第五話 春の訪れ

「復活祭の舞台、ですか?」

 ベルネットの言葉に、アリアは首を傾げた。復活祭自体は知っているアリアだが、そこで音楽の催しがあったことは知らなかったのだ。

「ええ、毎年ここでささやかな音楽会を開くのだけど、今年は枠が一つ余っているそうなのでね。あなたが出ればいいと思ったのですよ」

 音楽会! この言葉にアリアの胸は躍ったが、同時に不安も感じていた。

「まだ歌の勉強を始めて間もない私が、そんな舞台に立たせていただいて良いのですか?」

「何もそんなに気張ることありませんよ、市民オーケストラや学生のブラスバンドも出るようなものですから。ちょっとした出し物くらいに思えばいいのです。……ただし私の名前での推薦になりますので泥を塗らないでくださいまし」

 ベルネットの推薦、という言葉にアリアの顔は緊張で青くなった。

「が、頑張りますわ……」

 ぎこちない笑顔をどうにか作るアリアの肩を、ベルネットは軽く叩いて言った。

「まあ、要は私の名前で出していいと思えるくらいあなたの歌はまあまあ良いんですよ、来月の本番まで精一杯励みなさい」

 ベルネットは微笑んでいた。アリアがベルネットの笑顔を見たのはこれが初めてだったので、驚きで緊張など吹き飛んでしまった。

「ありがとうございます……!」


 アリアの出演が決まってからは、曲目やその練習、さらに衣装決めや演出決めと慌ただしく日々が過ぎ去った。

 音楽会のことを知らせると、エリスは『近くにいたなら私が衣装を作るのに!』と悔しがりながらも応援の言葉を寄せてくれた。ナディアをはじめとする孤児院の皆には招待状を送った。『子供たちも皆、楽しみにしています』というナディアからの返事を読んで、アリアの頬は綻んだ。

 アルベルト司祭やリーゼルをはじめとする教会の人々も見に来てくれるというので、一段と気合を入れてアリアは当日を迎えた。


 小さな町の音楽会とはいえ、復活祭の今日であるので、教会は花で彩られ、たくさんの人で賑わっていた。

 アリアは綺麗に結ってもらった髪を崩さぬように、そっと髪飾りに触れた。

 実はこの純白の薔薇を模った髪飾りはエリスお手製のもので、髪飾りくらいは作らせてほしい、とわざわざこの舞台に間に合うように作ってくれたのだ。アリアの黒髪と、黄色を基調にしたドレスにその白薔薇はよく似合っていた。

 エリスは予定があって来られなかったが、孤児院の皆やサリー、それからダリアも会場には来てくれていた。ダリアについては先月生まれた小さな子供を大事そうに抱えている。

 アリアに気づいたダリアとサリーが、こちらに向かって手を振っている。アリアは控えめに手を振り返した。

 皆の顔を見て、少し緊張がほぐれたところでアリアは自分の楽屋へと向かった。


 楽屋で待っていたベルネットは、開口一番こう言った。

「楽しみなさい。うまく歌うことに集中しすぎないこと。歌い手が楽しんでいれば、それは聞き手にも伝わる。それから堂々とすること。あの日最初に私の前で歌った時のようにね」

 今考えるべきことはそれだけですよ。ベルネットの言葉にアリアは真剣な顔で頷いた。


 準備時間は瞬く間に過ぎ、「ツェルナーさん、出番ですよ」と声がかかった。

 ベルネットが静かに頷くのを見て、アリアは頷き返した。

「次の演目は、アリア・ツェルナーさんの独唱です。曲目は、『春の訪れ』。お願いします」

 舞台に進み出てお辞儀をすると、拍手に包まれて、その大きさにアリアは驚いた。

 目の前には人、人、人。ミサの時とそう違わないほどの人が、アリアの歌を聴きに来ていたのだ。

 アリアは圧倒されたものの、しっかり前を見据えた。ピアノのなだらかな前奏が鳴り始める。アリアは大きく息を吸い、口を開いた。


 『春の訪れ』は、この国でこの時期によく歌われる国民的な楽曲で、柔らかな旋律と伸びやかな高音が特徴的な歌だ。

『この歌はのびのびと歌う部分と、小鳥のように囁く部分の対比に気を付けること。歌詞のイメージをしっかり持ちなさい』

 ベルネットが言っていたことを思い返しながら、アリアは歌に自分の心を共鳴させた。


『青く澄み渡る空は高く 小鳥の鳴く声は優しく

 軽やかな春の訪れを告げるように この町を包む

 柔らかな風は歌う あなたの春を祝福して

 いつしかその芽が大きな青葉へと変わるように』


 アリアの歌声は高らかに教会に響き渡った。美しいソプラノはさながら春を告げるさえずりのようで、人々は一音も聞き漏らすまいと耳を澄ませる。

 誰もがアリアの歌に夢中だった。学生時代アリアの白髪を揶揄していた同級生らも、アリアの歌に毒気を抜かれたような顔をしている。歌声をいつも聞いているはずのベルネットさえ、満足げな表情を浮かべてアリアの歌を聴いていた。


 ピアノの音が鳴りやみ、アリアのアカペラで歌が終わると、何人もの聴衆が立ち上がり、盛大な拍手を送った。アリアは茫然と固まったのち、すぐに笑顔でお辞儀をした。

「ありがとうございました」

 拍手はなかなか鳴りやまず、放送が掛かってようやく落ち着くほど、この舞台は大成功に終わったのだった。


 終わってすぐ、ベルネットのほうに向かうと、何やら誰かと話し込んでいるのが見えた。相手はどうやらベルネットより目上の、銀髪の紳士のようだ。洗練された格式の高い洋服を纏い、品の良い笑みを浮かべている。

「ええ、ありがとうございます……いや、それは本人と相談の上で……」

 普段あれほど毅然としているベルネットが、戸惑うような表情で応対しているのを怪訝に思いながら、アリアが近づくと、相手の男性が晴れやかな表情でアリアに声を掛けてきた。

「ツェルナーさん! 本当に素晴らしいステージでしたよ。こんなに心が惹きつけられたのは何年ぶりかというくらいにね」

 彼はこの辺りで最も資産家だと言われているランドルフ・ベックマンだった。広い屋敷に住み、数々の芸術家を支援してきたパトロンでもある。

 アリアはそんな彼の言葉に顔を輝かせた。

「ありがとうございます、ベックマンさんにそう言っていただけるなんて光栄です」

 二人は握手を交わした。手を離した後、男性はベルネットを見、ベルネットは肩を竦めてアリアにこう告げた。

「ベックマンさんが、あなたの歌に感銘を受けて、あなたの後援者になりたいと仰いましたのよ。あなたさえその気なら、都に出る支援をしてくださると」

 アリアはその言葉に硬直し、茫然としつつもなんとか次の一言を絞り出した。

「私が、都に?」

「ええ、是非とも。あなたの歌はきちんとした場で評価されるべきだ。

 私は今までにも多くの芸術家のパトロンとなったが、あなたほどの才能はなかなかいない。是非とも私に支援させて欲しい」

 こんなに早くチャンスが巡ってくるだなんて! アリアはあまりのことにこれが夢か現実か分からず、衝撃でこれ以上何も言えなかった。

 黙ってしまったアリアの代わりに、ベルネットは咳払いをしてから男性に返事をした。

「ありがたい提案ですが、とりあえず彼女も疲れているようですので、相談の上追々お返事させていただきますわ」

「そうですか、であれば、連絡先を渡しておきますから、来月までにお返事いただけたらと思います」

 それではまた、と彼は穏やかな笑みを浮かべ去っていった。


 夢うつつのまま楽屋に戻ったアリアは、先程のことを思い返して溜息を吐いた。

 ずっと都に行きたかった。これはまたとないチャンスだとわかっているのに、アリアは迷っている自分に気付いた。

 そもそもなぜ私は都に出たかったのだろう。もちろん、歌手になるための一番の近道だからだ。けれど、それだけではなかった。本当は、アリアは自分の白髪を誰も知らない場所に行きたかったのだ。

 ずっと、白髪を陰で揶揄され、同級に友達はおらず、町に孤児院と教会以外に居場所はなかった。黒染めしたところで、この町には白髪を覚えている人が少なからずいるのだから、アリアがそれを望んでしまうのも無理はないだろう。


 不意にアリアの頭に声が響いた。酷く楽しげで、嘲笑うような声。

『覚悟もなく自信もなく、ただ逃げるために都に出たいんでしょう? 歌なんて此処でもできるのに』

 悪魔の声だ、とアリアは思った。違う、と言おうとしたけれど、声は掠れて何も言えない。

『本当に歌手になりたいの? それならなぜ最初から行動を起こさなかったの? あなたの志なんて、他人に与えられたチャンスに縋る程度のものでしょう?』

 歌手になりたいのは本当だ、そのために私なりに出来ることはしてきた。だからあなたの言うことは違う……そのはずなのに、なぜだかそう言い切れなくて、アリアは唇を噛み締めて俯いた。


 しばらくしてアリアの楽屋にサリーとダリアが訪ねてきた。考えるのを中断し、アリアは二人を出迎えた。

「すごく良い演目だったよ!」

「本当に素敵だったわ!」

 そう言って二人はいつの間に用意していたのか、ガーベラの花束を差し出してきた。

「ありがとう、綺麗な花束! 私、花なんて貰うの初めてよ」

 花束を手に取ると、ふわっと甘い香りがアリアを包み込んだ。

「喜んで貰えて良かったよ! ダリアが選んでくれたんだ、私は花には詳しくないからさ」

「もう、何言ってるのよ、花を贈りたいって言ったのはサリーでしょ?」

 二人のやり取りに、アリアはくすくすと笑い出した。それを見た二人も一緒に笑い出す。アリアは、まるで小さい頃に戻ったみたいだと思った。

 そしてこの姉のような二人になら、とアリアは先ほど悩んでいたことを打ち明けた。

「あのね、先ほどベックマンさんが、私の後援者として音楽活動を支援してくださると仰ったの。都に出る支援もしてくださるって……でも私、自信も覚悟もないし、こんな中途半端な気持ちで、都に出てもいいのかしら」

 サリーとダリアは顔を見合わせてから、同時にこちらを見て「そんなのいいに決まってる!」と真剣な顔で言った。

「それだけの才能があるって言われたんだろう? それなら絶対行くべきだよ」

「そうよ、今日の歌だって、身内というのを抜きにしても本当に素晴らしかった。娘も歌を聴いて微笑んでいたわ。歌手になるの、夢なんでしょう? 断る理由がないのなら受けるべきよ」

 アリアは二人の勢いに驚きつつも、悩んでいたのが嘘のように心が晴れやかになるのを感じて、ありがとうと応えた。この日一番のとびきりの笑顔とともに。


 二人が去って、孤児院の皆と復活祭を楽しんだ後、片付けが終わってからアリアはベルネットに呼ばれて楽屋に戻った。

「それで? あなたはどうしたいのです?」

 アリアは臆しながらも、ベルネットを真っ直ぐに見据えて答えた。

「私、お話をお受けしたいです。自分がどこまで通用するのか、試したいです。都でも勉強は続けます」

 ベルネットは、やれやれという顔をしたのち、

「そう言うと思いましたよ。私としては、もう少し教育が必要だと思っていたのですが、なかなかこんな機会巡ってきませんからね。お受けすると自分でお返事なさい。旅立つまでに出来る限りのことを教え込みますから、覚悟するのですよ」

 と言って、アリアの方に近づいて徐に手を伸ばした。何かと思って身構えると、ベルネットはアリアの頭をぽん、と軽く撫でてから、顔も合わせずそのまま扉に向かって行った。

「励みなさい。あなたは私の、自慢の教え子ですから」

 驚いて固まっているアリアにぼそりと小さくそう言い残して、ベルネットは部屋を去って行った。ベルネットの言葉を反芻しながら、アリアは自分の頬が紅潮していくのがわかった。こんなにはっきりと褒められるなんて! 今日誰から受け取った言葉より強く、ベルネットの言葉はアリアの背中を押したのだった。


 アリアはその後すぐにベックマンに返事を送った。しばらくして来た返事にはこうあった。

『お返事ありがとうございます。早速ですが、都に出る予定を調整しましょうか。……』

 ベックマンは、知り合いの宿に下宿をさせてもらえないか頼んでくれるそうだ。アリアは期待に胸が躍った。いよいよ彼女の音楽活動が本格的に始まるのだ。


 アリアが都に出ることが決まってから真っ先に手紙を出したエリスは、彼女らしい明るい言葉で祝福してくれた。

『なんて素敵な報せなの! 都に来る日付を教えて頂戴、出迎えるわ!』

 ふふ、と思わず笑みが漏れた。都に出れば、エリスとまた会って話ができる。

『エリスの暇なときにでも、都を案内してね』とアリアは返事をしたためた。


 そして瞬く間に時は過ぎて、出立の日になった。皆予定を空けてくれていたらしく、司祭をはじめとする教会の面々に、孤児院の皆、そしてベルネットとベックマンも駅まで見送りに来てくれた。

「本当に都に行ってしまうんですね……寂しくなっちゃいます」

 瞳を潤ませ鼻をすすりながらそう言うリーゼルを、アリアはそっと抱きしめた。

「リーゼル、あなたがあの時私を心配して部屋に来てくれなかったら、この道は開けなかったわ。ありがとう、きっと手紙を出すから」

「うう、絶対ですよ!」

 二人のやりとりを見て微笑んでいたアルベルト司祭は、アリアと目が合うと真剣な面持ちでこう言った。

「アリア、あなたはこれからたくさんの経験をして、時には苦しくて挫折してしまいそうになることもあるでしょう。自分を赦せるようになりなさい。それが私からの忠告です」

 司祭の瞳は、その時も何かを見通しているかのように静かに澄んでいた。その言葉を胸に刻むように反芻してアリアは頷いた。

 ナディアやベルネット、他の皆とも別れの挨拶をして、アリアは新たな旅へと足を踏み出した。

 旅立つ彼女を歓迎するかのように、汽笛が大きく空に鳴っていた。

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