第十話 ニーナとユウト

「エルヴィーラ・フォルスト……」

 その名前を見つけた瞬間、アリアの心臓はどくん、と大きく脈打った。

「出たい」

 考えるより先に、言葉が出てきていた。「私、これに出たい」

 ニーナは一瞬呆気に取られたようだったが、やがて大輪が咲くような笑顔を見せた。

「そうでしょう、出たいでしょう! 三人で一緒に出たいって言いたかったんだけど、台詞を取られちゃったわね」

 アリアは頬を紅潮させて、こくこくと頷いた。予選を突破すれば、憧れのエルヴィーラ本人の前で歌うことが出来る。これは願ってもないチャンスだ。

 なんでも、ニーナは以前ステージを観に行ってから、このコンテストに憧れていたらしい。

「ただ、一つ心配なことがあるの」

 ニーナは珍しく真剣な顔で、声のトーンを落としてこう言った。

「ユウトを説得しなくちゃ。あの子、どうしてか私をコンテストに出したくないみたい」


 その後、アリアはニーナに連れられて、ユウトの自宅に向かっていた。

 正直、アリアは半信半疑だった。ニーナの提案は、決して悪い話ではないはずなのに。ニーナが勘違いしているのではないか、と考える方が腑に落ちる。

「ほら、ここがユウトのご両親が営んでいる楽器屋さんよ。二階が家なの」

 ユウトの自宅は、いつもセッションをする広場にほど近い通りにある、小さな楽器屋だった。この辺りでは珍しい、木を基調にした優しい趣の店だ。ドアの前には『ジーゲル楽器店』と看板が出ている。

「こんにちは」

 ドアを開けて中に入っていくニーナに続き、アリアも「こんにちは」と店に入った。

「ああ、こんにちは、ニーナ。それに素敵なご友人も、ようこそ。ユウトに用事かい?」

 ユウトに似た東洋人らしい顔つきの男性が、ニーナに気付いて微笑んだ。

「お久しぶり、ユウトのパパ。うん、そうなの。呼んでもらってもいい?」

「もちろん」

 男性がユウトを呼んでくるのを待つ間、アリアは店内を見回していた。

「すごいわ、こんなに楽器がある場所は初めて。ユウトのお父様は、楽器職人なのかしら」

「ううん、ピアノの調律師よ。他の楽器のメンテナンスもしてもらえるけれど、専門はピアノ」

「へえ、ピアノの調律……」

 ならば、ユウトがピアノ弾きなのも父親の影響なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、ユウトが呼ばれてやってきた。

「ニーナ! それに、アリア。どうしたの、今日は土曜じゃないでしょ」

 目を見開いてこちらを見るユウトに、アリアたちは顔を見合わせた。

「ユウト、これを見て」

 ニーナが先程のポスターを見せると、ユウトは途端に仏頂面になった。

「なんだ、そのことか」

「私たち、このコンテストに出たいの。ユウトも一緒に出てくれないかしら」

 アリアの働きかけにも、ユウトは表情を変えなかった。

「僕は出たくない。ニーナにも出てほしくない。アリアだけ出ればいい」

「どうして」

 あまりにも身勝手に思える拒絶に、アリアは愕然とした。いつもの冷静さを失くして、こんなに感情的になっているユウトを、アリアは見たことがなかった。それに、時間をかけて少しは仲間らしくなれたと思っていたのに、突き放すような言い方をされて、アリアは少し傷ついた。

「コンテストなんか、そんなにいいものじゃないよ。僕はコンテストなんか出ないって決めているんだ。評価されない場所で自分の表現を貫きたいから。アリアは歌手になるためにこの街に来たんだろう? だから君は出ればいいよ」

「じゃあニーナは? ニーナを止めるのはどうして」

 そう聞くと、ユウトは苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「言いたくない」

 ニーナから目を背けて、ユウトは突っ撥ねた。ニーナが何か言い返すかも、とアリアは思っていたが、ニーナは悲しそうに俯くのみで、一向に口を開かない。

 最悪の空気だった。アリアは耐えかねて、ニーナの腕を取って出口の方に向かった。そのまま出ていこうかとも思ったが、すんでのところで振り返り、どうにかユウトに笑いかけた。

「また来るから、もう少しだけ、考えておいてね」

 返事はない。ニーナは最後まで、何も言わなかった。


 店を出てしばらくしたところで、ようやくニーナは口を開いた。

「やっぱり、だめだった」

 困ったように微笑むニーナに、アリアは尋ねずにはいられなかった。

「どうして言い返さないの」

 うーん、だって、とはっきりしないニーナに、耐えかねたアリアは再度言葉を重ねた。

「ユウト、まるで突き放すような態度だったじゃない。ニーナまで出したくないなんて、理由も言わずにそんな我儘なことを言うとは思わなかったわ」

 ニーナはゆっくりと首を横に振った。

「きっと彼なりの考えがあるんだわ。なんの考えもなしにあんなことを言う子じゃないもの」

「だからって、ニーナはそれでいいの? 理由も聞かずに言いなりになって」

「……ユウト、実は前から私がコンテストや大会に出ようとすると止めるの。アリアがいたら何か違うかもしれないと思ったんだけど。でもユウトが嫌なら仕方ないわ。……だって、ユウトがいなきゃ、楽しくないもの」

 だからいいの、と言うニーナに、アリアは納得行かないながらも、渋々「わかった」と説得を諦めたのだった。


 翌朝は大降りの雨だった。天気に加えて、昨日のこともあり憂鬱ではあったが、アリアはこの日外出すると決めていた。

 先日おろしたばかりの傘を手に、アリアは昨日ニーナと歩いた道を進んでいた。やはりユウトのあの主張は何か引っかかるし、ニーナが自分に少しでも期待してくれたことに応えたかった。

「ユウトはニーナには話したくないことがあるのかも。あの二人は仲がいいけれど、どこか遠慮し合っているようにも見えるわ」

 そもそもユウトがコンテストに出たがらないのは意外だった。最初にニーナに紹介されたとき、彼女は彼を『数々のコンクールで賞を獲ってきた凄腕』と評していたはずだ。それなのに出たがらないのは、過去に何か悲しいきっかけがあったからなのかもしれない。


 ユウトの自宅である楽器店に着くと、ユウトの父親が出迎えてくれた。

「おや、いらっしゃい。今日はお嬢さんお一人かい?」

「ええ。ユウトを呼んでいただいても構いませんか」

「もちろん。……その、あの子は少し、頑固で思い込みが激しいところがあるんだけどね。悪い子ではないし、優しい子だから、仲良くしてやってくれると嬉しいよ」

 彼はユウトを心配しているようだった。アリアは彼を安心させるように、明朗に応えた。

「ええ、もちろん」


 ユウトは寝癖を付けたまま、目の下には隈をつくり、酷くやつれた姿で現れた。

「ユウト……」

 驚いたアリアが言葉を選ぶより前に、ユウトは冷たく遮った。

「何の用事」

 まるで、踏み込むな、とでも言いたげな態度だった。足が竦んだアリアだったが、ここで折れてなるものか、と思い切って本題に入った。

「ユウト、どうしてコンテストに出たくないのか、教えてくれない?」

「無理」

 低い声で即答するユウトに、アリアは歩み寄って少し屈み、目線を合わせた。孤児院で年下の子供たちに接するときのことを思い出しながら、アリアはゆっくりと言葉を紡いだ。

「ニーナは、ユウトはあなたなりの考えがあるから、自分を止めるのだと言ったわ。それに、あなたがいないと楽しくないから、理由がわからずとも従うのだって。……ねえ、ユウト、ニーナには聞かれたくない理由があるのでしょう? 無理に話さなくていいけれど、そうやってずっと一人で抱えて悩み続けるより、話してしまった方が良い結果に繋がることもあると思うのだけど、どうかしら」

 眠れていないのも、昨日のことを考えていたからだとアリアは察していた。それならそのまま部屋に帰すより、話を聞いた方がいいと思ったのだ。

 ニーナに聞かれたくない理由、という言葉に、ユウトはびくりと反応した。長い睫毛が小刻みに揺れ、目が少し潤み始めているようにも見えた。

「……長くなるから、紅茶を出すよ。こっちに来て」


 ユウトは静かに紅茶を淹れ、そっとアリアに差し出した。どうも、とアリアが受け取ると、ユウトは小さく頷いた。

「ええと、どこから話せばいいんだろう」

「そうね、まずはユウトがどうしてコンテストに出たくないのか、から聞いてもいいかしら」

「わかった」

 ユウトはぽつぽつと話し始めた。


「僕は十歳になるころまでは、クラシックのコンクールを中心に活動していたんだ。これでも、何度か入賞したりしていたんだよ。……でも、ちっとも楽しくなかった。楽譜に忠実に、神経質にミスを気にしながら、評価を得るためにする音楽なんかに、僕は少しもやりがいを感じられなかった」

 ユウトは紅茶を口にして、ふう、と小さく息を吐いた。その目には影が差し、俯いた顔は暗く沈んでいた。

「僕の母はピアノ教師で、僕をピアニストに育て上げようとしていた。僕もその期待に応えようと必死になっていたけれど、十歳の時のコンクールで入賞を逃した時、『型に嵌り切っていて、まるで教科書を読んでいるかのような退屈な演奏だ』と言われているのを耳にしたんだ。ピアノを好きになれない上、才能もないのだと気付かされて、僕はピアノを辞めようと思った。

 その時出会ったのがニーナだったんだ」

ユウトは俯いていた顔を上げた。その瞳には、先程までとは違い、柔く光が宿っていた。

「ニーナの演奏は正直言ってめちゃくちゃだった。でも、心から楽しそうに吹くニーナに、音楽って自由でいいんだって思わされた。

 だから僕はジャズピアニストへの転身を決めて、コンクールに出るのを辞めた。コンクールという、人の評価を気にする世界から離れて、僕はようやく音楽が楽しいと思えるようになったんだ」

 これが、僕がコンテストに出たがらない理由だよ。ユウトはアリアを真っ直ぐに見てぎこちなく微笑んだ。

「そうだったのね。話してくれてありがとう、ユウト。……ニーナを出したくないのは、同じような経験をしてほしくないから?」

「そう、なのかな。よくわからない」

 ユウトはまた少し俯いた。

「でも……僕とは違って、ニーナには才能がある。まるで音楽をやるために生まれてきたみたいに、自由に楽しそうに吹くニーナが好きなんだ。……ニーナには自分のための音楽を貫いてほしい。ニーナの音楽を、守りたい」

 ユウトは握りしめていた拳にぎゅっと力を込めた。勢いよく上げられた顔は、少しこわばっていた。

「ニーナは元々ブラスバンドに所属していたけれど、周りと上手く合わせられずに腫れ物扱いされて、辞めざるを得なかったんだ。アリアもわかると思うけど、ニーナは人と合わせたり、空気を読んだりが相当苦手だ。コンテストなんかに出て彼女の才能が見つかって、プロとして活動することになったら、彼女はきっと周囲の大人とぶつかって、たくさん傷つくことになるよ。自分らしい音楽が続けられなくなるかもしれない。少なくともニーナがプロになることを望んでいないうちは、僕はニーナを出したくない」

 アリアはわけを聞いて、少し驚いていた。ユウトはそこまでニーナのことを高く評価していたのだ。そして、ニーナをコンテストに出したがらない理由が、彼女を大切に思う気持ちからであるとわかって、不可解だった言動に納得がいった。

「そうだったの。……ユウトがどうしても出たくないなら、その気持ちを尊重したいと私は思っているわ。でも、少しだけ私の言い分も聞いてもらっていいかしら」

 ユウトは静かに頷いた。アリアは慎重に言葉を選びながら、話し始めた。

「ユウトがニーナのことを大切に思っていることはわかったわ。彼女の才能を認めていることも。だけど、なんだか過保護すぎないかしら。ニーナが心配なのはわかるけれど、それでニーナの挑戦を阻んではいけないと思うの。

 だって、あなたはニーナではないのだから。あなただって、コンクールを頑張っているときに、将来傷つくからもう出てはいけません、と言われても納得できないでしょう? 傷つく権利だって、ニーナにはあるのよ」

「傷つく、権利?」

 目を見張るユウトに、アリアは、ええ、と頷いた。

「傷つくのは必ずしも悪いことではないわ。失敗が成功を生むように、悔しさや遣る瀬無さだって、人の成長には必要なこともあるの」

 アリアは話しながら、昔のことを思い出していた。辛かったことも苦しかったこともたくさんあった。けれど、それを乗り越えたから今があるのだと。

「そっか……僕、間違っていたのかな」

「何が正しい決断なのかは、神様にしか分からないわ。私はそう考えたというだけよ。

 ……ユウト、話を聞いていてもう一つ気付いたの。ユウト、本当は怖いんでしょう? ニーナが遠くに行ってしまうのが、ニーナが変わってしまうのが」

 ユウトはニーナの音楽を守りたいと言った。それはつまり、ニーナの音楽が変わってしまうこと、ニーナが傷ついて音楽を辞めてしまうことに怯えているようにも思える。それほど彼にとって、ニーナの存在や彼女の音楽はかけがえのないものなのだ。

 そしてどうやらそれは図星だったらしく、ユウトの動きが一瞬固まった。急速に染まっていく頬を隠すように、ユウトはふいとそっぽを向いてしまった。その思春期らしい行動に、アリアは笑みが溢れそうになるのを必死で抑えた。

「知り合ってまだ半年にもならない私が言うのも何だけど、ニーナはもう変わってきているわ。周りを見られるようにもなったし、合わせる楽しさも覚えて、サックスの腕も上げてきている。でもユウトが恐れているような変わり方はしないし、ユウトを置いていく気もないわよ。さっき言ったでしょう、『ユウトがいないと楽しくない』んだって」

「……うん」

 顔を背けたままのユウトの声は、少し涙ぐんでいるようにも聞こえた。


「アリアの話を聞いて、考え方が変わったよ。わざわざ話に来てくれて、ありがとう」

 ユウトの顔はもう、やつれてはいなかった。目の隈や寝癖は付いたままなのに、まるで生まれ変わったような晴れ晴れとした顔で、ユウトははにかんだ。

「見苦しいところもたくさん見せてしまって、恥ずかしいけど」

「ふふ、いいのよ、仲間なんだから」

 これでようやく本当の意味で、アリアはユウトと打ち解けられたのだった。

 ユウトは指先で紅茶のカップを弄りながら、目を伏せておずおずと口を開いた。

「あの、コンテストの件。ニーナに、出ていいよって言ってたって、言っておいてよ」

「だめよ」

 えっ、と唖然として顔を上げたユウトに、アリアはにやっと笑った。

「ニーナなら絶対、ユウトも一緒じゃなきゃ嫌だって言うに違いないもの。そうでしょう? 改めて説得するから、よろしくね」

 アリアの言葉に、ユウトはうう、と唸りながら頭を抱えた。

「……ああもう! わかったよ、出るったら! 二人じゃ心許ないでしょ、感謝してよね」

「ふふ、相変わらず素直じゃないんだから」


 こうしてコンテストに参加する意志を固めた三人だったが、本当の試練は、まだここからだった。

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