第四話 新たな日々とチャンス
「ほんとうに良かったの? 髪を染めるなんて」
黒い染料を手に、フィーネは遠慮がちに尋ねた。
長い年月が経ち、義務教育を終え十五になったアリアは、孤児院を抜けて働きに出ることにした。そのためにアリアは、自分の白い髪を黒く染め上げる決断をしたのである。
「いいのよ、これからは自分の力で生きていかなくちゃいけないんだもの。苦労の元は少ない方がいいわ」
アリアは毅然と言い放ったが、心ではまだ葛藤していた。たくさんの苦労の引き金になったとはいえ、髪の白くない自分など、自分ではないような気もしていたのだ。それでも染めると決めたのは、もう守ってくれる人たちはいないと知っているからなのだろう。
そう、それなら、とフィーネがアリアの白い髪を漆黒に染めていく。
鏡に映った黒髪の自分はなんだか自分ではないようで、心まで重たい黒に染まったようだった。
その後すぐにアリアの送別会は開かれた。
「アリア、独り立ちおめでとう」
ナディアの言葉に、アリアは顔を顰めた。
「孤児院が教会に代わっただけですもの、独り立ちではないと思うわ」
アリアの新たな職場は、孤児院のパトロンでもあり、アリアにとっては孤児院の次に大切な場所である教会に決まっていた。アリアの洗礼を担当した司祭であるアルベルト司祭が、アリアのことを案じており、手伝いとして雇うことを自ら提案したのだ。
「それでも孤児院を出て行く決断をしたのはすごいことよ」
「そうよアリア、あなたまだ十五でしょう? サリーなんて十八のときまでここにいたじゃないの」
ナディアの言葉に頷きながら、フィーネがおっとりと言った。アリアはそれを聞いて小さく笑った。確かにサリーはぎりぎりまでここに暮らすのだと駄々を捏ねていたような気がする。
「私とひとつ違いなのに、こんなに早く出て行っちゃうなんて。寂しくなるね」
寂しそうに肩を落とすフィーネを、アリアはそっと抱き寄せた。
「またすぐに会えるわ、遠くに行くわけでもないもの。ね?」
うん、とフィーネが頷く。二人が抱き合っているのを見た他の子供たちが集まってきて二人を囲んだ。
「ミサの時にまた会おうな!」
「わたしのこと、忘れないでね」
アリアはフィーネをそっと離し、子供たちを一人一人抱きしめていった。
「ええ、忘れないわ。あなたたちと過ごした日々は、私の宝物だもの」
送別会ののち、ナディアに呼び出され、アリアは彼女の部屋を訪ねた。
「あなたのお母様から、孤児院を出るときにはこれを渡すように言われていたのよ」
そう言って手渡されたのは、小さな封筒。アリアは息が止まりそうなほど驚いて、震える手でそっと封を切った。
『愛しいアリアへ。幼いあなたを手放して去ったこと、傍に居られないこと、どうかお赦しください。私にはこれ以外にあなたが幸せになる道が思いつかなかったのです。でもこれだけは信じてほしい、私はあなたを心より大切に思い、ずっとあなたを案じています。
これを読むころにはあなたはきっと成長して、たくさんの不安を抱えて新しい一歩を踏み出そうとしていることと思います。でもあなたならきっと大丈夫、だって私とお父様の娘なんですもの。あなたの成長する姿を見られないのが残念ですが、お父様は天からずっとあなたを見守ってくださることでしょう。
どうか忘れないで、あなたの髪は、誰が何と言おうとも美しい。私はあなたの雪のように白く柔らかな髪も、透き通る綺麗な碧眼も、温かな手も、優しい声も大好きです。あなたのような娘に出会えて、私は幸せに思います。誇りに思います。
あなたの幸せを、心より願っています。愛をこめて、マリー』
手紙にぽた、と雫が落ちてアリアは慌てて目元を拭った。けれど涙は止まることなくぼろぼろと流れ落ちてくる。
ごめんなさい、お母様。私はあなたが美しいと言ってくれた大事な髪を、真っ黒に染め上げてしまいました。
教会に移った最初の日、出迎えたアルベルト司祭はアリアを見るなりこう言った。
「結局、髪は黒く染めてしまったのだね」
寂しそうに微笑む司祭に、アリアは困ったように微笑み返した。
「自分の力で生きていくのに、障害は少ない方が良いでしょうから。それに、司祭様も黒染めを勧めてくださっていましたでしょう」
「それはそうなのだが、なんだか惜しいような気がしてね。いつかありのままの君が受け入れられる社会に、なればいいのだけどね」
「いいのですよ、これで。母も黒髪でしたし、私が白髪で生まれなかったならきっと黒髪だったと思います」
「確かに髪を染めた君はお母様にそっくりだ」
司祭はアリアの頭をそっと撫で、微笑んだ。
教会での仕事は、それはそれは忙しかった。孤児院を出てからの行き場に困っていたところを助けていただいた身でもあったので、アリアは人一倍懸命に働いた。主にやることは雑用だったが、教会の人々はとても親切で温かかった。
仕事の合間を縫って、アリアはナディアや孤児院の友人に手紙を出した。
『親愛なる先生へ、お元気ですか、私は充実した日々を送っております』
先に孤児院を出ていって服飾の仕事に就いたエリスからは、こんな手紙が届いた。
『小さな服飾店だけど、この間大きい仕事が舞い込んできたの。わくわくしちゃうわ!』
エリスはあのおてんばぶりからは想像もつかないほど手先が器用で、裁縫の腕は大人のナディアを上回るほどだった。服飾の勉強をしたことはなかったものの、いくつもの服飾店に自ら頼み入って勉強を重ね、デザイナーの夢を追っているのだという。
「あら、エリスったら、張り切ってるわね! 私もいつかは夢を追いかけて都に……」
アリアはその考えを振り切るように頭を横に振った。お金もつてもない自分には、難しいことはわかっている。エリスのような行動力も、到底彼女にはなかった。
「まずは独り立ちすること、それからのことは後で決めればいいもの」
そんなある日、アリアに転機が訪れた。
いつも通り床掃除をしていたアリアは、聞こえてくる音楽に手を止めて聴き惚れていた。その日は教会で聖歌隊の指導が入っており、歌声をすぐ側で聴くことが出来たのだ。
アリアが我を忘れてぼうっと立っていると、それを見留めた指導者の婦人がこう声を掛けてきた。
「あなた、一度歌ってみなさい」
突然の言葉に、アリアは固まってしまった。そんなことはあり得ないのに、確かにその女性の眼差しは自分に向いている。
「そこのあなたですよ。歌に聴き惚れて作業が止まっているあなた」
アリアはぎこちなく笑った。確かに箒を動かす手は止まっている。
これはチャンスだ、とアリアは思った。しかし、そのチャンスを生かす自信など、到底彼女には無かった。でも、これを逃したら? もう二度と機会は訪れないかもしれないと彼女には分かっていた。
アリアは真っ直ぐに彼女を見た。中年を過ぎたくらいの、痩せ気味でやや背の高い女性で、灰色の髪が上品にまとめ上げられている。そして彼女の瞳もまた、こちらが見透かされそうなほど澄んでいた。
「ええ、それでは、一曲歌わせていただきます」
覚悟を決めてはっきりとそう言い放ったものの、アリアの脚は震えていた。大勢の聖歌隊の前で、一人で歌うだって?
彼女に手招きされて、アリアは前の方に来た。
「ミサの第一曲。歌えますね?」
女性の問いに、こくりと頷いて、アリアは深呼吸をした。
鳴り出したパイプオルガンに合わせて、アリアは口を開いた。
緊張していたものの、歌い始めればそれはすぐに高揚感に変わった。
高い天井にのびやかに歌声が響く。教会のステンドグラスがきらきらと輝き、光は祝福になって彼女の歌を包む。まるで彼女のためのステージだった。
音楽が鳴り止んで、少しの静寂ののち、教会は拍手に包まれた。緊張が解けたアリアの顔は、照れくささと恥ずかしさで紅く染まった。
「まあ、いろいろと粗いけれど、歌手の素質はあると思いますよ。これから私があなたに歌を教えることとします。厳しくしますから、励みなさいよ」
彼女の言葉に、アリアは驚きで息が止まりそうになった。
「なぜ私が歌手になりたいとご存知なのですか?」
「アルベルト司祭の方からあなたのことは聞いています。そのうちに予定をつくって会いに来ようと思っていたのですが、ちょうど良かったですわ」
女性はふん、と鼻を鳴らした。感動のあまり、アリアの目は潤みだした。
「ありがとうございます……!」
「まじめにやらなければすぐに辞めますからね、私も暇でないのでね。……まあ、せいぜい努力なさい」
言い方は不機嫌そうだったものの、満足げな顔で彼女は言った。
指導者の女性、ことベルネットは、翌日アリアに数冊の本を遣してきた。それらはすべて音楽的知識の本であった。
『あなたは音楽について本格的な勉強したことはないと聞きました。これらはすべて音楽の形式や楽譜の読み解き方など基礎知識についての本です。次に会う時までにすべて頭に入れておくこと。ジルヴィア・ベルネットより』
「すべて頭に入れるですって……」
アリアはあまりの量に途方に暮れそうになった。アリアの基礎知識といえば、ダリアから教わったピアノの基礎と学生の頃に授業で習った程度のものだが、それにも関わらずベルネットはアリアに音楽の専門書を寄越してきたのだ。
「でもこれは期待されているということだわ。期待に応えなければ。司祭様とベルネットさんの助けがなければ私は音楽の道を諦めていたはずだもの」
アリアは両頬をぺちりと叩いて、本を開きはじめた。
そうしてどうにか一通りの知識を身につけて迎えた一回目の指導。
「もっと足を開いて、そんなお上品な開き方じゃきちんと声が出ないでしょう!」
「は、はい」
アリアは戸惑いながらベルネットの指示に従い、歌う姿勢や発声練習に何時間もかけ、その日は歌うこともなく指導が終わった。
「まあ、初めてにしては上出来でしょうね。また本を持ってきましたから、次の授業までに一通り頭に入れておきなさい」
「はい、ありがとうございます!」
疲れを隠すように明るい声でアリアは応えた。
「毎日練習してくださいね、あなたの夢が本気ならば、決して怠ることのないよう」
「わかりました。励みます」
では失礼、とベルネットが去っていき、アリアはふう、と溜息を吐いた。
それからのアリアは多忙を極めていた。
教会の仕事、その合間の読書、発声練習、それに歌のための筋肉のトレーニングなどもルーティーンになり、気が休まるのは友人らからの手紙を読む時くらいだった。
アリアの歌の特訓の話に、エリスは大興奮の様子だった。
『なんて素敵なの! いつかのあなたの晴れ舞台には、私の仕立てた服を着てよね!』
アリアはくすっと笑った。なんて素敵な提案だろう。いつかそんな日が来るように、今は頑張らなくては。
そんなある日、いつものように部屋で発声練習をしていると、不意にノックの音が部屋に響いた。
「はい」
返事をしてドアを開けると、そこにはアリアと同じく、手伝いとして働いている一人の少女が待っていた。
「アリアさん、練習中にすみません。少しご相談よろしいですか」
アリアは呆気に取られたものの、彼女の真剣な顔を見てすぐに頷いた。
「ええ、私でよろしければ」
「ええと、アリアさんのことなので、あなたでないとだめなんです……」
困ったように首を傾げる彼女を不思議に思いながらも、アリアは彼女を部屋に招きティーセットを用意した。
「そうなんですか? とりあえずお掛けになってお待ちくださいな。紅茶でよろしいですか?」
彼女はこくん、と頷いた。
「それで、私の話というのはなんでしょうか。もしかして、私、仕事に集中できていませんか」
「そ、そんなめっそうもない! アリアさんの働きぶりは私たちも見習いたいくらいです。でも、歌の練習や勉強もお忙しいようですし、無理をなさっているのではないかと心配で……」
「私は大丈夫、」
「本当に、ですか?」
遮った彼女のその真剣な眼差しに、アリアは何も言えなくなってしまった。
「……私、知ってます、アリアさんが仕事の合間に本を読んでいること、毎日練習なさっていること。それにみんな気付いてますよ、アリアさん、寝不足でしょう? 私たちはまだ余裕がありますから、仕事を減らして歌に集中して欲しいんです」
アリアははっとした。自分の力で生きていくのだと思うばかりで、心配してくれる人の存在に今まで気付いていなかったのだ。
「アリアさんの夢は私たちの夢です。……私たちにとってアリアさんは家族同然なんです。頼ってくださいよ」
アリアの胸は感謝と幸せでいっぱいになった。真っ直ぐ自分を見つめる彼女の目を見て、アリアは言った。
「リーゼル、ありがとう。お言葉に甘えて、歌に集中させてもらうことにする」
それを聞いた彼女の顔がぱっと輝いたと思えば、いきなりリーゼルは椅子を立って、勢いよくアリアの胸に飛び込んできた。
「良かった! アリア、頑張ってね! ……あっ、ごめんなさい!」
アリアは驚きながらも、ふふっと笑ってリーゼルを抱き返した。
「ありがとう、リーゼル」
その後、仕事を減らして歌に集中し始めてからの、アリアの上達は目覚ましいほどのものだった。
教会で働き始めて一年ほど経ったある日、ベルネットが唐突にこんな提案をしてきた。
「来月の復活祭の舞台に、アリア、あなたも立ちなさい」
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