと、アリアは見つめていた。
ベルネットと別れてツヴェルクの家に帰って来ると、ドアを開けた瞬間、住民たちが出迎えてくれた。
「ツェルナーさん、おめでとう!」
「ベルタさんがご馳走を作って待ってるよ」
「まあ! ありがとうございます、とっても楽しみだわ」
皆の勢いに驚きながらも、アリアは目を輝かせた。
「ささ、早くお入りよ。今日はお祝いだからね!」
「いやあ、同じ下宿の住民として鼻が高いよ」
腕を引っ張られながらアリアが共有スペースに入ると、そこには食欲をそそる料理がずらりと並べられていた。牛肉のスープ煮込み、パプリカたっぷりのシチュー、ポテトサラダに、茸のリゾット。
「デザートもあるよ!」
そう言って、人数分の皿を持ってやってきたのは大家のベルタだった。
「ベルタさん、こんな豪華な食事、ありがとうございます! 何か手伝いましょうか」
「ああ、ツェルナーさん! 今日はおめでとう。主役は座って待っていておくれ、もうほとんど準備は終わっているからね」
てきぱきと皿を並べて、カトラリーを配ってから、また慌ただしくベルタはキッチンに戻って行った。入れ替わりに、フリーゼがグラスをいくつかテーブルに置きに来た。
「おや、今日の主役じゃないか。おめでとう! 僕もこっそり見に行ったけど、本当に驚いたよ、あんなにいい演奏をするなんて! 正直圧倒されたよ」
「見にいらしていたんですか! ありがとうございます、嬉しいです」
「いやあ、本当に良かった。今夜は酒が美味しく飲めそうだ」
フリーゼは一旦テーブルに置いたグラスのうち一つを手に取って、くいっと傾けておどけてみせた。
「おや、フリーゼ、お前はさぼらず働きなさいよ」
「はいはい、全く、大家さんは厳しいね」
ベルタに咎められて、肩を竦めてフリーゼもキッチンに戻っていく。慌ただしくも楽し気な彼らの様子に、アリアもつられて笑顔を溢した。
準備を終えて、全員が席に着くと、ベルタが号令を掛けた。
「それでは、ツェルナーさんの栄光を祝って……」
「乾杯!」
カラン、とグラスを交わし合い、大人たちはワインを、アリアは紅茶を、それぞれ口にする。
賑やかな宴は三時間以上にも及び、そうしてアリアの長い一日は幕を閉じたのだった。
翌日、アリアがいつも通りの休日を過ごそうとしていたところに、ニーナが息を切らして飛び込んできた。
「アリア! アリアはいる?」
部屋にいても聞こえてくるほどの大声に、慌ててアリアは玄関に向かった。
「ニーナ、どうしたの!」
「アリア、ねえ、これを見て!」
ニーナが手にしていたのは、今朝の新聞だった。
「ヘルブスト音楽コンテスト最優秀賞、ヘレナ・ティール……?」
「そっちじゃなくて、ほら、ここ!」
ヘレナの記事の左下、ニーナの指さした先には、こう書かれていた。
『五年ぶりの審査員特別賞 ツァウベラー 気鋭の三人組』
「ええ! 私たちのことじゃないの」
「びっくりだよね、こんな風に新聞に載る日が来るなんてさ」
いつの間にやってきたのか、ユウトが神妙そうに紙面を見つめながらそう言った。
「今日ここに来るまでもさ、いろんな人に声を掛けられたよ。コンテストを見てくれた人とか、新聞で僕らのことを知った人とか。サインなんかも求められてさ、なのにニーナってばなりふり構わず走って行っちゃうから、大変だったんだよ」
「それでユウトは遅れてきたのね。なんだか、一日で随分と状況が変わったわね」
「本当にね。まだ全然実感わかないや」
ユウトはしみじみとそう言った。
「でも、折角賞を獲ったのに、あんまり大きく取り上げては貰えないのね。ヘレナ・ティールの半分くらいしか書かれてないわ」
ニーナが不服そうに頬を膨らませる。確かに、ヘレナの記事は、トロフィーを持った彼女の笑顔が大きく印刷され、舞台での様子はもちろん、その経歴やインタビューの内容まで詳しく書かれているのに対して、アリアたちについては、ヘレナと比べて半分程度の小さめの写真とともに、演奏の様子に加えて、インタビューで答えたことのごく一部が抜き出されて載っているだけだった。
「これじゃ、ヘレナ・ティールのおまけみたいだわ」
「……仕方ないわよ、やっぱり最優秀賞は注目度が違うもの」
アリアはニーナを諭しながらも、内心ではじわじわと悔しい気持ちが広がっていた。
やはり、まだ一流には程遠い。早くヘレナと並べる程度にならなければ、自分は彼女のただの引き立て役だ。
アリアの様子に気付いたユウトは、そっと彼女の肩に手をやった。
「これから、もっと頑張らないとね」
「ええ。必ず見返してやるわ」
ニーナもそう言って、両手で拳を握って構えた。
アリアはぱちりと瞬きをして、それから口角をゆっくりと上げた。
「そうね。頑張りましょう」
ニーナたちと別れてから、アリアはいつものようにミサに行くため、エリスを待っていた。
「ユウトの言っていた通りだわ。なんだか見られている気がする」
ユウトたちの時と違って、彼女が一人でいるから確証が持てないのだろうか、街行く人々はアリアを遠目に見ては噂をしているようだった。
そわそわし始めたその時、通りの向こうからエリスが歩いてくるのが見えた。
「ああ、アリア! 昨日は本当におめでとう、自分のことのように嬉しいわ」
エリスはアリアを見つけた途端、駆け付けてぎゅっと抱きしめてから、その興奮のままに手を取ってくるくると回った。
「ありがとう! あなたのくれたあのガーベラのコサージュのおかげで、私、勇気を貰えたわ」
「それなら良かった! 側に居られないことで少し心配していたんだけど、杞憂だったわね」
「もう、エリスったら、私はもう子供じゃないのよ?」
「あら、私からしたらまだ子供よ」
ささやかな言い合いの後、二人は顔を見合わせてふふふ、と笑みを漏らす。
直後、二人の会話を聞いていた周囲の人々が、一気にアリアの方に集まってきた。
「やっぱり、ツァウベラーのアリアだ! コンテストの歌、良かったよ」
「あの、握手してくれませんか?」
アリアは突然のことに戸惑いながらも、一人一人に礼を述べ、握手したり、サインをしたりと、丁寧に対応した。
「すっかり人気者ね」
ひと段落したところで、エリスがしみじみと言った。
「人気者ってほどではないと思うけれど。それにしても、こんな風に声を掛けてもらえるなんて、まだ信じられないわ。
……そういえば、エリス、ファッションショーの準備はどう?」
「ええ、もちろんばっちりよ。まだ調整しないといけないけれど、粗方出来上がってきたから、少し心の余裕ができたわ。とはいえ、時間の余裕は全然なのだけど」
指先を弄るエリスの、その手元をよく見れば、針で刺したような傷がいくつもある。手荒れもかなり目立っていた。
「どうしたの?」
急に黙ってしまったアリアに、不思議そうにエリスが首を傾げる。頭を上げてエリスの顔を改めて見ると、化粧で上手く隠してはいるものの、よく見れば目の下にぼんやりと隈がある。
「エリス、ちゃんと眠れている?」
「ええ、ときどき仮眠をとるようにしているわ」
当然のように答えるエリスに、アリアは言葉を失った。想像を絶するような努力の世界に、彼女はいる。自分には、それを応援することしかできないのだ。
なんとか絞り出したのは、無難な応援の言葉だった。
「応援しているわ。どうか、無理はしないでね」
「ありがとう。きっと結果を残してみせるわ。……ああ、そうだ! これ、ショーのチケット。一般客は入れないのだけど、知り合い一人か二人くらいなら呼んでいいらしくって。今週末の金曜よ。もし予定がなければ、見に来てくれないかしら」
アリアは手渡された封筒を開けて、チケットを取り出して確かめた。
「金曜日の朝からね。絶対に見に行くわ」
「ありがとう! あなたが見ていてくれるなら、なんだって出来る気がしてくるわ。
実は、このファッションショーで良い評価を得られたら、服飾の専門学校に特待生として入学できるの。私、どうしてもその権利が欲しくって」
なんでも、そのショーは流行の発信地である隣国の専門学校が主催するもので、学生に混じって外部の者も参加できるらしい。つまり、そこで教師の目に留まることが出来れば、エリスは学費の心配をすることなく服飾の勉強に集中できる、ということなのだ。
「まあ、そんなに大事なショーだったのね! エリス、あなたならきっと出来るわ」
「ありがとう、きっと成功させてみせるわ」
そんな話をしているうちに、教会に到着し、二人は話すのをやめて中に入った。
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