第十七話 閉幕

『あなたの声が木霊する 優しい幻を見ていたの

 満ちる月が淡い夜に』

 エルヴィーラの、甘く心地よい、囁きのような歌声が会場に響く。レコードを聞いた時とは、全く違う。落ち着いた低い声は波音のようで、一つ一つの音の粒が体と心に直接響いてくる。細かな息遣いまでもが、彼女の表現の一つだった。

 歌が展開していき、流れるようなピアノに優美なストリングスの音が加わって、歌声にも熱がこもっていく。

『もう届かない憧憬でも

 あなたと過ごしたあの日々すべて

 いつまでもわたしを支えてくれるわ』

 舞台照明が瞬いて、音楽も明るく月が満ちていくように盛り上がっていく。そして、彼女は高らかにこう告げた。

『永遠を夢見るのはもうやめた』

 その言葉を合図に、ストリングスが荘厳とさえ思わせる、重厚で豊かなハーモニーを奏でる。ピアノの音は煌めく星屑のように彼女の歌声を飾り、まるで満天の夜空の下にいるような錯覚さえさせるようだった。

『今ここにある全てを 抱きしめて生きたい

 愛を歌うわ 遠く響かせて

 いつかこの歌が光に変わるまで』

 歌声はどこまでも高く伸びて、天にまで届く梯子を思わせるほど神秘的。アリアは息をすることすら忘れてしまいそうだった。

 今まで聞いてきた音楽とは、明らかに別格だった。アリアは曲が終わってもまだ現実に帰ってくることが出来ず、観客の拍手と歓声で会場が包まれるのを夢見心地で聞いていた。


 エルヴィーラが退場した後、夢から醒めたように再びざわめきだした会場の中で、アリアは口を開くことなく舞台上を見つめていた。そしてそれは、ニーナとユウトも同じだった。

 もうすぐ結果が発表される。そのことを意識した途端に、先程のパフォーマンスで汗を握っていたアリアの手は、冷たく震え始めた。

 これほどまでに不安になったのは、初めてだった。演奏はもう終わり、出来ることはもうないのだという事実が、さらにアリアの緊張を増長していた。

 不意にニーナが立ち上がり、両頬をぺちん、と叩いた。

「ああもう! 早く発表されないかしら、こんなに待つのが辛いのは初めてだわ」

 震えているニーナの背中に気付いて、アリアはそっと彼女の肩に手を当てた。

「……そうね。結果発表はまだかしら」

「うん……」

 顔を強張らせて、ユウトも頷く。

 それ以上、三人は話すことが出来なかった。


 永遠にも思えた数分の間の後、ついに結果発表の時間になった。

「皆様、大変お待たせ致しました。第十二回ヘルブスト音楽コンテスト、ただいまより結果発表に移らせていただきます!」

 静かな会場に司会の声が響き、その瞬間アリアの緊張はピークに達した。震える両手を重ねてぎゅっと握り締め、彼女は瞬きもせずに舞台を見つめた。

「まずはオーディエンス賞からの発表になります。選ばれし三十組の中で、最も票を集めたパフォーマーは誰でしょうか!」

 ダダダダダ……とドラムの音が刻まれる。緊張に包まれた会場内で、その音は段々と大きくなり、やがてピークに達する。音が消えたその瞬間、声高らかに名前が呼ばれた。

「オーディエンス賞は……エントリーナンバー一番、ヘレナ・ティール!」

 わあっと歓声が上がり、呆然とするアリアの視界の端で、ヘレナが立ち上がり、礼をした。

 盛大な拍手が遠く聞こえる。握りしめていた手からは力が抜け、舞台を見つめることも辛くなって、アリアは俯いた。

 ああ、だめだった。オーディエンス賞が獲れなかったということは、私たちが優勝するのもきっと無理ね……。

 目の前が真っ暗になった、と思ったその次の瞬間、一筋の光が、突然アリアの眼前に差し込んだ。

「そして、惜しくもオーディエンス賞に届きませんでしたが、ヘレナ・ティールを追う勢いで観客の票を集めたパフォーマーがいます。彼らの将来性に期待して、審査員特別賞を授与することを決定いたしました!」

 アリアはその言葉に驚いて顔を上げた。

去年は受賞者がいなかったという審査員特別賞。実質ないものと思っていたその道が、突然目の前に現れたのだ。これに賭けるしかない、とアリアは息を凝らして発表を待った。

「審査員特別賞は……」

 隣ではニーナが目を瞑って懸命に祈り、ユウトは舞台上を食い入るように見つめていた。発表を待つこの数秒が、三人には何より苦しく、途方もなく長く感じられた。

 速くなる心音と重なるように、ドラムの音が大きく響く。その音がようやく途切れたとき、待ちわびた名前が発表された。

「エントリーナンバー四番、ツァウベラー!」

「わああああ!」

 三人は同時に飛び上がり、思わず歓声を上げてから、慌てて各方向に向けて礼をした。

「良かったあ、私、もう無理かと思ったわ……」

「本当にね……まさか審査員特別賞が獲れるなんてさ……」

 二人が興奮を抑えきれず小声でそう話すのに、アリアはこくこく、と何度も頷いた。

 念願だった優勝の候補からは外れてしまったが、今はそんなことを気にしている余裕がないほど、アリアの胸は喜びでいっぱいだった。早くその喜びを三人で分かち合いたい、と思ったが、彼女はそれをぐっと堪えた。次に発表される最優秀賞の受賞者こそ、自分たちが立ち向かわなくてはならない壁なのだ。アリアは気を引き締めた。

「それでは、お待たせいたしました。いよいよ最優秀賞です。総応募数五百六十三組、そのうち予選を勝ち抜いた精鋭たる三十組の中、今回のコンテストで最も優れたパフォーマーと認められたのは誰でしょうか!

 第十二回ヘルブスト新人音楽コンテスト、最優秀賞の栄光を手にするのは……」

 それまでの二つの賞の発表の倍の長いドラムロール。会場はこれまでにない緊張感、そして期待感に包まれ、息も出来ないほどだった。

 そして、その音がついに途絶え、興奮を隠しきれない声でその名前が呼ばれた。

「エントリーナンバー一番、ヘレナ・ティール!」

 盛大な歓声が響き渡り、今までにないほどの熱気が会場を包み込んだ。客席のあちこちで観客が立ち上がって拍手をしたり声を上げたりしていて、アリアたちも立ち上がって大きな拍手を送った。

 アリアには、不思議と悔しさはなかった。ヘレナの歌は、ただ迫力があるだけではなく、力強く心に呼びかけてくるようで、きっと会場中の人々を勇気づけたことだろう。アリアも彼女の歌に勇気づけられた一人だ。彼女はこの栄光を手にするのに相応しいパフォーマーだと、アリアは確かに思った。

「それでは受賞されたヘレナ・ティールさん、ツァウベラーの皆さん、前においでください」

 三人は慌てて立ち上がった。舞台の階段を上がっていると、先に舞台に着いていたヘレナと目が合った。

 間近で見えたヘレナの目に、大粒の涙が浮かんでいるのを見て、アリアは驚いた。自分が優勝して当然だと言わんばかりの自信があるかのようだったのに、今目の前にいる彼女は、優勝できたことに感動して嬉し涙を流すような、普通の女の子だった。

 彼女の高慢にも思えたあの態度は、その底知れぬ努力に裏付けされたものだったのだ。その努力を思えば、突然現れた妹弟子である自分に、初対面できつく当たったのも納得できる、とアリアはこのとき思い至った。

 舞台袖から、二つの表彰盾と一つのトロフィーが運ばれてきて、ヘレナの名前が呼ばれた。

「オーディエンス賞、ヘレナ・ティール。おめでとうございます」

 クリスタル製の表彰盾を受け取り、ヘレナは礼をした。拍手と歓声に手を振って応えながら、彼女は元の位置に戻った。

「続いて、審査員特別賞、ツァウベラー。おめでとうございます」

 三人は顔を見合わせて、どうしよう、とアリアが言おうとした瞬間、ニーナとユウトは彼女の背中を押して、にっこり笑った。アリアは戸惑いながらも頷いて、前に出た。

 進んだ先に盾を持って立っていたのは、なんとエルヴィーラだった。彼女の目の前に立ったアリアの心臓は大きく脈打って、途端に頬が真っ赤に染まった。

「素敵な演奏だったわ」

 そう言って微笑んだエルヴィーラから盾を受け取り、「ありがとうございます」とアリアは彼女と握手をした。まるで夢を見ている気持ちで、アリアは客席にも礼をして、ニーナとユウトの元に戻った。

「そして最優秀賞、ヘレナ・ティール。おめでとうございます!」

 ヘレナは主催者から、細かな彫刻の施された金色に光る立派なトロフィーを受け取り、涙を溢しながら握手を交わした。

「このような素晴らしい賞をいただけて光栄です。支えてくれた母や先生、応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。努力は無駄ではないと、諦めなければ必ず道が拓けると、私はそう思います」

 マイクを渡されたヘレナは、涙を拭いながらそう語った。

「頑張っているのに、認めてもらえなかったり、報われず苦しい思いをしたりしている方が、きっとこの中にもいることでしょう。長い間、私もそうでした。決して天才ではない私が、この才能の世界で、最高の歌手になることで、誰かを勇気付けられるように、私はこの道を進んでいきます」

 沸き上がる聴衆の前で、ヘレナは堂々と宣言する。その瞳はまだ潤んでいながらも、強い光を宿していた。


 閉会式はつつがなく終わり、観客が席を立ち始めると、出演者全員が舞台の上に呼ばれ、記念撮影が始まった。

 集合写真の撮影後、ヘレナが新聞記者に取材を受けているとき、マルクが去り際に声を掛けてくれた。

「三人とも、受賞おめでとう! いい演奏だったよ」

「ありがとう、マルクの演奏も良かったわ、夢中になって聴いちゃった」

 ニーナがそう言うと、マルクは片手を上げて応えた。

「マルクさん、いい人だったね」

 ユウトがそう呟くと、ニーナは腰に手を当てて顔を顰めた。

「本当よ、ユウトなんて、馴れ合ってる場合かーとか言ってたのに」

「な、だってそれはニーナが……」

 言い合いが始まりかけたとき、取材を終えたらしいヘレナが不意にこちらへ向かってきて、二人は口を噤んだ。

 ヘレナはアリアの目の前で立ち止まり、腕を組んで尊大に構えた。しかし、その口から放たれたのは、彼女に似つかわしくないぼそぼそとした声だった。

「審査員特別賞おめでとう。その……悪くはなかったわ」

 そのままヘレナは顔を背けて去って行く。その耳が赤くなっているのを見て、アリアは小さく呟いた。

「私、あの子と仲良くなれる気がする」

 アリアの言葉に、二人はおぞましいものを見たかのように顔を歪めた。

「ええ、正気? 確かに、ちょっと丸くはなってたけどさ……」

「アリアって、懐が広いわよね……」

そんなことないわよ、とアリアが苦笑したとき、新聞記者が声を掛けてきた。

「次、ツァウベラーの皆さん、取材させてくださーい」

「はい!」

 大きく返事をして、三人は記者のほうに向かった。


 新聞の取材を終え、さらには事務所からのスカウトの対応をしたのち、くたくたになってアリアたちは楽屋に戻ってきた。

「コンテスト終わったら終わりかと思ってたよ、取材もびっくりだし、スカウトもされるなんてさ」

「それだけ注目度が高いコンテストってことよ。ああ、新聞に載るのかしら! わくわくしちゃう」

 二人にうんうん、と頷きながら、アリアはまだ夢見心地で、盾をぼうっと見つめていた。

 生返事を返すアリアの視線の先に気付いて、ユウトも盾を眺めた。

「なんか喜んでる暇もなかったけどさ、改めて考えるとすごいよね。こんな大きなコンテストで賞を貰えるなんてさ」

「そうね、優勝を狙っていたとはいえ、実際賞を貰ってみるとねぇ」

 ニーナも盾をまじまじと見た。クリスタル製の盾は、光を反射して虹色に輝いている。その美しさも相まって、アリアは幻を見ているような気分になった。

「本当に、二人ともありがとう。二人がいたからここまで来られたし、一緒に賞を貰ったのがニーナとユウトで良かったって、心の底から思うわ」

 アリアの言葉に、二人はふふ、と柔らかな笑みを漏らした。

「それは私の台詞よ。アリアがいなかったら、私、コンテストに出ることさえなかったもの」

「僕もだよ。最初は反対してたけど、やっぱり出てよかった。誘ってくれてありがとう」

 三人の間には、穏やかな空気が流れていた。忙しない日々が続いていた彼らにとって、ようやく今、休息の時が得られたのだった。


 そうして楽屋で少し休んでいると、不意に楽屋のドアがノックされた。ニーナが返事をして扉を開けると、そこには痩せ気味の背の高い婦人がいた。

「ええと、どなたですか?」

 ニーナの問いには答えず、彼女はこう言った。

「アリア・ツェルナーを呼んでくださる?」

 その声を聞いてアリアは目を見開いた。信じられない気持ちで、すぐにアリアは彼女の方へと駆け寄った。

「ああ、ベルネットさん! どうしてここに?」

 ベルネットは、最後に会った日と変わらない姿でそこに立っていた。

「カミラ・ヴェルクマイスターの手紙に、このコンテストのチケットが入っていたのですよ。呼びつけられたも同然ですわ」

 言葉こそ突き放すようだったが、ベルネットの声は柔らかく、アリアは懐かしさで胸が一杯になった。

「あら、そんな言い方をしてもいいのかしら? せっかく愛弟子の晴れ舞台に呼んであげたのに」

 ノックもせずにそう言って入ってきたのは、今のアリアの師であるカミラだった。

「カミラさん!」

「あらアリア、受賞おめでとう。感動の再会は出来たかしら?」

 こくこく、と興奮気味にアリアが頷けば、カミラは満足げに目を細めた。

「えっと、アリア。その方は……」

 状況を吞み込めないでいるニーナとユウトに、アリアは慌てて説明をした。

「ああ、この方はベルネットさん、故郷で歌を教えてくださった恩師よ。ベルネットさん、こちらが私のバンドメンバーのニーナとユウトです」

「初めまして、私はジルヴィア・ベルネット。アリアがいつもお世話になっております。演奏、素晴らしかったですわ」

「ありがとうございます、ベルネットさん」

 二人はベルネットと握手を交わした。

「久しぶりに二人で積もる話でもしたいでしょうし、邪魔者は退散するわ。行くわよ、あなたたち」

 カミラはそう言って、ニーナとユウトの肩を掴んだ。怯んだような表情を浮かべる二人に、申し訳なく思いながらも、アリアはそうします、と頷いた。

 三人が楽屋を去って行くのを見届けてから、ベルネットが口を開いた。

「私たちも出ましょうか。いつまでもここでお喋りするわけにいかないでしょう」

 確かに、とアリアは少し考えて、それからこう提案した。

「それなら、お茶でもしながらお話しませんか。行きつけのカフェがあるんです」

「良い提案ですわ」

 ベルネットは頷いた。

 そうして、二人は茜色に染まり始めた街に向かって歩き出した。

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