第二章 新たな街で

第六話 新世界

 ガタンゴトン、と汽車に揺られながら、アリアはカバンから一通の手紙を取り出した。

 それはベルネットがアリアが出立する直前に渡してきたもので、封を切って取り出すと、そこには何処かの住所と短い文が几帳面な文字で書かれていた。

『シュヴァルべ通り 十三番地 ハインツェ音楽教室

 私の知り合いのカミラ・ヴェルクマイスターにあなたの歌の指導をお願いしています。せいぜい励みなさい。

 ジルヴィア・ベルネット』

「音楽教室ですって! ……そんなの一言も聞いてないわ!」

 アリアはベルネットの秘密主義に苦笑いしつつも、地図上でその場所を探して赤いペンで印を付けた。音楽教室はどうやら下宿先の近くのようだ。

 その地図の中の別の印をアリアはそっと指でなぞった。「トラウム・シュナイダー」、エリスの働く仕立て屋の場所だ。

 エリスは仕事で今日はアリアの迎えに来られなかったので、アリアはこっそりエリスの仕事場を見に行ってみよう、と思い立ったのだ。エリスに会えるかどうかは不確実だが、会えなくても伝言をお願いするくらいはできるだろう。


 到着後の行動の確認をしたり、持ってきた本を読んだりしているうちに、一時間ほどが経ち汽車は目的地に辿り着いた。

「まもなく終点でございます。お忘れ物にご注意ください」

 車内アナウンスに顔を上げて、窓の外を見て、アリアは息を呑んだ。美しい白壁の立派な建物が並び、たくさんの人で賑わう街。想像を遥かに超えるその眩しさに、アリアの鼓動は高まった。

 しばらくぼうっと見惚れてから、我に返って荷物をまとめ、アリアは汽車を降りた。とうとう憧れ続けた都の土地に足を踏み入れたのである。


 都は目新しいものばかりだった。地元ではまず見かけない最新の流行の服や、ストリートミュージシャン、ブティックに歴史的な建築を残した美術館。目移りしながらもアリアはまず下宿先を目指した。

「ええと、シュヴァルベ通りはここだから、この道を曲がって……」

 入り組んだ道に入ることもなく、下宿先はすぐに見つかった。

「ここね……」

 そこはこじんまりとしつつも趣のある、綺麗な建物だった。「ツヴェルクの家」と看板が出ている。アリアは緊張に震える手で呼び鈴を鳴らした。

 しばらくして、小太りの婦人がドアを開けて出てきた。

「はい、どなた様でしょう」

「あの、今日からここにお世話になるツェルナーです」

 記憶を辿るように少し間を空けたのち、婦人は手をぽん、と叩いてにっこり笑った。

「ああ! ツェルナーさんね、長旅で疲れたでしょう。私はベルタ・アルトマイアー。ここの大家よ。ささ、お部屋に案内しますよ」

「ありがとうございます」

 ベルタの柔らかい雰囲気に安堵して、アリアは彼女に付いて行った。案内された部屋は、質素で飾り気のない場所だったが、アリアはあるものを目にして思わず目を見開いた。

「ピアノ……!」

「あら、そんなにびっくりされるとは思わなかったわ。芽吹き始めた若き音楽家のための部屋だから、良質なピアノ付きで、と頼まれたのよ。ベックマンさんに感謝なさいね」

「はい……」

 アリアはそのアップライトピアノをうっとり見つめた。孤児院にはきちんとしたピアノは無かったし、教会でもときどき触らせてもらう程度だったので、自室にピアノがあるなんて夢にも思わなかったのだ。

「ツェルナーさん、ツェルナーさんったら」

「あっ、ごめんなさい! つい見惚れてしまって。なんでしょう」

「これ、この部屋の鍵ね。夕食は共有スペースで皆で食べるから、時間通りに来て。いらない時は事前報告ね。朝食と昼食は、キッチンを自由に使って構わないから。共有スペースはいつでも空いているけど、他の人の迷惑にならないように気をつけること。よろしくね」

「はい、わかりました」

 ベルタが去ってから、アリアは軽く荷物を整理して、時計をちらりと見た。

 針は十一時を少し過ぎたくらいを指している。昼食は何処かのお店で取ろうかしら、と考えて、アリアは鞄に最低限の物を詰めて外に出た。


 シュヴァルべ通りを抜けて、大通りに出たアリアは、雰囲気のいい洒落たカフェで軽く昼食を取ったのち、街の散策に出た。

 エリスの働く仕立て屋に向かう道中は、流行の先端を行くブティックや老舗の楽器屋、可愛らしいスイーツ専門店や品の良いレストランまで、様々な店が並んでいて、そのどれもがアリアには新しく、輝いて見えた。アリアは手土産にスイーツの店で何種類かの焼き菓子を買い、他の店ものんびりと見て回った。


 買い物を終えて通りを歩いていると、何処からかピアノの音色が聞こえてきた。メロディーラインから察するに、ピアノ曲として有名な『風の踊り』だろうが、細かなアレンジが施されている。

 アリアは周囲を見た。どうやら道の先から聴こえているようだ。少し進んで角を曲がると、人々が立ち止まっている場所があったので、アリアはその輪の中に入っていった。


 人々の中心にはストリートピアノがあり、それを弾いていたのは、なんとまだ十三、四歳に見える、東洋風の顔立ちの少年だった。まだ幼さの残る顔には微笑みが浮かび、短く刈られた黒髪はしたたる汗で輝いて見える。

 雄弁、とでも言おうか、人を力強く惹きつける圧倒的な表現力。小柄な体に似つかわしくない、激しく大胆なその演奏に、アリアは思わず息を呑んだ。かと思いきや、突然その勢いは収まり、優美な旋律が繊細に奏でられる。

 アリアもこの曲は弾いたことがあったが、彼のこの演奏はアリアの知っている『風の踊り』とはまるで違っていた。この曲は、こんなにわくわくするような、激しく心を動かされるような曲だっただろうか。馴染みのある曲のはずなのに、アリアはこの曲を初めて聴いたかのような高揚感で一杯になった。

 まるで自分のもののように自由に、彼はこの曲を弾いている。ピアノはもはや、彼の身体の一部のようだった。


 やがて演奏はクライマックスになり、力強い和音で終わった。数瞬の静寂の後、辺りは彼への拍手と喝采で包まれる。アリアは拍手しながらも、しばらく彼の奏でる世界から戻ってこられないような夢心地だった。これが、都の音楽。これが、都のストリートミュージシャンなのか。アリアは都に来て早速、その洗礼を受けたのだった。


 聴衆に向かって、彼は深く礼をした。人々が次々に差し出してくるコインや紙幣を、彼は慣れた様子で側に置いていた帽子に入れる。

 帽子にチップが山盛りになった頃、アリアも「素敵な演奏でした」とコインを渡した。

「ありがとうございます」彼はくしゃっと笑った。少年らしい、純粋な笑顔だった。


 ピアノの側を離れ、鞄から取り出した懐中時計を見ると、もう二時を過ぎる頃だった。

「あら、もうそんな時間?」

 もう少し夢に浸っていたい気持ちを引き摺りながらも、アリアは仕立て屋に急ぐことにした。


 しばらく歩けば、仕立て屋、トラウム・シュナイダーはすぐに見つかった。針や糸がデザインされた可愛らしい看板に、レースを散りばめた可憐なドレスが飾られたショーケース。その素敵な外観にアリアの心は躍った。

 ドアを開くと、チリンチリン、と音が鳴り、ほとんど同時に「いらっしゃいませ!」と快活な若い女性の声。アリアは服の整理をしていた赤毛の女性店員に話しかけた。

「あの、ここで働いているエリス・アディンセルは今いますか?」

 エリスの名を口にすると、その店員はアリアをじっと見つめ、やがてにっこり笑った。

「エリスのお友達? 今彼女は外に出ているのだけど、そのうち帰ってくると思うわ。

 ねえ、それまで少しお洋服を見繕ってもいいかしら? 今着ているものよりよっぽど似合うものを揃えているわよ」

「え、ええ……?」

 彼女の突然の提案にアリアは狼狽えた。どう返すのが正解か悩んでいると、ちょうどドアのベルが鳴り、誰かが飛び込んできた。

「ちょっとオリヴィア! またお客様にちょっかい出してるの?」

「あらエリス、あなたのお客様を横取りして悪かったわね!」

「え、私のお客様……?」

 エリスはアリアのほうをじっと見た。アリアもエリスを茫然と見つめた。

 エリスはあの活発な少女の面影を残しつつも、すっかり都会の娘になっていた。深い緑の、素朴ながらも品の良いワンピースを身にまとい、長く柔らかな栗毛を高い位置でまとめ上げている。

「もしかしてアリア? すごく綺麗になったから気付かなかったわ! 会いに来てくれて嬉しい!」

 幼い頃と同じ眩い笑顔で、エリスはアリアに抱きついてそのままくるくると回った。

「エリス、久しぶりね! 今日はお仕事って聞いていたけど、つい覗きに来ちゃったの。これ、皆さんで食べてね」

 アリアの言葉に、エリスは目を輝かせた。

「私の大好きな仕事場を見てもらえて嬉しいわ。それにこのお店の焼き菓子、私大好きなの。ありがとう、みんなで分けるわね。まだ仕事が残っているからあまり話せないけど、ゆっくりしていってね」

 そうさせてもらうわね、とアリアが応えると、先ほどオリヴィアと呼ばれた店員が、アリアの肩におもむろに手を置いて、いい? とでも言いたげにじっと見つめてきた。アリアは観念して服を見繕ってもらうことにしたのだった。


「ああ、結局全身の服をいただいてしまったわ……」

 アリアは仕立て屋からの帰り道、オリヴィアが見繕った服を手にため息を吐いた。なんでも、

「あなたのために仕立てられたみたいによく似合っているわ! エリスのお友達は私のお友達みたいなものだもの、これはあなたにプレゼントするわね!」

 とのことで、太っ腹にも見繕われた一式すべてを紙袋に詰めて渡してきたのである。

「こんな仕立ての良い服をただでいただいてしまうなんて、なんだか落ち着かないわ」

 そう言いつつも、いつ着ようかしら、と内心少しうきうきしている自分もいることに気付いて、アリアは苦笑した。それに、気負わずたくさん着たほうが、きっとオリヴィアも本望だろう。


 ツヴェルクの家に帰ると、ベルタが「今晩はツェルナーさんの引っ越しのお祝いですよ」と、ささやかなご馳走を用意してくれていた。他の入居者たちと同じテーブルを囲んで、アリアはベルタ特製の料理に舌鼓を打った。

「ツェルナーさんの部屋はピアノ付きなんだって? 羨ましい限りだよ。まあ僕はチェロ弾きだから必要ないんだけどさ」

 壮年の背の高い男性が言うと、小柄な若い女性が私も羨ましいわ、と頷いた。

「ツェルナーさんはピアノ弾きなの?」

「いいえ、歌手を目指して都にきたのですけれど、ピアノも少し弾くんです。本格的に習ったことはないのですが」

「へええ、そうなの。私は音楽はてんでだめだから憧れるよ。こんど聞かせておくれ」

「ええ、もちろん」

 アリアはにこやかに応えた。芸術家たちの住むこの宿は、アリアにぴったりの穏やかな場所で、彼女は会話を心行くまで楽しんだのだった。


 翌日、アリアはハインツェ音楽教室の初回の講座を受けに来ていた。ハインツェ音楽教室は、かなり広く、小綺麗な都会的な建物で、アリアは緊張しながら中に入り、呼び鈴を鳴らした。

「はい、どうなさいましたか?」

「ここで今日からお世話になる、アリア・ツェルナーです」

 アリア・ツェルナーさんですね、と受付の女性は書類の束を手に、何かを探したのち、

「カミラ・ヴェルクマイスターの講座ですね。彼女が直接呼びに参りますので、椅子に座ってお待ちください」

 と、ソファーのほうを指して言った。

「わかりました」

 アリアはソファーに座った。柔らかく座り心地の良いソファーだったが、残念ながらアリアはそれどころではなかった。緊張で体がこわばって、心臓はどきどきと速く脈打っている。思った以上に立派で大きいこの場所で、アリアは事前に何も教えてくれなかったベルネットを少し恨んだ。

「アリア・ツェルナーさんはいらっしゃる?」

 不意に名前を呼ばれて、びくりと反応してしまってから、アリアは「私です」と返事をした。

「私があなたを担当するカミラ・ヴェルクマイスターよ。これからよろしくお願いいたしますわね」

 カミラはベルネットと同世代くらいの、ふくよかな婦人だった。一見物腰柔らかそうだが、カリスマ性を孕んだオーラが滲み出ている。洗練された都会的な服装に合わせた大粒の真珠のネックレスが、彼女の気の強さを代弁していた。

「よろしくお願いいたします」

 アリアは震えそうになる声を押さえつけて礼をした。ベルネットも風格のある人だったが、この人は彼女のそれとは違う。今までに対峙したことのないような、圧倒的な存在感が、このカミラという女性にはあった。

「さて、さっそく教室に行きましょう」

 そう言ってすたすたと歩きだしたカミラの後ろを、慌ててアリアは付いていく。

「ここですよ。さあ、入って早速始めましょう」


「ベルネットからあなたのことを聞いています。歌手志望なんですってね。本格的な勉強を始めてからはまだ半年程度と聞いたから、まあそんなに期待してはいないのだけど、あのベルネットが珍しくこの私に頼んできたということは、なにか光るものがあるのかしらね。

 ……前置きはさておき、とりあえずあなたの実力を見せてもらいましょうか。曲は『春の訪れ』と、『愛の囁き』、それからあなたの作った曲から一番自信のあるものを一曲。できるわね? 準備の時間は五分あげるから、発声練習だとかルーティーンだとかは五分で終わらせて頂戴」

「はい、わかりました」

 アリアは頷いて、いつも通りの発声練習を始めた。発声練習をしばらくすると、こわばっていた体からは程よく力が抜けて、声もよく出るようになったが、アリアはまだ不安だった。

「はい、五分経ちました。歌ってちょうだい」

 アリアはカミラのほうを見て頷き、深呼吸をしたのち、口を開いた。

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