第十四話 夢への一歩

 コンテストの予選から一週間ほどが経ち、アリアたちは広場で一通の封筒を囲んでいた。

「開けるわよ……」

 ニーナが慎重に封を切り、中から便箋を取り出した。二人は恐る恐る覗き込んだ。

「一七六番、ツァウベラー……合格だって!」

 ニーナが悲鳴のようにそう告げた。わあっと三人は歓声を上げた。

「やった、やったよ、僕たちやったんだ!」

「ああ、良かった! ミスも多かったし、どうなることかとひやひやしたわ」

「本当に、良かった、アリア、ユウト! 私たち本選に出られるのね」

 三人はハイタッチしたり飛び跳ねたり、ひとしきり騒いだ後、冷静になったユウトがふとこう言った。

「でも、当然だよね。ぼくたちが目指しているのは、本選に出ることじゃない、優勝することなんだから」

「でも、予選で一番神経質になっていたのはユウトじゃない」

「そんなことないよ! そんなこと言ったらニーナだって、演奏の時に震えてたじゃないか」

「でもユウトは会場に着いたときから、ずうっとぶつぶつ言っていたじゃない」

 また言い合いを始めた二人を、アリアは苦笑いしながら仲裁した。

「終わったことなんだから、もういいじゃない。それより本番よ。まだ夢への一歩を踏み出しただけだもの、ここからが勝負だわ」

「そうね」「そうだね」

 アリアの言葉に、ニーナとユウトは争いを止めた。


 三人で合格を確認した後、アリアは真っ先にカミラの元へ向かった。

 合格の報告を聞いて、カミラは厳しく張り詰めていた表情を和らげた。

「そう、合格していたのね。まあ、私としては、そうでしょうともという気持ちだけれど。ああ、ヘレナも合格したわよ。教え子二人のステージ、楽しみにしているわ」

 言葉こそ淡白だったが、カミラの声は上機嫌に弾んでいた。

 都に来たばかりの頃とは違って、私はこの人に、期待されている。アリアはカミラの反応にそれを感じて、全身に緊張が走るのを感じた。

「予選前以上にみっちり扱くわよ。覚悟はおあり?」

「もちろんです」

 アリアは真っ直ぐにカミラを見て、強くそう言い放った。


 そうして、本番への準備を進めるうちに、あっという間に時間は過ぎ、気付けばもうコンテスト前日になっていた。

 アリアはすでに昼までに全ての準備を終え、明日に備えて部屋で休んでいたのだが、緊張と不安で心がなかなか休まらずにいた。

「明日が本番……とうとう明日なのね。期待してくれているカミラさんに、だめなところは見せられないわ。支援してくださるベックマンさんのためにも、結果を出さないと……大事なコンテストの前日なのだし、この間染めたばかりだけれど、髪を染めておこうかしら……」

 アリアはおもむろに染髪料に手を伸ばした。

 彼女の髪は、染めてからまだ一、二週間程度とはいえ、生え際は既に少しずつ白くなり始めていた。それに、元の髪が白いアリアは、染髪料の黒が抜けやすく、まだあまり抜けてはいないものの、少し色が薄くなってきていて、緊張で神経質になった彼女にはそれも気掛かりだった。

「髪を染めると心が落ち着くなんて、馬鹿みたいだわ。私は白い髪のアリアのはずなのに……」

 わずかに見えていた白い部分を黒く染めていく。それはまるで、弱い本当の自分を覆い隠すようで、虚しく思いながらも、アリアのざわついていた心は静まっていくのだった。


 コンテスト当日、アリアたちは三人で会場に向かっていた。

「ああ、やっと本番だわ! 私、あんまり楽しみすぎて、時間が倍速く流れないかなって願ってた」

「じゃあ僕の時間が倍速く感じたのはニーナのせいかな。もっと時間があると思っていたのに、なんだかあっという間だったよ……」

 いつも通り元気そうなニーナと、すでに疲れたような声のユウト。そして二人に挟まれたアリアは、来るコンテストへの緊張と高揚、期待と不安で、心がぐしゃぐしゃになりそうだった。

「今日が本番だなんて、信じられないわ……早く終わらせてしまいたいような、永遠に来ないでほしいような、複雑な気持ち」

「わかるよ、僕はどっちかと言うと出来るだけ延期したい方だけど」

「私は早く舞台に立って、ずうっと演奏していたいわ!」

「うん、ニーナはそうだろうね……」

 そんなやり取りをしているうちに、三人は会場に辿り着いた。

「わあ、なんて人だかりなの! 全員お客さんなのかしら」

ニーナが周りを見渡してそう言った。

 開演まで二時間ほどあるというのに、会場の周りには長蛇の列が出来上がっていた。老若男女、様々な人で賑わっており、皆、開場を今か今かと待ちわびている。

「こんな早くからみんな並ぶのね」

 驚いたアリアに、ニーナが自慢げに説明した。

「なんていったって、都で一番有名な新人コンテストだもの! 当日券は早く来ないと売り切れちゃうのよ。私も去年は抽選の前売り券が買えなかったから、頑張って並んで買ったわ」

 へえ、とアリアが感心して客の方を眺めていると、人混みの中から誰かが小走りでこちらに向かってくるのが見えた。綺麗に結われた赤毛と流行らしい洒落た若草色のドレスに気付いて、アリアは驚きの声を上げた。

「まあ、オリヴィア! 来てくれたのね」

 それはエリスの同僚、オリヴィアだった。

「アリア! 今日の演奏、楽しみにしているわ」

 オリヴィアはチケットを顔元で振り、にっこりと笑った。

「エリスから頼まれてきたの。私の代わりにアリアの晴れ舞台を見届けてきて! ってね。これ、エリスから」

 オリヴィアに差し出された紙袋を受け取ると、アリアはすぐに中を確認した。

「これって……」

 中には、可愛らしい赤いガーベラを模ったブローチが入っていた。

「お守りにして、だそうよ。エリスったら、二か月も前から作り始めちゃって。ショーの準備があるとはいえ、気合が入りすぎよねえ」

 思わぬサプライズに、アリアは目を潤ませて何度も礼をした。

「ありがとう、オリヴィア、本当にありがとう。私、頑張るわ」

「どういたしまして! 演奏、楽しみにしているわ」

 オリヴィアが去り、ニーナとユウトがアリアの手元を覗き込んだ。

「本当に良く作られているわね。あれ、紙袋の中、まだ何か入ってない?」

「まあ、本当だわ。メッセージカードみたい……」

 ニーナに言われて中のものを取り出すと、そこにはこう書いてあった。

『ガーベラには希望という意味があるの。中でも赤いガーベラは、挑戦という意味があって、アリアにぴったりだと思って作ったわ。これを私だと思って側に置いてね。エリスより』

 メッセージカードを読んだアリアは、涙が零れだしてしまいそうだった。

「本当にいいお友達だね、エリスさん」

 ユウトの言葉に、アリアは首を横に振った。

「いいえ、エリスは私の姉のようなものよ。大切な家族だわ」

 アリアはブローチを胸に当てて、花が咲くような笑みを浮かべた。


 中に入ってすぐに、アリアたちはステージ衣装に着替えた。

 カミラが手配してくれたスタイリストは、それぞれに合ったドレスやスーツを用意してくれていた。

 アリアの衣装は、鮮やかな橙色の、ロングスカートの優雅なドレス。すらっとしたシルエットが美しく、洗練された印象を受ける。

「あの、このブローチをどこかに付けていただくことは出来ますか?」

「素敵なブローチですね、ドレスの雰囲気にもぴったりですから、胸元に付けましょうか」

 スタイリストは微笑んで、エリスのブローチをそっと付けてくれた。

「アリア、衣装はもう着た? ……まあ、なんて素敵なの! まるで太陽のようだわ」

「ありがとう、ニーナ。ニーナのドレスも素敵よ、まるで光を纏っているみたい」

 ニーナの衣装は、レモンイエローのふわっとしたシルエットのドレスだった。動くたびにスカートの裾が揺れ、それが花のようだとアリアは思った。

「それじゃあ楽屋に戻りましょう、ユウトが待っているわ」

 ニーナがアリアの手を引いて、二人が楽屋に戻ると、ユウトは少し不機嫌そうにむすっとしていた。

「ユウト、どうしてそんな顔をしているの?」

 ニーナの問いかけに、ユウトは二人の方を見て、驚いたように目を見開いた。

「わあ、二人とも、その、なんていうか、見違えたね。誰かと思ったよ」

「綺麗だね、とか言ってくれないの?」

 ニーナがそう言うと、ユウトは顔を赤らめて、それを隠すように顔を背けた。

「だから、見違えたって言っただろ。……悪くないと思う」

 どうやら思春期の男の子には、これが精一杯のようだった。アリアは少し苦笑いして、話題を変えることにした。

「ユウトの衣装も、とっても素敵よ。白いスーツがとてもよく似合っているわ」

 ユウトはシンプルな白のスーツに、胸元に黄色とオレンジの花のコサージュを身に着けていた。

 だが、ユウトは顔を顰めた。

「こんなしっかりした服装をさせられるなんて。しかも白いスーツ! 恥ずかしいよ。黒が良かったなぁ」

 ユウトは自分の衣装が気に入らないらしい。確かに、ここまでしっかり決めたユウトは、普段の服装からは想像もつかない。

「いいじゃない、折角の晴れ舞台なんだから。それに黒いスーツじゃ暗すぎるわ」

 ニーナにそう宥められて、ユウトはがっくりと肩を落とした。

「そうなんだけど、落ち着かないよ。ピアノのコンクールだって、もっと地味な格好だったのに……」

「仕方ないわよ。それより、最後の確認をしましょう。限られた時間を有効に使わなくっちゃ」

「そうだね。こんなことで時間潰している場合じゃないや」

「アリアの言う通りね」

 二人が賛同すると、アリアは早速楽譜を取り出して確認を始めた。


 そうしているうちに、とうとうコンテストの開演時間になった。会場に入り、関係者席に座ると、アリアは楽屋で受け取ったパンフレットを開いた。

「あ! ねえ、ニーナ。マルクも予選を通過したみたいよ。ほら、このジャズバンドのメンバーの中に名前があるわ」

 アリアが指さした個所を左隣から覗き込んで、ニーナは驚いて声を裏返らせた。

「えっ、本当! じゃあマルクの演奏も聴けるのね!」

「へえ、ジャズバンドなのか。僕たちもジャズバンドだし、敵情を知っておくのもいいかもしれないな」

 右隣からユウトもパンフレットを覗き込んでは、腕を組んで真面目な顔で頷いた。

「それにしても予選通過した三十組、本当に個性豊かだわ。私、この合唱団が気になるかも」

「アリアは本当に歌が好きね。私は、うーん、全部聞きたいわ!」

「自分たちの準備もあるんだから、全部なんか聴けるわけがないだろ。……僕はこの、ピアノソロが気になるな、このコンテストで、ピアノ一つでここまで上がって来れるなんてすごすぎるよ」

「そうね、私も正直全部気になるけれど……やっぱり、ヘレナ・ティールのことがずっと頭から離れない」

 ぽつりと呟くように言ったアリアに、ニーナとユウトはにやりと笑った。

「アリアのライバルだものね」

「誰にだって負けたくはないけど、それにしたって一番負けたくない相手だよね」

「……そうね」

 同じ歌手志望として。カミラの教え子として。負けてはいられない相手だ。アリアは強く頷いた。


 しばらくすると、ブザーが鳴り、会場の照明が落ち、声が大きく響き渡った。

「ご来場の皆さま、お待たせいたしました。秋の音楽の祭典、第十二回ヘルブスト新人音楽コンテスト、これより開演いたします!」

 司会のアナウンスに、客席が歓声に沸いた。あまりの盛り上がりに、アリアはまた緊張で体がこわばった。これだけの人々の前で演奏するなんて! 故郷の復活祭の舞台のときとは比べ物にならないほどの観客の数、そして会場の熱に、アリアは圧倒されるばかりだった。

「皆様のご協力により、今年も例年通り開催できることをお礼申し上げます。まず、主催のアンゲラー氏より、皆さんにご挨拶を申し上げます。……」

 主催の挨拶が終わると、審査員の紹介に入った。音楽界の有名人である数名の名前が呼ばれたのち、会場にはあの特別審査員の名前が響き渡った。

「……そして、特別審査員のエルヴィーラ・フォルスト!」

 名前を呼ばれたエルヴィーラは、優雅に一礼をした。豊かな長い銀髪が、ライトの光できらきらと光り、アリアはその姿に目を奪われた。カミラとはまた違う、神秘的ともいえるカリスマ性のあるオーラは、遠目からでも存在感がある。これから憧れのあの人の前で、私は歌うのだ。アリアは気を引き締めた。

「さて、審査員の紹介も終わりましたので、これよりコンテストの審査の仕組みを説明します。

 まず、最優秀賞は審査員の点を最も集めた者に与えられます。また、審査員が今後に期待できると判断した者には審査員特別賞を、会場の皆さまの票を最も集めた者にはオーディエンス賞を、それぞれ授与します」

「優勝以外にも賞があるのね」

アリアが呟くと、ユウトが隣で相槌を打った。

「そうだね。僕も知らなかったよ。ニーナは去年観に来たから知ってるよね、どんな感じだった?」

「去年は最優秀賞とオーディエンス賞は同じで、審査員特別賞の受賞者はいなかったの。実質、最優秀賞以外に道はないと見ていいんじゃないかしら」

 ニーナの言葉に、アリアは内心がっかりしながらも、なるほど、と頷いた。優勝できなくても、他にも道があるのかと思ったのだが、そう甘くはないらしい。アリアは改めて、優勝への決意を固くした。


「いよいよ五分後に、コンテストの演目が始まります。今しばらくお待ちください」

 開会式が終わると、隣に座るニーナが、アリアの肩をつんつん、と突いてきた。

「どうしたの、ニーナ」

「ねえ、これを見て。一番最初の演目、ヘレナ・ティールよ」

 ニーナのパンフレットを覗き込むと、確かにヘレナの名前が、プログラムの一番目に載っていた。


 その頃、ヘレナは舞台裏で、強張る頬を強く叩いて、小さくこう呟いた。

「大丈夫よ、ヘレナ。私はヘレナ・ティール。このコンテストの優勝候補、ヘレナ・ティールなんだから……」

 ヘレナは深呼吸をして、舞台の方を真っ直ぐに見て、一歩を踏み出した。

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