第十六話 魔法
静寂に包まれた会場内で、アリアたちは暗い舞台上を真っ直ぐに歩き始めた。
定位置に着くと、スポットライトが三人を照らし出す。アリアの橙色のドレスと、ニーナの黄色いドレス、そしてそのドレスと同じ色の二つの花がユウトの胸元で、それぞれが朝露に濡れる花のように、きらりと光った。
アリアはその右手を胸元に添え、指先でそっと確かめるようにブローチに触れる。エリスのくれた赤いガーベラは、その花言葉の通り、アリアに挑戦への希望をくれた。
三人はお互いに目を合わせ、その瞬間からユウトの指先が動き出した。何度も修正を重ねた華やかなピアノソロで、物語は始まる。軽やかに指を踊らせて奏でるリズミカルな旋律は、繊細でありながらも明朗で、会場はもう、一人目の魔法使いの魔法に掛かったようだった。
そして二人目の魔法使い、ニーナが、サックスの音を重ねる。アリアの作曲したメロディーをさらにアレンジした、彼女らしい奔放で大胆な、思わず動きたしたくなるフレーズ。予選の時はもたついてしまった部分だったが、ニーナは堂々と奏でてみせた。
前奏が一度盛り上がったところで一旦静まり、そこに三人目の魔法使いが歌いだした。
『やぶれた夢が心を覆ってしまったとき
太陽の眩しさに怯えて目を閉じたとき
微かに震えたその背中に手を添えて
泣き止むまでずっと側にいるよ』
囁くように、優しく語り掛けるように言葉を紡ぐ。アリアの甘く柔らかな歌声に、情緒豊かで穏やかなピアノの音が絡み合って、世界が少しずつ色付いていく。
そこに筆を添えるように、ニーナのサックスの音が入り、物語は大きく動き出した。
『花の散った草木もまた蕾を付けるように
君の長い夜もやがて光に包まれる』
光が差して世界の色が変わっていくように、曲は展開し、アリアの歌声は上へ上へと伸びていく。サックスの旋律とピアノの刻みが鮮やかに響き、そして曲はサビへと盛り上がっていく。
『悲しみに吞まれないで 顔を上げて
世界はほら こんなにも色で満ちている
君が前を向けるように心に魔法をかけるよ
世界はほら いつだって君の歌を待っている』
アリアの高音が伸びやかに響き渡る。光を纏ったかのような美しい歌声が会場を包み込み、誰もがその輝きに夢中だった。アリアは願いを込めて、一人一人に魔法を掛けるように、客席を見回しながら歌った。自分たちの歌が、誰かが上を向くきっかけになるように。
一番を歌い終えて、間奏はユウトの独壇場。彼の持つ表現力とテクニックを駆使して、嵐のように聞いている人を巻き込む。明快なリズムと、弾むようなメロディー。体全体を使って、まるでピアノと一心同体のように、最大限の音を引き出していく。
ユウトの瞳はきらきらと輝いて、弾くことが楽しくて仕方がない様子だった。アリアが手拍子を始めれば、観客も少しずつ彼女に倣って手を叩く。最大限の盛り上がりになったところで、曲は変化していき、次の段階へと進んでいく。
ユウトのソロが終わり、会場が拍手に包まれると、今度はアリアとニーナの掛け合い。
ニーナの楽しげに誘うような音に、
『手を伸ばすのを辞めないで』
応えるようにアリアが歌う。
ユウトは二人の掛け合いに微笑みを湛えながら、細やかで軽快なリズムを刻んでいた。
アリアの歌に応じて、一層陽気なサックスの音。ニーナが一番こだわってアレンジした、難易度の高い、細かく入り込んだ煌びやかなフレーズだ。
『星に手が届かなくても』
アリアもまたその音に応え、言葉を大切に紡ぎながら、ゆっくりと右手を前に伸ばした。
そしてクライマックスを迎え、伴奏が一度止んだ。
『大切なものはいつでも 君の中に眠っている
その蕾はいつか 美しい花を咲かせるから』
静寂を切り裂いたのは、アリアのアカペラ。この曲で一番の高音が、彼女の最大の声量で鳴り響く。その圧倒的なロングトーンに、ニーナとユウトの演奏が重なり、最高潮の盛り上がりを見せる。畳みかけるような二人の演奏に、アリアは何度も聴いているにも拘わらず、全身に電流が走るような興奮を感じた。
大きな波が押し寄せるように、二人の音が響き合い、高めあって、やがて物語は終わりを告げる。最後の音を二人が息ぴったりに鳴らし、一瞬の静寂の後、歓声がわあっと沸き上がり、割れんばかりの拍手が三人を讃えた。
今まで経験したことのない熱気に圧倒されながらも、アリアたちは顔を見合わせて、揃って客席に礼をした。
「ありがとうございました」
幸福に満たされた夢から醒めるのを名残惜しく思いながらも、三人は舞台を後にした。
舞台を降りて、会場を出た途端、三人は歓声を上げて興奮のままに手を取り合った。
「すごい、すごいわ、ニーナ、ユウト! 今までで一番楽しい演奏だった!」
「アリアも最高だったよ! ああ、もう一度舞台に戻りたいなんて思ったの初めてだ!」
「信じられないわ、まるで夢を見ていたみたい……最高の気分!」
はしゃぎ合う三人を、通行人が穏やかに見守る。周りの視線に気付いたアリアは、紅潮していた頬をさらに真っ赤にして、声を潜めた。
「とにかく、一旦楽屋に行きましょうか」
アリアの様子に、二人も周りの視線に気付いたのか、ばつが悪そうに小さく頷いた。
楽屋に戻ったアリアたちは、それぞれ水を飲んだり、楽器の片付けをしたりしながら、抑えきれない興奮を話し合っていた。
「それにしたって本当にすごかったわ! 優勝できちゃうかも」
「ニーナってば楽観的すぎるよ……と言いたいところだけど、正直僕もそう思っちゃったよ。それくらい、最高だった」
「そうよね、演奏している私たちがここまで楽しめたのだから、きっと観客の皆さんも楽しんでくれたはずだわ。やれることは全てやったのだから、あとは結果を待つだけね」
アリアはまだ火照る頬に手を当ててそう言った。
「ああ、まだ現実に戻りたくないくらいだけれど、会場には戻らなくっちゃ。マルクの演奏には間に合いたいものね」
「えっと、マルクの演奏は、七番だからあと五分くらいね。ああ、もうすぐじゃない! 行かなくっちゃ」
ニーナはそう言って速足で楽屋を出た。
「あ、待ってよニーナ! 僕も行くけど、アリアは?」
「私はもう少しだけここで休んでいくわ」
そう、と頷いてユウトは慌ててニーナの後を追った。
二人の背中を見送った後、アリアは一人、ふう、と息を吐いて呟いた。
「やれることはやった。不安もあるけれど、足を止めてはならないわ。……私は絶対に、歌手にならなくちゃならないのだもの」
脳裏に幼い頃に別れた母の姿が朧げに浮かぶ。目を瞑り、アリアは拳を強く握りしめた。
「お母様に見つけてもらえるくらいの、一番星にならなくっちゃ」
瞼を開いて、アリアは歩き出した。
会場に戻ると、ちょうどニーナが聴きたがっていたマルクたちのジャズの演奏が始まるところだった。
マルクのアルトサックスに、コントラバス、ピアノ、そしてドラムの四人構成のジャズバンド。慌ただしく、しかし軽やかなアレグロ調の音楽を奏でると思えば、突然緩やかになったりと、緩急が楽しい音楽だ。列車が揺れるように、一定のリズムを鳴らすドラムは心地よく、情緒溢れるピアノと絡まるサックスの豊かな音色が歌うように流れていく。コントラバスのピッチカートは軽快で、体を直接揺らしてくるかのようだ。
ふと隣のニーナをちらりと見れば、彼女は体を前のめりにして、左右の拳を握り締め、食い入るように演奏を聴いていた。
演奏がどんどん加速して、和音で曲が終わると、もう終わってしまったのか、と名残惜しく思いながらも、アリアは席を立って大きな拍手を送った。
それからの演奏も、素晴らしいものばかりだった。ユウトが楽しみにしていたピアノソロは、ピアノそのものが歌っているような錯覚がするほど、ピアノの音を最大限に引き出していた。その圧巻の演奏には、一音目から鳥肌が止まらず、自分の息の音さえ邪魔だと思えるほどの完成度。圧倒されたユウトは演奏の後もしばらく拍手せず、呆けたように舞台上を見つめていた。
アリアが楽しみにしていた合唱団は、今までの合唱の概念を覆すような、革新的なアカペラだった。歌だけだというのに、いや、歌だけだからこそ、言葉が直球で体を震わせ、その和声に恍惚と溺れるよう。決して大人数ではない、十数人の合唱だったが、その激しさは数十人分、あるいはそれ以上。アリアはそのパフォーマンスに大きな衝撃を受けた。
ヘレナ以外にもソロで出ている歌手が多くいたが、その中でもアリアが印象的だったのはテノール歌手の男性の演目だった。クラシックと大衆音楽を融合させたようなスタイルで、伝統的な音楽を織り交ぜた歌にもかかわらず新鮮さがあり、その甘く柔らかな歌声で紡がれる物語は切なくも美しく、アリアは少し目が潤んでしまったほどだった。
そうして、時間は瞬く間に過ぎて、三十組すべての演奏が終わった。
「すべての演奏が終了しました。これから、オーディエンス賞の投票を開始します。五分後にスタッフが回収に参りますので、パンフレットに挟まれている投票用紙に記入をお願いいたします」
休憩時間に入り、ざわめきだした会場で、アリアは上の空で時間が過ぎるのを待っていた。
「オーディエンス賞、誰になるんだろうね」
「そうねえ、私だったら全員に賞をあげたいわ! それくらいどの組も良かったもの」
「はは、確かに、ニーナの言う通りだ。出場者に投票権がなくて助かったな。……アリアはどう思う?」
ユウトの言葉に、アリアは我に返った。
「え、ええと、そうね。みんな良かったと思うわ」
アリアには正直、オーディエンス賞のことを考えられる余裕などなかった。他の組の演奏を聞けば聞くほど、自分の歌に自信が持てなくなり、不安が大きくなる一方だったのだ。
ニーナのサックスも、ユウトのピアノも、彼らの最高のパフォーマンスだった。だが、自分は? 全力を尽くしたはず、自分には優勝を狙える実力があるとカミラも言ってくれた。それなのに、何がこんなにも引っ掛かっているのだろう……。
「アリア、大丈夫? なんだか疲れているみたいだわ」
ニーナの言葉に、アリアは曖昧な笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。でも、そうね、ちょっと圧倒されちゃったかも。どの組も本当に素敵だったから、私の歌はどうだったかしらと心配になってきちゃって」
「あら、そんなことで悩んでいたの! 最高だったわよ、それも今までで一番に!」
「ニーナの言う通りだよ。もっと自信を持つべきだよ、こんなに素晴らしい歌手と一緒に演奏できたのを、僕は誇りに思っているよ」
その言葉を聞いてなお、心のもやは取れないままだったが、アリアは少し気持ちを落ち着けることが出来た。
「ありがとう、ニーナ、ユウト。二人の演奏も最高だったわ」
ニーナとユウトは、当然とでも言いたげに、にっこりと笑って頷いた。
五分の休憩時間が終わり、投票用紙が回収されると、突然会場の照明が落とされ、声高らかにアナウンスが響いた。
「さて、集計作業の間、特別審査員でもあるエルヴィーラ・フォルストが、一曲披露いたします。それではお聞きください。エルヴィーラ・フォルストで、『月光』」
エルヴィーラのパフォーマンス! この言葉に、先程までのアリアの悩みは一気に吹き飛び、代わりに抑えきれないほどの興奮と期待が沸き上がってきた。あのエルヴィーラの生歌が聞けるなんて! しかも、『月光』はエルヴィーラの代表作で、アリアの一番好きな曲だった。
ピアノのゆったりとした前奏が流れ始め、次第に明るくなるスポットライトの下に、彼女はいた。腰まで届く、流れるようなシルバーブロンドと、白銀のマーメイドドレスが、光に照らされて輝いた。
すう、と小さく息を継いで、エルヴィーラは歌いだした。
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