第三話 苦難の時代

 アリアが孤児院に来てから三年ほどが経ち、七歳を迎える年の秋、彼女は小学校への入学を控えていた。

 ここ何日か、ナディアはあることに頭を悩ませていた。それは、アリアの髪の問題である。

 アリアの幼く敏感な肌には、染料が合わないかもしれない。ナディアが今まで髪の黒染めに乗り気でなかったのはそれが主な理由でもあった。だが、アリアはもう七つになる。もし試すのなら、このタイミングしかないと、ナディアは覚悟を決めて話を切り出した。

「アリア、私はね、入学前に髪を染めたほうが、あなたの身のためだと思うの。でも無理にはさせたくないから、あなたはどう思うか、聞かせてちょうだいな」

 尋ね方こそ穏やかではあったが、ナディアの心中は全く穏やかではなかった。

 アルベルト司祭の協力を得たことで、公の場で騒がれることはほぼなくなったが、学校内でもアリアが安心して過ごせるかと聞かれたら、それは期待できない。なぜなら、騒ぐことはなくとも、大半の人々はアリアの髪色を良くは思っていないことが、周りの反応からわかりきっているからである。

 多くの子供や教師は気味悪がって近づかないだろうし、最悪の場合、いじめを受けることすら予想できる。

 だが、アリアは大きく首を横に振った。

「黒い髪なんて嫌だわ。そんなのわたしじゃないみたいじゃない」

「髪色を変えたところで人が変わるわけじゃありませんよ。どんな髪でもアリアはアリアでしょう。染めるのが嫌なら、鬘を用意してもいいですよ」

 そう諭すナディアだが、アリアは頑としてその言葉を認めようとしない。

「必要ないわ。この髪は神様がお与えになった私の宝物なのよ。馬鹿にする人なんか、ぶっ飛ばしてやる」

 普段使わない、そんなぶっきらぼうな言葉を用いて、アリアは強がった。

「そんな言葉を使うものじゃありませんよ、アリア。私はあなたが学校で苦しんでいても、助けに行くこともできないの。わかってくれないかしら」

「嫌よ、絶対に、いや!」

 アリアはぷいと顔を背けて、そのままナディアの部屋を去って行ってしまった。

「……どうしたものかしら。染めるなら入学前しかないと、司祭様もおっしゃっていたのに」

 入学後に染めたところで、アリアの白髪が学内に知られてしまっていては意味がない。どうにか説得する方法を、とナディアはまた考え始めた。


 アリアが頑として拒むのには、れっきとした理由があった。髪を染める染料は高価で、しかも孤児院はあまり裕福ではない。染め続けるなら、その費用はおのずと嵩んでいくだろう。それに、子供用の鬘なんてものは、この辺りではめったに手に入らない。聡明なアリアはそれをわかっていて、余計な迷惑をかけまいとしているのだった。

「アリア、どうしてそんなに不機嫌そうな顔をしているの?」

 エリスが尋ねた。エリスは今年九歳になり、孤児院の中での年長者としての落ち着きを少しずつ身に着けていた。

「先生が、髪を染めたほうがいいって。そんなに心配しなくたっていいのに。……それとも、白い髪なんて本当は嫌なのかしら」

 むくれるアリアを、エリスはそっと抱きしめた。

「心配するわよ、先生も私たちも、アリアが大好きで大切なんだから」

 だから、そんなに気を悪くしないで。そう諭すエリスに、アリアはまだ納得しきらない顔をしながらも、こくんと頷いた。


 ナディアは孤児院の仲間と協力しながら、アリアを説得しにかかったが、とうとう最後までアリアは首を縦に振らなかった。

 入学式の日になって、アリアは少しの期待と不安を胸に、それでもにこやかに学校に向かった。

「行ってきます、先生」

「いってらっしゃい、アリア。みんな、アリアをよろしくね」

 エリスをはじめとする子供たちが、神妙な顔で頷く。いつもはおちゃらけているニックやサリーまでもこわばった顔をしているのを見て、アリアはようやく事の重大さに気付き、ぎゅっと両手で拳を握った。

 緊張の中、アリアの学生生活は幕を開いた。


 クラス分けを確認し、入学式を終えたアリアは、自分がこれから一年過ごす教室に向かっていた。

 まるで反発する磁力が働いているかのように、アリアの周りには近づくまいとする生徒たち。少し離れたところからひそひそと、あることないこと噂する子供もいたが、アリアはそんなものには慣れっこだった。だが、アリアの胸にあった少しの期待は、たちまち萎んでいった。

「どうせそんなものだとは思っていたわ。でも、髪の毛が白いからって距離を置くような人たちと、髪を染めてまで仲良くしたくないもの。やっぱりこれで良かったのだわ」

 アリアは誰にも聞こえないように、小さくそう呟いた。


 教室に入ると、それまで騒がしかった部屋が、寒々しいほどしんと静かになった。アリアは素知らぬふりで、自分の席に着いた。

 担任の女性教師は、アリアの姿を見るなり顔を歪めた。その態度を隠そうともしない姿に、アリアは少しがっかりした。先生ですらこの態度なのだ、友達を作るなんて、不可能に近いのかもしれない、とアリアは期待するのをさっぱりやめてしまった。

 アリアの心に追い打ちをかけたのは、隣の席の女の子が落としたプリントを、とっさに拾った時だった。プリントを「はい、どうぞ」と手渡すと、その少女は、

「ヒッ」

 と小さく悲鳴を上げ、礼も言わずに素早くプリントを取り上げたのだ。これには流石に、アリアも傷ついた顔を隠せなかった。


 一日目はその程度だったが、二日目、三日目と日を追うごとに、アリアの扱いは酷くなる一方だった。

「出ていけ、悪魔!」

 休み時間に入り、立ち上がると同時にそんな罵倒をされ、不意にアリアは男子がわざと出した足に引っ掛かって転んだ。

「何するのよ」

 キッ、と睨みつけようとするも、床に転がるアリアは他の子供たちにも蹴りを入れられ、あまりの痛みに彼女は身を竦めた。

「どうしてこんなところに来たんだよ、悪魔のくせに!」

「呪いが移るから早く出ていきなさいよ」

「人でなし」

 心無い言葉を掛けられ続け、四方八方から攻撃され、アリアは涙をぼろぼろと溢したが、周りの子供たちは誰も止めようとしない上、教師が来る気配もない。

「なんでこんなことするの、私は呪われてなんかない、司祭様もそう言ったのよ」

 声を絞り出して訴えるも、少年はにやにやとしてこう言った。

「司祭様は騙されているんだって、母さんが言ってたよ」

「可哀そうな司祭様。別の方と変わった方がいいんじゃないの」

 これにはアリアも我慢ならなかった。痛む体を起こして、なんと少年の足に思いっきり噛みついたのだ。

「いてえ! やめろ、この悪魔!」

「悪魔は誰よ! 司祭様を悪く言うな! 罰当たりな人!」

 アリアは怒りのままに叫んだ。だが、相手もむきになって自分の過ちを認めようとはしない。

「なんだって、おれはただ心配してやってるんだよ、悪魔に騙された可哀そうなやつだって!」

 収拾がつかない喧嘩になってようやく、担任の教師が間に入った。だが、彼女はアリアの顔を一目も見ず、

「ツェルナーさんは放課後、校長先生の所に行きなさい」

 と言ったのみだった。


 そのまま授業が始まり、アリアは落ち着かない心を抑えるように、唇を噛み締めて俯いた。すると視界に、服のあちこちがひどく汚れ、ほつれ、肘には穴まで空いているのが入ってきて、また彼女は少し泣きたくなった。この服は、エリスのお下がりだったのだ。

 本当の悪魔は誰? 見た目だけですべてを判断しているのは誰? 怒りに震えるアリアだったが、その心が満たされることはなかった。


 放課後、校長室に入ると、アリアが次に問題を起こせば退学だと言われた。同じく呼び出されていたナディアは、校長の前では大人しくしていたが、二人きりになった途端、アリアを抱き寄せ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と啜り泣いた。

 アリアは申し訳なさそうな顔で、

「ごめんなさい、服、ぼろぼろにしちゃった」

 などと言うので、ナディアは「そんなの謝らなくていいのに」とより強くアリアを抱きしめた。

「やっぱり今からでも髪を染めて、他の学校に通う?」

 ナディアの提案に、アリアは首を大きく横に振った。

「大丈夫よ、先生。負けないわ。きっと時間がたてば、みんな飽きて私なんかどうでもよくなるわ。大丈夫よ」

 ぼろぼろの体で大丈夫と繰り返すアリアはあまりに健気で、ナディアは無理にでも髪を染めさせなかったことを激しく後悔した。


 ナディアに連れられてそのまま帰ってきたアリアは、汚れを落とし傷の手当をした。それらがちょうど終わったとき、上級生であるエリスたちが帰ってきた。

 エリスはアリアを見た途端、顔を歪めてアリアに泣きついた。

「アリア! ああ、守ってあげられなくてごめんね、アリア」

 わあわあと泣くエリスに、アリアは落ち込んだ顔で、

「エリスに貰った服、ぼろぼろになっちゃった」と言った。

「そんなの大したことじゃないわ! 大きな怪我がなくて良かった、私はアリアが大事なの、前にも言ったでしょう」

 うん、とアリアはこくり頷いた。孤児院の温かさだけが、この時のアリアの救いだった。


 後日、傷みが比較的ましだった服は、エリスがナディアに習って繕い、空いた穴や大きな汚れには端切れを使ってアップリケを付けてくれた。

「細かいところは先生だけど、ほとんど私がやったのよ」

 胸を張るエリスと綺麗になった服を見て、アリアの顔はみるみるうちに笑顔でいっぱいになった。

「なんて素敵なの! これ、もともとの服よりずっと可愛くて好きだわ。ありがとう、エリス!」

 どういたしまして、とエリスが得意げに笑う。これをきっかけに、エリスは裁縫にのめり込んでいくことになったのだった。


 相変わらず差別はなくなる気配もなかったが、アリアの思った通り、しばらくすれば露骨ないじめは少しずつ落ち着いてきた。教科書や持ち物がなくなったり、悪口を言われたりすることはあったものの、アリアは初めに比べればまし、と耐え抜くことを選んだ。

 とはいえ、学校に居場所がない、というのは、まだ七つの子供には十分に苦しい環境だった。どこにも行く場所のなかったアリアは休み時間、ピアノを少しいじらせてもらうことは出来ないだろうかと、こっそり音楽室に入り込んだ。

 まるで小さい頃、エリスに連れられて物置部屋に忍び込んだときみたい、とアリアは思った。今回は一人だけれど、その時と同じくらいのどきどきと、加えて不安でアリアの心はいっぱいだった。

 音楽室に鍵は掛かっていなかった。どうやら誰もいないらしいことを確認して、アリアは忍び足でピアノの方へ向かった。

 その時、にわかに背後から声が聞こえた。

「こんな時間に音楽室になんか来て、どうしたの?」

 見つかってしまった! アリアはびくびくしながら、怒られる覚悟で声の方に振り返った。

 だが、その背の高い中年の女性は、穏やかな顔でアリアを見つめていた。安堵して肩の力が抜けたアリアは、へなへなと床に座り込んだ。

「怒らないんですか?」

「ええ、校則違反ではありませんから。ピアノに興味がおあり?」

 アリアがこくりと頷くと、女性は濃紺のカバーを外し、ピアノの用意をしてくれた。

「何か弾くのなら、どうぞ、使ってちょうだい。驚いたわ、ここに来てピアノを弾こうなんて子、誰もいなかったから。ああ、もし勘違いだったらごめんなさいね」

 アリアはふるふると首を横に振った。「弾かせてもらいます」

 女性は優しい笑みを浮かべ、アリアにピアノの席を譲った。


 それからアリアは、音楽室に通い詰めることになった。

 女性教師ことギーゼラは、アリアの髪色について偏見は持っていないらしかった。

「ほら、私にだってあるわ、白い髪」

 自らの金髪に混じった白髪を、そう茶化してギーゼラは笑った。


 ギーゼラはアリアにピアノの弾き方を本格的に教え、さらにいくつかの古い楽譜を、「内緒ね」と渡して、いたずらっ子のようにウィンクしてきたことまであった。先生と生徒という間柄だったが、二人は互いに「アリア」「ギーゼラ」と呼び合い、年の離れた友人のように親しくなった。アリアにとってこの時間は心のオアシスであり、学校に通う理由となっていた。


 そうやって過ごすうちに、アリアが普通の人間だと気付いた子供が、恐る恐る話しかけてくることも、少しずつ増えてきた。皆、いじめの標的になるのが怖いのか、表立って仲良くすることはなかったが、クラスメイトとしての最低限の会話はしてもらえるようになり、教室にいることがさほど苦ではなくなった。

 苦い思い出の多い学生生活だが、アリアはこの時間は無駄ではないと思えた。年の離れた友人、ギーゼラが別の学校に転勤しても、手紙のやり取りが続き、それはアリアの支えになっていた。そんなこんなで、結局最後まで髪を染めることはなく、アリアは学生生活を終えたのだった。

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