56.湖底の蜃

 湖の中はとても視界がわるかった。


 数メートル先が緑色で全く見えない。湖内には川魚らしき魚影を微かに見える。葵はどこにいるだろうか?


 私は意識を集中する。いる。葵がいるのがわかる。どこかに漂っている。葵は、いろいろなことに絶望している。そして勢いあまって、湖に飛び込んでしまった。

 私は、それをどうにかしたいと願う。すると、どこかにいる葵から、彼の意識が流れ込んでくる。


 それは、生まれたばかりのベッドの上だった。

 葵の両親らしき大人が葵を見て嘆いている。以前にも見た光景。──芋虫の形が混じった葵。


「なんでこんな子供に生まれてしまったのか」

「父の仕事の呪いなんじゃないか?」


 二人は口々にいらないことを言っていた。


 それから、広いリビングで遊ぶ葵。葵はふとリビングの大鏡を見る。その姿も未だ半分芋虫だった。 


 場面が変わる。病院にいるようだ。葵は、やさしげな年配の医者に促されて腕を出している。

 痛みをぐっと堪えながら、注射をさされていた。


「これで、おとうさんもおかあさんも優しくなる?」

「なるよ、これを続ければ、葵はちゃんとした子になれるんだ」

「ありがとう」


 それは葵の祖父だろう。

 そして、葵はふたたび鏡の前に出る。今度は人の姿をしていた。ただし、所々昆虫の形跡も残っている。


 場面が、浅葉邸の庭に切り替わる。葵は一人、庭で遊んでいる。まだ若い亜子さんが声をかける。


「葵、こっちへ来て」


 葵はいわれて、亜子さんの元に来る。そこには葵の祖父もいた。


「何?」

「よく聞きなさい。今日から、あなたはうちの子です。あなたのお父さんとお母さんは仕事で遠くにいかなければならなくてね、そのかわり私とおじいちゃんが親代わりになりますよ」


 葵はそれを聞いて複雑な表情をしていた。


 そしてまたある日の浅葉邸。

 どこかの一室──外は、雪が積もっている。葵は、その部屋で糸をはいていた。葵は繭を作っている。その中に入る。祖母が心配そうに見ている。葵の祖父は、葵になにか処置をしている。繭から半身をだした葵の肩に注射を撃つ。


「この薬が最後だ。これで次に目覚めた時、きみは大人になれる」

「うん」


 葵のおじいちゃんは、以前と違いげっそりと痩せていた。明らかに心労が溜まっているようだった。──亜子さんが言っていた、一番苦労していたころのおじいちゃんなのだろう。葵は、まゆの中で眠りについた。そして、雪が溶け、木に若葉が芽吹いた時、葵は目を覚ました。


 繭を両手で破って外に出る。外の陽の光が眩しい。


「おじいちゃん、おばあちゃん!」


 葵は声をだす。

 しかし、シンとした屋内からは反応が帰ってこない。葵はずるりと繭から出る。鏡の前に向かう。綺麗な少年の身体に蝶の翅が生えていた。

 葵は嬉しくなって二階から一階に向かう。


「おじいちゃん! おばあちゃん! 僕もう大丈夫!」


 飛び跳ねるようにして、リビングに向かうと、葵の姿に驚く亜子さんの姿があった。


「葵、目覚めたの……」

「うん、ほら」


 葵は身体や翅を自慢する。


「そう、よかった……」

「おじいちゃんは?」

「……」

「おじいちゃんどうしたの?」


 葵は、リビングの隅に仏壇があることを知る。


「あれなに?」

「あなたに色々と話さなきゃいけないことがあってね」


 亜子さんは泣き出した。葵が蛹の間に、葵のお祖父ちゃんは亡くなっていた。


 それから、様々な葵が見えた。勉強をする葵。研究所を襲撃する葵。私に出会う葵。両親らしき二人の男女に会う葵?そうか、葵は両親に最近会ったんだ。でも初め嬉しそうなのに、帰りには悲しそうな顔をしている。

 何があったのだろう?


 そして、私は湖底で葵を見つけた。


 わずかにヘドロを巻き上げて、水の中でゆらゆらと揺れる蝶の怪人。たぶん、まだ、意識がのこっている。私は葵の元に向かう。 葵は、自分が化物だから、母と父がいなくなり、祖父が亡くなったんだと思っている。

 だから、誰の家族になれないと思っているのかもしれない。

 亜子さんだって私だっているのに。


 私は呼びかける。

 葵、葵。私、あなたのことを知ったよ。あなたは怪人で蝶の化物。でも、私もそうだよ。だからさ、一緒にいようよ。ほら。私は、意識を失っている葵に手を伸ばす。


 葵は呼吸が出来ない?


 私は、葵に顔を近づける。

 ポケットから、初期化剤イニシャライザーの小瓶をとりだすと、水中で口を含み、舌で蓋をあける。中身をすいだして口に溜める。葵に口づけをして、空気と一緒に送り込んだ。


 ──葵、私も昔化物だったんだよ。だから、大丈夫だよ。私、蜃っていうんだって。醜い竜の姿をした、化物なんだよ。私はそう心の中で葵に伝えながら、葵に初期化剤イニシャライザーを与え、葵の変異促進剤アクティベーターを中和する。


 これで無効化できるかな?


 それにしても、葵をこんな姿に変えしまって、世界はなんて残酷なのだろう。

 互いを尊重し、愛のままに振る舞えば、きっと皆幸せになるだろうに、人はなんて愚かなんだろう。せめて手の届く人たちくらいは愛に満たされてほしい、悲しむ人なんて居なくなってほしい。

 そんな事を思いながら、私は葵を強く抱きしめる。そのまま湖面へと泳いで向かった。

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