第三夜 王都

 非常に緩くしか縛られていない腰の絹紐は意味をなしているのか、いないのか。


 だらしなく窓辺に座る胸元も、乱雑に投げ出された足元も黒い単衣がはだけ、陶器のように白い柔肌が惜しげもなく覗いている。肩からのずれ落ちすら気にする様子もない王女の整った相貌は、着衣よりももっと酷い憂いを帯びていた。

 その碧眼で、しとしとと降る雨が描く、池の水紋をぼんやりと捉えながら無造作に動かされている手の中の小石から窮屈そうな摩擦音が鳴る。


 それでも殿下、と呼ばれれば緩慢に首は動いた。寄越した気怠げな視線だけで、何、と語らせて。


後立州ごりゅうしゅうより文が届きました。王太子殿下から、内親王殿下も目通し頂くようにと」

「……兄上が、ね」


 王や王太子宛にきた文を、決定しているとはいえまだ正式な地位ないしんのうを襲名する前の自分にも、という流れなったことに王女は眉を潜めた。


 後立州といえば、比較的南の方にある王都、緑翠ろくすいから北東方面に国境まで抜けた田舎地方である。そこの地方公使は元々王の側近を勤めていた官吏だったが、国の政策の一つとして国民に教養を広める為の学問所である文所の建設に向けて数年前に事実上左遷された。そんなぶっ飛んだ経歴だから王宮の者は殆ど知っているし、そもそも王太子も王女も面識はある。そんな公使から、王太子宛の文。


 ロクなものじゃないだろうとアタリをつけながらも、王女がその体勢を崩すことなく手だけを差し出せば王太子の側近はさっと手渡して部屋を出ていく。その行動は、文の内容がなんであれ拒否権など無いことをありありと示唆していて、王女は目を通すことなく早く止めばいいのに、と溜息をついた。


「あれ、この雨の中お出かけスか?」

「まぁね……帝国くにに帰るんなら、途中まで一緒にどう?」

「え、なんで分かったんすか?」


 仕方なく背筋を合わせて単衣を整え、絹紐をきつめに結んだ上に黒い襦裙じゅくんを着ているところに窓から顔を覗かせたのは、紋波もんは帝国からの使者だった。


 紋波は隣国であると同時に第一王女の嫁ぎ先でもあるため、友好国として双方に使者が遣わされている。


 瞠目した使者は、そのゴールデンアイを内親王に向けた。正しく帰る前に挨拶にと顔を覗かせたのだが、まだ帝国で着るブリオーという長い丈のチュニックではなく凰都の深衣という長い丈が広がった衣装を身に纏っていたので、言い当てられるなど夢にも思わなかったのだ。


「なんとなく? 強いて言うなら、顔がどことなく緩んでる」

「え、ウソでしょっ!?」

「さぁて、どうかな」


 ギクリ、と効果音でもつきそうな面持ちで両手で頬を押さえる使者に対して、王女ははぐらかしながらニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。どれだけからかいの含んだ目をしていても、この王女が相手の心理を読むのに長けているのは使者はその身をもって実感しているので、気を抜かず慎重に期していたのだ。それは、一緒に出歩くなんてことを万が一にも避けたかったから。しかし、こうなってしまっては友好国の王族の申し出を無下にできる立場に使者はない。言い換えれば、使者に選択肢など一切存在しないのだ。


 そんな使者の心の内を知ってか知らずかさっと紅をひいた王女は、優雅に微笑む。黙って座っていれば国で一番美しいと謳われる姫君が完成した。


「おや、姫様。本日は何処へ?」

「友人の帰国のお供。といっても、途中までだけどね。最近はどう? 繁盛してんの?」


 凰都国はそもそもが大きく豊かさもある国であるが、王都は特に栄えている。それはそれは雨でも客足がパッタリと途絶えることはないほどだ。


 国産品は元より、輸入品も多く隣国である呉越公国の服飾と樢魏国の宝石類は露天商の中でも一際目を引く。他にも自国にはないフルーツや野菜、ハーブや調味料、飲料水なども取り扱われていた。

 それが理由、というわけでもないのだが王女はよく王宮を抜け出し視察の名目で王都を散策している。王家の紋章である芍薬の花の刺繍が施された絹の着衣に肩より少し長めの金の髪、そして碧眼。どれをとっても目立つ要素でしかないのだから、王都に住む者ならば王女の顔を知らない者はいない。


 それも、使者がこの王女と一緒に歩きたくない理由であった。護衛をつけずに歩く上、平民が着る襦裙を身につけ、その優雅な仕草とは裏腹な王女らしくないボーイッシュな言葉遣い。どれもが王族とはかけ離れた、親しみやすさを感じる振る舞いだ。色々な情報が得られて、効率的ではあるのだろう。が、あちこちで呼び止められる為、とにかく前に進まないのだ。


「ウチはありがてぇことに、良い商売させて貰ってるよ。ただ、川沿いに店持ってる奴らはこんな雨の日は困るだろうよ。あっちの方はほら、西の民の居住地ってのもあるしな」

「成程、それはやはり由々しき問題だねぇ……陛下ちちうえと話して対策を練るよ。情報ありがと」

「姫様が足を運んでくれるんなら、これくらい何の。そっちのにぃちゃんはコレ持っていきな、その代わりまた寄ってくれよな」

「ありがたく頂戴シマース」


 真剣な顔で頷く王女を見て使者は顔に出さないように内心溜息をつきながらも、揚げまんじゅうを差し出してきた店主にはニッコリ笑ってみせた。


 店主が口にした西の民とは、凰都国からみて北東方面にある隣国——樢魏国に住む民族の中でも南部の民が流入し凰都国民と盛んに交流して生まれた混血民だ。


 凰都国に住む民は基本的に多少の濃淡はあれど瞳や髪も色素が薄く象牙色の肌が特徴的だが、樢魏の南部の民は濃い小豆色の肌に群青色の髪、そして空を写した蒼い瞳をもつ。その両者から生まれた子は、色素は半々くらいだが蒼眼をもつことが多く、またオッドアイになる者もいるため見目ですぐ混血だと分かってしまう。


「一応言っとくと、今ソコへ行ったら危険っすよ。川幅が十分にあるとはいえ、決壊もいつ起こるか分からないんで」

「何言ってんの? 帝国へ行くならどのみち川沿いを上らなきゃならないから、変わんないでしょ」

「いやまぁそーなんすけど。様子見に行きたい、って顔にかいてあるもんで」


 何故、西の民と呼ばれるかといえば王都からみて西側に住んでいるからだ。


 王宮から西へ進んだ王都の一番端には、北は帝国、南は港へ繋がる大きな川が流れている。この川が凰都国に恵みをもたらしている一つだが、大雨が降ると氾濫を起こすことがしばしばある。ともなれば、そこに居住する者は被害を受けることになる。王都へ来た彼らはそこへ追いやれたのも同然だった。


 凰都国だけに限ったことではないが、大抵の国で見た目による差別は勿論法典によって禁じられている。けれど、人は人と違うことを恐れ、少数派を排除しようとする。王族には碧眼を持つものいるし王宮には青眼の官吏だっているのに、蒼眼は何故か緑翠の住民には受け入れられない。王都を出れば、異なる人種がゴロゴロいるにもかかわらず、だ。


「行きたくないといえばウソになるけど、今回はちょっと急ぎでね」

「ってことは、王太子殿下おにいさま絡みっすか」

「本当にそれだけ、ならいいんだけどね」


 王女の危ない橋でも平気で渡るような性格を知っている使者が釘をさすと、珍しく応の意。そういう時の理由は、たった一つしかない。王太子だ。


 王宮で、王女の王太子に対する執着は周知の事実。それは出入りする使者も例外ではなく、だからこそ冷やかすように告げた言葉に返されたのは意外にもどこか憂いを含んだ声で。普段ならそんなんじゃない、とか照れを隠した素っ気ない声が返ってくるのに。


 意味深な物言いに使者は眉を潜めてそろり視線を移すが、口を噤んでしまった王女からそれ以上言葉が発されることは無い。前を見る表情からも、何を考えているのか読み取ることはできなかった。


「おや、殿下。この雨の中、どちらへ?」

「……兄上のお使いごとの途中。史京しきょうこそ何してんの?」


 それからいくつかの店で止められはしたものの、比較的スムーズに王都の東端まで辿り着いた。例の、西の民がいるところだ。

 そこで開いてる店は今日は見当たらず、何人かの男性が洪水対策を講じていた。


「見ての通り、土嚢を積むための指揮を執っております。決壊しても被害を小さくするために」

「そういう事を聞いてるんじゃないって分かってるでしょ。なんで史京がわざわざ出向いてきてんのかって話。少なくとも国軍官長自ら出向いてくる場じゃないでしょ」

「殿下の仰ることはご尤もなのですが、陛下のご命令とあらば出向かぬわけにも参りませんので」

「……ふーん」


 あからさまに不機嫌な声で問うてみてもにこやかに返答され、王女は附に落ちないながらも受け流した。


 因みに国軍とは、国王直属の正規軍だ。但し、対他国専用のため、国内の、しかも王都で動いたりすることは通常あり得ない。国内で動くなら近衞隊であるし、国王直属というのが必要なら王宮に配置する親衛隊を動かすのが筋だった。


 それでも国王の命令なら、動かざるを得ないのは確かなのだが。それはそれで親衛隊を王宮から離したくない事情でもあるのか、と疑いたくなるというもの。王宮は、常に様々な思惑が入り混じるのだから。

 

「何処へ、というのは野暮な詮索でしょう。言っても聞き届けてくださらないことも多々ありますが、一応無茶なさらないようにとだけ」

「史京こそ早急に終わらせなよ。若く無いんだから」


 深く突っ込まなかった事もあるのか、多くを語ることなく深々と頭を下げる国軍官長に王女は風邪引くよ、とヒラリと手を挙げて川沿いを北へと上り始めた。

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