第十五話 進め

 ヘレナが物心ついて最初の記憶は、ヴァイオリンを弾く母の側で歌っている自分だった。

「ヘレナは本当に歌うのが好きね」

 母がそう言って優しく頭を撫でてくれて、嬉しくて堪らなかったのをよく覚えている。


 ティール家は、代々音楽家の家系だ。祖先には有名な作曲家、父は都で一番のオーケストラの指揮者、母は一流ヴァイオリニスト。その家に生まれたヘレナも、幼少期から楽器を習わされ、一流の演奏家になることを望まれていた。

「今日もピアノのレッスン。明日はヴァイオリンのレッスン。楽器ばっかり! わたしは歌が歌いたいのに」

 ヘレナがそうこぼすと、ピアノ教師は首を横に振った。

「いけませんよ、お嬢様。ピアノに集中なさい」

 ヘレナはむっと頬を膨らませながら、渋々ピアノに向かった。


 ヘレナも練習に励んだものの、兄や姉ほど上達せず、子供たちを音楽家に育てようとしていた父からは、次第に期待されなくなった。その一方で、独学で声楽を学び始めたヘレナの歌はみるみるうちに上達し、いつしか彼女は歌手を夢見るようになっていた。

 ヘレナが十二歳ほどになったある日、彼女のヴァイオリンを見て父は顔を顰めた。

「ヘレナ、お前は楽器の扱いが雑すぎる。楽器というのは、職人の繊細な作品なんだ。お前が使っているものも、良質な一級品だぞ、わかっているのか」

「お父様、そんなこと言われても、好きになれないものを大事になんてできないわ。私は歌がやりたいの、何度も言ったでしょう?」

「楽器の一つも満足に弾けないものが、何を馬鹿げたことを言っている? それにお前は低俗なレコードばかり集めおって、あんなもの芸術でも何でもない」

「低俗だなんて、まともに聞いたことすらないくせに! もういいわ、お父様に認められなくとも、私は私で勝手にする」

 そう吐き捨てて、彼女は部屋の扉をバン、と乱暴に閉めた。


 厳格な父の反対を押し切って、ヘレナは一切の楽器を辞め、本格的に歌手を目指し始めた。父を始め、他の兄弟たちにも見放されたヘレナだったが、母だけは彼女のよき理解者として側で見守ってくれた。

「ヘレナ、あなたならきっと素敵な歌手になれると思いますよ。私の知り合いに歌の先生がいますから、習ってみてはどうかしら」

「本当に? いいの?」

「ええ、もちろん。ヘレナが歌を大好きなのは知っているし、本気なのもわかっていますから」

 そう言って優しく微笑む母に、ヘレナは思わず抱き着いた。

「ありがとう、お母様! 私、絶対に素晴らしい歌手になってみせるわ」

 そうして母の勧めで声楽講師に習うことになり、ヘレナは大衆音楽の道を進み始めたのだった。


 昨年の夏、十五歳になったヘレナは、街の掲示板にあったポスターに足を止め、じっと見つめた。

「ヘルブスト新人音楽コンテスト……国中から実力者が集まるこの機会に、結果を残せたら、きっとお父様にも認めてもらえる。歌手の夢にも近づける……」

 ヘレナは迷うことなくすぐに申し込みをした。


 予選は難なく通った。この調子なら、本番もきっと上手くいく。確信に近い希望を持って、ヘレナは当日を迎えた。

「待っていて、お母様。私、優勝してくるから」

「楽しみにしているわ、行ってらっしゃい」

 にこやかに手を振る母に送り出され、意気揚々とヘレナは会場に向かった。

 しかし、目的地に着いたとき、彼女は頭を殴られるほどの衝撃を受けることになった。

「何これ……こんなに人がいるの……?」

 想像を絶するほどの人混みに、ヘレナは気を失いかけて、ふらりと地面に膝を着いた。

 不運なことに、このコンテストは、ヘレナにとって初めての舞台だった。人に見られることに慣れていない彼女は、今までに感じたことのないほどの緊張に見舞われてしまったのだった。


 そこから舞台に至るまでの記憶は、あまり残っていない。開会式でも、他の人のパフォーマンスでも、ヘレナは自分のステージのことで頭がいっぱいで、ほとんどパニック状態だった。

 気付いたら自分の番になり、上の空のままヘレナは舞台に足を踏み出した。


 頭の中は真っ白で、ただ、体に染みつくほど歌ったメロディーをなぞる。一番の歌詞を歌い終えるころには、ヘレナの脚はがくがくと震え、立っているだけでやっとだった。舞台上に長い時間いればいるほど、客席が気になってしまい、静かに聞いている聴衆の視線が体中に痛いほど突き刺さった。

 二番を歌い終え、フィナーレに入る時だった。突然、嫌になるほど歌ったはずのその歌の続きが、彼女の頭の中から消えてしまったのだ。

 歌わなければいけないのに、口を開いても歌声は出て来ず、代わりに浅い呼吸の音が鳴るだけ。ヘレナは真っ青な顔で下を向いた。視界が滲み、ぽたり、ぽたりと雫が足元に落ちていく。……止まらない涙を拭うこともせず、ヘレナは舞台の真ん中で、孤独に立ち尽くした。

 伴奏だけが流れる一分間が終わり、客席からはブーイングが飛び、物を投げてくる客もいた。

「親の七光め!」

「コンテストの恥だ!」

 彼女はそれらに見向きもせずに、舞台上を後にした。


 言うまでもなく、結果を残すことのできなかったヘレナは、コンテスト終了後、心ここにあらずといった様子で、楽屋に一人、膝を抱えていた。

「お母様になんと言えばいいのかしら。ああ、これじゃ、お父様の言う通りだわ。……私には無理だった」

 無理だった、と呟いた瞬間、ヘレナの中で虚しさが悔しさに変わった。ここで終われない。このままじゃ、私は私を許せない!

 楽屋のドアを睨んだその時、何者かがドアをノックする音が聞こえた。

「……どなたですか」

 立ち上がりドアを開くと、そこには小太りの婦人が立っていた。肩まで掛かる豊かなウェーブの茶髪に、洗練された華やかなドレス、そして大粒の真珠のネックレス。その見るものを圧倒するオーラに、ヘレナは思わず後ずさった。

「初めまして。私はカミラ・ベルクマイスター。ハインツェ音楽教室の声楽講師よ。

 あなたのステージ、とてもいいものとは言えなかった。けれど、歌の表現力や技術をしっかり磨いてきたことはちゃんと伝わったわ」

「え、ええ、ありがとうございます、光栄です」

 戸惑いながらもヘレナは小さく礼をした。この人は一体、何をしたいのだろう?

「ヘレナ・ティール。あなた、私の音楽教室に来ない? まだ蕾だけれど、あなたには才能がある。予選を通過しているのがその何よりの証拠。私なら、必ずあなたを一流まで育て上げられるわ」

 突然のことに驚いた彼女の見開かれた目から、涙が伝った。ぼろぼろと溢れ出した涙を拭いながら、ヘレナは途切れ途切れに尋ねた。

「才能が、ありますか、私」

「ええ。今まで多くの歌手の育成をしてきたけれど、あなたほどの人は……ここまで努力ができる人は、なかなかいないわ」

 曲が飛ぶほど緊張しているにもかかわらず、あれだけ歌うことができた。相当練習を積み重ねたものでなければ出来ないことだ、とカミラは言った。

「それに……歌は評価できる状態のものではなかったけれど、あなたの、耳に残る印象的な歌声は天性のものね。磨かれたその歌声を聴いてみたい、私の手で磨いてみたいと思ったわ」

 ヘレナは、この時、今まで生きてきた中で一番報われた気分だった。ここまでやってきたことは、決して無駄ではなかったのだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 ヘレナは深く頭を下げた。


 そして今、再びヘレナはこのステージに戻ってきた。前とは違う確かな自信と、持ち続けた強い信念を持って。

「エントリーナンバー一番、ヘレナ・ティール。曲目は、『進め』!」

 ヘレナは背筋をぴんと伸ばし、大股で堂々と舞台上に足を踏み出した。


 ヘレナが立ち止まると、スポットライトが点灯し、彼女の深紅のドレスに施された金糸の刺繍が、美しく瞬いた。

 数秒の静寂ののち、ヘレナは口を大きく開いた。

『今こそその時 立ち尽くす旅人よ 道なき道を切り拓け』

 鼓膜に直接刺さるようなはっきりとした声で、最初の歌詞を放った瞬間、ピアノのグリッサンドが鳴り、弦楽器が情熱的に旋律を奏でる。

 会場はもう、ヘレナの歌に吞み込まれていた。

 前奏が終わり、伴奏は少し落ち着いて、失意の中の様子が描かれる。

『壁ばかりの人生 道しるべさえ失くして 一人迷い込んだ夜

 溢れる涙を飲み込むごとに脚は竦んでいた』

 彼女はその歌詞に過去の自分を重ねていた。あの日の聴衆の視線が、責め立てるような声が掠める。それでも、もう俯かない。ヘレナは世界に呼びかけるかのように、歌い続けた。

『弱さを隠すのは強さじゃない

 弱さを受け入れるのが強さなのだから

 震える手を強く握って 私は行くの』

 激しいリズムを刻んで盛り上がっていくピアノと、クレッシェンドで高まっていくヴァイオリンの音色。彼女は大きく息を吸って、力強く言葉を放った。

『咲け 荒野の花のように

 飛べ 巣立ち始めた鳥のように

 私はやれる 進んでいける

 胸に灯った炎が消えない限り』……


 ヘレナのステージは、大成功だった。歌が終わると、少しずつ拍手が増えていき、それはやがて大きな波になって会場を包み込んだ。立ち上がって拍手をする人や、感激の声を上げる人もいて、ヘレナは茫然と客席を見渡した。

「ありがとうございました」

 大きくお辞儀をして、ヘレナは唇を噛み締めた。そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだった。喜びで胸がいっぱいで、達成感と安心で力が抜けそうになって、慌ててヘレナは背筋を伸ばした。

「お母様。私、やったわ。最後までちゃんと歌えた」

 ヘレナは客席を潤んだ瞳で見つめながら、小さく呟いた。


 客席で演目を聴いていたアリアは、会場を包み込んだ拍手に我に返って、慌てて自分も拍手を始めた。

「アリア、どうしたの、ぼうっとしちゃって」

 ニーナの問いかけに、アリアは舞台をぼうっと見たまま答えた。

「……すごかった。迫力があったし、圧倒されちゃったのに、どうしてかしら、なんだか勇気をもらった気がするの……」

 アリアの頬は上気して、心臓はばくばくと脈打っていた。

「私、ここに来られて、本当に良かった」

「まだそれを言うのは早いよ。ほら、もうじき僕たちの番だ、準備しに行かなくっちゃ」

 ユウトの言葉に、アリアは頷いた。ニーナも両手で頬をぱちんと叩いて、

「そうね! 次はツァウベラーの実力を見せつける番だわ」

 と立ち上がった。


 それから三人は楽屋に戻り、声出しや楽器の確認などをしていた。

「僕、ちょっと外の空気を吸ってくるよ」

「行ってらっしゃい、体を冷やしちゃいけないからすぐ戻ってきてね」

「はいはい。アリアは心配性だよね」

 ユウトが楽屋を去ってしばらくして、沈黙していたニーナが口を開いた。

「ねえ、アリア。本当にありがとうね」

 ニーナがしんみりとそう言うので、アリアは驚いて声を上げた。

「えっ、急にどうしたの、ニーナったら」

「私、アリアと出会わなかったら、音楽がこんなに面白いんだって知ることも、コンテストに出ることもなかった。……私、ブラスバンドは馴染めなくてすぐ辞めちゃったし、広場のみんなも、私のこと甘やかすばっかりで、対等には見てくれていなかったと思うの。ユウトだって、年下なのにちょっと過保護なところがあるし。私を対等に見てくれたのは、アリアが初めてだと思う」

 ニーナはもじもじと指先を弄りながら、照れくさそうにそう言った。

「私、アリアが外の世界に連れ出してくれるのを待っていたのかもしれない。だから、ありがとう、アリア」

 アリアはニーナに駆け寄り、その両手をそっと包み込んだ。

「それは私の台詞よ、ニーナ。最初にニーナが声を掛けてくれたから、私たちは今ここに三人で来られたんだもの。ありがとう、ニーナ」

 二人はじっと見つめ合ったのち、なんだか可笑しくなってふふふ、と笑い出した。

「まだ演奏も終わってないのに、もう優勝したみたいなやり取り! 感謝し合うのはまだ早いわ、本番頑張りましょう」

「もちろんよ、アリア! 私たちの絆を見せつけてやりましょう」

 そこに、楽屋に戻ってきたユウトが、二人の間に割り込んできた。

「ちょっと、僕を蚊帳の外にしないでよ! 一体二人で何を話してたの」

 アリアとニーナは顔を見合わせて、それからユウトを見て、同時にこう言った。

「内緒!」


 そうしてとうとう、三人の出番になり、アリアたちは舞台袖で待機していた。

「二人とも、今は緊張してない?」

 アリアが尋ねると、二人は大きく頷いた。

「審査員だけの前でやるより、やっぱりお客さんがいた方が私は緊張しないかも。わくわくしてきちゃった!」

「僕も、なんだかもう緊張しつくしちゃったみたいだ。一周回って今は落ち着いてるよ」

「頼もしいわ。私、実は少し緊張しているのだけど、でも、二人が一緒なら大丈夫って思える」

 はにかんだアリアに、ニーナとユウトも微笑み返した。

「私たちなら大丈夫よ! 楽しくいきましょう」

「うん、今はただ、お客さんに楽しんでもらうことだけ考えよう。大丈夫」

 二人の言葉に、アリアはこくこくと頷いた。

「エントリーナンバー四番、ツァウベラー。曲目は、『魔法』!」

 司会のアナウンスが大きく会場に響く。三人は目くばせをし合ってから、舞台へと足を踏み出した。

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