第九話 変化
三十年以上前のこと、ある音楽学校にカミラは通っていた。声楽科の中でもひときわ優秀だった彼女は、他学年にまで信奉者がいるほど、この頃からそのカリスマ性を発揮していた。
「カミラさんの教えてくださったやり方を試したら、声の伸びが良くなったと先生に褒められました! 本当にすごいです、ありがとうございます」
「ああ、そう? 良かったわね」
はしゃぐ下級生に、カミラは余裕のある笑みを返す。するとその後輩の少女はきゃあ、お返事していただけたわ! などと黄色い悲鳴を上げ、うっとりとする。もはや教祖のような人気を博していたカミラだったが、そんな中にもカミラに興味を持たない後輩がいた。
図書室で勉強していたジルヴィア・ベルネットに、カミラは声を掛けた。
「その分野なら、もっと分かりやすい本があるわよ」
ジルヴィアは険しい顔をしてカミラを見た。
「私は自分で探します。お構いなく」
ジルヴィアはそう言って本に目を戻す。これが、二人の最初の会話だった。
ジルヴィアは優秀な生徒だったが、その性格から周りに距離を置かれており、いつも一人で行動していた。同じ声楽科で、持てはやすでも妬むでもなく、自分に興味を持たない生徒であるジルヴィアは、カミラにとっては新しく、興味を惹かれた。また自分と同じレベルの会話ができる相手を求めていたカミラは、彼女にそれを期待した。
ジルヴィアがカミラのアドバイスに耳を傾けないのには理由があった。彼女はなんでも自分で試さなければ気が済まない性分で、研究熱心ゆえに、他人の研究の結果を鵜呑みにすることに抵抗があったのだ。それに気付いたカミラは、ジルヴィアには疑問を投げかける形で話しかけることにした。
「この本、どうだった?」
疑問形で話しかければ、ジルヴィアは瞬きしたのち、こう返事した。
「興味深かったです」
「へえ、何が面白かったの?」
「例えばこのページにあるように……」
カミラの作戦は功を奏した。ジルヴィアは話しかけられれば鬱陶し気にしながらも、次第に返事をするようになった。決して気が合う二人ではなく、激しくぶつかることもしばしばあり、傍から見ればとても仲がいいとは言えなかったが、カミラはこのやり取りをするのが好きだった。
そんな中、カミラがジルヴィアの歌声を最初に聞いたのは、学年末に毎年催される歌劇の舞台でのことだった。
一年生の演目は、名作オペラ『ヴィルヘルミーネ』。そのヒロインであるヴィルヘルミーネを演じるのは、他でもないジルヴィアだった。
『ヴィルヘルミーネ』は、彼女と青年ギードの身分違いの悲恋を描いた作品で、二人の掛け合いやヴィルヘルミーネの独唱曲が有名だ。その独唱曲を、ジルヴィアは歌っていた。
どこまでも伸びていくソプラノは誰も寄せ付けないような孤高の悲しみを痛烈に歌う。愛しい人だけを見つめるように真っ直ぐに、覚悟を決めたような強さを滲ませて。
一年生でありながら、ジルヴィアは積み重ねてきた努力と表現力、そして生まれ持った美しい声で、圧倒的なパフォーマンスをしてのけた。誰もがジルヴィアの歌に夢中だった。もちろん初めて彼女の歌を聴いたカミラも例外ではなかったが、カミラは驚いてはいなかった。
「私が見込んだ通りだわ」人知れずカミラは満足げに頷いた。
状況が変わったのは、ジルヴィアが三年生になり、カミラは卒業して歌の指導の仕事を始めた頃だった。
滅多に連絡しないジルヴィアからの、突然の手紙にカミラは驚いた。
手紙には、こう書いてあったという。
『歌手になるのは諦めなければならないとお医者様に言われました』
「……つまり、その時ジルヴィアは病気に侵されていて、持ち味だった高音が出せなくなったの。歌手生命が絶たれたようなものよね」
「そうだったんですか……」
想像を絶する話に、アリアは呆然とした。自分の命ほどに大切な歌を、自分が歌えなくなったとしたら、それはどれほどの絶望だろうか。考えるだけで恐ろしかった。
「あの子はその時初めて、私に質問をしたわ。『私はこれからどうすべきなのでしょうか』と」
「それで、歌の指導を?」
ええ、とカミラは頷いた。
「もともと彼女には素質があった。自分で歌を研究していたし、理論的に考える方だったから、人に教えることも彼女には難しくはない。それに、『音楽家のなりそこない』だからこそ見えるものもあると思ったの」
カミラはアリアを見て、口元だけでにやりと笑った。
「病気でなくても、歌を歌えなくなる人は一定数いるわ。新しい曲を作れなくなったり、期待や批判に耐えかねたりして潰れる人を、私は何人も見てきた。あなただって、ずっと歌を続けられる保証はどこにもない。そうなったときのことも、考えておいてもいいかもしれないわね」
「私には歌以外ありません。歌を諦めたときのことは、その時に考えます」
アリアは真っ直ぐにカミラを見た。その碧い瞳に浮かぶ闘志を見たカミラは、満足げに頷いた。
「ええ、あなたはそうでしょうとも。ジルヴィアがあなたに期待しているのは、きっと自分を重ねているのでしょうね」
あなたは若いころのジルヴィアに似ているわ、とカミラはしみじみと言った。カミラの淡いグレーの瞳は、アリアを通して遠い昔の記憶を見ているようだった。
数日後の土曜日、アリアはニーナたちとこの前の曲を合わせていた。
「ニーナ、今日は周りの音を聞いて合わせろよ」
「わかってるわよ、わかってるのと出来るのは別ってだけで」
アリアは二人のやり取りに不安を覚えながら、二人の間に割って入った。
「とりあえず、早速始めましょう」
ニーナとユウトはアリアの方を見て頷いた。
前奏のユウトのピアノ、ニーナのアルトサックスの後、ニーナの合図でアリアも歌いだす。そして曲が進みニーナが前回ずれてしまった辺りに差し掛かったところで、アリアはニーナにアイコンタクトを送った。ニーナは了解を示すように瞬きを返す。
最初は気を付けていたらしくずれなかったが、やはりニーナは途中から少しずつ走り気味になってしまった。ユウトが演奏を止め、ニーナをじろりと見た。
「そんな目で見ないでよ。出来ないものは出来ないんだもの、仕方ないでしょ?」
ニーナが眉を吊り上げると、ユウトはニーナから目をそらし、ピアノの前で項垂れた。
「どうしてここでずれてしまうのかわからないと、解決しないんじゃない?」
アリアの言葉に、ニーナは首を傾げた。
「どうしてかな。なんだか詰まりがちなフレーズなのかも」
「じゃあ、詰めないように気を付けるしかないわね……」
二人のやり取りに、ユウトは項垂れたまま口を挟んだ。
「メトロノーム使って練習すべきだと思うな」
「ええ? 嫌よ、メトロノームは嫌いなの、ユウト知ってるでしょ?」
「でもテンポを掴むなら使うべきでしょ」
「嫌よ、あれ聞いてるとなんだか背筋がぞわっとするもの」
ニーナはどうしてもメトロノームが嫌らしい。そのとき、ふとアリアの中にある案が浮かんできた。
「私が体でテンポを取りながら歌うわ。だからニーナ、それに合わせてみない?」
アリアの提案に、眉間に皺を寄せていたニーナの表情が和らぎ、満面の笑みが浮かんだ。
「それなら私にも出来るかも! アリアは天才ね」
ユウトもそれを聞いて体を起こした。
「そうだね、アリアのテンポに合わせるのが一番全体を纏めやすいし、いいと思う」
「じゃあそれでやってみましょう」アリアは微笑んだ。
アリアのこのやり方はニーナに合っていたらしかった。ニーナはこのやり方を取り入れた後、全体と調和した演奏をすることが出来るようになっていた。
先ほどずれたところでも、三人の息はぴったり合っていた。音が重なりあい、美しい和音が響く。三人の奏でるリズムと旋律が絡み合って、一体となって気持ちを高めていく。
最後まで目立った問題なく通すことが出来たとき、アリアたちは思わずハイタッチをして喜び合った。
「すごいわ! 全部通せた!」
「今までで一番楽しいセッションだったわ! 合わせるってこんなに楽しいのね!」
「すごいよニーナ! アリアも!」
喜び合う三人に、周囲の大人たちも拍手して祝福した。
「いい演奏だったよ!」「最高!」
三人は聞いていたらしい他の仲間たちに礼をして、興奮も収まらないままにはしゃぎ合った。
この瞬間、三人の心は、確かに一つだった。
興奮のセッションから何日か過ぎた頃、アリアはエリスの店に来ていた。
「いらっしゃい! 今日はどうしたの?」
「あんまり暖かくなってきたものだから、涼しげな服が欲しくなって来たの」
朗らかに出迎えたエリスに、アリアはそう答えた。
アリアがこの街に来てから二週間ほど経ち、五月も半ばを過ぎて、汗ばむ日も増えてきていた。
「それなら、もう夏物がたくさん置いてあるわよ。マネキンが着ているみたいな、シンプルで清楚なものが今年の流行りみたい。うちでは腰にリボンをあしらったものが人気よ」
アリアはそのマネキンを見た。細身のシルエットのその服は、いかにも都会的で洗練されていて、田舎から出てきたばかりのアリアには、少しハードルが高く感じられた。
「素敵だけど、もう少し地味なものはない? その、いつも私が着ているような」
「あら、せっかく都会に出てきたのに、田舎町の市で買ったような服を着続けるの? 地味目な服なら、あっちの方にあるけど、折角だからこれも着てみない? きっと似合うわ」
エリスはたくさんの服の中から青いドレスを手に取って、アリアに合わせてみせた。
「そう……?」
似合うと言われると、やはり着てみたくもなる。
「それなら、とりあえず試着してくるわね」
試着して出てくると、エリスは満足げに胸を張った。
「ほら、似合うって言ったでしょう?」
アリアは鏡から目が離せなかった。コバルトブルーのその服は、アリアの白い肌によく映えていて、直線的なデザインは彼女のすらっとした体形をさらに引き立てていた。膝下で優雅なドレープが舞い、それがアリアの優しい雰囲気にもよく似合っている。
「すごい、私じゃないみたいだわ」
「私が見込んだ通りね。どう、買う?」
アリアはこくこく、と頬を薔薇色に染めて頷く。エリスはその反応に目を輝かせた。
「折角だから着て帰る? どうせならこんな帽子もどうかしら……」
手に取った帽子をアリアに被せようとして、不意にエリスは動きを止めた。
「どうしたの?」
エリスはええと、と言いにくそうに答えた。
「アリア、最近髪を染めていないんじゃない? つむじの辺りが白くなっているわよ」
その言葉に、咄嗟にアリアはつむじを両手で覆い隠した。血の気が引き、青ざめるアリアに、エリスは優しく背中をさすってやる。
「明日は仕事がないから、染めてあげられるわよ。それとも、自分でやれる?」
「ええ、大丈夫よ、自分で出来るわ……」
多忙な日々で髪のことを気にしていなかったことを、アリアは激しく後悔した。確かに鏡を見ると、そこまで目立ちはしないものの、よく見れば白い部分が露わになっている。このまま放置していれば、髪のことがばれてしまったに違いない。
「大丈夫よ。大丈夫」アリアは自分に言い聞かせて、浅くなっていた呼吸を整えた。
「帽子も買っておくわ。それ、素敵だもの」
アリアはこわばった笑顔を浮かべた。正直に言えば、彼女は帽子のデザインなど気にしている余裕もなかった。髪を隠すように買った帽子を深く被り、アリアは店を後にした。
自室に戻ってすぐさま、アリアは染髪料を取り出した。手が震えていることに気付き、アリアは一度その箱を机に置いて、我慢できずにそのまま泣き崩れてしまった。
故郷にいた頃は、誰も自分の白髪を知らない場所に行きたいと思っていた。しかし、いざその場所に来たところで、根本的な恐怖は変わらなかった。
確かにここでは初めから髪のことで疎まれたり不利益を被ったりすることはないが、その代わりに『知られること』への恐怖が生まれてしまった。アリアは髪のことを考えないことで、それに今まで気付かぬふりをしていたのだった。
幼い頃はあんなに堂々としていられたのに、どうして今はこんなに恐ろしいのだろう? 髪色が露見することに怯えている自分が嫌だった。母も孤児院の皆も司祭様も褒めてくれた、神様がお与えになったこの大切な髪を、こうやって疎ましく思ってしまうことが、アリアの心を罪の意識で満たしていた。
それでも、この街で優しくしてくれる人たちに、髪のことで嫌われるのが怖い。蔑まれるのが怖い。皆が離れていくのは、孤独になるのは怖い。怖い。
この恐怖から解放されるには、結局髪を染め続けるしかなかった。アリアは黒い染料を、手の震えを抑えながら髪に付けていく。初めて染めたときの重苦しさとは真逆に、アリアは染まっていく髪に安堵していた。変わってしまった自分に虚しくなって、アリアはまた涙を流した。
そうして月日が流れ、アリアが街に出てきて三か月ほどが経過した。日差しの強い日が続く夏のある日、ツヴェルクの宿の大家、ベルタがアリアの部屋を訪ねてきた。
「ツェルナーさん、お客さんですよ」
「はい、今行きます」
下宿先まで人が尋ねてくるのは珍しい。誰が来たのかしら、と玄関先に向かうと、そこには落ち着かない様子のニーナが待っていた。急いで来たのだろうか、顔には汗が滴り、前髪が乱れている。
「ニーナ! どうしたの」
思わぬ人物の来訪にアリアは目を見開いた。ニーナは興奮のままに、「これを見て!」と何かが描かれたポスターを突き出した。
「コンテスト……」
「そう! この辺りで一番大きなコンテストよ」
アリアはポスターをまじまじと見た。そしてそこに書かれたある名前を見つけて、電撃が走ったかのように硬直した。
『特別審査員 エルヴィーラ・フォルスト』それは他でもない、アリアの指針となった一流歌手その人だった。
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