第十三話 幕開け

 日曜日、アリアはいつも通りエリスとともにミサに向かっていた。

「まあ、コンテストに出るの! 頑張って、アリア!」

 道中、エリスにコンテストの話をすると、彼女は目を輝かせた。

「ありがとう。予選を通過したら、本番を見に来てくれる? 私、エリスがついていてくれるなら、いつも通りのパフォーマンスが出来る気がするの」

「もちろん、見に行くわ。本番はいつなの?」

「予選は一か月後、本番はあと二か月弱くらいよ」

 するとエリスは、なぜか残念そうに肩を落とした。

「ああ、なんてことなの! 実は私、その時期に、大事なファッションショーの準備があるの。いくつか自分でデザインして服を作らなくちゃいけなくて、ショーが終わるまではずっと忙しいから、どうしても行けそうにないわ……」

 アリアは突然のその報告に驚いて、思わず大きな声を上げた。

「ええ、そうなの、言ってくれれば良かったのに! 残念だけれど、それなら私たち二人とも、ここからが勝負どころなのね。エリスが頑張っていると思って私も頑張るわ」

「そうね、私も、アリアのことを思い出して頑張るわ。終わったときにはお互いに良い結果を報告できるように」

 エリスがすっと手を差し伸べる。アリアはその手を掴み、二人は固い握手を交わした。


 その後、ミサでいつも通り懸命な祈りを捧げてから、アリアは宿に帰ってきた。ドアを開け廊下を進めば、共有スペースに見知った姿が見えた。

「ニーナ、ユウト! どうしたの、今日は集まる約束もしていないわよね?」

「うん、そうなんだけど、なんだか居ても立っても居られなくって。私たち、自分のパートのアレンジを考えてきたの。合わせてみたいと思わない?」

 ニーナの言葉に、アリアは弾んだ声でこう答えた。

「もちろん合わせてみたいわ! 早く広場に行きましょう」

「そう言うと思ったよ。正直、僕も早く合わせたくってたまらなかったんだ。さあ、行こう」

 ユウトもはきはきとそう言った。


 そうして広場に着いたアリアたちは、それぞれ考えてきたアレンジを一度通して合わせた。

「なかなかいい感じだと思ってたんだけど、合わせてみるとまた違うわね……」

 ニーナはがっくりと肩を落とした。

「でも、素敵なアレンジだったわよ。特にここの最後のソロ部分、華やかで惹きつけられたわ」

「そう? ありがとう、アリア。

 でも、ユウトのアレンジには負けたわ。装飾が細やかで、音の粒が光って見えるみたい」

「本当に、元の楽譜よりずっと生き生きしたフレーズだわ。やっぱりユウトは流石ね」

「あ、ありがとう、そんなに褒められるとちょっと恥ずかしいな。ニーナのアレンジも良かったよ」

「ありがとう。でもたくさん気になるところがあるから、早く修正に入りましょう」

 そわそわするニーナに、ユウトとアリアは大きく頷いた。


 そこからは、三人とも熱心に検討と修正をしていた。

「サックスパート、ここが少しごちゃついていた気がするから、装飾を減らした方がいいかもね」

「そうかも。伴奏だから主張を減らしたつもりだったんだけど、もっとシンプルな方が歌が映えるわね」

 珍しく言い争いせずに修正箇所を話し合うユウトとニーナ。真剣に取り組む二人を見て、アリアも気合を入れ直した。

「逆にここの部分はニーナの見せ所だから、もっと思い切ってアレンジして欲しいわ。いつもみたいに奔放で勢いのいい感じで。後はここのユウトのパート、もう少しリズムを強調する感じで弾いてほしいかも。うちにはリズム担当がいないから、主にピアノに割り振ったのだけど、ユウトなら出来るでしょう?」

「もちろんだよ。ピアノ教師の息子を甘く見ないでよね」

 ユウトはにやりと悪戯っぽく笑って、楽譜に鉛筆を滑らせた。

「アリアの歌は、さすが声楽の先生に見てもらっているだけあって、ほとんど直す場所はなさそうだね。しいて言えば、この辺りはもっと声量を出した方が良いと思うくらいかな」

「確かに、フィナーレは一番盛り上げていきたいものね」

 アリアも楽譜にメモ書きを加えた。


 そうして修正と合わせを繰り返し、日が暮れる頃には、三人の楽譜は鉛筆の跡で真っ黒だった。

「あー、疲れた! でも楽しかったわ、なんだか心が満たされている感じ」

「そうだね、こんなに検討が楽しいのって僕、初めてだよ」

 ニーナとユウトが大きく伸びをしながら言った。うんうん、と頷きながら、アリアも真似して伸びをしてみた。疲れて凝り固まっていた体が、そうすることで少しほぐれた気がした。


 カミラの指導は、曲を作り終えた後から一層厳しくなっていた。

「あなたの持ち味は透明感のある高音なのだから、ここはもっと響かせないとだめよ。審査員に自分の見せ所を最大限アピールするの。意識しながらもう一度」

「はい!」

「ああ、そこはもっと抑えて。強弱のメリハリが大事といつも言っているでしょう。それからこのビブラートはもっと深く!」

 ツァウベラーの三人にとっては及第点の歌も、彼女からすればまだまだ足りないらしい。カミラの指導は、怒涛以外の何物でもなかった。あの余裕のある笑みは封印され、息をつく間もなく細かい指摘を飛ばすので、レッスンが終わるころにはアリアはへとへとだった。

「アリア、このレベルの指導に付いて来られたのはあなたで三人目ね。一人目はエルヴィーラ、二人目は今回のコンテストであなたのライバルとなる存在よ」

 憧れのエルヴィーラに着実に近づいている。その事実を嬉しく思う反面、アリアはもう一人の存在が気に掛かっていた。

「もう一人のカミラさんの教え子、ですか?」

 カミラに他にも教え子がいることは知っていたものの、具体的に聞くのはこれが初めてだった。

「ええ。あなたと同じ年の女の子よ。ヘレナ・ティール、音楽一家のお嬢様。前回のコンテストでは爪痕を残せなかったけれど、悔しさをばねに大きく飛躍したわ。あの子にもあなたの存在を伝えたのだけど、相当意識しているみたいだから、会ったら仲良くしてあげて頂戴」

 その意地の悪い笑みに、アリアは苦笑するしかなかった。カミラが自分のことをどう伝えたのかは分からないが、この言い方からして、ヘレナが自分に対して好意的ではない意識を向けているのは明らかだろう。

「善処しますわ……」

 声を澱ませてそう返せば、カミラは上機嫌に頷いた。


 そうしてあっという間に時間は過ぎて、ついに予選の日がやってきた。

「わあ、人がたくさんだわ! みんなコンテストの予選を受けるのかしら」

 能天気にきょろきょろと周りを見渡すニーナを、ユウトはじろっと睨みつけた。

「緊張感がないな、ニーナは。ここにいる人みんなが敵なんだよ? 予選参加者は五百組強、その中から三十組に選ばれなきゃ本選には行けないんだ……」

 ユウトが先程からお腹の辺りを腕で抑えていることに気付いたアリアは、そっとその背中をさすった。

「ユウト、もしかしてお腹が痛かったりする?」

「そ、そんなことない! 緊張もしてないし胃も痛くないよ」

「そんなに一生懸命弁解されると逆に怪しいのだけど。とにかく、無理はしないでね」

「だから、大丈夫だってば」

 ユウトはどうしても緊張しているのを認めたくないらしい。男の子ってどうしてこう、強がりなのかしら。アリアはそんなことをぼんやりと思った。

 ユウトほどではないとはいえ、アリアも少し緊張していた。昨晩はなかなか寝付けなかったし、今こうしてこの場に来て、ついにこの時が来てしまったのだという実感に、体が力んでしまっている。初めてのコンテストで、こんなにもたくさんの人々と、限られた枠を賭けて競い合わなければならないなんて!

 そんな二人を脇目に、ニーナは相変わらず周りを物珍しそうに眺めていた。

「わくわくするわね、二人とも! ああ、早く始まらないかしら!」

「全然わくわくなんかしないんだけど……ニーナはお気楽で羨ましいよ、本当に」

「でも、私もなんだか少し高揚しているかも。緊張もするけれど、楽しみな気持ちもあるの」

 そう言ったアリアに、ええ、と、ユウトがげんなりした顔をすると同時に、ニーナが目を輝かせた。

「そうよね! 楽しみよね! 予選、頑張りましょう!」

「ええ、もちろん」

「当たり前でしょ! ……うっ、やっぱりお手洗いに行ってくる……」

 調子よく応えたものの、やはり我慢できなかったのか、ユウトはお腹を抑えたまま洗面所へと駆け込んでいった。


 アリアとニーナが一足先に控室に入ると、その中もたくさんの人で賑わっていた。

「これでも参加者のほんの一部なのよね……改めて、なんだかすごい場所に来ちゃったみたい。ねえ、ニーナ。……ニーナ?」

 隣にいたはずのニーナは、気付かぬうちにどこかに行ってしまったようだった。

「嘘でしょう、まだ入ってきたばかりなのに。本当に自由なんだから……」

 ニーナ、と呼びかけながら人混みを掻き分けていくと、奥の方でニーナが背の高い青年と談笑しているのが見えた。

「ニーナ、急にいなくならないでよ。そちらの方は知り合い?」

「ううん、初対面。サックスのケースを持っていたからつい気になっちゃって。マルク、彼女が私のバンドメンバーのアリアよ」

「ああ、君が? 僕はマルク。どうぞよろしく」

 アリアはマルクが差し伸べた手を掴んだ。

「よろしくお願いします。あの、ニーナが突然すみませんでした」

「はは、謝ることないよ。同世代のサックス吹きと話せて僕も嬉しいからさ。お互い予選通るといいね」

「ええ。本番でまたお会いしたいです」

 マルクと話していると、ふとユウトが凄い険相でずんずんとこちらに向かってくるのが見えた。

「あ、ユウト! 元気になった?」

「ニーナ、君って、本当に手に負えないよ! 他の出場者と馴れあっている場合か? 予選を通過するのなんてほんの一握り、どちらかが落ちたら気まずくなるのが目に見えるだろ」

 ユウトは小声でそう言って、ニーナを睨みつけた。

「ごめんなさい、お互い予選頑張りましょう。では、これで失礼します」

 呆気に取られたマルクにそう断って、ユウトは二人の腕を引っ張りその場を離れた。


「ああ、もっとマルクと話したかったのに」

 マルクと別れた後、控室の端の方で腰を下ろしたニーナは、不満げに頬を膨らませた。

「本当に緊張感がないよね。自分が何をしに来ているのか分かっているの?」

「わかっているわよ。でも、他の人たちは別に敵じゃないわ。共に高めあう音楽仲間じゃない」

「どうやら君とは意見が合わないらしいな」

 ニーナとユウトが次第に険悪な雰囲気になっていく。アリアが慌てて仲裁しようとしたとき、

「正直、私も周りは皆、敵同然だと思うわ」

 と、知らない声が割り込んできた。

「え?」

 三人が驚いて振り向くと、そこにはアリアやニーナと同い年くらいの、ブロンドの髪を二つに結わえた女の子が、不機嫌そうに仁王立ちしていた。

「初めまして、あなた、アリア・ツェルナーでしょう。私はヘレナ・ティール。このコンテストの優勝は私が貰うわ。まあ、あなたたちが予選を通過することくらいは、祈っておいてあげてもいいけど?」

 ふん、と鼻を鳴らしたヘレナに、アリアは思わず顔を顰めたくなってしまった。どうやら、あの時のレッスンでの予想は的中していたらしい。

「ええと、ヘレナさん、お互い頑張りましょうね。あなたの歌を聴けるのを楽しみにしています」

「まあ、せいぜい私の歌でも聞いてレベルの差に打ちのめされなさい。カミラさんに目を掛けられているようだけれど、姉弟子の私に敵うわけがないんだから」

 おーっほっほ、と高笑いをして去っていくヘレナに、アリアたちは顔を見合わせた。

「……喧嘩している場合じゃなかったわね」

「うん、あんな人に負けてられないよ」

 神妙に頷くニーナとユウト。アリアは、いつから会話を聞いていたのだろう、とぼんやり思いつつも、ヘレナのタイミングの良さにそっと感謝した。


 そうしているうちに、アリアたちの番がやってきた。部屋には審査員が三人、並んで椅子に座っている。穏やかそうな小太りの初老の男性、真面目そうな細身の中年の女性、そして体格の良い中年の男性。それぞれ手にペンを持ち、じっとこちらを見つめているので、三人は一気にこの場の緊張感に呑まれた。

「一七六番、ツァウベラーです。よろしくお願いします」

 ニーナの声は、心なしか震えていた。審査員の一人から演奏の指示が出て、三人は頷き合って演奏を始めた。


 始まりはユウトのピアノから。そこに加わったニーナのサックスは、いつもより少しもたついている。どうやら急に緊張してしまったニーナは、指がもつれてしまっているらしい。だが、アリアも人のことを気にしている場合ではなかった。心臓がばくばくと脈打って、背中に冷や汗が伝うのを感じる。

 目の前にいるのは、たった三人だというのに! 初めての舞台に立った時の比ではないほど、アリアの体は固くなってしまっていた。審査員の視線が痛い。これが、コンテストの重圧なのか。アリアは頭が真っ白になりながらも、頭に何度も叩き込んだメロディーをなぞった。

 ユウトもやはり、何箇所かでミスタッチをしてしまっていたが、まるでミスをしていないかのようにそれをアドリブでカバーしてみせた。そして、彼は二人にアイコンタクトを送った。大丈夫、楽しもう、とでもいうように笑顔を見せたユウトに、ようやく二人は、『聞く人みんなが笑顔になれる』という自分たちのテーマを思い出した。

 二人はユウトに笑顔を返し、それまでとは打って変わって、生き生きとした旋律を奏で始めた。音楽は展開し、やがてサビ部分に辿り着くころには、三人はいつもの練習の成果を存分に発揮していた。

 その後も音を外したり、リズムが崩れてしまったり、完璧には行かなかったものの、ミスをしても立て直して、三人は最後まで演奏をやり切った。礼をすれば、三人の審査員は立ち上がって拍手をしてくれたので、アリアたちはようやく一息つくことができたのだった。


 一方その頃、先に予選を終えていたヘレナは、会場を出た先の路地裏でひっそりと涙を流していた。

「大丈夫。大丈夫よ、ヘレナ。私を誰だと思っているの? 音楽一家の娘で、カミラさんの教え子、いずれ都一番の歌手になる、ヘレナ・ティールなんだから……」

 ヘレナは涙を乱暴に拭って、上を見上げた。


 波乱のコンテストが、幕を開ける。

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